吉川英梨『新人女警』第4回
二週間が経った。エミは日勤を終えて十七時半ごろに署に戻った。帰り道に浅川沿いで取った桑の葉を蚕の箱に入れる。
「あら」
いちばん小さかった最後の一頭が、頭を左右に振り続けている。餌を食べようとしない。これは繭を作り始める合図だ。他の蚕たちは一週間前に相次いでトイレットぺーパーの芯の中で繭を作っていた。繭は源田が買ってきた虫かごの中に移動してある。
「そろそろ羽化しちゃうのかな。急がないと」
エミは市内の小学校一覧表を出した。八王子市は面積が広く人口も五十五万人以上いるので、小学校が七十校近くもある。二週間前から、休憩時間や業務終了後に片っ端から小学校に電話をかけて、三年一組の田中はると君を探している。四十校目の松枝小学校の番号を押そうとして、声をかけられた。
「エミちゃん」
間中が笑顔で地域課に入ってきたが、すぐに言い直した。
「失礼。宮武巡査。勤務お疲れ様です」
十五度の敬礼をした間中に、エミは微笑む。九歳のとき、彼に助け出されたときのぬくもりをよく覚えている。
小学生の間は間中とプライベートでも交流があったが、中学校に入ってエミから拒絶した。怒ってもいいのに、父と八王子市梅坪町に引っ越しが決まったとき、引っ越し祝いの蕎麦を持って訪ねてきてくれた。成長したエミを見て間中はかなり戸惑った様子だった。「それだけの時間が経ってしまったのだ」と焦り、自省していた。
エミが警視庁の採用試験を受けると伝えたとき、間中はあまり喜ばず、苦笑いをしていた。父親と全く同じ反応だった。
「ヤマトリカブトとトイレットペーパーの芯の件だけど、あれから特捜本部でも改めて精査したよ。宮武巡査の筋読み通りかと思う。阿部と宮城の容疑は弱まった。双方を容疑者リストから正式に外した」
長い話になるのか、間中は隣の源田の椅子に座った。
「実は先週、阿部の現住所まで矢橋さんと飛んで、本人に接触してきた」
間中の姿を見た途端、頽れたそうだ。
「ようやくここで生活の基盤が作れたというのに、刑事が来て台無しだというわけだ」
一方で海辺の暮らしが肌に合わないらしく、山に近い町への転居も考えていると話したらしかった。
「八王子が恋しいんだと思う」
「八王子で生まれ育った人って、大学や就職で出ても、結局また戻ってくるっていいますよね」
エミも間中も、出身は都心だ。八王子とは縁もゆかりもなかった。八王子に愛着があるわけでもなく、ただあの事件に縛られ八王子から出られずにいる。
「阿部は目を細めて言うんだ――広大な自然を感じられながらも生活に不便はなく、都心へのアクセスが簡単で仕事も娯楽も豊富にある。そんな街は日本中探しても、八王子しかないって」
「容疑者リストから外れたんですから、もう戻ってきたらいいとは思いますが……簡単な話ではないですよね」
「ああ。容疑者にされたばかりに彼が失った〝八王子時間〟はもう取り戻せない」
「八王子時間。独特な言い回しですね」
「阿部本人が言った。よほどこの町が好きなんだろうね。そんな想いを踏みにじったのは、警察なんだよな……」
間中が肩を落とした。子供のように椅子を左右に回し、長い足を所在なく投げ出す。エミは話を逸らした。
「先日は特捜本部でいろいろしゃべってしまい、失礼しました。間中さんや矢橋さんが見守ってくれていたから咎められませんでしたけど、地域課長に叱られました」
地域課長が新人のころは、署長ですら雲の上の存在だった。署長のはるか上にいる刑事部長に推理を披露するなんて、農民が将軍に作戦を説くようなものか。間中も「確かにすごい度胸だと思った」と苦笑いしている。
「なにかわかったらいつでも特捜本部に来て」
間中の背後で、源田がじっとこちらを見ていた。間中も気づく。
「まあ、上司に叱られない程度に」
「はい」
「それからもう一つ。君は――」
間中は言いかけて、じっとエミを見据えた。すぐに視線を逸らす。結局あとを言わず、地域課を出ていった。源田が入れ違いで座る。
「なんだか意味ありげだったね、お二人さん」
エミは応えず、小学校リストに戻った。今日も田中はると君は見つからなかった。
エミは八王子警察署の最上階にある、新人巡査のための待機寮に住んでいる。週末、エミは寮長に外泊届を出した。一期上の先輩警察官だ。
「毎週実家に帰ってるけど、梅坪町でしょう? たまには八王子を出たら」
それ以上咎められる筋合いもなく、エミは私服に着替えて八王子警察署を出た。梅坪町までなら自転車で三十分、クルマなら十分くらいだが、バスを使うと八王子駅まで出る必要がある。そこで梅坪町へ行くバスに乗り換えるのだ。八王子はバスの路線が充実している。街が巨大で人口が多いわりに、北西部に鉄道空白地域があるためだ。自宅の最寄りの梅坪町のバス停には様々な系統のバスが十分おきにやってくる。
JR八王子駅で下車しようと思ったが、目と鼻の先が勤務先の八王子駅北口交番だ。休日まで源田に会いたくないので、エミはその一つ先のバス停で終点でもある京王八王子駅前で下車した。
京王線の終点である京王八王子駅は、JRの八王子駅から東へ徒歩五分の場所にある。ロータリーに面した雑居ビルの一階にあるミセスドーナッツでお土産を買い、梅坪町行きのバスに乗った。
東放射線アイロードを今度はJR八王子方面に向かって走る。一分もしないうちに、職場の前のバスロータリーに入った。バスは満席になった。ロータリーをぐるりと回り、JR八王子駅から北へまっすぐ突き抜ける桑並木通りに出た。甲州街道との交差点を抜けるとやがて、浅川にかかる浅川大橋を通る。エミは橋の西側に見える高尾山と、秩父の峰へと連なる奥多摩山塊の景色が大好きだ。冬の晴れた日などは山の谷間に雪が見え、峰がふくらんで見える。山の筋肉を見ているようで力強い気持ちになる。八王子市内を西から東へ流れ、やがて多摩川と合流する浅川の清流も見られる。
やがてバスは新滝山街道に入る。道の駅八王子滝山を過ぎた次が、梅坪町のバス停だ。
エミが父と住む梅坪団地はバス停の目の前にある。バスはエミひとりを下ろしただけで、新滝山街道を北上していった。あの先がおおるり台地域だ。北側に広がる滝山丘陵のふもとにアザレアおおるり台がある。木々の隙間にオレンジ色の屋根が見えた。
エミは梅坪団地に入った。エレベーターを九階で降りる。お向かいは人嫌いの初老男性がひとりで住んでいる。騒音も人付き合いもない。
「ただいまー。ドーナッツ買ってきたよ」
おー、と父の返事があった。もう十一時だが寝ていたのか、覇気のない声だ。3DK六十平米の部屋で、父はいつも居室の奥にある和室で過ごす。刑事を辞め八王子に引っ越した当初から家にひきこもり、和室を仕事部屋として使っている。書籍や書類が山積みの部屋の片隅に布団を敷いて寝起きしていた。
「お昼食べてないでしょ。なにか作る?」
仕事部屋の扉は閉ざされている。扉越しに訊いた。
「まだいいよ。少し休めよ」
父がのろのろと起き出してきた。薄くなった白髪交じりの頭はぼさぼさなのに、アイロンがかかったワイシャツを身に着けている。気難しい音楽家みたいな雰囲気だ。いまの父しか知らない人は、刑事だったと聞いたら驚くだろう。父が湯を沸かしながら、箱から直接ドーナッツを食べる。
「お茶いれるまで待ったら」
「癖だよ、ながら食い」
現役のころは、ゆっくり椅子に座って何かを食べる暇がないほど忙しく捜査をしていた。湯が沸く。小さなダイニングテーブルに二人で向かい合って座り、ドーナッツを食べた。
「ていうかこんな時間に食べちゃったら、お昼ご飯が入らないね」
「な」
「三時のおやつにしようと思っていたのに、お父さんが食べちゃうから」
「うん」
「蒸し暑くなってきたし、そうめんでもゆでる?」
「ああ」
エミは早々に立ち上がり、父の仕事部屋に入った。壁じゅうにべたべたとアザレアおおるり台事件の資料が張り付けられていた。遺体の位置を記した現場の見取り図、航空写真、凶器のルガー、銃創、首に残る絞殺痕……普通の人はこの部屋に一分といられないだろう。
エミはカーテンを開けて、ベランダへ続く掃き出し窓を開けた。深呼吸をするも、すぐに息が詰まる。東側を向いたこのベランダから、滝山街道をはさんでアザレアおおるり台がよく見える。エミはベランダに二十個近くある鉢植えに水をやった。一週間ぶりに土に吸い込まれる水の音がみずみずしく、葉に生気を感じた。たくさんの植木鉢をここに持ち込んだのはエミだ。このベランダを植物園のようにして、父からアザレアおおるり台を隠してしまいたかった。だが父は水やりをしないので、エミが警察学校に入校している間に、半分近くが枯れてしまった。
「あんまりカーテンを開けないでくれよ」
父がやってきて、閉めてしまった。
「写真が色あせる。最近は情報管理が厳しいから、新たに画像をコピーしてもらうことはもうできないし」
「……ごめん。でもさ、水をあげてよ」
エミはカーテン越しに言ったが、父は返事をせず、仕事部屋の椅子にどっかりと座った。その脇に、容疑者の名前や詳細を書いた黒板がある。四人目と五人目が消されていた。先週まで、阿部と宮城の名前があったはずだ。
「間中さんが来た?」
彼から捜査の進展を聞いたと思ったのだ。
「いや。五月二十三日の特捜本部に顔出してたんだよ」
「え。いたの」
「間中が入館許可証を出してくれてな。まだ新人女警だろ。捜査本部で意見を言うなんて一万年早い」
父は舌打ちしたが、目は笑っていた。
「これで八王子に縛り付けられた人間が三人。俺、間中、そしてお前」
「楓だってそうじゃない? 将来はバレリーナになるのが夢だったのに、警官になったし。南大沢署だけど八王子市内だよ」
「あの子は違うよ。事件現場を見ていない。のめり込めるわけがない」
「そもそも私はあの事件に縛り付けられるために八王子署を選んだわけじゃないよ」
父は無言で資料を捲っている。
「お父さんや間中さんが縛り付けられている『縄』を断ち切るためにきた」
エミは気迫を込めた。
「絶対に解決する」
預かっていた蚕の七頭全てが繭を作り、うち二頭が羽化してしまった。白くむっちりしたカイコガは体毛がもっさりと生えて存在感があるが、大人しく源田の手の中にいる。
「逃げないんですね」
「羽化してもカイコガは飛べないんだよ。養蚕のために品種改良されているからね。オスは交尾して終わり。メスは卵を産んで終わり。そんなことも知らないで桑の葉をせっせと集めてたの?」
エミは口を尖らせた。
「とにかく、田中はると君を探します」
今日も八王子の小学校リストを捲る。五十校目の七国小学校に電話をかけた。代表番号の電話に出たのは副校長だった。
「三年一組……確かに、田中悠翔という生徒がいます」
やっと見つかった。エミは思わず源田の肩をバシバシ叩いた。源田は痛がっている。
「五月二十三日に、JR八王子駅構内のカフェで蚕の入った箱を忘れたようなのです。生き物ですので八王子署で預かってお世話をしていました。田中君にお伝えいただき、引き取りに来ていただきたいのですが」
副校長は担任教師に電話を代わった。女性教師だった。
「田中君には伝えておきますが、蚕の様子はどんなですか」
「全て繭になり、二匹は羽化しました」
「それでは糸取りの授業に使えないので、そちらで破棄してください」
エミは言葉を失った。
「田中君はもう別の蚕を育てています。本人も置き忘れてきた蚕のことは覚えていないと思いますよ」
エミは電話を切り、虫かごの中でただ動き回るだけのカイコガを見つめた。飛べない上に、捨てていいとまで言われてしまったカイコガに、感情移入してしまう。
「飛べない蛾。まるで自分のようだと思ってたりして」
源田がエミとカイコガを見比べた。
「本当はアザレアおおるり台事件を自由に捜査したい。でも指導係がうるさくて自由に飛び回れない」
エミは噴き出した。
「そんなセンチメンタルなセリフ、考えるだけでもダサいのに、口に出すなんて」
「失礼な! 僕のセンスがダサいみたいじゃないか」
そう言っているつもりなのだが、源田には伝わっていない。
「そもそも昨日、市営地下駐車場で見つかったホームレスの変死体、市の福祉課と情報共有はできたの」
「すみません。まだです」
事件性はなく、自殺でもなさそうだった。土気色の肌をしていたので、病死だろう。
「君は変死体に優劣をつけているんだ。これが殺人による遺体だったら目の色を変えて仕事をするんだろ」
もし殺人だったら犯人を早く捕まえないと、また被害者が出る可能性がある。仕事に緊張感が出るのは当然のことだ。源田はエミのそんな考えを否定する。
「そもそも刑事課が扱うような事件は簡単だ。誰かの悪意が丸見えだからね」
「難しいから、未解決になっている事件が八王子署管内にあるんじゃないですか」
「本当に怖いのは悪意の見えない事案だ」
源田がいつもの、わかるようでわからない説法を始めた。
「いいかい。悪意の見えない事案を取り扱うのは、一般市民と警察をつなぐ各交番、僕たちの持ち場なんだよ。悪意の見えない事案から市民を守る防波堤の役割を担っている。尤も、いまの君じゃわからないだろうがね」
面倒くさいのでエミは適当に相槌を打っておいた。
それから数日の間に七頭いた蚕は一頭残らず羽化し、そして次々と死んでいった。最後の一頭がエミのデスクでパタパタと動き回っているとき、母親に連れられた小学生の少年が、八王子警察署を訪ねてきた。田中悠翔だった。母子は蚕の箱を電車の中に置いていったと勘違いし、鉄道会社の遺失物保管所に問い合わせていたようだ。担任教師から八王子警察署で預かっていると聞き、駆けつけてくれた。悠翔は目を細めて羽化したカイコガを見つめ、虫かごを抱きしめる。ミラクル、と名前をつけていた。
「どうして奇跡なの?」
「だってほかの蚕たちはみんな羽化できずに冷凍庫の中で凍死したんだよ。僕が忘れていったおかげでこの子は羽化できた」
「なによ、忘れていったおかげって」
母親が引き取りのための書類を書きながら、ツッコんでいる。お礼を言いながら署を立ち去る母子を、エミは玄関先まで見送る。飛べない蛾が、巣立っていった。