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年森瑛「バッド入っても腹は減る」第4回

パスタを茹でながら、キャベツを煮込みながら、一冊の本をじっくり読む――。いちばん読書がはかどるのはキッチンだ。
いま最注目の新人作家による、おいしい読書エッセイ。
毎月15日更新予定。

撮影 年森瑛

 トマトなんてなんぼあってもいいですからね、というイマジナリー土井善晴のささやきに身を任せて1個15円叩き売りトマトを大量購入した。さっそく生で食べてみるとほとんど味がしないうえ舌触りもざらついていて、どれもこれもトマトからトマトみを抜いたナニカって感じでそこそこ落ち込む。こうなったら煮込んでスープにするしかない。
 トマトを崩さず切るために、まず包丁の角でヘタをくりぬいてからひっくり返し、中央から放射状に伸びている白い*マークの線と線のあいだに刃を入れる。これでまな板がトマト汁まみれにならない。切ったトマトを無水調理鍋に入れるだけ入れたらふたをして弱火にかける。

 煮込んでいる間に少しでも原稿を進めた方がいいだろうか。午前中の進捗はさっぱりだった。サボっていたわけではなくてむしろ始発電車が走り出したころには書き始めていたし、そのあとも呼吸を忘れるくらいの集中力で書いててさっきやっと小説世界から浮上して、いやあ今日はものすごく充実したなあとテカテカの顔で文字カウンターを見たら1ページ分しか増えてなかったのだ。何が起きたのか一瞬理解できなかったけどよく思い返してみたらある段落の「てにをは」を永遠に直していただけな気がするし結局その段落だけ文章全体から浮いてるように見えてどうにか馴染ませようと奮闘したもののお手上げ状態で最終的に段落ごと全削除したのだった。進まなくて当然だし時間の無駄すぎる。いや得るものもあったって分かってるけどこんなうららかな陽気に引きこもってパソコンカタカタやった成果がたった1ページなのは普通にえるしこれだから小説書くのって普通に苦行だ。気分転換にキッチンに来てみたけど、一度逃げてしまったやる気はなかなか取り戻せそうにない。こうなったら小説を書きたくなるくらい面白い小説を読もう。

 『ハジケテマザレ』(金原ひとみ、講談社)は4編からなる連作短編小説で、その語り手である真野はコロナ不況で派遣切りに遭ったことから池尻大橋のイタリアンレストラン「フェスティヴィタ」でバイトとして働き始める。バイト仲間はみんなキャラが濃く、もはや店長より実権を握っているベテランバイトのマナツさんルイコさんコンビ、ため息が出るほど可愛くて我の強いメイちゃん、イベント会社を立ち上げたパリピでヴィーガンのヤクモ、カレーに目覚めたクラブDJのブリュノ、言われればなんでもやるけど言われなければ永遠に何もしないゆとりとさとりの合いの子である岡本くん。店長の目が届かないのをいいことに、今日もフェスティヴィタのアルバイトたちはクローズ後の店内で飲んだり食べたり踊ったりする。バイト仲間たちと比べたら無個性で普通すぎる自分を卑下していた真野は、様々な騒動に巻き込まれていくうちにそれまで表層でしか理解できていなかった他者の深層に触れていく。自分の中にあったナチュラルな差別意識に気付いては内心で言い訳したり恥じ入ったり反省したり、リアルタイムで縦横無尽に飛び交う思考の軌跡を一人称のうねりによって表現してみせる手腕は脱帽ものだ。

 「私木になって微動だにせずに水だけ吸って、流すのは樹液くらいで生きてたいんす」
 「えっ、ヤクモって、『もっと私が楽しいパーリーを!』ってスローガンのイベント会社立ち上げた人だよね? そんな人が木になりたいなんて絶対噓だよ!」
 私は悲痛な声を上げる。なぜ自分がそんな悲痛な声を上げるのか、自分でもよく意味がわからない。パリピにはちゃんとパリピ思考であって欲しいそうでなければパリピでない自分の定義が相対的に曖昧になってしまうから? ということ? そんな自分本位な理由? なら無視してもらった方がいいかもしれない。(『ハジケテマザレ』P.77-78)

 金原ひとみはウチらの言語を小説に落とし込むのが上手すぎる。ウチら、つまり kemio 以降の世代特有の言語を完全再現するには表層的な流行語の使用だけでは物足りなくて、何よりもスピードとバイブスを理解する必要がある。金原さんはこれを完璧に摑んでいる。深夜ノリ脊髄反射のしょうもない会話が句読点すら置き去りにするスピードで押し寄せて、ぬるま湯みたいな心地よさにどっぷり浸かっていたらあっという間に読み切ってしまった。
 にしても読めば読むほどカレーが食べたくなる小説だ。読み直してみたら1ページ目からカレーの話題が定期的に出されていたので気付いたころにはすっかりサブリミナルカレー状態で、そのままラストスパートにかけてカレーが人生に並走してくるものだから私もすっかりカレーの口になってしまった。ちょうどトマトが煮崩れしてスープ状になったので、塩胡椒とターメリックを入れて味見。ちょっと苦いような。油脂が足りないのかな。隣のコンロで小さいフライパンにバターをひいて、豚しゃぶ肉をじゅわっと焼いたら余ったバターソースごと鍋に入れる。塩とナツメグを振って味見。苦味は消えたけどターメリックの風味だけ悪目立ちしてるというか異物感がすごい。ほかに冷蔵庫に使えそうなものがないか物色してみる。
 作中ではルイコさんマナツさんがあらゆる酒を持ち込んでは店の冷蔵庫の一角で冷やしたりお客さんに出す用のラビオリを勝手に冷凍庫から拝借して揚げものにしたりと好き勝手やっていたけど、あれってよく考えたら普通に職権乱用&横領じゃないか。でもそんな炎上以上・重犯罪未満くらいの悪行を共有できる関係性に混ざりたいと思った自分も確かにいた。バイト仲間という、たまたま同じ店にお金を稼ぎに来ているだけでいつかバラバラの道に巣立っていくことがほぼ確定のコミュニティだからこそ成立する一瞬の奇跡に交わりたい。底辺の自分を許容してくれる他人がいたという事実はそのあとの人生でも絶対に心の支えになると思うし、私はああいうコミュニティが結構好きだ。
 コロナリアルタイムを鮮明に書き記している本作から手渡されるのは、先行きの見えない閉塞感や青春を奪われた悲しみじゃなくて、未来を生きていく若者たちへの祝福だった。自分と圧倒的にかけ離れた他人とでも気楽で居心地のよい空間は作れるし、その空間が永続的に続かなくても関係性自体が消えてなくなるわけじゃない。「金原ひとみって名前は聞いたことあるけどなんか恋愛の話を書いてる人だよね?」というイメージの人にこそ読んでほしい。

 ターメリックみを消す方向で考えてたけど、むしろタイマン張れそうな主張強めのやつを入れたほうがいい気がしてきた。というわけで味噌とヨーグルトを入れてみる。味見。お。おお。けっこういけるかも。トマトがぐずぐずになりすぎて食感が物足りないので、冷蔵庫から残りのトマトを切って入れて投入、少し崩れるくらいまで煮てみる。増えたトマトの分だけ味を調えたらトマトと豚しゃぶのカレースープの完成だ。まったく辛くないのが私仕様である。
 私は辛いものというか刺激物にかなり弱くて、初対面の人には心配されるくらいの滝汗と滝涙と滝鼻水を垂れ流してしまうから人前では辛いものをまず食べない。編集さんとの会食のときも食べたいものを聞かれたら「辛いものと脂っこいもの以外なら何でも」と答えている。

 もう作家3年目になるのに会食に相応ふさわしいバイブスはいまだに分からない。編集さんにとってはただの接待なんだから調子こかないように気をつけよう! とあくまでビジネスライクな雑談を意識してるつもりなんだけどもっと中身のない話をしてもいいんだろうか。編集さんは仕事相手であって友達ではないけど共に作品を生み出す仲間ともいえる存在なわけで、それならおへそ丸出しレベルに気を抜いてもいいのか、でも今まで大人の振る舞いをやっていた(はずの)作家が急にアットホームなファミリー感だしても怖いだろうしそれなら会話の隙間にファミリーという単語を差し込むことによるサブリミナルファミリー効果でファミリー感を醸成したらいいんだろうか、サブリミナルファミリーってなんだかシルバニアファミリーの親戚みたいですね、なんて本当にどうでもいいことを言える関係って素敵じゃないですか、そんなことないですか、えへへ、妄想の中ですら微妙な空気になってるからサブリミナルファミリー計画はやめておこう。
 少し前に結婚した友人夫婦が二人ともおなかを壊してトイレを往復していた日の話を聞いて大笑いしつつも家族になるとはお互いの排泄物を許容しあうことなのかもしれないとひっそり感銘を受けたことがあった。私と編集さんも激辛カレーを食べて互いの汗と涙と鼻水を許容しあうことで仲が深まるかもしれない、いやでも昭和じゃないんだからビジネスライクな仲がベストなのでは、でも、でも私、本当に仕事相手と割り切ってしまうと噓ではないけど本当でもない言葉しかしゃべれなくなる人間なので、それはこの仕事においては差し障りがあるような気がして、いや、こうやって一人でイマジナリー編集さんと話していても仕方がないのでまたご本人たちに会うときにどんな感じのバイブスがいいか正直に聞こうそうしよう。とか考えていたら魚貝の要素ゼロなのにサカナ型のうつわによそっていたことに気付く。まあ緑のうつわに赤いスープで色みかわいいし、これはこれでいいか。

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年森瑛(としもり・あきら)
1994年生まれ。作家。『N/A』で第127回文學界新人賞を受賞し、デビュー。

見出し画像デザイン/撮影 高原真吾

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