北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第25回
第11峰『交代寄合伊那衆異聞』其の壱
伊那の山猿が巻き起こすサムライ・アクション巨編
腰に名刀、懐にピストル。和洋折衷ヒーロー見参!
我らが佐伯御大が幕末に狙いを定めた
佐伯泰英山脈をひとつのカタマリとして見ると、私はいま8合目あたりにいる計算になるだろうか。先が見えてきたとも言えそうだが、疲労のため読書ペースが落ちてきているのが心配だ。ということで1週間ほど休息をとり、気分も新たに〝交代寄合岳”の第1巻を開くなりニヤケてしまった。
「とうとう幕末ものがきた!」
10巻以上に及ぶ佐伯作品の長編シリーズは、1999年の『密命』を皮切りに8作品(続編にあたるシリーズを除く)。その最後が『交代寄合伊那衆異聞』。2005年~2015年にかけて全23巻が発刊されている。第1巻が出た05年当時は、先行する7シリーズと全5巻の『秘剣』が進行中。多忙を極める中、新たな作品を生み出したのだ。
この年にどれほど書いたのか。なんと、年間16冊。書き下ろし専業とはいえ驚異的な執筆量である。
少なめに計算して、1冊につき300ページで年間4800ページ。1ページあたり400字詰め原稿用紙1・5枚換算で7200枚。1日も休まず書いたとして日産19・7枚になる。校正ゲラに目を通したり、資料を読み込んだりもしなければならないのに、よく引き受けられるものだ。依頼には喜んで応える、それが当時の佐伯スタイルなのである。執筆を支える基礎体力が並外れているとしか思えない。
では、どんな話にするか。同時進行する他のシリーズと設定がかぶらず、並行して読んでもらえそうなものがいい。そこで白羽の矢が立ったのが、本格的に扱っていなかった〝幕末”ものだと思われる。幕末なら『古着屋総兵衛』でも取り上げられているが、それは『新・古着屋総兵衛』でのこと。本作のほうが数年早い。
では、どんな話なのか。タイトルの交代寄合とは著者の造語ではなく、江戸幕府における禄高1万石以下の旗本でありながら、領地への居住や参勤交代が義務付けられた家で、全国に30余家あった。小規模な大名のようなもので、本作に出てくる座光寺家は禄高1413石の貧乏旗本である。
第1巻の巻頭、交代寄合伊那衆座光寺家の本宮藤之助は、南信州の伊那から江戸へひたすら走っている。安政2年(1855年)の大地震で大混乱に陥った江戸の屋敷へ行き、殿の無事を確かめるためだ。
ようやくたどりついた江戸は火事の被害が甚大で、当主の左京為清は行方不明になっていた。藤之助は為清を探すべく、焼失して見る影もない吉原を訪ね歩くが、為清は女郎の瀬紫ことおらんと妓楼の八百数十両を盗んで逃げたと判明する。
しょっぱなから大ピンチ。貧乏暮らしに嫌気がさした当主が泥棒をして姿をくらませるエピソードも読者の意表を突いている。果たして藤之助はお家の一大事を解決に導くことができるのか……。
このように、本作は実際にあった大地震を背景に、架空の存在である信州の若武者が大暴れする巧みな導入で始まるアクション時代巨編。次から次へと歴史を揺るがす出来事が起きた激動の時代とあって、読者である我々も〝あったかもしれない物語”の世界に入っていきやすい。
本作を読む上で参考になると思うので、おもな出来事を以下にまとめてみた。
安政元年(1854)ペリー再来航。日米和親条約調印
安政2年(1855)安政の江戸地震
安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約調印。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約が結ばれる尊王攘夷派への弾圧(安政の大獄)開始
安政7年(1860)桜田門外の変
文久2年(1862)生麦事件(薩摩藩士が武蔵国生麦村でイギリス人を殺傷)。京都で尊王攘夷派による「天誅」事件が相次ぐ
文久3年(1863)長州藩、下関でアメリカ、フランス、オランダ船を砲撃。薩英戦争
元治元年(1864)水戸天狗党挙兵。新選組による池田屋事件。長州藩京都出兵し敗戦(禁門の変)。四カ国艦隊、下関を砲撃
慶応2年(1866)第二次長州戦争。将軍家茂病没。幕府・長州間で休戦協定
慶応3年(1867)将軍慶喜、大政奉還。朝廷、王政復古を宣言
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争始まる。江戸開城。明治と改元
安政元年、これからの日本をどうしていくかの展望もないまま、「通商はしないが港は開く」という中途半端な姿勢で鎖国を解いた江戸幕府は崩壊寸前に陥りつつあったが、信州で剣術修業に明け暮れていた藤之助は、与えられた任務である為清とおらんの捜索を行ううちに、予想もしなかった事態に巻き込まれていく。
なんと、主である為清を斬ることになるばかりか、自らが左京為清として将軍に会うことになり、座光寺家の当主として認められてしまうのである(その後、座光寺藤之助為清と改名)。
この奇抜なアイデアには思わず笑ってしまったし、それまで多少なりとも残っていたシリアスな雰囲気が劇画調に変わった。おなじみのスピード感あふれる序盤だが、主人公をめぐる状況がめまぐるしく描かれている。
江戸についてから一カ月足らずで別人になった藤之助だったが、『交代寄合伊那衆異聞』は始まったばかり。10峰を歩き通した私には、トリッキーな筋立てで読者を作品に引っ張り込んだ佐伯泰英が、そこに安住することなく物語を膨らませていくのが予測できる。
これは、わけもわからないまま当主になってしまった若者が、市井の人たちの助けを得ながら幸せをつかんでいく、こぢんまりした物語ではないだろう。〝活字によるマンガ”のつもりで、肩の力を抜いて読み進めていこう。
何者でもなかった伊那谷の山猿が時代の巡り合わせで大活躍
すんでのところで藤之助の追跡から逃れたおらんは、江戸から戸田へと居場所を変え、唐人と手を組んでさらなる悪だくみを重ねていく。戸田のギャンブル船まで追い詰めた藤之助の前から、またも消えたおらん。となると、次に会うのはもっと遠いところになるのか、と思っていたら第3巻『風雲』で新展開がやってきた。
老中堀田正睦に命じられ、海軍伝習所の教授方(剣術の講師)として派遣されることになった藤之助は、江戸の屋敷を離れて幕府御用船に乗船するのだ。行先は長崎。佐伯時代小説では九州の豊後(大分県)と並んで頻度の高い舞台である。
鎖国をしていた江戸時代における海外貿易の窓口だったこの町で、〝伊那の山猿”が何をしでかすのか。老中の命が下ったとなれば、単におらんを掴まえて終わりになるはずがない。読者の意識を江戸に引きつけておいて、ここからが物語の佳境なのである。
出だしは華々しくても第2巻か3巻でいったん主人公の生活が落ち着くパターンが多い、通常の佐伯作品とは趣を異にする急展開。といって、藤之助の出世物語になる気配もない。この男はたまたま当主にさせられただけで、一旗揚げるために伊那からやってきたわけではないのだ。
が、素朴で純情なだけの若者かというとそうでもない。お家の事情とはいえ、自ら斬った当主の代わりに13代将軍家定のお目通しを得て〝下剋上”を成し遂げ、戸惑いもみせずに当主としてふるまうような、ちゃっかりした一面も備えている。
長崎へ到着したらしたでエキゾチックな雰囲気にすぐに馴染むし、闊歩する外国人たちに臆することもない。西洋風の料理やカステラもどんとこい、キリスト教信者に会っても排除の気持ちを抱くどころか彼らの味方になろうとする。言うまでもなく、女性にもモテモテだ。
なぜ悩んだりくよくよしたりしないのか。南信州の里で育ち、剣術修業に明け暮れていた藤之助は、諸外国から開国を求められ右往左往する幕府のことなど何も知らない。その分、好奇心全開で変化を受け入れることができる点が、さまざまなしがらみを背負いがちな、これまでの主人公との違い。実際、幕末という激動期には、バランスの取れた好青年より、若さがもたらす好奇心と柔軟な感性を持ち、無茶を楽しむことのできる楽天的な男が似合う。
私は第10巻を読了した時点でこの原稿を書いているのだが、そこまでの展開を思い返すと、この話の主人公は『居眠り磐音 江戸双紙』の坂崎磐音のような、武家社会にどっぷり染まった男では務まらないと言い切れる。
もっとも、藤之助は佐伯時代小説の主人公に共通する要素、強さと誠実さも備えている。
藤之助が会得したのは攻め重視の戦国剣法である信濃一傳流。それに磨きをかけた〝天竜暴れ水”がオリジナルの必殺剣だ。強敵と対決する際に使われる〝天竜暴れ水”は、重力をなかば無視した縦横無尽の動きで相手を翻弄し、鮮やかに斬り倒す技……。
そんな説明では抽象的すぎると責めないでほしい。この技を使う場面は何度も登場し、ていねいな描写がなされるのだが、すごすぎて理解が追いつかないのである。わかっているのは作者だけではないだろうか。
でも、逆にそこがいい。真剣を手にしたことはもちろん、剣術の経験がなくても想像できるような描写で、読者の胸がわくわくしないはずがない。なんとなくわかる、それで十分だ。
無敵の藤之助、銃の扱いを3発でマスター
エキゾチックな長崎で藤之助がどんな働きをし、急成長していくのかは読者諸氏に確認してもらうとして、私がここで言いたいのは佐伯作品中でも一番ではないかと思えるテンションの高い文章についてである。
これは日本文化と南蛮文化が溶けあう、他のどことも似ていない町・長崎が舞台だからこそ可能なことだと思う。全体に無国籍感が漂うといえばいいだろうか。往年の日活アクション映画を観ているような、整合性などは気にせず、とにかく面白くしてやろうという意気込みが感じられてならないのだ。
山育ちの純朴な青年が江戸で殿になり、遠く長崎へ行けと命じられる。であれば、そこでの日々は冒険心にあふれた非日常的なものにしたい。剣術の腕も、モテぶりも、好奇心の強さや異文化の吸収力も、「そんなバカな」の域まで到達させよう。佐伯御大の胸の内には、行けるところまで行ってやれという〝遊び心”があったのではないか。その結果、基本的なところは史実とリンクしているものの、あとは藤之助をカッコ良く大暴れさせる筋書きが徹底されていく。
その能力たるやすさまじい。銃を持たせればわずか3発の試し撃ちで扱いをマスター。実戦では百発百中のガンマンになり、小刀を投げれば必ず敵の眉間にぐさりと刺さる。サーベル使いの西欧人と剣を交えても瞬時に対応でき、唐人を迎え撃てば、たぶん初めて目にしたであろう武器にもたじろぐことがない。恐怖心に縁がなく、エネルギーにあふれ、ピンチには心が弾む。
『秘剣』シリーズの対決場面もなかなかのものだったが、そこで使われる剣術には理屈が通用する部分があり、不思議な行動には作者の葛藤がうかがえた。しかし、本作においては〝敵の刃は届かず弾は外れ、こちらの刃は届き弾は急所に当たる。なぜなら、そのほうが痛快だから。以上!”という感じなのである。
藤之助は態度も大きい。いつでも堂々とふるまい、外国人にも「これまで会った日本人と違う」と一目置かれる。人気者でもあって、彼を慕う者が後を絶たない。人は口々に言う。こんな傑物、長崎にもいなかった、と。
完ぺきである。完ぺきすぎて興覚めするほど、藤之助には弱みがない。常人であれば、欠点やコンプレックスの克服が成長とセットになるものだが、佐伯泰英が描きたいのはそういう成長ではないのだ。藤之助は信州の山間部に眠っていた一点の曇りもないダイヤモンドの原石で、磨けば磨くほど輝きを増す存在なのである。
では、藤之助はどうして完ぺきでなければならないのか。あの時代にそのような日本人はいなかったからだと私は推測する。
200年以上に及ぶ鎖国によって世界の情勢に後れを取り、軍事力でも医学でも海外の列強と大差がついていた日本が互角に渡り合うためには、圧倒的な〝個の力”で突破していくしかなかった。残念ながらそんな人間は現れず、幕府は倒れてしまうのだが……。
では、列強各国からなめられていたであろう日本にスーパーマンがいたとして、〝個の力”でどこまでやれただろうか。そんな遊び心で構想されたのが本作だったと考えると、常人のような弱みがあったり物事に悩むナイーブな性格は邪魔にしかならない。読者が本を開いているときにだけ現れる夢のような人物、それが藤之助なのだ。
完ぺきなヒーローのそばには魅力的なヒロインが不可欠。本作では長崎町年寄・高島家の孫娘である玲奈が恋人役として登場する。外国人の血を引く美女でスタイルも抜群。語学に優れ、資金力があって長崎中に顔がきく。銃の腕前は藤之助に教えられるレベルで勇気と度胸も満点。開放的な性格のため恋愛にも積極的で、しょっちゅう藤之助の唇を奪う。戦闘にも参加し、ライフルまで撃ちまくる(もちろん射撃の反動による衝撃は考慮されない)。
藤之助に足りないのは、見知らぬ長崎で自在に動き回るための政治力やコネクション。その役にうってつけの玲奈もまた、〝個の力”にあふれ、長崎では唯一無二の存在だ。これまた笑っちゃうくらいマンガ的な設定で、藤之助と理想のコンビを組む夢の世界の住人として申し分ない。
最初のうちこそ話がすいすい進む調子のよさに驚いたものの、夢の世界のカップルが活躍する佐伯風幕末冒険譚だと理解したら、ページをめくる速度が急に上がった。長崎にとどまらず、ふたりは上海にまで足を延ばすが、どんどんやってくれという気分である。
ふたりが動けば事件が起き、問答無用の戦いが挑まれる。端役の登場人物は敗れ去って過去の人になり、またつぎの大変なことが起きる。
ふたりは最強カップルだから勝つ。でも、それだけではない。そのつど、日本人を見下す人間たちの度肝を抜くのだ。
その間にも歴史は動いている。長崎が貿易の窓口だった時代は終わりをつげ、列強はますます強気に幕府に通商条約を結べと迫ることになるから、藤之助もそろそろ江戸へ戻らなければならない。つぎなる舞台はどこへ……。
じつは、藤之助には一つだけ、譲れないミッションがある。ひょんなことで当主となった交代寄合伊那衆座光寺家は、三代将軍家光から将軍の介錯をする「首斬安堵」の朱印状を与えられていて、藤之助が腰に差す愛刀藤源次助真は介錯刀なのだ。
長崎での冒険と愛の日々はいわば前哨戦。いかにして、介錯刀を使わずに開国を実現するか。後半のメインテーマが見えてきた。
※ 次回は、11/2(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)