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「今のあの子ではムリ」(『ガラスの仮面』)――川添愛「パンチラインの言語学」第4回

文学、映画、アニメ、漫画……でひときわ印象に残る「名台詞=パンチライン」。この台詞が心に引っかかる背景には、言語学的な理由があるのかもしれない。
ひとつの台詞を引用し、そこに隠れた言語学的魅力を、気鋭の言語学者・川添愛氏が解説する連載。毎月10日に配信予定。

 前回の連載が公開される前、私が「南ちゃんは本当に恐ろしい子である」と書いた部分について、校閲の方から「(『ガラスの仮面』での)原文は『おそろしい子!』のようです」との参考情報をいただいた。私も当然『ガラスの仮面』を意識してそのように書いたわけだが、こんな小ネタにもかかわらず、元ネタにまで当たっていただいたことに驚いた。最終的には漢字表記の方が読みやすいと判断したため平仮名表記に直すことはしなかったが、その流れ(?)で『ガラスの仮面』を読み始めた。

 まだ全巻は読めていないが、改めてこれはすごい作品だと思った。子どもの頃にもアニメは見ていたし、単行本も最初の何巻かは読んでいたが、大人になってから読むといっそう面白い。
 本作は、平凡な少女である北島マヤが伝説の大女優・月影千草に才能を見いだされ、幻の舞台『紅天女』の主演を目指す、という物語だ。この作品がしばしば「スポ根もの」であると指摘されているのは知っていたが、今回読んでみて「確かに!」と納得した。というのも、マヤは演劇のためなら大晦日の年越しそばの配達を一人で120軒もこなしてしまうし、放り投げられた観劇チケットを摑み取るために冬の海にも平気でダイブする。マヤが病気の演技を体得するために本当に病気になったり、足がマヒした人を演じるために片足をロープで縛って特訓したりする様子は、山ごもりを完遂するために片眉を剃り落とす大山倍達ますたつ彷彿ほうふつとさせる。『空手バカ一代』ならぬ「演劇バカ一代」と言っても良いような梶原一騎イズムをビシビシ感じた。

 また、今回読んでみて印象に残ったのは、マヤのライバル姫川亜弓の偉大さである。子どもの頃に読んだときは、亜弓さんを単なる「マヤの成功を阻む存在」としか思っていなかったが、これは完全にお子様ゆえのあやまちだった。亜弓さんこそが、マヤの最大の理解者(の一人)だったのだ。二人のファーストコンタクトの時点ですでに、亜弓さんはどこの馬の骨とも分からないマヤの才能を見抜き、脅威を感じつつも、マヤのことを馬鹿にする取り巻き連中に「おばかさんなのはあなた達の方だわ」「あの子がこの劇団に入団しなかったことを感謝するのね もしあの子が入団したら あなた達はみんな脇役にまわってしまうでしょうよ」と言う。亜弓さんが初手からこんなに格好いいムーブをしていたことを見落としていたなんて、完全に不覚だった。
 その後も亜弓さんは、たとえ演劇大会で一位になろうと、どんなに評価されようと、自分がマヤに勝ったという手応えがないかぎり絶対に納得しない。ものすごく公正な人なのだ。マヤが所属する劇団つきかげの公演『石の微笑』がまったく注目されず、初日に客が12人しかいない中でも、亜弓さんはマヤを見るために当然のようにやってくる。もう愛すら感じる。マヤが芸能界で窮地に立たされたときの亜弓さんの行動がこれまた格好よく、それを思い出すだけで白いご飯が30杯ぐらいイケる。本物の気高さとは、お高く止まって他者を見下すことではなく、何があっても真実を見つめ続けられることなのだと亜弓さんは教えてくれる。

 この作品を読んでいると、マヤの才能を見抜けるかどうかが、その人のレベルの高さのバロメーターになっていることが分かる。ザコキャラはマヤをとことん馬鹿にするし、それなりに才能のある人はそれなりの時間をかけてマヤを理解するし、月影先生や亜弓さんなど、高レベルな人々はたいてい一瞬でマヤの非凡さを見抜く。
 そういう高レベル帯の人物の中で私が面白いと思ったのが、第六巻に出てくる大御所女優、原田菊子だ。菊子が登場する少し前、彼女の所属する劇団「栄進座」にマヤが自分を売り込みに行き、団員とこういうやりとりをする。

団員:それで なんだね きみは未来の「紅天女」かね?
マヤ:いえ あたしなんか 「紅天女」は今のあたしではまだまだムリだって月影先生が……
団員:ははは そりゃそうだ 有名な大女優達でさえむずかしい役だといっているんだからな

 そうやってすげなく追い返されるマヤとすれ違いに、菊子が入ってくる。菊子は団員からマヤと上のようなやりとりをしたことを聞いて、すぐさま「今のあの子ではムリだと… 月影さんがいったというのね…? 今のあの子ではムリだと…」と反応し、「そう… ではあの子が未来の『紅天女』というわけね」と結論づける。つまり菊子はろくに本人を見ていないにもかかわらず、伝聞情報だけでマヤの才能を見抜いてしまったのだ。
 ここでのカギは「今のあの子」という表現だ。ここでは「今の」が「あの子」を修飾しているわけだが、この修飾関係は専門用語で言うと「限定的修飾」というものだ。
 限定的修飾は、修飾語の表す内容が、名詞が表す概念の一部にのみ当てはまるような修飾関係だ。たとえば「洗い流さないトリートメント」や「身体に悪い食べ物」などに見られる修飾関係は限定的修飾だ。「洗い流さないトリートメント」はトリートメントのうち「洗い流さないもの」、「身体に悪い食べ物」は食べ物のうち「身体に悪いもの」を指す。
 修飾関係にはこれ以外に「非限定的修飾」というものもある。こちらは修飾語の内容が、名詞が表す概念の全体に当てはまるようなものだ。たとえば「いざというときに必要な非常用設備」のような表現では、「非常用設備というのは全般に、いざというときに必要なものである」という非限定的修飾の解釈がしやすい。
 通常、「あの子」のように単一のものを指す言葉に修飾語が付く場合、非限定的修飾の解釈がしやすくなることが多い。たとえば「かわいいあの子」と言う場合は、「『あの子』のうち、かわいい部分」という解釈よりも、「あの子は(全体的に)かわいい」という解釈がしやすい。しかし「今のあの子」は、「今の」という修飾語の性質上、限定的修飾で解釈するのが普通だ。つまり「『あの子』という存在の時間的な広がりの中で、『今』に相当する部分」となるわけだ。
 そして、限定的修飾では、「そうじゃない方」の存在が連想されることが多い。たとえば「洗い流さないトリートメント」という表現から「洗い流す方のトリートメント」を思い浮かべるのは容易だし、『ドラえもん』に出てくる「きれいなジャイアン」という表現は、普段のジャイアンへの当てつけにもなっている。同様に、「今のあの子」は「今ではない、未来のあの子」を連想させやすく、とくに修飾語の部分を強調して読む場合は、「そうじゃない方」に意識が向かいやすい。原田菊子による「今の●●あの子ではまだまだムリということは 今はムリだが先では『紅天女』をやれるだけの実力を身につけるということよ」という分析は、実に言語学的なのだ。

 作中では、マヤが言語学的な洞察を駆使する場面もある。第二巻で、マヤたちは月影先生から、「はい」「いいえ」「ありがとう」「すみません」の四つの台詞だけで芝居をするという課題を出される。他の研究生たちは「こんなもので芝居ができるの?」とざわつくが、マヤは、「雨」と「飴」、「鮭」と「酒」、「拭く」と「吹く」などといった言葉がアクセントの違いによって区別されていることに気づき、それを手がかりにして「四つの台詞による芝居」に込められた月影先生の真意に近づいていく。マヤの先輩のさやかは「あの子 言葉に対して本能的なカンをもってるわ」と評するが、マヤは言語学についても本能的なカンを持っていると言っても良さそうだ。
 その他、「"生きがい"があるということは 人間として生きることの価値を自分でみいだすことです」など、名言も豊富だ。恐るべき才能の持ち主がとんでもない努力をして成長する話は、やっぱり読んでいて楽しい。

川添 愛 (かわぞえ・あい)
言語学者、作家。九州大学文学部、同大学院ほかで理論言語学を専攻し博士号を取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。著書に、『白と黒のとびら』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『ふだん使いの言語学』『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』など多数。

https://webtripper.jp/n/n60c09f9692a9

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