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ロイヤルホストで夜まで語りたい・第17回「ロイヤルホストと勤務医時代」(朝比奈秋)

多々あるファミリーレストランの中でも、ここでしか食べられない一線を画したお料理と心地のよいサービスで、多くのファンを獲得しているロイヤルホスト。そんな特別な場での一人一人の記憶を味わえるエッセイ連載。
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ロイヤルホストと勤務医時代

朝比奈秋

 郊外の、国道沿いにあるロイヤルホストだった。地方ともなると夜の12時を越えれば、国道を走る車はめっきり減って、周りの建物からのあかりも消えだす。そのせいか、オレンジ色の看板が遠くからでもぼんやりと浮き上がって見えた。暗い道の先に、そこだけ人の気配がともったようだった。そこに向かって私は急ぐともなく、ただぼんやりとマイペースに歩いていたと思う。
 10年ほど前、そのロイヤルホストは深夜営業をしていて、私は深夜帯に通う常連客の一人だった。平日の深夜に客は少なく、店内は静かだった。私はいつも一人で来て、がらんとした窓側のファミリー席に座って、広々としたテーブルに目いっぱいメニューを広げた。窓からは空っぽの駐車場が見えた。その奥の4車線ある国道をなんとなしに眺めていると、深夜の国道をさーっと音を立てて、車がときどき通った。
 今、どれだけあの頃の記憶を手繰ってみても、当時あのロイヤルホストで何を頼んでいたのかまったく思い出せない。週に何回も通ったはずなのに一切思い出せない。入口前のゆるやかなスロープ、がらんとした店内、目の前に誰も座ってないファミリー席、映像として記憶に残っているのはそんなものしかない。
 たしかに当時勤めていた救急病院はそこそこの忙しさではあったが、寝る時間は十分にあった。それなのに、よく思い出せない。思い出そうとして浮かび上がってくるのは、深夜に仕事を終えて家賃4万円のアパートに戻って洗濯物をカゴにつめこみ、近くのコインランドリーに行って洗濯機を回し、その間にロイヤルホストへ向かった、あの暗い道のりだけだ。
 田圃たんぼのなかに建つ救急病院からアパート、アパートからコインランドリー、コインランドリーからロイヤルホストはそれぞれ5分から10分くらいの距離で、どの道のりも外灯がとびとびだった。暗かったが怖さを感じたことはなかった。夏はかえるがげろげろと鳴いていたし、冬は星空が綺麗だった。
 その地に勤務することになった流れも、今ではよくわからない。どこから私のことを知ったのか、なんの縁もない地域の、救急病院からの突然のオファーだった。はじめから受けるつもりはなくて、どうやってメールで断ろうかと考えていた。二つほど前に勤めていた救急病院が常軌を逸する忙しさだったから、この人生でもう二度と救急病院では働かないと決めていた。今は救急対応するだけの体力がないこと、内視鏡を中心に勤務していることなどを理由に断ると、当直をしなくてよいとか、内視鏡の日数を増やすとか、いくつかの条件を提示された。そうして、面談を受けているうちに就職することになった。
 内視鏡の約束は守られなかったが、その他の約束は幸いにもきちんと守られて、寝る時間は十分に確保できた。日中も、へとへと、といった勤務スケジュールでもなかった。それなりに大変だったのかもしれないが、記憶の手触りとして嫌な感触はまったくない。その病院にとても優秀な研修医たちがいたこともある。4人の研修医は全員、コミュニケーション能力が高く、体力があって、何より勤勉。クールな女性のKさん、恰幅かつぷくのいい風変わりなN君、あるいは、ひょうきんな若者のY君、落ち着いた秀才のS君など、キャラクターはさまざまだったが、みんな人柄が良かった。
 当直なしの私と違って、研修医たちは頻繁に当直していた。当直明けの次の日も、彼らに休みはなく、ぶっつづけで朝の7時からカンファレンスに出ていた。それ以外にも英語の論文を読んだり、学会で論文を発表したり、彼らは365日働いていた。
 彼らにとって私は監督役ではあったが、教育熱心な中年の医師がたくさんいたので、私が彼らを指導したという記憶はまったくなく、ただの話し相手だった。何を言っても怒らないし、どの上司とも仲良くないから誰の文句を言っても問題ない。そもそも話を聞いているような聞いていないような、そんな人間は話し相手にぴったりだったのかもしれない。
 救急車が来るまでの待ち時間だったり、診察室で採血の結果待ちをしている時など、ふとした時間に彼らはよくささいな相談をしてきたり、愚痴を漏らしたりしてきた。内容は、将来北海道に戻って地域の産科を守りたい、昨日夜中に来た患者が知り合いの女の子だった、手術中に〇×先生がごちゃごちゃと言ってきてめんどうだ、とか、恋人と会えないから別れてしまおうか、などさまざまだった。愚痴を言っている時でさえ、嫌な感じのしない人物たちだった。彼らは僕よりだいたい八個ほど年下だったが、人格者だったのだろう。
 また、研修医とは思えない臨床能力を身につけていた。私が研修医の頃、あれほどのことができただろうか。そもそも医者としての技量以前に、社会で働くこと自体に私は精いっぱいだった。もともと人に頼るのが苦手だったから、研修医時代はとにかく大変だった。良く言うなら独立的で、悪く言うと意固地で生意気だった。問題児的な研修医だった私と違って、あの病院の研修医たちは理想的な研修医だった。人見知りな私もすぐに彼らと打ち解け、自然と仕事を任せることができた。
 町一番の救急病院だったから、ひっきりなしに救急車が訪れたが、救急の初期対応はすべて彼らが受け持った。私は医局で症例レポートなどを書きながら、彼らの救急患者の治療が一段落ついたところで救急室へと降りて、検査結果などを一緒にチェックするくらいだった。彼らは常に冷静かつ丁寧な診察をしていたと思う。患者からの評判も良かった。いわゆる「ほうれんそう」も完璧で、なんのトラブルもなかった。
 唯一、彼らから焦った声で助けを求められたのは一度くらいだったと思う。私の診察室にドタドタと尋常ではない足音が近づいてきて、研修医のY君が目を剝いて「心臓が止まりましたっ」と報告した。風邪で受診した患者が目の前で倒れたらしい。駆けつけた救急室では他の研修医らが救急措置を始めており、心電図はフラットで間違いなく心臓が止まっていた(そのかたは心肺蘇生によって無事に息を吹き返し、しばらくして後遺症なく退院された)。
 そんな彼らとロイヤルホストに行くことは一度もなかった。私が深夜に一人で窓際のテーブルに座っている時も、彼らは病院のなかで働いていた。
 当時、私は医者以外の仕事に転職する気などまったくなかったが、それでも自分が一生医者をすることはない、そんな予感が体のなかに漂いはじめていた時期だった。実際、私はその1年か2年後に急に小説を書きはじめた。そこからとりかれたように書く日々が始まったので、嵐の前の静かな年だったのかもしれない。良い研修医に囲まれて、幸せな勤務医生活だった。
 
 今は都内のロイヤルホストに通っている。家から歩いて数分で着き、道から街灯がとぎれることはない。今日は1日よくがんばったなと思える日に、ご褒美的に使っている。時間も夜の8時とか9時くらいで、空いていれば窓際、混んでいる時は小さなテーブルの席に案内される。勤務医を辞めて、もう何年も経つ。今では医者をするのは月に数回で、救急患者や重症患者を担当することはない。今のロイヤルホストの窓から、ひっきりなしに車が通過する都内の道路を見つめることはない。ただ、ぼんやりと小説が頭を巡っていたり、とりとめのないどうでもいいことを考えたりしている。
 最近では、もっぱら「真鯛・海老・帆立のあつあつグリル~温野菜添え~」を頼んでいる(「黒×黒ハンバーグ ブラウンバターソース」にする時もある)。お腹がとくに減っている日などはそこに海老と帆立のシーフードドリアか、ミックスフライ定食を追加する時もある。食べきれなければモッテコでテイクアウトしている。
 もう夜の深い時間に一人で窓際に座ることはない。今は何かを思い出すこともなく、ただぼんやりと座って、おいしい料理が出てくるのを待っている。

朝比奈秋(あさひな・あき)
1981年、京都府生まれ。小説家。

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