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はこびるって何だよ!(『勇者ヨシヒコ』シリーズ)――川添愛「パンチラインの言語学」第9回

文学、映画、アニメ、漫画……でひときわ印象に残る「名台詞=パンチライン」。この台詞が心に引っかかる背景には、言語学的な理由があるのかもしれない。
ひとつの台詞を引用し、そこに隠れた言語学的魅力を、気鋭の言語学者・川添愛氏が解説する連載。毎月10日に配信予定。

 最近、また『勇者ヨシヒコ』シリーズを見返している。数年ごとに『ヨシヒコ』を見たくなる時期があり、今がちょうどそれにあたるようだ。疲れすぎていて他に何も見たくないときでも、『ヨシヒコ』なら見られるし、見たら楽しめるという点で私にとってはたいへんありがたい作品だ。一話あたり30分という長さもちょうどいい。
 見たことのない人のために説明すると、ストーリー上の設定は、故郷の村で勇者として選ばれた真面目な青年ヨシヒコ(山田孝之)が魔王の手から世界を救うために旅をする、というものだ。ヨシヒコの仲間になるのは、熱血漢で剣士のダンジョー(宅麻伸)、気の強い村娘ムラサキ(木南晴夏)、役に立たない魔法ばかり習得する魔法使いのメレブ(ムロツヨシ)。四人は、ざっくりしたお告げばかり出すいい加減な仏(佐藤二朗)に導かれて、魔王の城を目指すことになる。ヨシヒコの妹ヒサ(岡本あずさ)も、こっそり兄の後を追う。
 シリーズには『勇者ヨシヒコと魔王の城』『勇者ヨシヒコと悪霊の鍵』『勇者ヨシヒコと導かれし七人』の三作があるが、どれもだいたい同じ流れである。世界観はドラゴンクエスト風というか、明らかにドラクエを模したファンタジー世界、ということになっている。

 この作品の何が良いのかをうまく説明するのは難しいが、特筆すべきはその独特の「ゆるさ」だろう。オープニングで「予算の少ない冒険活劇」と明記されているとおり、予算の少なさを前面に押し出した作りだ。ヨシヒコの故郷を始め、出てくる村々はどう見ても日本の田舎だし(山形県の庄内映画村というところで撮影したらしい)、スライムを始めとするモンスターの多くはダンボールや発泡スチロールで作られている。『魔王の城』に出てくる伝説の防具の一つ「無敵の靴」は金色のクロッ○スだ。ヨシヒコたちと大型モンスターの戦いが始まると、いきなり実写から安っぽいアニメーションに切り替わる。こんなふうに、予算の少なさが完全にギャグとして利用されている。
 『ヨシヒコ』シリーズを見ていると、子供の頃に『8時だョ!全員集合』を見ていたときと似たような感覚を覚える。もちろん、『ヨシヒコ』の制作陣がドリフを意識しているという面はある(実際、『魔王の城』第五話では、ドリフの五人を彷彿ほうふつとさせる五人組が仕切る「オイッスの村」が登場する)が、私が感じるのは「舞台上のコメディ」という側面との共通性である。
 言うまでもないことだが、私たちは舞台演劇を鑑賞するとき、目の前にある舞台上の空間を現実世界とは異なる「劇中の世界」と見なし、そこにある大道具や小道具を劇中の世界における「本物」と見なす。そういった観客側の能動的な「見なし」を経て、演者の演技は「本物の感情」になり、書き割りが「風景」となる。そこには演劇を提供する側と観客の間の協力関係というか共犯関係があり、その好ましい結果として「志村、うしろー!」のようなリアクションが生まれるわけだ。
 で、『ヨシヒコ』は舞台でこそないが、ハリボテのモンスターを本物と見なしたり、神社の鳥居とかがある日本の風景を「ファンタジー世界」と見なしたりすることを視聴者に要求する点で、舞台と似ているし、そういう「共犯関係」を受け入れた視聴者のみが『ヨシヒコ』を楽しめるとも言える。『ヨシヒコ』に熱狂的なファンが多いのも、そういう側面と無縁ではないかもしれない。
 予算が低いとはいえ、面白くないシーンや笑えないシーンがほとんどない。それは、ムダを大胆に省いた脚本と、俳優陣の技量のたまものだろう。全体に、物語世界と現実世界のブレンド具合というか、いろんなネタのチャンポン具合というか、そこらへんのバランスが絶妙だ。

 物語と現実のブレンド具合は、作中のセリフにも現れている。たとえば、『魔王の城』第二話に登場する村のおばば(白石奈緒美)は、長老らしい威厳のある話し方の中で「生けにえを連れて出るのを拒否るやつが続出だったんじゃ」と、いきなり若者言葉の「拒否る」を交えてくるし、村のしきたりを取り消してほしいというヨシヒコの申し出に「いいよ別に」と軽く応じたりもする。
 また、ヨシヒコやダンジョー、ムラサキが物語世界のことしか知らないのに対し、なぜかメレブや仏は現実世界の事情にもある程度通じている、というキャラ配置も興味深い。このことは、彼らの話し方にも反映されているように思う。ヨシヒコとダンジョー、ムラサキは、魂を抜かれるなどといった特殊な設定の場面を除いては、話し方がほとんど変わらない。それに対してメレブと仏は、「役を演じている」ときとそうでないときで、話し方が異なるのだ。
 たとえば仏は、真面目に仏としてお告げをするときは「ヨシヒコよ、よく聞くのだ」といったかしこまったスタイルで話すが、それが中断すると急に軽い感じになって「はい、じゃ、お告げいくよ? お告げいくよ?」と言ったりする。
 また、仏はたびたびお告げの途中で言いよどんだり、言い間違いをしたりする。たとえば、『魔王の城』第一話の初登場時では、「彼(魔王)は、人々の心を、操り、下界を、が、を、我がものに、あの~、しようと、している。ねっ?」のように、助詞を「を」にするか「が」にするか迷ったり、「あの~」のような表現を使ったりしている。「あの~」「え~と」のように会話に挟み込まれる言葉は「フィラー」と呼ばれ、とくに「あの~」は話し手が思い出せないモノの名前を頭の中で検索したり、言いたいことに適した言い方を検討したりするときに使われる[1]。つまり「あの~」が入ることで、全知全能であるはずの仏が言うべき言葉を思い出せないことが明るみに出て、結果的に「イマイチ信用できない、いい加減な仏」であることが明確になる。
 実際、その後に続くセリフでも仏は「魔王の手によって、あの~、人々は~、あれを宿し……あれあれ、あの~、あれ、あの、邪悪な気を、宿し」 と、「邪悪な気」という言葉が思い出せずにいったん「あれ」と表現するし、さらに「魔物がはびこる」を「魔物がはこびる」と言ってしまい、「はこびるってなんだよ!」と自分でツッコミを入れる。「はびこる」を「はこびる」と間違える現象は音位転換(メタセシス)と呼ばれる。子どもが「とうもろこし」を「とうもころし」と言ったりするのも同じ現象だ。「新しい」の読み方が「あらたしい」から「あたらしい」に変化してそのまま定着するなど、歴史的な言語変化にも一役買っている。しかしながら、全知全能であるはずの仏が(以下略)。
 メレブの会話スタイルも仏と似たところがあり、自分が魔法使いであることを強調したいときには「そなたたち、どこから来た?」「名はなんと申す?」のようにそれっぽい話し方をするが、動揺したりすると「はぁ~? 何言ってんの、違うよ、はぁ~?」のように、普通の話し方になる。
 面白いのは、メレブが「魔法使いモード」のときに使う相づちの「うむ」が、はっきり「umu」と発音されていること、つまり最後の「u」が明確に発音されていることだ。通常、文字で「うむ」と表記されるような相づちは、発音すると「um」のように、最後の「u」は発音されないことが多い。メレブはたぶん、頭の中に「うむ」という平仮名を思い浮かべて、それを読む感じで発音していると思われる(ちなみに『悪霊の鍵』第七話に出てくる「偽メレブ」(山中崇)は、この発音を完全にコピーしている)。つまりメレブは、魔法使いっぽいセリフを明確に「セリフ」だと意識して発音しているふしがある。

 以上の観察から、私はある仮説を立てた。それは、『ヨシヒコ』の世界をロールプレイングゲームの世界だと見なすと、ヨシヒコ、ダンジョー、ムラサキの三人はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)で、メレブはPC(プレイヤーキャラクター)なのではないか、ということだ。つまり、ヨシヒコたちが物語世界の中にしかいないのに対し、メレブに関しては『ヨシヒコ』の世界の外、つまり現実世界で彼を「操り、演じている」プレイヤーがいる、という仮説だ。
 そのように考えると、メレブが魔物のレベルにやたらくわしかったり、ドラクエとファイナルファンタジーの関係をなんとなく知っていたりするのも納得できる。『導かれし七人』の第6話では、傷だらけの盗賊を前にしたメレブが「ゲーム画面に切り替えてみるね」と言い、盗賊のHP(ヒットポイント)が「1」しか残っていないことを確認するシーンもある。これなんかまさに、先の仮説を裏付けるものではないだろうか。
 じゃあ仏は何なんだという話になるが、プレイヤーが仏をPCとして操るということは考えにくい。私が思うに、おそらく仏は運営側が操っているのだろう。中高年にしか分からないたとえであることを承知で言うが、1980年代のゲーム『源平討魔伝』のナビゲーター、 あんだあばあみたいな存在だと思う。

 すでに見たことがある人も、見たことがない人も、以上のことを念頭に置いて『ヨシヒコ』を見てみてほしい。きっと、いろいろと思い当たる場面に遭遇するはずで、私の、え〜、あの~、言わんとすること、が、を、が、みなさんにも、おかわり、になるであろう……「おかわり」って何だよ!


[1] 参考文献:定延利之・田窪行則(1995)「談話における心的操作モニター機構——心的操作標識「ええと」と「あの(ー)」——」、『言語研究』108、pp.74-93、日本言語学会。

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川添 愛 (かわぞえ・あい)
言語学者、作家。九州大学文学部、同大学院ほかで理論言語学を専攻し博士号を取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。著書に、『白と黒のとびら』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『ふだん使いの言語学』『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』など多数。近刊は『言語学バーリ・トゥード Round 2』。