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上坂あゆ美連載「人には人の呪いと言葉」第10回
喉につかえてしまった魚の小骨のように、あるいは撤去できていない不発弾のように、自分の中でのみ込みきれていない思い出や気持ちなどありませんか。
あなたの「人生の呪い」に、歌人・上坂あゆ美が短歌と、エッセイでこたえます。
以前、カウンセラーから「あなたはユートピア願望があるんですね」と言われて、「それだあ!」となったことがありました。ぼくは、理想的な関係とか、理想的な居場所っていうのが、どこかに存在するんじゃないかってずっと信じている気がします。
ぼくにとってのユートピアはいつもフィクションの中にありました。
10代のころから、「人間」についての教科書はずっとフィクションでした。少年漫画や少女漫画を読んで「ふむふむ、どうやらこの世には運命の恋とやらがあるらしいぞ!」となり、青春映画をみて「俺の高校生活はまるで違うけど、どこかにこんな青春も存在しているのならば俺もみつけなければ!」と、理想の青春を探し続けました。
フィクションで描かれる人間みたいになりたくて、フィクションで描かれる場所を自分でも手に入れたくて、10代から20代まで必死に生きてきました。フィクションが現実じゃないなんて信じられなかった。
だけど、30代になりはじめたころからだんだんと、そんなものはないのかもしれないと思うようになりました。というか、自分の思い描いているユートピア的なものは、実は全然ユートピアなんかじゃなかったのかもしれない。かつて自分のバイブルだったラブコメ漫画やラノベを最近読み返したら、男性キャラの都合の良さに疲れてしまいました。その漫画は、かつて10代の自分にとってまちがいなく「人間」の教科書だったのに。丸暗記するくらいの勢いで猛勉強したのに。
ユートピアの呪いから解放されたいと願う一方で、ユートピアに呪われ続けたがってる自分もいます。その間でユラユラ右往左往しながらイマココです。
三浦さん、こんにちは。
三浦さんの本気の呪いをいただいておきながら申し訳ないんですが、いったん私の呪いの話を聞いてもらえませんか。
歌人としてデビューして間もない頃、とある出版社から執筆の依頼を受けました。編集者は「上坂さんはがっつり社会人経験がある方なので、仕事を通じて感じた言葉の違和感、みたいな連載をしていただきたいのです」と。打ち合わせは大変盛り上がり、後日、第1回目の原稿を書いて送りました。会社生活で感じた違和感について、なぜそうなったのか徹底的に分析し、論理を組み立て、傾向と対策を分類し、エッセイにまとめたものでした。自分なりに面白い!と思える内容が書けました。でも編集者の反応は、簡単に言えば「こういうことじゃないんですよね」というものでした。「僕の伝え方が悪かったかもしれないのですが、これだと上坂さんの良さが出ていないというか」「歌人だからこその言葉のニュアンスとかを書いてほしくて」のようなことを、すごくすごく言葉を選びながら言っていました。「歌人」というイメージから、抽象的でふわふわしていて時に情熱的な、いわゆる“詩的”な、そういう文章を期待されていたのだと察しました。
私は、空を飛ぶ夢を見たことはありません。物心ついた頃から、空想を全くしません。ぬいぐるみを見て「布と綿の集合体だ」と思ってしまいます。神さまの存在はあまり信じていません。なぜ人は時間やお金をかけてわざわざ夜景や桜並木を見に行くのか、あまりわかっていません。夢も空想も、ぬいぐるみも神さまも夜景も満開の桜も、かつて死にたかった10代の頃の私を、救い出してはくれなかったからです。いくら夢や空想をしても、明日食べるご飯にも今月の家賃にもなりません。私を生き延びさせたのは、インターネットと本から得た知識、それから己の思考力と分析力でした。地獄みたいな現実に体当たりしながら、AIみたいに情報を集めて、失敗しては学習を繰り返して、人間社会に適応してゆきました。私にとって生きるということの全ては、「現実を正しく把握し適応する」ということです。
会社で働いていた頃はそれでも良かったのです。むしろ絶好調でした。情報を集め、現状を把握し、対策を講じ、PDCAサイクルを高速で回し続ける私は重宝されました。年収はどんどん上がり、転職にも成功しました。このまま続けていれば、もう明日のお金に困ることはなさそうでした。あまりにも順調で、同時に人生に飽きはじめている自分がいました。そしてつい魔が差して、「表現活動をやってみたい」と思ってしまったのです。
短歌を始め、最初はただただ楽しかったです。あっという間に本を出版することが決まって、その本が詩歌ジャンルにおいては異例のヒットとなりました。同時に新型ウイルスが流行して、オリンピックの不祥事問題がありました。私は勤めていた広告会社を辞めました。本が売れたからその道で生きていくために辞めたのではありません。元々の不景気に新型ウイルスの流行が加わり、明日食うものもないような人たちがたくさん可視化されたこの社会で、誰の命も救わない仕事をしている自分のことが耐え難くなったからです。
でもそれは、広告の仕事だけが悪いわけではありませんでした。私が気持ち悪かったのは、資本主義社会への迎合が上手すぎる自分の特性です。そういう社会に辟易して短歌に希望を見出したはずなのに、売上やSNSのフォロワー数といった超資本主義的な軸においてある程度成功してしまう自分。メディアに出演すれば、相手が求めていそうなコメントをうまい具合に言えてしまう自分。だんだん、本当の自分の気持ちがなんなのかわからなくなってきました。自分が芸術表現だと信じていたものは、情報を集め、市場を分析して、それに対して売れそうなものを機械的に排出しただけなのではないかとすら思いました。本当はもっと抽象的でふわふわしていて時に情熱的な、そういう作品が好きなのに、自分の作品はあまりにも具体的で、現実的で、カチカチに理論武装されていて、どこか冷めている。自分が美しいと思うものは市場とかマーケティングとか分析とかって言葉とかけ離れているのに、どうして自分はこんなにも“資本主義迎合筋”がムキムキなんだろうか。自分の作品が全部ぜんぶダメだと思った夜もありました。
つまり私は「現実至上主義者」であることに悩んでいて、いっぽう三浦さんは「理想至上主義者」であることに悩んでいるんですよね。奇遇なものですね。現実も、理想も、それ自体は悪いものではないのに、どうして私たちってこんなに生きづらいんでしょうか。
もしかして、一生気づかなければよかったのでしょうか。私は短歌なんて始めずに、ゴリゴリ資本主義社会に迎合して、会社の仕事だけやって出世して、金と権威のモンスターになって。三浦さんは自分が信じたユートピアに閉じこもって、それ以外の現実や、実在する人間を全く顧みずに、フィクションの世界に生きて。それだったら私たち、うじうじ悩まずに幸せに生きられたのでしょうか。
理論上は、幸せになれるかもしれません。自分一人だけの幸福度で言えば。だけど、自己という存在を客観的に、俯瞰で分析するモンスターであるところの私に言わせれば、その生き方はダサいと思います。傍らで傷つく人たちの存在を見て見ぬふりをするなんて、それこそ現実が見えていない人のやることです。私は己の現実主義に傷ついておきながら、私を救うのもまた現実主義なのかもしれません。
私がこの考えに至ったきっかけはいろいろありますが、そのうちの一つは、三浦さん、あなたのおかげです。
2024年の夏、『劇と短歌 飽きてから』という演劇を一緒につくりましたね。私が短歌をつくり、三浦さんが脚本を書き、演出をする。それを私も俳優として演じ、他4名の俳優の皆さんと、ロロやスタッフの皆さんと一緒につくり上げたあの経験は、私にとってまさに青春で、ユートピアでした。毎分毎秒楽しくて、全ての瞬間が輝いていて、私はきっと死ぬ前にあの舞台のことを思い出すのだろう、というほどに。こういう確かな優しさを持つ人たちを絶対に傷つけたくない、私の気づきは間違ってなかった。苦しいことはたくさんあるけど、短歌を始めて、今の自分になれて、本当に良かったと思いました。三浦さんのユートピア願望によってつくられたあの舞台は、私にとって間違いなく光でした。
また、最初にオファーしていただいたとき、三浦さんは「上坂さんの作品に救われた。自分もこういう演劇がつくりたいんです」と言ってくれました。善人しかいない、まさにユートピアのような三浦さんの脚本に対して、現実的で悲観的なことばかりを言う私の指摘を有り難がってくれました。「脚本を書いてるとき、脳内にミニ上坂さんが現れてコメントをくれる。本当はずっと、実際に生きているような人物を描きたかった。それを諦めたくないと、久しぶりに思えました」と言ってくれました。私が気持ち悪いと思っていた自分の性質が、三浦さんにとっては光だったんだと思いました。
私たちって、自分へのクソリプが上手すぎる気がします。三浦さんの呪いを客観的に見たら、誰にも一度も怒られてないことでこんなにも悩んでいて、普通に自分バカすぎって思いました。三浦さんは、ラブコメやラノベのワクワクドキドキだけ享受して、男性キャラの都合の良さや加害性をアップデートして、最高な作品をつくっちゃえばいいじゃないですか。私は、この資本主義社会を乗りこなして、その上でたくさんの人を救っちゃえばいいじゃないですか。それって私たちが現代に生まれた意味なのかもってくらい、尊いことじゃないですか。既存のユートピアに入れてもらうんじゃなくて、私たちだからできる新しいユートピアをつくっちゃえばいい。新築、駅近、トイレ風呂別で独立洗面台もある最高なユートピア、つくりましょうよ。理想と現実の間でユラユラ右往左往することは、きっとユートピアを建てるための下見だったんです。
こう言うと夢物語みたいだけど、三浦さんならそれができるって本気で思います。だって『劇と短歌 飽きてから』は、そういう理想と現実の間を探る、マジで最高な話でしたから。また、一緒に舞台つくりましょうね。それまで私も、今まで以上に右往左往しながら、死なないように生きてゆきます。
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上坂あゆ美(うえさか・あゆみ)
静岡県沼津市生まれ。歌人、文筆家。 著書に、『老人ホ-ムで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)、『『老人ホームで死ぬほどモテたい』と『水上バス浅草行き』を読む 歌集副読本』(共著、ナナロク社)など。近刊は『地球って書いて<ほし>って読むな』。
X(Twitter):@aymusk
▽「人生の呪い」は下記より募集しております。
暗いことでも、明るいことでも、聞いてほしいだけでも、お悩み相談でも、なんでもOKです。
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