見出し画像

「出たー! クラウザーさんの○○だー!」(『デトロイト・メタル・シティ』)――川添愛「パンチラインの言語学」第14回

文学、映画、アニメ、漫画……でひときわ印象に残る「名台詞=パンチライン」。この台詞が心に引っかかる背景には、言語学的な理由があるのかもしれない。
ひとつの台詞を引用し、そこに隠れた言語学的魅力を、気鋭の言語学者・川添愛氏が解説する連載。毎月10日に配信予定。

 前回の『スクール・オブ・ロック』に続き、今回もロックを題材にした作品を取り上げる。若杉公徳のギャグ漫画『デトロイト・メタル・シティ』である。

 松山ケンイチ主演で映画化されたヒット作なので、知っている人も多いと思う。主人公は、インディーズシーンで絶大な人気を誇るデスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ」(略称DMC)のボーカル兼ギタリスト、ヨハネ・クラウザーⅡ世。金髪のウィッグに顔面白塗りという出で立ちで、高度な演奏と「幼い頃に両親を殺した」などの悪魔的な伝説により、ファンからカリスマとして崇められている。しかしその実体はスウェディッシュ・ポップを愛し、オシャレなものを好む気弱な青年、根岸崇一だ。もちろん両親も健在で、大分県で農業を営んでいる。

 本当はポップミュージシャンになりたいのに、そのために書いた曲は大多数の人間から「キモい」と言われ、素顔でストリートライブをやっても見向きもされない。ひどいときには、通行人に物を投げつけられることすらある。その一方で、所属事務所「デスレコーズ」の怖い女社長に無理矢理やらされているデスメタルは、「DMC信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出す。そのギャップに苦しみながら、人からバカにされた恨みやオシャレな人々に対する嫉妬心が高じてクラウザーと化す根岸は、ある種の変身ヒーローとも見なせるし、対立するバンドやミュージシャンとの「バトルもの」の要素も強い。

 ストーリーテリングも巧みで、個人的には単行本の第5巻から第7巻にかけて語られる「クラウザーI世」編が白眉だと思う。デスレコーズ社長とI世との因縁をたどる過去のエピソードと、根岸がI世にいったん破れ、アーティストの卵たちが暮らす「アートキワ荘」での生活を経て復活するまでの経緯が螺旋らせんのように絡まり、ステージでの一騎打ちにつながる。普段はデスメタルを嫌がっている根岸が「この俺がメタルで負けた」と涙を流すところなどは、何度読んでも深い感動を覚える。

 この作品の特徴の一つとして、明確なツッコミ役がいないことが挙げられる。ファンたちやデスレコーズ社長はもちろん、バンドメンバーの中で一番普通の人物である「ジャギ様」こと和田すらも、ツッコミには回らず、デスメタルのパフォーマンスとして手品や曲芸を披露したり、ステージでGLAYの『口唇』を歌ったりしてボケまくる。第6巻と第7巻には、なぜかいつも全裸の男がクラウザーI世の元バンド仲間として登場するが、全裸であることに誰もツッコまない。登場人物たちが常軌を逸した行動をしても、それを読者の常識とつなげる役回りの人物が存在しないのだ。強いて言うなら根岸本人がツッコミ役だが、それは正気に戻っているときなどに限られ、クラウザーになりきっているときはむしろ大ボケに回る。

 ツッコミのないギャグが成立する要因の一つは、作中で起こる奇妙な出来事に対する登場人物たちの解釈がそのままギャグになっていることだろう。たとえば先ほどの全裸の男について青年たちが「もしかしたら伝説のバンドのメンバーではないか」と噂するシーンでは、「まさか 普通のオヤジじゃねぇか」「いや あの顔つき間違いねぇ」と、顔にしか注目しない。噂されているのに気づいた全裸の男本人も、心の中で「わからないのも無理はない 俺も今や普通のサラリーマン とがってたあの頃の面影はもうないだろう」とつぶやく。つまりボケに対する解釈自体がボケになっており、結果的に物語世界全体がボケに回っているという構造だ。

 クラウザーに扮した根岸の言動も、本人の意図にかかわらず、ファンたちから勝手に「猟奇的」かつ「悪魔的」に解釈される。たとえば第1巻第4話では、クラウザーのギターが偶然警官の顔面に当たってしまうが、それを見たファンたちは「出たぁ アレは "48のポリ殺し" の中の "非情なるギター" だ~~~~~~!!」と興奮し、さらにクラウザーが慌てるのを見て「クラウザーさん笑ってるぞー」と喜ぶ。

 作中では、クラウザーが何かするとファンが「出たー! クラウザーさんの○○だー!」という形式で反応することが多い。言語学的に見れば、これには「出たー!」と「クラウザーさんの○○だー!」という二つの文が含まれているが、どちらにも主語が現れていない。日本語は主語や目的語を言わなくてもいい言語だが、理論言語学では主語や目的語が「存在しない」のではなく、「音声を持たない代名詞」として存在すると考える。そしてそういう代名詞は「ゼロ代名詞」と呼ばれる。

 ゼロ代名詞は「代名詞」と言うだけあって、前の文脈に現れているものや、目の前にあるものを指す機能がある。「クラウザーさんの○○だー!」の主語にあたるゼロ代名詞は、明らかに「目の前の出来事」を指している。つまりこの文は「(今俺たちが見ているものは)クラウザーさんの○○だー!」と解釈できる。

 では「出たー!」については、いったい何が「出たー!」なのか。可能性としてはいろいろ考えられるが、私は「話し手が頭の中で『出るんじゃないか』と予想していたもの」ではないかと思う。もし何が起こるのかをまったく予想していなかったら、いきなり「出たー!」とは言いにくいと思うのだ。たとえばお化けを見て「出たー!」と言う人は、前もって「お化けが出る可能性」を考慮に入れているように思う。

 これは「出たー!」に限らず、「ゼロ代名詞の主語+出現や存在を表す動詞+"た"」を唐突に口にする場面全般にあてはまりそうだ。たとえば私たちが唐突に「あったー!」と言うのは、たいてい何かを探していたときだし、「いたー!」と言うのも「探していた人を見つけたとき」だ。いずれも話し手の中に「あれがあるんじゃないか」「あの人がいるんじゃないか」という予想があり、ゼロ代名詞はそういった予想の中にある「あれ」や「あの人」を指していると考えられる。

 つまりDMC信者たちの言う「出たー! クラウザーさんの○○だー!」は、クラウザーが行動を起こす前からファンたちが「クラウザーさんが何か悪魔的なことをして見せてくれるんじゃないか」と期待していたことを物語っている。実際、ファンたちは根岸のあずかり知らぬところで勝手にクラウザーの伝説を作り上げており、先ほど挙げた「48のポリ殺し」もその一部にすぎない。クラウザーの設定についても、最初は「殺人鬼」だったのがいつしか「本物の悪魔」となり、やがて「この宇宙自体 ほぼクラウザーさんの物」「クラウザーさんが太陽系から冥王星を外した」のようにスケールが際限なく大きくなっていく。ツッコミ役がいないため、それを止める者も存在しない。

 そして当の根岸も、ファンたちの暴走を止めるためにその設定に乗っかり、さらに悪魔的な行動をしてしまう。そのスパイラルは大いに笑えるが、「もしかしたら、現実世界のカルトもこんなふうに形成されているのかも」と思うと、ちょっと怖い。

 余談だが、『デトロイト・メタル・シティ』連載当時から運営されている「ファッキンガム宮殿 〜DETROIT METAL COPY〜」というウェブサイト[1]があり、そこにはDMCの『SATSUGAI』を始めとする作中の曲の音源がアップされている。それらはサイトの運営者が「作中の曲はこういうメロディーなんじゃないか」と想像して作った非公式の音源だが、どれも本当に素晴らしい。ぜひ『デトロイト・メタル・シティ』を読みながら聴いてみてほしい。

[1] http://dmcopy.seesaa.net/

川添 愛 (かわぞえ・あい)
言語学者、作家。九州大学文学部、同大学院ほかで理論言語学を専攻し博士号を取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。著書に、『白と黒のとびら』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『ふだん使いの言語学』『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』など多数。近刊は『日本語界隈』(ふかわりょうとの共著)。

■前回はこちら

■第1回はこちら