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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第24回




 この建物のどこかに負傷者がいる可能性があった。

 いったいその人物の怪我はどれほどのものなのか。通路に落ちた血からは、傷の程度は想像できない。怪我をした部位によって重傷度も変わってくるだろう。もし頭部からの出血であれば、かなり深刻なものになっているかもしれない。

 ──いや、もしかして負傷者はもう……。

 嫌なことが頭に浮かんだ。尾崎は首を左右に振って、その考えを追い払う。

 今はあれこれ想像していても仕方がない。それによって萎縮してしまい、的確な行動がとれなくなるおそれがある。恐怖は人の判断を鈍らせる。過去の捜査の中で、尾崎がはっきり理解してきたことだった。

 やがて縦通路の端にたどり着いた。この先は少し広めのスペースになっている。肉や魚などを陳列する冷蔵ケースが壁に沿って並び、商品を載せるワゴンもいくつか置かれていた。床には段ボール箱や新聞紙、ナイロン製の紐などが落ちている。

 尾崎は陳列棚の陰から首を出し、辺りに目を走らせた。

 血痕は精肉売り場の前を通り、店の左奥へと続いている。尾崎はそれを追って、売り場の隅まで進んだ。目の前に、バックヤードに抜けるスイングドアがあった。血の滴りはドアの前で途切れている。負傷者はこの奥にいるのだろう。

 ひとつ深呼吸をしてから、尾崎は銀色のスイングドアを押した。中は真っ暗だ。売り場のほうは窓からの明かりがうっすら届いていたが、この先はよく見えない。

 尾崎はポケットからミニライトを取り出した。何が現れるかと緊張しながらスイッチを押す。暗闇の中を、さっと光が走った。正面の壁が白い円になって浮かび上がった。尾崎はライトを振ってみた。白い円が上下左右に動いて、部屋の構造がわかってきた。

 部屋は和室で言えば八畳ほどの広さだろう。壁や床にはタイルが貼られていて、水を流すなどの掃除がしやすい造りだ。壁際には銀色の業務用冷蔵庫がある。その隣には大きめの流し台、そして部屋の中央には広い作業台があった。厚いまな板と、古い計量器が残されている。

 計量器の横にあるのは何だろう。尾崎は目を凝らした。そうだ、鎖ではないか! おそらくあれは、犯人がやってきたという証拠だ。

 ここは精肉の加工室のようだった。仕入れてきたブロック肉などを加工し、パック詰めしていくのだろう。それらが売り場へ並べられていたわけだ。

 もうひとつ明かりが灯った。広瀬も自分のミニライトを点けたのだ。

 尾崎は加工室の中に入っていった。

 壁際の冷蔵庫を観察する。正面から見て、ドアは四つあった。上半分、下半分とも左右に開くタイプだ。

 強い不安を感じた。空き店舗の片隅に置かれた冷蔵庫。業務用の機種でかなりの容量だ。このサイズなら、人間ひとりを押し込んでおくこともできるのではないか?

 左手でライトをかざし、右手で冷蔵庫のドアに触れてみた。自分でも意外だったが、指先が震えているのがわかった。

 いつもの自分を思い出そうとした。これは仕事だ。恐怖や緊張を感じるべきではない。中を確認すべきなのだ。そして結果を報告するのだ。

 尾崎は上の右側にあるドアに手をかけ、勢いよく手前に引いた。銀色のドアが開いた。ライトで素早く内部を照らす。

 中はいくつかの段に分かれている。覗き込んでみたが、破れたポリ袋や空になった発泡スチロールのケース、伝票の切れ端などが見えるばかりだ。電源は入っていないようで、冷気は出てこない。

 上段左側も開けてみたが、同様だった。これといったものは入っていない。

 続いて尾崎は、下段左側のドアに手をかけた。軽く力を入れて手前に開ける。

 突然、大きなものが転がり出た。ぎくりとして尾崎は飛び退いた。目を大きく見開いて、その物体をじっと見つめる。

 それは人間だった。ズボンにシャツ、春物の黒っぽいセーターを身に着け、両手を腹の前で縛られている。体つきから男性だとわかった。

「大丈夫ですか!」

 尾崎は慌ててしゃがみ込み、相手を観察した。頭から流れ出た血が、肩から右腕、指先にまで滴っている。これが売り場に垂れ落ちていたのだろう。この人物はまだ息があるのか?

「しっかりしてください」

 上半身を抱き起こす。それからライトで相手の顔を照らしてみた。

 色白の肌に、長めでもっさりした髪、生気があまり感じられない顔。目を閉じているが、その人物にはたしかに見覚えがあった。

 五年前の錦糸町事件で郷田裕治に刺され、左脚に怪我をした男性。坂本高之だ。

 なぜ彼がここに、という疑問が湧いた。だが今はそれどころではない。

「坂本さん、わかりますか? 警察です」

 耳元で話しかけてみたが、坂本は目を開こうとしなかった。ただし、身をよじって唸り声を出したから息はある。頭以外に外傷があるかどうかは、調べてみないとわからない。

 やはりここが正解だったのだ、と尾崎は思った。それと同時に、先ほど調べた廃屋に《×》印があったことを思い出した。犯人はこの辺り一帯で、使えそうな廃屋を探していたのだろう。もしかしたら、冷蔵庫のない廃屋にその印を付けていたのではないか。今回の奴のこだわりは、冷蔵庫だったのではないか、という気がした。

 つぶした段ボール箱があったので、尾崎はその上に坂本を横たえた。両手を縛っていたワイヤーをほどいて、手首を自由にしてやった。それからミニライトで辺りの床を調べてみた。こんな場所だが、何か利用できるものはないだろうか。

「広瀬、毛布の代わりになるようなものはないか?」

 そう呼びかけたのだが、返事がない。不審に思って尾崎はうしろを振り返り、ライトで照らしてみた。広瀬の姿が見えない。

「どうした、広瀬?」

 尾崎に言われる前に、彼女は救助用品などを探しに行ったのだろうか。いや、それなら一声かけていくはずだ。

 何かおかしい。尾崎の中に嫌な予感が広がっていった。辺りの暗さと相まって、不安が大きく膨らんでくる。

「おい広瀬、どこにいる?」

 坂本を寝かせたまま、尾崎は立ち上がった。明かりをかざしながら加工室の中をぐるりと見回す。広瀬はどこにもいない。

 スイングドアを開けて、尾崎は精肉売り場に出た。

 そこへ強烈な打撃が来た。目の前で火花が散ったような感覚があった。右側頭部に強い痛みが走る。

 逃げなければ、と思った。しかし次の瞬間、二度目の攻撃が来た。頭部への打撃は避けられたが、代わりに右の肩を激しく打たれた。

 尾崎は床に倒れ込みそうになったが、その勢いを利用して敵から離れた。精肉の陳列ケースにつかまりながら数メートル進んで、体勢を立て直す。頭に触ると、ぬらりとした血の感触があった。

 薄暗いながらも、売り場には外からの明かりが届いている。敵の姿が見えた。

 身長は尾崎と同じぐらい、百八十センチほどだろう。顎ひげを生やした三、四十代の男だ。間違いない。木場親水公園で見かけた広瀬の協力者だった。広瀬は彼を南原と呼んでいた。

「南原──いや、北野康則だな」尾崎は、右手で頭の血を拭った。「ほかにも名前があったか。そう、住んでいたアパートでは東川と名乗っていたな」

 北野は右手に特殊警棒を持っていた。振り回しやすいし強度がある。あれは厄介な武器だ。

「邪魔なんだよ」北野は低い声で言った。「あと少しで計画が成功するっていうのに、なんでしゃしゃり出てきた? おまえも広瀬も」

 その言葉を聞いて尾崎は思い出した。広瀬はどうなったのか。薄暗い売り場で目を凝らすと、北野の二メートルほど後方に彼女が倒れているのが見えた。

「広瀬! 大丈夫か」

 尾崎の呼びかけに彼女は反応した。頭を振りながら体を起こし、壁にもたれかかる恰好で横座りになった。だが尾崎と同様、殴打されたらしく、立ち上がることはできないようだ。彼女もまた腹の前で、両手をワイヤーで縛られているのがわかった。

 加工室で尾崎が坂本を助けているとき、広瀬はうしろから襲われたのだろう。

 北野の詳しい経歴は不明だが、その手際のよさには驚かされる。闇社会で仕事をしていたというから、特殊な訓練を受けてきたのかもしれない。

「おい、こっちに来いよ」北野は言った。「あんた、女ひとり置いて逃げるつもりじゃないだろうな」

 尾崎は辺りに目を走らせた。

 今、自分たちは店の一番奥、精肉売り場にいる。尾崎ひとりで逃げ出すことは可能だが、その場合、残された広瀬がどうなるかわからなかった。尾崎を取り逃がした腹いせに、北野は彼女を激しく痛めつけるのではないか。

 尾崎はあらためて自分の頭に触れてみた。殴打された側頭部からの出血は止まりつつある。しかし痛みは今も続いていた。この先どうなるかという不安が膨らんだ。なんとかしてこの状況を打開しなければ、と思った。

「北野、おまえの目的は何だ」

 尾崎は尋ねた。少しでも相手の気を逸らして隙を探したかった。時間を稼ごうという思いもある。稼いだ時間で何ができるか思いつかないが、甘んじてこのまま攻撃を受けるわけにはいかない。

「俺の目的? わからないのか。いや、わからないふりをしてるんだよな?」

 北野は尾崎を睨んでいる。少し考えたあと、尾崎は話しだした。


「手島恭介を調べた結果、郷田裕治の弟分だったことが明らかになった。郷田は五年前、錦糸町で坂本高之さん──さっき冷蔵庫に押し込まれていた男性だが、その人とトラブルになった。郷田は坂本さんに大怪我をさせたあと、交通事故死した。郷田はもういないわけだが、今回の事件の動機は、郷田への恨みだったんじゃないかと俺は推測している。どうだ?」

 この会話に相手が乗ってくれたら、しばらく注意を引きつけることができるだろう。頼むから乗ってきてくれ、と尾崎は祈った。

 ふん、と鼻を鳴らしたあと、北野は言った。

「そこまでは当たってるよ」

「郷田への恨みから、おまえは弟分だった手島を殺害した。それはわかるが、二番目の事件で白根健太郎さんを殺害したのはなぜだ。白根さんは飲食チェーン勤務で、郷田たちとの接点は見つかっていない」

「そうだろうな。関係ないからな」

 尾崎は眉をひそめた。これは不可解だった。白根は郷田とは無関係であると、北野は認めたのだ。

「だったら、なぜ白根さんを襲ったんだ」

「自分で考えてみろよ。あんた刑事なんだろう?」

 北野は冷たい目でこちらを見ている。ひとつ咳払いをしてから尾崎は続けた。

「三番目の事件では、うちの署の菊池班長がターゲットになった。班長が過去、おまえに何かしたのか? それとも……まさかとは思うが、班長が郷田と関わっていたとでもいうのか?」

「菊池の能力不足が許せなかったんだよ。あいつは、刑事としては最低の奴だ」

「捜査に不満があったということか? だから菊池班長を事件に巻き込んだと……」

「刑事として責任をとってもらったんだ。警察はすぐにでたらめな捜査をする。それじゃ困るんだよ。命がけで仕事をしろってことを、あんたたちに言いたかった。そのために菊池を殺した」

「……そして四番目には坂本さんを狙ったのか。それも納得できないな。坂本さんは郷田に刺されたんだから、郷田を恨んでいたはずだ。言ってみれば、坂本さんはおまえと同じ側の人間だろう。それなのに、なぜ殺害しようとしたんだ」

 尾崎は相手の顔をじっと見つめて尋ねる。北野は何か言おうとしたが、そのまま言葉を呑み込んだようだ。

 数秒考えてから、あらためて北野は口を開いた。

「すべてあんたたちのせいだよ。俺がこんなことをしたのは、警察が無能だからだ。こうでもしなければ、あんたたちには理解できないだろうからな」

 彼は警察を強く恨んでいるようだ。だがその言葉の端々に感じられるのは、こらえきれない悲しみのようにも思われる。過去にどのような出来事があったというのか。

「北野、おまえは二年前、野見川組の下働きを始めたんだったな。何があったんだ?」

「俺は人生をめちゃくちゃにされたんだよ!」北野は声を荒らげた。「元はといえば郷田と手島のせいだ。だが白根と警察、坂本にも責任がある。どいつもこいつもクソ野郎だ。俺は絶対に許さない!」

 興奮した口調で北野は言う。彼の手にある特殊警棒が何度か空を切った。記憶をたどることで、怒りが甦ってきたのだろう。

 ちくしょう、ちくしょう、と北野は繰り返していた。この興奮を鎮めたほうがいいのか、それとも利用したほうがいいのかと、尾崎は思案した。だがそんなことをゆっくり考えている余裕はないようだった。

「菊池を殺して、警察への復讐は済んだと思っていた」北野はこちらへ近づいてきた。「でも、そうじゃなかったようだ。俺はあんたたちふたりも殺さなくちゃならない。……なあ、あんたたちが悪いんだぞ。こんな場所までわざわざやってくるから」

「落ち着け、北野」尾崎は宥めるように話しかけた。「事情を聞かせてくれ。おまえはなぜこんなに多くの人を恨んでいるんだ。過去に何があった?」

「あんたに話しても仕方ないよ。だってあんたはすぐに死ぬんだからな」

 北野は一気に距離を詰めてきた。特殊警棒を振り上げ、振り下ろす。尾崎の顔のすぐそばで、空を切る音がした。尾崎は警棒をよけて、右へ回り込もうとした。だがそこで思わぬことが起きた。先ほど殴打されたせいだろう、体が大きくふらついたのだ。

 バランスを崩したところへ次の攻撃が来た。よけきれずに左の脇腹を強く打たれた。強烈な一撃だった。脚から力が抜け、尾崎はがくりと床に膝をつく。その隙に、北野は頭を狙ってきた。

 ──くそ、これまでか。

 もう駄目かと思ったときだった。北野の体が飛んできた。

 それはまさに、飛んできたとしか思えない現象だった。気がついたときには北野の体が目の前にあったのだ。次の瞬間、体当たりを受けるような形で尾崎は後方に吹っ飛んだ。北野と尾崎はそのまま二メートルほどうしろの壁に叩きつけられた。呼吸もできずに、尾崎たちは床に倒れ込む。

 何が起こったのかわからない。だが、咄嗟に手足を動かして起き上がった。床に倒れている北野に覆い被さり、関節技を極めて動きを封じた。

「尾崎くん!」

 広瀬の声が聞こえた。北野を押さえつけた状態で、尾崎は彼女のほうを見た。そして、ようやく状況を理解した。

 彼女は売り場にあったワゴンを押して、北野に突進したのだ。ワゴンにタイヤが付いていたこと、そのタイヤがロックされていなかったことは幸いだった。ワゴンは北野のうしろから衝突し、尾崎を巻き込んでさらに走った。その結果、北野も尾崎も壁に叩きつけられたのだ。

「大丈夫なのか、広瀬。動けないのかと思った」尾崎は彼女に声をかける。
「自分でも驚いているわ」彼女は荒い息をつきながら言った。「人間、死ぬ気になればなんでもできるのね」

 尾崎は床に落ちていたナイロン製の紐で、北野の両手、両脚を縛った。それから広瀬に近づき、手首のワイヤーをほどいてやった。縛られていた部分には赤い痕がついている。

 ひとつ息をついてから、尾崎は北野に話しかけた。

「おまえには傷害や公務執行妨害の罪が加わったな。だが、殺人が増えなかったのは不幸中の幸いだ」

「ふざけるな」北野は吐き捨てるように言った。「あんたらふたりも始末して、最後に墓前で報告してやりたかったのに……」

 その言葉を聞いて、尾崎は表情を引き締めた。過去、北野と関わりのある者が亡くなったのだろう。おそらくそれは、郷田たちと関係のある死なのだ。だから北野はその復讐を進めていたに違いない。

「あらためて訊こう。過去に何があった?」

「大事な家族を失ったんだ」北野は言った。「俺は、息子を殺されたんだよ」

 眉をひそめて尾崎は北野を見つめる。広瀬もまた、意外に思っているようだ。

 北野に息子がいたこと、その息子が殺害されたこと。いずれも、これまでの捜査で一切出てきていない情報だった。過去にいったい何があったのだろう。

 捜査本部に応援を求めるため、尾崎はポケットからスマホを取り出した。

※ 次回は、5/28(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)


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