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往復書簡 日々の音沙汰 ー第6回「他者と混ざりたい」(ジェーン・スー)ー

 作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストのジェーン・スーさんと文筆家・モデルの伊藤亜和さんによる往復書簡。
毎月第2・第4火曜日に更新予定です。初出:「一冊の本」1月号

■前回の伊藤亜和さんからのお手紙はこちら


✉ 伊藤亜和さま ← ジェーン・スー

 2024年11月下旬、ようやく私にとっても肌寒い季節になりました。ホッとしました。このままモンスーン気候に突入かと思いました。
 最初は亜熱帯気候かと思ったのですが、過去の経験から、こういう時に私が思い違いをしている可能性はだいたい80%くらいだと自分でよくわかっています。念のため調べて見ると、やはりまんまと間違っていました。亜熱帯気候は地中海やカルフォルニアですって。そっちのほうがずっとよかった。
 それにしても北海道旅行は楽しかったですね。ベッドからあんなに派手に落ちたのは高校生以来です。私もまだまだやるわね! と、なぜか誇らしい気持ちになりました。全日本プロレスのライジングHAYATO選手をお気に召したとのこと、全日箱推し勢としては嬉しい限りです。

 さて、「人と会う」とはどういうことか。あれからぼんやりと、しかし鳴りやまぬ通奏低音のようにずっと考えていました。そしてわかったのです。私にとって「人と会う」とは自分と他者を混ぜあわせる行為だと。
 言うなればコンタミネーションです。異物混入です。原材料に意図せぬ不純物や異物が混ざってしまうこと。略してコンタミ。生まれたばかりの自分が原材料のみで作られた製品だとするならば、そこから良くも悪くも親という不純物がコンタミし、そこからは毎日とにかくなんらかのコンタミの連続であります。それを教育や影響や交流といった言葉で言い表すことに不満はないものの、「ありのままの私」なんてものは、単なるコンタミの連続が生んだものでしかないとも思います。
 通常、コンタミが発生すると商品の価値は棄損されます。食品なら、アレルギー体質を持つ人にとっては命取りになる危ない品になります。しかし、人間は生きている限り人と人のコンタミを避けられない。自分の価値を高めようとは思いませんが、混入する異物をある程度選択できる大人になったら、ちゃんと選びたいという欲望はある。

 亜和さんにおける「軍神さま」や及川光博さん、カズレーザーさんのように、直接的な接点を持たずに活動や作品から影響を受ける存在もあります。それもコンタミネーションといえばコンタミネーションですが、それはあくまで表現活動を通してのものであり、どのような影響を受けるかは、こちらの解釈に任せられている部分が多い。推し活もそうで、度を超すとキャラ消費によるライトな人権侵害となります。
 生身の人間との出会いとなると、そうはいきません。もっと生臭いし、こちらの勝手な解釈は許されません。相手の人権を尊重して受容しないといけないからね。知れば知るほど夢中になる場合もあるでしょうが、がっかりすることもあるでしょう。私はそれは求めていないのです。プロレスラーで言うなら、実際に話したら気が合いそうな予感がある選手もいればリングのなかで強くてかっこよければそれで満足という選手もいます。
 また、人間関係におけるコンタミは双方向なので、こちらの生臭さが先方に多少なりとも影響を与えてしまいます。相手のことが大好きで隅から隅まで見ていたいけれど、生身の自分なんか1ミリも知ってほしくない人っています。そういう人とも、私は混ざりたくありません。
 混ざりたくない人とは会いたくないし、混ざれるなら混ざりたいけれど、互いのエネルギーバランスを鑑みるに相手はアリ1匹通さない防御壁でこちらとのコンタミを避けるであろう相手とも会いたくない。私はそう考えているのだなと思うに至りました。考えるきっかけをくれてありがとうございます。
 裏を返せば、会いたい人とは混ざりたいのです。私が亜和さんと会いたいと思うのは、混ざりたいからです。私にとって「他者と混ざりたい」は「楽しい」とある程度同義です。
「混ざりたい」にもいろいろあって、自分とまったく異なるからこそ混ざりたい人もいれば、ある程度同じ気質だろうし、話をしたらスウィングする様子がイメージできるから混ざりたいと感じる人もいる。

「混ざりたい/混ざりたくない」を、私は無意識に判断しています。できるだけ接点を持ちたくない人。遠くから眺めて憧れていたい人。混ざれるなら混ざりたいけれど、それは今ではない人。直接会って話して生臭さを交換したい人。私はなにを基準にどう判断しているのでしょうか。
 私は他者から「警戒心が薄い」とよく言われます。亜和さんもそうでしょう。しかし、我々はそれぞれ異なるタイプですよね。私の理解ですと、亜和さんは危なっかしい人にかかわっていくことを恐れないタイプ。私は危なっかしいか否かの判断がつかないタイプ。私の場合、よく言えば偏見が少ないと言えますが、本質的には学習能力が乏しい。
 友人に危機察知能力が異様に高いのが何人かおり、彼女たち彼らのセンサーはすぐにピピピと危険人物を察知して、コンタミを回避します。それでも嫌な目に遭うのを完璧に避けられるわけではないようで、もっと突っ込んで言うなら鈍感な私には嫌な出来事とはカウントできないことも繊細に察知しているようで、私は己の鈍感力にかなり助けられていると認めざるを得ません。人によっては「ひどい目に遭ってきたのね!」と同情するであろう私の人生ですが、その都度立ち直っているので、これを通常運転とします。
 おそらく私は、相手が自分を傷つけてくるか、嫌な目に遭わせにくるかではなく、混ざった時に自分が楽しいかだけで「会いたい」を判断している。相手の成分を取り入れる際のダメージは考慮しません。おめでたいというか、能動的というか、主体性が著しく強いんでしょうな。いいことなのかどうかはわからないけれど。
 亜和さんと私に共通しているのは、大勢が集まって営む社会生活のルールから少しはみ出している人々と接点を持ち、大変な目にも遭っているけれど、その「大変な目」が持つ愉快で愛おしい側面を味わう能力が高いこと。そして、ダメージを受けても忘れてしまうこと。それでいいと思っているところも似ている。

 違ったら気兼ねなく訂正してくださいね。年上から「私たちって、こうだよね!」と決めつけられる行為ほど息苦しいこともありません。せっかく混ざるのだから、違いを存分に味わいたいのです。

次回、伊藤亜和さんからのお便りは2/11(火)に更新予定です!

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)