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年森瑛「バッド入っても腹は減る」第1回

パスタを茹でながら、キャベツを煮込みながら、一冊の本をじっくり読む――。いちばん読書がはかどるのはキッチンだ。
いま最注目の新人作家による、おいしい読書エッセイ連載スタート。
毎月15日更新予定。

撮影 年森瑛

  長袖を重ね着して眠った夜の明くる朝、お湯が出なくなっていた。古い家に住んでいるので、気温が下がると給湯器がだめになりやすいのだ。再起動したら直るときもあるが、今日は何をやっても水しか出ない。こんなことなら昨日のうちに風呂に入っておけばよかった。帰りが遅かったのでメイクだけ落として寝てしまったのである。
 何かあったかいものを食べようと、冷蔵庫からキャベツ1玉を出す。楽に作れるやつがいい。大ざっぱに6等分に切って、4つはラップに包んでまた冷蔵庫にしまって、これから食べる2つは水を張ったボウルに浸けた。葉もの野菜は、使う前にしばらく水に浸けておくと葉がいきいきするらしい。いきいき待ちのあいだに、布団に入って読みかけのノンフィクション作品『いなくなっていない父』(金川晋吾、晶文社)の続きを読む。

 著者が中高生の頃、父親は失踪を繰り返す人だったそうだ。どうして失踪したのか、その間に何をしていたのか分からないまま、ぬるりと父は帰宅して、家族もまたぬるりと迎える。その後、著者のデビュー写真集『father』の被写体となった父は、世間から「失踪を繰り返す父」として認知されるようになる。しかし、失踪していたのはかつてのことであり、また父は「失踪」という言葉のみで片付けてしまえるような人ではないだろうと、今ここにいる父のことを改めて著者が記していく本、なのだが、冒頭からずっと、やけに不明瞭な言い回しが続いていた。たとえば著者の父について記した一節が、このような具合なのだ。

父は基本的にはとても温厚で他人に威圧感を与えたりしない人だが、自分自身と向き合うことを強いるような問いを投げかけられ、その問いのなかに身を置かないといけなくなっているときには、とても静かに、父自身も自覚していないようなレベルで、怒りを感じているように見えた。といっても、その怒りというのは私という個人に向けられているというよりも、もっと漠然とした何かに向かうものだったと思う。その何かというのが、こうやって借金がふくらんで生活が立ちいかなくなっていることに対してなのか、こういう状況になったことについて他者に説明をしないといけないことに対してなのか、それはよくわからないし、おそらく父自身にもわかっていなかったと思う。(『いなくなっていない父』P.71)

 しかし不明瞭な言葉を重ねることでしか立ち現れない像があるというか、生きている人のことを脚色も間引きもせずに書こうとするとこの書き方になるのかもしれなかった。分からないものは分からないままにして判断を下さない、というのをずっと文章中でやっていて、読みものっぽさから距離を取っているのに読みものとして成立していることに圧倒される。
 キャベツを水から引き上げしたら底面全体に行き渡るようにすばやく滑らせる。キャベツの切り口を下にして、かたまりのまま弱火で焼く。これでしばらく放置していてよいので続きを読む。つるっとした装丁の本は油はねを気にしなくて済むのでたすかる。

 NHKのドキュメンタリー制作陣が著者に密着取材を始めてからの記述 は、登場人物が増えてお仕事ものっぽい面白さも出てきた。他者の書き方が生っぽくてよい。生々しい、ではなくて。精巧な蝋人形だと思ったら毛穴に埋没した毛やにじみ出る皮脂まで再現されていたような、それでいて不快感はなく、なにかすごいものを読んでいるなという感覚がある。
 フライパンからいい匂いがあがってきたので、転がしてもう片方の切り口にも焼き目をつける。ついでに、フライパンの脇のバター液も余さずこそげ取るようにしてキャベツに塗り込む。続けてページをめくっているうちに、キャベツの表面がうっすら透き通って波打ってきた。中心はまだ張りがあるくらいでちょうどいいので、キャベツの頭が少し出るくらいまでフライパンに水を入れて、火を強める。こういうことをするからコーティングが剝げてしまうと分かっていても、つい横着してやってしまう。
 かじかんだ手をガス火にかざして暖を取っているうち、沸騰したので火を止めて、ウィンナーを食べたいだけ入れる。コンソメキューブを落として塩胡椒を振って、蓋をしてしばらく放っておく。洗いものや配膳をしている間に余熱でウィンナーの身がぷりぷりになったので、よそって食べる。

 著者の金川晋吾の名前を初めて知ったのは、ウェブマガジン「雛形」の「ダイニングテーブルが買えない」という特集に寄せられたエッセイだった。3LDKの部屋に女・男・男の3人暮らしをしているそうで、〈私は今の3人の関係は永続的で不変であることに価値を置くのではなくて、変化を許容しようとする関係だと思っている。なので、ダイニングテーブルみたいな重くて大きなものを買うということには考えがおよばないのだ。(中略)今は、自分がより自分らしくいられる人とのつき合い方を模索していきたいと思っているし、だからこそ、こういう話を人ともっとしたいと思っている。〉という文章が印象に残っていた。
 私は1DKもどきの1Kに住んでいて、家に入ってすぐの4畳くらいのスペースにダイニングテーブルを置いている。4人掛けの伸縮式で、最大で8人くらい座れるので、一人で使うにはかなり大きい。スープをすすりながら、私はこのまま一人で作って一人で食べる生活を続けていつか死ぬんだろうか、そしてそれは、私らしいことなんだろうか、と考える。
 親兄弟とは仲が悪いわけでもないが、同居人としての相性は悪かったのか、一緒に暮らしていると疲れることが多かった。たまに会うだけの今のほうが穏やかに付き合えるようになった気がしている。これは親兄弟だけのことなのか、他の人ともそうなるのかは、試したことがないので分からなかった。

 何かもっと歯ごたえのあるものも食べようと、惣菜パックのカボチャの煮付けにMOWのバニラ味3割くらいを混ぜる。ペースト状になったら昨晩カットしておいた水菜を入れてさっくり混ぜて、黒胡椒と醤油と粉チーズを振って完成。 ついでにタン塩サラミも皿に出す。
 カボチャとタン塩を交互に食べているうちに、一緒に口に入れたら生ハムメロン的な甘じょっぱいおいしさになるのではと思いついてすぐ試す。おっ、あ〜、いや、うん。何でもかんでも一緒にするもんじゃないな。
 こういう出来事も誰かと暮らしていたら失敗談として楽しくなるかもしれないのに、一人しかいないから、口の中に微妙な味が広がるだけでむなしく終わってしまう。
 でも、本当に自分と異なる人と暮らすとしたら、良くも悪くも予想外のことも増えるのだろう。ミルクティーのために残しておいた最後の牛乳を飲み干されるとか、同時に腹を下してトイレの奪い合いになるとか。一人なら絶対に起きないことが起きるというのは、安定とか安心といった状態からはある意味では遠ざかってしまうことのような。私はそれを楽しめるんだろうか。他者という、絶対に理解できず、気付かないうちに変化もしていく存在に向き合い続けて生活空間を築くなんてこと、私に可能なんだろうか。それこそカボチャとタン塩を一緒に食べたらなんか思ってたのと違ったみたいなことばかり言って最終的に失踪するんじゃなかろうか。自慢じゃないが私は失踪経験者なので次に失踪する時はもっと上手くやる自信がある。ていうか寒いな。最後にMOWの残りを食べたからまた身体が冷えてしまったのだ。何のためにスープを作ったのか。寒いからマイナス寄りの思考回路になるのだと思って暖房をつけた。洗いものはまたお湯が出たらやることにした。

年森瑛(としもり・あきら)
1994年生まれ。作家。『N/A』で第127回文學界新人賞を受賞し、デビュー。

見出し画像デザイン/撮影 高原真吾

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