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鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第11回

十一

 真紀たちとの集合場所は、本郷通りの東大赤門前だった。

 観月は六分で辿り着いた。

「ごめん。本当にごめん」

 赤門の前には、腕組みで仁王立ちの真紀の他に、〈打ち合わせ枠〉一杯の八人がいた。

 今回は四年生が四人で三年生が三人、二年生が観月と真紀の二人で、一年生は杉下穂乃果の一人だけだった。

 観月を除き、これが今回の、くじ運のいいメンバーだった。

 学年と人数が偶然にもシンクロする割合になったが、そもそも一年生の会員は穂乃果一人で、入会したばかりだ。駒場キャンパスにあるブラッスリー〈ルヴェ ソン ヴェール駒場〉のテラス席に居た純也を、たまたま見掛けたらしい。

 このブラッスリーは約七か月前の三月、〈旧制一高同窓会館〉を全面改修して東京大学のゲストハウスとしてオープンした、駒場ファカルティハウスの一階にある。坂下門から構内に続く小道を歩けば、テラス席はすぐ近くに見える。

 穂乃果は純也を一目見ただけで俄然、興味を持ち、すぐに動いて〈Jファン俱楽部〉に行き着いたようだ。

 入会してすぐのくじ引きに当たったのだから、運は強烈に良いのかもしれない。

 穂乃果は文Ⅲ文学部志望で、将来は大手新聞社の記者になりたいらしい。

 政治経済、グローバルに社会、希望はその辺らしいが、実際にフットワークは軽く、十九歳にして洞察力はすでに、その辺の〈いい大人〉よりはるかに高いように観月には思えた。

――ありゃあ、きっと敏腕記者になることだろうよ。

 と、男前な発言をしたのは、くじ引きを終えた後の真紀の感想だ。観月も同感だった。

 運の良さは、優秀な記者になるために必要不可欠な要素かもしれない。

 あるいは、最低限の条件か。

 会長が遅れておいてなんだが、全員が揃ったところで純也との待ち合わせ場所へ向かう。

 赤門前から本郷通りを、都営大江戸線の本郷三丁目駅方面に向かい、本郷キャンパスの敷地に沿って左に折れる。すると道は一方通行になるせいか、車の往来は極端に減るが、本郷三丁目駅の四番出口が近いからか、人の流れはさほど減らない。むしろ多くなる感じだ。

 そこから懐徳門を過ぎ、総合研究博物館を見る辺りに、目的のオープンテラスのカフェはあった。

 純也は午後の陽を浴びる席で足を組み、ゆったりとコーヒーを飲んでいた。

 実に様になる。絵画のようだ。

 観月と純也の出会いは、約六か月前、駒場ファカルティハウスがオープンして一か月ほど過ぎた日のことだった。

 ブルーラグーン・パーティの腐った根っこを関口流古柔術でぶっこ抜き、澱みを一掃してようやく落ち着きを見せ始めた春だ。観月は二年生になっていた。

 キャンパスプラザの部室から、観月は正門に歩いていた。

 やがて始まる新歓のサークル勧誘に向け、立て看板を確認するためだった。

 南館を過ぎた辺りで、出会いの場面はやってきた。

 サークルこそ違え、同じキャンパスプラザのA棟に部室がある真紀も一緒で、大欅の下だった。

――君が、小田垣観月君かい?

 声と共に大欅の梢を鳴らし、目の前に降り立ったのが白馬の王子ならぬ、小日向純也だった。

――白子での一部始終、その後始末の全部、見させてもらったよ。やるねえ。

 純也も自分が関わるサークル仲間から頼まれ、ブルーラグーン・パーティの悪事を阻止しようと思っていたらしい。

 それを先に観月が手を出し、あっさりと片付けた。

――それにしても、君。不思議な目。いや、心かな。

 この言葉で、もう観月はまったく駄目だった。純也に嵌まった。

 若宮八幡神社の境内でパチンと指を鳴らし、

――不思議な目をしている。いや、心かな。

 そう言って、観月の内側を初めて覗き込んだ、噎せるような、甘い杏仁に似た匂いのする男、磯部桃李。

 杏仁の匂いは、初恋にも似て――。

 だがそんな磯部と、言葉は似ていても純也の印象は桁違いだった。

 中東の熱砂を含んだ風の匂いがした。

 観月の胸に、その風に当てられて小さな熱が生まれた気がした。

 感情の揺れ。

 かすかにまた、心が蘇る兆し。

 それで思わず、

――先輩、いい男ですね。私とお付き合いしてくれませんか。

 公衆の面前で、いきなりそんな告白をしてしまった。

 周囲の女子の悲鳴がまるで渦のようだったことを覚えている。

 この一連の出来事は、東大駒場キャンパスである意味、一つの伝説となっているようだ。観月が〈Jファン俱楽部〉の会長となる切っ掛けでもあった。

 観月の目にも小日向純也という先輩は、不思議な男だった。

 日本を代表する複合企業、KOBIX創業者一族にして、現民政党幹事長を務める小日向和臣と、トルコ・コウチ財閥に繋がる一部上場企業、日盛貿易会長夫妻の一人娘にして銀幕の大スターだった芦名香織の間に生まれた次男。

 それだけでも凄いのに、幼い頃に父・和臣の赴任先であるカタールで母を失う悲劇に見舞われ、行方不明になりながらも、独力で生き延び帰国を果たした奇跡の子。

 華麗なる一族のハーフ、トルコと日本のクウォータ。

 彫りが深く浅黒く。

 容姿にも来歴にも、表現しようとすればエピソードも形容詞も枚挙にいとまがない。

 法学部四年生になる現在はもう、すでに今年度の国家公務員Ⅰ種一次試験トップ合格者にして、警察庁に入庁することが内定していると聞く。純也らしく、純也に相応しい職場だと、会合という名の吞み会で何度も話題に上った。誰もが自分のことのように、誇らしく語ったものだ。

 なんと言っても、国家公務員Ⅰ種一次試験トップ合格者は、通常で行けばキャリアとして、いずれ警視総監、警察庁長官はまず間違いのない不動の一番手だ。

 そんなスーパースターが、いつまで観月たちの〈活動〉に付き合ってくれるものか。

 寂しいことだが、カウントダウンはすでに始まっている。

〈打ち合わせ〉という名の、くじ引きで当たった者たちだけの〈J鑑賞会〉もカウントダウンの内に入っている。しかも、ほぼドリンク一杯飲む時間だけ限定だ。

 それぞれの前に思い思いのドリンクが届き、ふと気が付くと、純也の目が観月を見ていた。

「何か?」

 聞いてみた。

 ただ見詰められると尻の据わりが悪いような気もするし、何より、他の会員九人の目が怖い。

「小田垣。なにやらさ、面白そうなことをしているようだね」

 と、純也は微笑を浮かべてコーヒーに口を付けた。親しみを込め、みんなで〈チェシャ猫めいた〉と称している笑みだ。

 悪戯気な、意地悪気な、無邪気な。

 言葉にすればそうなるが、実際に思考の奈辺も底も知れない。それも人を引き付ける魅力の一つだったろう。

「おっと。それ以上は」

 真紀たちに聞かれ、そこから聡子の耳に入ることは今のところ避けなければ、とは単純に思う。

 が、このときは純也に知られていて、真紀たちに知られるかもしれないということが少し気恥ずかしかった。

 表情には出ないが、そんな感情は失われたわけではない。

 何よ、何々、と純也を取り囲むように座った会員女子一同は興味を示したが、

「あの、それでサロンですけど、先輩。どうでしょう。やっぱりこれで、最後になっちゃいますか?」

 話の矛先をそちらに振れば、全員のかなり真剣な目が一斉に純也を向いた。

〈小日向純也の卒業〉

 なんと言ってもこれが、〈Jファン俱楽部〉会員一同にとって、今年度最大の関心事だった。

「そうだねえ。卒業記念にもう一回って言われれば、まあ、やぶさかではないかな。色々、やって貰ったしね」

 うわぁ、とまず四年生の間から歓声が上がり、三年生に伝播した。

 四年生には卒業で地元に戻ったり、遠方に仕事が決まった者たちもいた。

 そういった意味でも、特に四年生には今回のサロンが、純也との〈お別れの会〉の積もりだったのだろう。

――じゃあじゃあこの際、大々的に赤坂辺りのホテルのホールを借りてさ。

――えっ、そんな費用、誰が持つの?

――出させるの。社会人の会員さんから。**さんとか××さんとかって、もう彼氏がいるのよ。

――マジマジ?

――ドクターと商社マンですって。

――出させましょう。その辺からも。J様を諦めたのかしら。夢がないもの。

――そうよねえ。それが良いわよねえ。悔しいものねぇ。

「なんともまあ」

 純也はまた微笑を浮かべた。ただしこちらはチェシャ猫めいてはいない。ただの苦笑いだろう。

 やがて、サロンの日程とラストサロンの開催を確認し、打ち合わせを終える。

「さて」

 純也が店の店員にチェックを頼んだ。打ち合わせ会は純也が持つ、というのは初代会長、大島楓の頃からの通例らしい。

「ああ。そうそう。小田垣。覚えておいた方がいい」

 帰り支度の純也が、観月に目を向けた。

「夜はね。闇への入り口だ。特に新宿、銀座、六本木などは、闇への扉が簡単に開く。夜に舞うなら、気を付けるんだね」

「闇、ですか」

「そう。新宿なら今はロシア、オデッサかな。六本木は同じくロシアのブラザーズとアジア系が幅を利かせていて、銀座は半グレとチャイニーズ辺りか。闇は多く、深いよ」

「はあ」

 周りを気にしながら曖昧に頷く。だが純也は意に介さないようで、話を続けた。

 チェックを待つ間の話にしては、少しどころか大いに重い。

「まあ、それでも日本は治安がいいからね。なかなか昼日中から闇には落ちないけど。そのかわり逆に、闇から直接、日中に戻ることも少ないよ」

「うわ。格好いい」

 そう言ったのは真紀だ。

 が、このセリフを格好いいとするかどうかは、純也のプロフィールを思い出せば大いに考えものだ。

 戦火の中東を一人で生き延びるとは、どれほど過酷だったか。平和大国日本に生まれ住み暮らしても、想像することは出来る。

 想像は出来るが、想像は現実に追いつかない。

 イマジネーションを超える現実の、なんという。

 万里波濤の先に広がる大陸、異国、異世界。

 和歌山から何人もの鉄鋼マンが渡っていった、外の世界。

 磯部桃李、ハーメルンの笛吹きもどき。

 観月にとっては、まだ遠い世界だ。

 遠さに夢を見て東大を志望し、観月は外務省を目指した。

(みんな、どうしてるかな)

 観月がそんなことを思考していると、

「じゃあ、外国はどうですか」

 記者会見さながらに、穂乃果が質問した。

 間の良さもまた、記者には必要な感覚だろう。

「そうだね」

 純也は一度、顎に手を置いた。それだけで様になった。

「治安の悪い国なら常に白夜、戦地なら常に無明。そこに昼と夜の区別はない。生と死の別もない。走り続けなければ身体は四散し、想いを持ち続けなければ心は霧散する」

 声が響いた。生と死の間から響くような。

 これも魅力の一つだろう。

「ははっ。逆に、そんな国ばかりでもないけどね。ハワイのコナはコーヒーが美味しいし、朝焼けのパリのブーランジェリーで買い求めるリュスティックは格別だ」

 煙に巻かれる感じだが、乙女は夢と現実の間に夢を見る。

〈Jファン俱楽部〉に在籍する女子は、たいがい乙女だ。

※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。


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