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往復書簡 日々の音沙汰 ー第4回「十把一絡げに愛でられたかった」(ジェーン・スー)ー

 作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストのジェーン・スーさんと文筆家・モデルの伊藤亜和さんによる往復書簡がスタート。
毎月第2・第4火曜日に更新予定です。初出:「一冊の本」12月号

■前回の伊藤亜和さんからのお手紙はこちら


✉ 伊藤亜和さま ← ジェーン・スー

 お返事ありがとうございました。似てる似てないの件、言うほうと言われるほうの深層心理が透けて見えるような、ちょっと空恐ろしい側面もあって楽しかったです。亜和さんが誰かの似元にもとになる日を楽しみにしています。

 お手紙には「これが届くころにはさすがに肌寒くなるかと思います」とありましたが、残念無念。10月下旬現在、気温は25度の夏日で湿度は70パーセント超え。まるで梅雨です。あまりの蒸し暑さに、今日はノースリーブのサマーセーターで外出しました。秋はもう、あきらめました。問題は冬です。本当に来るのでしょうか。

 さて、さっそく「軍神さん」を検索しました。不勉強で存じ上げなかったもので。検索結果の頭には辞書の解説が出てきまして、「武運を守る神。いくさがみ」とありました。いったいどんな人なのでしょう。亜和さんからのLINEを見返してみると、確かに見慣れぬ男性のスタンプがある。誰これ?と思ってもやり過ごしていました。
 私はインスタグラムのリールやティックトックを見ることに相当無駄な時間を費やしていますが、軍神さんがスマホの画面に現れたことは一度もありません。アルゴリズムというやつですね。亜和さんと私のアルゴリズムは異なる。よって、ゆかしき往復書簡で互いのフィルターバブルを破るのは、それなりに意味があることかもしれない。

 次に、「歌舞伎超TV」の動画をいくつか拝見しました。刺激が強い。勢いがある。サムネイルからして激辛ラーメンのパッケージのようです。ホスト業界に疎いので詳細は理解できなかったものの、とにかく軍神さんが勝ちにこだわる真面目で仕事熱心な人だとわかりました。まさに、いくさがみです。平成の辣腕らつわん営業マンのようでした。ホストたちがサッカー大会を目前にして軍神さんの指導のもと練習する動画もあり、夜だけでなく昼も頑張らないといけないのかとりました。Z世代は打たれ弱いなんてちまたでは言われておりますが、当然のことながら人によりますね。これだけのスパルタについていく若者も、いるにはいるのだから。ホスト業界が売り上げを作る仕組みには眉をひそめたくなりますが、これだけ優しさと寄り添いが尊ばれる令和に、365日の労働と必勝をおおっぴらに推奨する人を久しぶりに見ました。風が吹いても微動だにしなそうな前髪にも釘付けになりました。あれはスプレーで固めているのかしら。気になりますね。

 意外だったのは、亜和さんがこういったパワフルな人物に興味を持っているところです。信念と気合で人生をなんとかしてきた側とでも言いましょうか。こういうタイプにとりこになる層がいることは理解できる一方で、亜和さんは興ざめしてしまうクチかと思っていました。どちらかと言えば私も信念と気合の岸の住人なので、ちょっと安心しました。日ごろのコミュニケーションでは亜和さんに対する私の圧が強すぎるのではないかと危惧しておりましたが、しばらくは大丈夫そうな気がしてきました。

 ところで、亜和さんの手紙には憧れの異性に対しては、「自分が多少至らなくても『なるべく若く可愛いうちにお目にかかりたい』というよこしまな目論見が湧く」とありました。おお、と思わず声が漏れ出ました。私が若いうちについぞ持てなかった感覚です。ちょっとうらやましくなりました。
 私は、自分の若さに異性から愛でられる価値があると思えない青春時代を過ごしてきました。単なる非モテとも異なり、異性に対し己の価値を底上げしてくれる「若さ」の作用を、体感として記憶していないのです。若い女であることを換金もできなかった。これは、チヤホヤされたことがないという点では不幸であり、若さ起因のおまけをもらった記憶がないゆえに加齢にそれほどおびえずにすんだ点では幸運でもあります。でも、やっぱり十回くらいはそういう経験をしてみたかったのです。若さに埋没し、同性に対しては利かないレバレッジを最大限に生かして、個の輪郭なんてボケボケになったまま、相手が望むような振る舞いをして十把一絡じっぱひとからげに愛でられたかった。己の若さを逆手にとって、大人の男性と丁々発止を繰り広げてみたかった。いまとなってはかなわぬ夢です。

 最後になりましたが、会いたいけど会いたくない人について。十把一絡げに愛でられたかったなんて言った舌の根も乾かぬ内ですが、私にとってそういう人は、対峙したとて私を「個」として認識しないであろう、憧れの人たちです。亜和さんにおける椎名林檎さんもそうでしょう。私ならビヨンセ。大好きだけれど、会えると言われても会わないだろうな。彼女にとっては記憶に残らない出会いになるだろうから。傲慢ごうまんだけれど、それは悲しいのです。一足飛びに友達になりたいわけではないけれど、営業スマイルで流されるような会い方をしたいわけでもない。対峙するには自分がまだまだ不十分であることに加え、この欲望の裏には、こちらも相手を個として認識したい切なる願いがあります。憧れの人を、ひとりの人間として捉えたい欲望がある。そのためには、相手に「個」として認知されなければなりません。人間関係というのは双方向ですから。
 その逆がキャラ消費で、許可も得ずにカメラを向けて写真をバンバン撮ったりする行為がそれです。パンダ感覚。それを「会う」にカウントするか否かは人それぞれですが、私は街で「一緒に写真を撮ってもいいですか?」と言われると、たいていお断りします。さすがに無許可で写真を撮られるほどの知名度はないけれど。

 待てよ。これ、逆もありますね。相手を「個」として認識したくない場合。加えて、自分を「個」として認知されたくない場合。私はプロレス観戦が趣味ですが、大好きだからといって、リングの外で会って話をしたいと思う選手ばかりではありません。すごく好きだけれど、私をそれほど認知してほしくないと思うこともままあります。選手のグッズを本人から買うと一緒に写真が撮れる場合が多いのですが、撮ったことは一度しかないかも。撮ってみて、やはり必要ないと再認識しました。本当はサインもいらないくらい。ではなぜ本人からグッズを買うかと言えば、試合の感想を手短に伝えたいからです。お金を払ってグッズを買わないと、直接伝えられないシステムなのです。その時点で通常のコミュニケーションとは大きくかけ離れているのですが、それでも伝えたいと思ってしまう。励みになると思うから。

 人と会うとは、どういうことか。もう少し考えさせてください。次の返信までに考えておきます。

伊藤亜和さんからのお便りはこちら!


見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)