「めざせカッちゃん甲子園」(『タッチ』)――川添愛「パンチラインの言語学」第3回
前回の原稿を提出したとき、担当Uさんから「次は『タッチ』や『キン肉マン』はどうでしょう?」という提案があった。どうやらUさんはこの連載の主なターゲットを五十代と考えているようなので、こういうチョイスになっているのだろう。とりあえず今回は『タッチ』を取り上げることにする。
この作品を知らない、あるいは読んだことがない読者がいる可能性を考慮して、簡単に紹介しておく。本作にはメインキャラクターとして、上杉達也、上杉和也という双子の兄弟と、彼らの隣家に住む幼なじみで快活な少女、浅倉南が登場する。「甲子園に連れて行ってほしい」という南の夢を叶えるため、野球に打ち込み期待のエースとなる努力家の弟、和也(カッちゃん)。それに対し、たいした取り柄がなく、周囲から「出がらしの兄」呼ばわりされている兄の達也(タッちゃん)。友人たちも家族もみな、南と和也を理想のカップルとして持ち上げるが、どうやら南は達也の方に惹かれている様子。そんな幼なじみ三人の青春のゆくえを描く作品だ。
この作品が当時の社会に及ぼした影響は大きかった。そもそも本作のヒロイン浅倉南が出てくるまで、「みなみ」という音が名前に入る人物と言われて人々が思い浮かべるのは「こうせつ」や「沙織」や「春夫」など、名字が「みなみ」の人たちであり、そこから『神田川』や『17才』や『世界の国からこんにちは』、さらにはレツゴー三匹の正児が「三波春夫でございます」という自己紹介の後にじゅんと長作からどつかれる様を連想することはあれど、下の名前が「みなみ」である若い女性をイメージすることはなかったと思う。しかし、この作品(とくにアニメ版)が世に出てから、女の子の名前に「みなみ」と付ける人が急増した。さらには夕方のニュースに「南ちゃんを探せ!」というコーナーができて、スポーツに打ち込む少女たちがフィーチャーされるようになった。
南ちゃんブームのころ、私は中学生で、本作のアニメも見ていたし単行本も持っていた。私も「♪デーンデデデデデデデ デデデデーンデデデ デデデデデデデデ デデデデデデデ」というイントロが聞こえたら岩崎良美になりきって主題歌を歌える程度には星屑ロンリネスな人材だ。
しかし正直に言うと、南ちゃんが苦手だった。成績優秀、容姿端麗で非の打ち所のない女性であるという点は別にいいのだが、幼なじみの双子に好かれるというポジションにいて、自身は明らかにタッちゃんのことが好きなのに、自分の夢のためにカッちゃんを野球に駆り立てる神経が理解できなかった。私だったら、もしそんな胃痛ポジに置かれたらとりあえず引っ越したくなると思う。
でも五十代になった今なら、また印象が変わるかもしれない……などと思ってコミックス(完全復刻版)を再読した。結論から言うと、ものすごく面白かった。一人の隠れた天才がその才能を開花させるまでの長い道のりを、本人や周囲の葛藤や成長も絡めて丁寧に、そして巧みに描いた作品だと感じた。十代のころは三人の恋愛模様にばかり目が行っていたが、今回はむしろ双子の兄弟の絆に胸を打たれた。
もちろん恋愛の描写も巧みだ。今回気づいたのは、この作品は登場人物たちの感情の機微を細やかに描いているにもかかわらず、「内言」、つまり心の中で囁かれる言葉の描写が非常に少ないということだ。達也と和也と南の三者がそれぞれに、他の二人の言動から彼らの真意を探るが、内言が少ないぶん、その探り合いの大部分に読者も頭を使う。結果、登場人物の内面を直接知るのとはまた別の形で、それぞれのキャラに肩入れしやすくなる。
で、南ちゃんについてはどう思ったかというと、彼女の一人称が「南」であることに一瞬「うわっ」と思ったりはしたが、昔ほど「苦手だな~」という感じはしなかった。私もだいぶ丸くなったのだと思う。しかし、当時に比べて言語学の知識が増えたぶん、南ちゃんの思わせぶりな言動が目に付いた。
たとえば第4巻には、ボクシング部の練習が終わった達也と南が一緒に帰宅するシーンがある。そのとき南は達也に「べつに……わざわざタッちゃんをまってたわけじゃないからね。図書館に用があって、帰りについでによっただけなんだから……」と言うが、家に着いたところで「お礼いってよ」「わざわざボクシング部おわるのまっててやったんだぞ」と言う。戸惑う達也が「だって、さっき・・・・」と言うと、南は一言、「ウソ」と答える。達也は、さっき言われた「わざわざタッちゃんをまってたわけじゃない」がウソなのか、それとも今言われた「わざわざボクシング部おわるのまっててやったんだぞ」がウソなのか分からず、困惑する。「ウソ」のような否定表現は、何を否定するかによってしばしば曖昧になるが、その曖昧さを利用して達也を翻弄する南ちゃんは本当に恐ろしい子である。
さらに、そういうタッちゃんへの「ほのめかし」の一方で、カッちゃんに対しては「めざせカッちゃん甲子園! ♡浅倉南」と書いた自筆の色紙で甲子園行きを煽っている。わざわざ色紙に書いているところに執念を感じるし、署名の「♡」がヤバすぎる。自分のために身を粉にして野球に打ち込んでいる「本命ではない男」に対する言葉としては、あまりにも罪深いのではないだろうか。この色紙は兄弟の寝室に貼ってあるので、彼らは毎日それぞれの思いを胸にこれを眺め、そのたびにこの言葉に縛られていることになる。南を愛する男たちにとっては特級呪物並みの代物だと言ってもいい。
しかしここで気になったのは、「めざせカッちゃん甲子園」の不思議な語順である。命令形の動詞「めざせ」の目的語が「甲子園」であり、呼びかけの対象が「カッちゃん」なので、普通の言い方だと「カッちゃん、甲子園(を)めざせ」とかになりそうだが、そうではないのだ。
こんなふうに考えてみて気づくのは、「めざせカッちゃん甲子園」の妙な語呂の良さである。というのも、これ全体で七五調になっている。言語学では「仮名1字ぶんの音」を1モーラと数え、これが日本語の音声における基本的な単位となっている。促音の「っ」や長音の「ー」も1モーラに数えるが、「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」「ちぇ」などの拗音は右の仮名とひとまとまりで1モーラとなる。つまり「めざせカッちゃん」は7モーラ、「甲子園」は5モーラなのである。
七五調や七七調がリズム良く聞こえるということは周知の事実だが、その理由はあまり知られていないように思う。ざっくり言えば、7モーラや5モーラには4拍子のリズムを形成しやすいということがある。
実際に手でリズムを取りながら俳句や短歌を唱えていただくと、7モーラや5モーラの部分がそれぞれ4拍子を形成していることが実感できると思う。「めざせカッちゃん甲子園」も、以下の楽譜に見られるように、「めざ・せ(8分休符)・カッ・ちゃん・こう・しえ・ん(8分休符)・(4分休符)」(ex.1)となるか、あるいは「(8分休符)め・ざせ・カッ・ちゃん・こう・しえ・ん(8分休符)・(4分休符)」(ex.2)のように、4拍子のリズムで読むことができる。
このように、日本語ではおおよそ2モーラが4つで4拍子のリズムになりやすく、さらに7モーラや5モーラだとちょうど良い感じに休止が入って心地よく聞こえるのだ。こんなフレーズをさらっと書いてしまう南ちゃんは、やっぱりとんでもない女である。
本作には他にも取り上げたい台詞があったが、重大なネタバレになるので語るのを断念した。もしネタバレOKの機会があれば語ってみたい。
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