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なりたい自分になりたい(『違国日記』)――川添愛「パンチラインの言語学」第10回

文学、映画、アニメ、漫画……でひときわ印象に残る「名台詞=パンチライン」。この台詞が心に引っかかる背景には、言語学的な理由があるのかもしれない。
ひとつの台詞を引用し、そこに隠れた言語学的魅力を、気鋭の言語学者・川添愛氏が解説する連載。毎月10日に配信予定。

 今回はヤマシタトモコの『違国日記』を取り上げる。ガッキー主演の実写映画も見ようと思ったが、この原稿の締め切り前に見られなさそうなので、取り上げるのはもっぱら原作漫画の方だ。
 本作は、突然の事故で両親を亡くした15歳の少女・あさと、彼女の叔母である小説家・槙生まきおとの同居生活を描くものだ。槙生は姉(朝の亡き母)と折り合いが悪く、朝ともほとんど面識がなかったが、朝が両親の葬式で親戚中からたらい回しにされそうになっているのを見かねて、ほぼ勢いで彼女を引き取ることを決める。そのとき親戚の前で槙生が朝に言ったのは、「あなたは 15歳の子供はこんな醜悪な場にふさわしくない 少なくともわたしはそれを知っている もっと美しいものを受けるに値する」。槙生の性格と言葉遣いの独特さがよく現れている。
 しかし、槙生はかなりの人見知り。もともと一人暮らしのマンションに朝を同居させたはいいが、同じ空間に別の生き物(!)がいるのに慣れない。しかも、「15歳みたいな柔らかい年頃 きっとわたしのうかつな一言で人生が変えられてしまう」と、自分の言葉が朝に影響を与えることを恐れている。姉が嫌いだったということは「言っておかないとフェアじゃないと思ったから」という理由で朝にも伝えるが、「なんで嫌いなの?」という質問には「わざわざ人の悪口きくもんじゃない」と言って、答えない。これも槙生なりの誠意なのだが、朝にはなかなか理解できない。

 この作品のポイントの一つは、言葉の不完全さが丁寧に描かれているところだろう。たとえば同じ「孤独」や「静寂」でも、人によってイメージが違う。槙生は孤独と静寂を愛するが、人なつっこくてさみしがり屋の朝にとって、それらは砂漠のようなもの。朝の親友のえみり、その彼女であるしょうこも、それぞれ異なるイメージを持っている。
 また、朝は亡き母の日記に書かれた「お母さんはあなたが大好きです」という文を読むが、それを信じることができない。それは言葉でしかなく、発した人が本当に何を考えていたのかは分からないからだ。
 現実でも頻繁に「同じ日本語を話しているのに、話が全然通じない」ということが起こる。その最大の要因は、話し手が思いを言葉にした段階で、ほとんどの情報が落ちてしまうということだ。また、その言葉を聞き手が解読するときにも、聞き手自身の感情や知識、経験が入り込む。よって、話し手がその言葉に込めたものとまったく同じものを、聞き手が完璧に復元できることはない。朝が語るように、本当は「誰でもがまるで違う国の言葉で話している」わけだ。
 しかし同時に本作では、言葉が人間に及ぼす影響の大きさも描かれている。かつて誰かに言われた言葉の意味が、言われたときはよく分からなくても、あとで分かることがある。また、他の人に言われた言葉がいつのまにか、自分の内面に入り込んでしまうこともある。朝は、母親がよく言っていた「なんでそんなこともできないの」という言葉を槙生に対して発し、彼女の古傷に触れてしまう。しかしそんな朝も槙生と暮らすうちに、徐々に「憶測でものは言えない」とか、「あなたとわたしが別の人間だから」といった槙生の言葉を自分から発するようになる。自分にだけ両親がいないことに発する憤りを「ずるい」「むかつく」としか言えなかった朝が、成長するにつれて表現力と洞察力を増していくのも見どころの一つだ。

 性格も世代も異なる二人のやりとりは面白い。槙生は「てらいがない」「空虚」など、朝の知らない言葉をバンバン使うし、朝が「ふいんき」と言うのを「雰囲気な」と訂正し、「え? いーじゃんどっちでも」と開き直る朝を「よくない」とたしなめる。朝が槙生に送った「えみりが家来てもいい?」というLINEに対して、槙生は「なんとなく添削したくなる文章・・・」と感じる。私にも添削したくなる気持ちは分かるが、なぜそう感じるのかを考えると、けっこう難しい。
 原因として考えられるのは、「~してもいい?」という言い回しにおいては、「~して」の主体が「話し手」になることが多いということだ。たとえば「ここに座ってもいい?」とか「今からそっちへ行ってもいい?」などと言う場合、「ここに座る」や「今からそっちへ行く」といった動作の主体は話し手であり、文全体としては「(私が)ここに座ってもいい?」「(私が)今からそっち行ってもいい?」と言っていることになる。これに対し、「えみりが家来てもいい?」では「家来る」の主体が話し手(つまり朝)ではなく、えみりという第三者なので、少々ぎこちなく感じるのかもしれない。
 もちろん日本語としてはまったく問題ないし、意図もきちんと伝わるが、言葉を使うことを生業なりわいにしている槙生はより適切な表現を反射的に探してしまうのだろう。槙生がどんな修正案を思い浮かべたのかは描かれないが、気になるところだ。ちなみに私が考えた修正案は、「えみりを家に連れてきてもいい?」のように、「〜してもいい?」はそのままにして「〜して」の主体をえみりから朝に変更する案や、「えみりが家来るけどいい?」のように「〜けどいい?」を使う案、「えみりが家来てもかまわない?」のように「いい」を「かまわない」に変える案だ。

 また、朝の言葉でとくに興味深いのは、自分が何をやりたいのか、何に向いているのか分からない中で発した「なりたい自分になりたい」という言葉だ。同じ文の中で「なりたい」が繰り返されているという点でトートロジー(同語反復)っぽいが、それほど冗長に聞こえないし、きちんと中身があるように感じられる。なんとなく不思議な文だと思う。
 他の似たような文と比べてみよう。たとえば、日常でもよく耳にする「分かる人には分かる」は、「なりたい自分になりたい」と同じ「述語+名詞+助詞+述語」というパターンの文だ。この文は、そのままだとあまり中身がない感じがするし、そこに込められた実質的な意図は「分かる人が存在する」ということだと思う。しかし「なりたい自分になりたい」が実質的に「なりたい自分が存在する」という意図を伝えているかというと、もちろんそういう側面はあると思うが、やはりそれだけではないような気がする。
 また、似たパターンの文には「ダメなものはダメだ」というものもある。これはどちらかというと、「それは絶対にダメである」という強調の意味合いを持つ。他方、「なりたい自分になりたい」に強調の意味があるかと言われると、あると言ってもいい気がするが、なんだかそれ以上の内容があるように思えるのだ。
 よく分からないなりにいろいろ考えた結果、「なりたい自分になりたい」は、「(私の頭の中にある)なりたい自分に(実際に)なりたい」という意味なのではないかという考えに至った。つまり一つ目の「なりたい」が朝の頭の中に存在する理想を表現しているのに対し、二つ目の「なりたい」は現実世界で「そうなりたい」ということを表しており、それぞれ守備範囲が違うために冗長さが感じられないのではないか、ということだ。まあこれをガチの分析にするにはもっときちんと考える必要があるし、本当に的を射ているかどうかも分からないので、ここは「あまりこれを真に受けないでほしい」と槙生みたいなことを言ってお茶を濁そうと思う。

 登場人物たちの会話に言い淀みや割り込みが多いのもリアルだし、槙生が朝に言った「本当にやりたいと思ったならどんなにつまんないことでもやんなさい」という言葉は50代の私にも刺さる。簡単には語り尽くせない深みを持った作品なので、未読の方はぜひ読まれることをお勧めする。

川添 愛 (かわぞえ・あい)
言語学者、作家。九州大学文学部、同大学院ほかで理論言語学を専攻し博士号を取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。著書に、『白と黒のとびら』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『ふだん使いの言語学』『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』など多数。近刊は『言語学バーリ・トゥード Round 2』。

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