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年森瑛「バッド入っても腹は減る」第5回

パスタを茹でながら、キャベツを煮込みながら、一冊の本をじっくり読む――。いちばん読書がはかどるのはキッチンだ。
いま最注目の新人作家による、おいしい読書エッセイ。
毎月15日更新予定。

撮影 年森瑛

 年度末の記憶がない。
 ただでさえ職場の繁忙期だというのに確定申告も重なり、さらに医療費を稼ぐため短編の依頼まで引き受けてしまったため、ここ数ヶ月は土日返上で働き詰めだった。同じく兼業作家で年中激務のサハラさんと毎週末に通話していなければとっくにメンタルは崩壊していただろう。「自分へのご褒美で金曜夜にナゲットを山盛り買って家で食べようとしたらソースがついていなくて、だけど取りに帰る気力もないから結局ケチャップで食べたんですよ」というような、週明けにわざわざ同僚たちに語るほどのことでもないが誰かに聞いてほしい、その程度の話をする相手ができたのは本当に僥倖ぎょうこうである。
 20代後半を過ぎてからは、サハラさんに限らず同年代で集まると「我々はどう生きるか」という話題になりやすい。生まれたときから今に至るまで小数点以下の利率しか見たことのない我々は、今後いったいどうすれば生き残れるのだろうか。しゃかりきに働いて稼ぐ、結婚して心理的安全性を得る、できる限り親のすねをかじらせてもらう、など各々の戦略が出るものの、どれが正解なのかは誰にも分からない。

 私はこれまで結婚というものに興味がなく、ゆえに結婚にまつわる情報のほとんどを知らなかったのだが、こんなに多くの人がやっているのなら私が知らないだけで面白いことだったりするのだろうかと、仕事の合間を見つけては調べるようになっていた。それで、どういう話の流れだったか忘れたが、「裁判においてセックスレスは正当な離婚理由として認定されるそうなんですよ」とサハラさんに聞きかじりたての情報を告げると、電波不良を起こしたスマホから「ええい、いぇ、え〜いぃ」というひび割れた悲鳴が聞こえてきた。何を言っているか分からないが驚いていることはよく分かった。
 世の中のおおよその人たちはこのことを当然のものと認識しているのだろうか。そもそもなぜ、結婚はセックスを前提としているのだろうか。
 イアン・マキューアンの『初夜』は中学生の頃に一度読んだきりで、その後一度も読み返すことがなかったというのに引っ越しのたびに行われる蔵書選別サバイバルでは何故かやすやすと生き残ってきた、私の中では奇妙な立ち位置にある小説であった。ちょうど結婚とセックスにまつわる内容が書かれていたように記憶しており、新刊に手を出す余裕もなかったため、この機会に読み直してみることにした。
 舞台は1962年夏のイギリス、エドワードとフローレンスという大学を卒業したての新婚夫婦の初夜の話である。
 新婚旅行先のホテルでの夕食後。二人の頭は初夜についての不安で占められていたが、不安の理由はそれぞれまったく異なるものだった。
 エドワードはこの初夜で滑稽な振る舞いをしてしまわないか、またフローレンスを落胆させないように達成できるかが不安だった。なにより「早く終わりすぎる」ことが不安の種だったが、彼のそれはあくまで初舞台の緊張にすぎず、むしろセックスの完遂を熱望する気持ちのほうが大きいほどだった。
 対するフローレンスはというと、結婚準備期間中から今日に至るまで、セックスのことを考えるたびにどうしようもない嫌悪感に襲われていた。不愉快、苦痛、虫唾むしずが走る、ありとあらゆる悪寒がセックスにまつわる表現の全てに湧き起こるのだった。彼女はエドワードを愛していたし、これからの人生を彼とともに生きることに疑問の余地もなかった。だからこそ彼女は何度かそれを打ち明けようとしたが、自分の中ですらうまく言葉にできていないことをどう説明してよいものかも分からず、初夜を迎えることになってしまった。

自分にはどこか根本的におかしいところがあるのだろう、自分はむかしから変わっていたが、ついにそれが暴露されることになるのかもしれない、とフローレンスは思っていた。彼女の問題は単なる生理的嫌悪以上の、もっと根深いものだった。肉体を絡み合わせることに対して(中略)彼女は「入れられる」あるいは「挿入される」ことを望んではいなかったのだ。エドワードとのセックスは彼女にとっては喜びを集約するものではありえなかった。それはむしろ、彼女がそのために支払わなければならない代価だった。(『初夜』P.11)

 エドワードへの愛情の証明のため、そしてこれからの二人の幸せな生活のために、フローレンスは嫌悪感をやり過ごし、吐き気を飲み込み、手元のおぼつかないエドワードをリードしてみせる。その結果、初夜は失敗となり、フローレンスは狼狽ろうばいしてホテルを飛び出してしまう。置き去りにされたエドワードは屈辱に打ちのめされ、怒りのままにフローレンスを追ってホテルを飛び出す。動揺が冷めやらぬ中で二人は口論を続け、そうしてフローレンスはその場を立ち去り、彼らが共に歩むことは二度となくなってしまう——という顚末てんまつの話である。
 『初夜』の類まれなる面白さは心理描写にある。
 婚姻しセックスをしてこそ一人前と認められる社会において、明らかに友人たちとは異なっている、普通ではない自分への苦しみ、それを愛する人に知られて落胆されることへの恐怖、普通になることへの夢想と、なれないことへの絶望、混乱の最中にあっても、せめて愛する人が望むことをしてやりたいという献身、そういった、一人の身体の中で雁字搦がんじがらめになった情動があますことなく書き記されているのが本作の魅力であり、あらすじを知ったところで面白さが損なわれることはない。

 今月は自炊する余裕もなかったのだが、まだ楽観的だった頃に買ってしまった茄子なすがさすがに腐る頃合いのため、しぶしぶ腰を上げた。
 とはいえ茄子は処理が簡単なのでまだマシなほうだ。繁忙期にじゃがいもは避けたい。皮をいて芽を取って切ってでんぷん洗い流して、なんてやっていられるわけがない。その点、茄子はヘタしかゴミが出ないのが良い。切り始めると包丁の側面にくっついていた輪切りが剝がれてシンクへ転がり落ちる事故が起きる以外は完璧な野菜だ。
 輪切りにした茄子を水にさらしているあいだ、冷凍庫から肉を取り出す。何の肉だったか覚えていないが、恐らく豚のどこかしらの部位だろう。解凍して小さく切ってから焼く。焦げ目がついたら水から引き揚げた茄子を入れる。様子を見つつ菜箸でいじりながら『初夜』の気になった箇所を読み返す。
 しかし、改めて読んでみるとまったく古びていないどころか、むしろフローレンスが言葉にできなかった、輪郭を持たない顔のような形容し難い苦しみは、ここ数年でようやく可視化され始めたことのように思える。マキューアンの著作の中では知名度の低い本作だが、そういった意味で再評価を受けそうだ。

 私は小説において苦手な描写が三つある。生理、セックス、妊娠出産。これらは読んでいるうちに血の気が引いて気分が悪くなってしまう。内臓の一部が剝がれたり、内臓に異物を出し入れしたり、内臓で生きものが育ったり、そういったグロテスクな映像が脳内に広がってしまうことに耐えられない。私にとって、これらの描写を読み通すことはゴア系のホラー映画を鑑賞するのと大差ない苦痛だ。とはいえ必ず読み飛ばしているわけではなくて、我慢できるところまでは目を通し、どうしても耐え切れないような、肌の内側で虫がざわざわと騒ぎ出すような感覚が始まったら例外なく本を閉じて虫を追い出すために床を転がり回って、また元のページを薄目で確認してから安全そうな段落まで飛ぶようにしてやり過ごしてきた。こうして書いてるだけでも肌がざわざわとして落ち着かない。
 『初夜』はホテルでの一夜に二人の回想が挟まれる形で物語が進む構成で、セックスに関する描写がまあまあ多い。普段の私なら途中で投げ出しそうな内容だというのに、かつてと同様に最後まですらすら読めてしまった。これには挿入の、つまり内臓を使った行為について書かれていなかったことも大きいが、互いにずれた懸念を抱えながらも初夜を成功に導こうと必死になっているエドワードとフローレンスを手に汗握って見届けることに集中していたのもあるかもしれない。

 片手で本を開きながら、横着して塩のケースごと雑に傾けたらドボンと大きめのかたまりが落ちてしまった。非常によろしくない展開である。こうなったら具材を増やすしかない。冷蔵庫は空っぽなので、テーブルの隅でビニール袋に埋もれていた食パンを引っ張り出す。とっくに消費期限が切れていたが、カビが生えていないのでセーフだろう。後日使おうとタッパーに分けておいた残りの茄子の輪切りもフライパンに追加して、ふたをして煮込む。食パンはいつもグリルで焼いている。片面グリルなので、片方が焼けたらひっくり返す。グリルで焼くと、少し色づいてから焦げ始めるまでの速度がすさまじい。なかなか色がつかないと思って席を外すと大体焦がすのでグリルの前からは離れない。
 先にパンが焼けたので火を止めて、そこにペースト状になった茄子と肉を載せる。茄子ペースト食パンの完成である。塩しか入れていないが、肉の脂のおかげでジャンクな味わいだ。見た目があまりよろしくないので来客に出すことはないが、自分用にこれからも作ってみてもいいかもしれない。
 雨がやんだようなので窓を開けた。もう桜のつぼみが開いていた。

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年森瑛(としもり・あきら)
1994年生まれ。作家。『N/A』で第127回文學界新人賞を受賞し、デビュー。

見出し画像デザイン/撮影 高原真吾

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