桜井美奈『復讐の準備が整いました』第2回
第1部
第1章 小野川葵 17歳
高校2年生の小野川葵にとって、入学式は特別なイベントではない。在校生は参加せず、春休みの延長のような時間を過ごしていたからだ。とはいえ、本格的に授業が始まり、真新しい制服に身を包んだ1年生を校舎内で見かけると、昨年の自分と重ねて、それがひどく昔のことのように感じた。
葵にとって緊張感があったのは、授業が開始して5分くらいで、ほとんど変化のない教師陣の顔を見れば、新品の教科書に折り目をつけるタイミングをいつにするかを、悩むくらいのことしかなかった。
2年生も、そんな時間が続くものだと思っていた。
だけど、3階にある部室のドアの前で行ったり来たりする人の姿を見たとき、その時間が違うものになるのだと直感した。
擦れもシワもない、身体よりも少し大きいサイズの制服に身を包んでいる姿は、訊ねるまでもなく1年生だ。
葵は後ろから声をかけた。
「入部希望?」
肩が一瞬跳ねたかと思うと、振り返りながら不安そうな顔を見せた。
「あ、はい」
葵よりも小柄な生徒だ。もっとも葵は、女子の中では比較的長身の168センチある。1年生は確実に、葵よりも10センチは低く、華奢な体型だ。短い髪から覗く肌は白く、幼さが残る顔立ちをしている。大きな瞳が何か問いたそうに葵を見ていた。
1歳しか違わないとはいえ、葵は思わず、可愛い、と言いたくなった。
「ここ、漫研の部室だけど大丈夫? 昨日、部室間違った人がいたから。文芸部なら1つ下の階だよ」
「担任に訊いてきたので、大丈夫です。……えっと、入部したいって意味です。漫研に」
ほんの少し話しているだけで、葵にも緊張が伝わってきた。
その姿が可愛らしく感じられて、葵は思わず頬が緩む。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。運動部みたいな上下関係ないから。特にここは、私が部の決まりを決めているしね」
「部長さんですか?」
「そうそう。部長でもあり、部員でもある、唯一の漫研部員」
「え?」
「部員、私しかいないの。だから正確に言うと、今は部活じゃないんだよね。昔は部活だったから部室はあるけど、ずっと休部状態だったみたい。で、もう1度部活にするには一応、5名以上の部員が必要って言われてる。だから今は同好会で予算もゼロ」
「そうなんですか?」
一瞬、新入生の顔に不安の色が見えた。予算ゼロも、部員1名も、不安ワードでしかないだろう。
せっかくの新入部員だ。5名は無理でも、複数人いれば、部にして欲しいと頼みやすくなると思った葵は、逃さないとばかりに新入生の手を握った。
「大丈夫。予算はゼロだけど、顧問はいるから」
「担任が、その顧問をしていると言っていました」
「あ、本沢先生のことは知っているんだ。じゃあ先生についての説明の必要はないね。その本沢先生に泣きついて、印刷室のコピー機は自由に使っていいって言われているんだよね」
「コピー機……」
「うん、顧問と言ってもあの人、絵は描けないから、名ばかりみたいな感じだけどね。だから自由に活動してる」
言ってから、葵は失言していることに気づいた。予算ゼロで顧問も名ばかり。部員の勧誘には効果的ではない。だが1度口から出してしまった言葉は消せなかった。
あはは、とひきつった笑みを浮かべると、葵は部室のドアを全開にして、中を見せた。
「でもね、漫画本はたくさんあるの。ホラ!」
教室の半分くらいの広さの部屋に、大型の本棚が3つ並んでいる。そこに、ぎっしりと漫画本が入っていた。
「昔の先輩たちが置いていった本も多いから、半分以上は古い作品だけど、最近のも結構あるんだよ。本沢先生は漫画が好きで、新刊を読み終えるとここに置いてくれるから」
本沢は国語の教師で、40代後半の女性だ。置場に困って持ってくるのだと葵は見ているが、新刊が次々に入ってくるのは助かっていた。
「ね、悪くないでしょ?」
返事はなかったが、新入生の目が輝いている。いや、漫画本に釘付けだ。
「漫画を読むだけのたまり場になると困るから、この部屋には部員以外は入っちゃだめってことにしているけど、1年生は仮入部という形で、今なら自由に――」
「ゆりー」
廊下の遠くから、やはり、真新しい制服を着た生徒の声がした。
本棚に見入っていた新入生が、ハッと我に返ったように振り返る。
「由利は漫研に入部?」
「うん」
知り合いらしい。距離はあるものの、2人の間には説明の必要のない時間が流れていた。
「昔から絵、上手かったし、やっぱそうなんだ」
それだけ言うと、その生徒はすぐに廊下を駆けて行った。
「友達?」
葵が問うと、新入生が、すみません、と頭を下げた。
「小学校のころの同級生です。中学は違いましたけど、高校でまた会って……」
「なるほど。で、由利……さん?」
「呼び捨てでいいです」
「そう? じゃあ、由利って呼ぶよ?」
初対面で呼び捨ては、葵にも抵抗はあるが、本人の希望だ。
「はい。それと、入部させて下さい」
「仮じゃなくて?」
「漫研に入ると決めていましたから」
どうやら、葵の下手なプレゼンでも、入部希望の気持ちは揺るがなかったらしい。
「そう。じゃあ、よろしくってことで」
葵が右手を由利の方へ差し出す。一瞬、躊躇を見せたものの、由利は笑顔で葵の手を握ってくれた。
部室には、教室で使っていた古い机が2つほどある。向かい合うように机を突き合わせて、葵と由利は座った。
「ええと、最初にこの部の決まり事を説明するね。私は小野川葵って言うんだけど、葵って呼ぶのがこの部の決まり」
由利の顔には疑問が浮かんでいる。もちろん、これまで部員がいなかったのだから、今作ったばかりの規則だ。
「わかった?」
「でも……」
「それくらい良いでしょ。先輩の希望を聞いてよ。私は運動部みたいな関係は嫌なの。2人しかいないんだから、細かいこと言わないで。いい?」
上下関係を気にしたくないと言いながら、葵は先輩である立場を利用して、名前で呼ぶことを強要している。とはいえ、由利の希望を受け入れたのだから、葵の希望だって聞いてもらいたい。
しばらく葵が目をジッと見つめていると、由利がうなずいた。
「わかりました。葵さん」
「ありがとう。で、あと説明するのは、活動時間と活動内容かな」
「はい、何曜日の何時から何時で、どんなことをすればいいですか?」
「自由!」
「え?」
「好きにして。休みたければ休めばいいし、描きたくなければ描かなくていい。部員はここに来て自由に漫画を読んでいいし、持ち帰って読みたければ、ノートにタイトルと巻数を書けばそれも自由」
「休むときの連絡は必要ですか?」
「それはどっちでもいいかな。連絡先はあとで教えるけど、強制じゃないよ。来なかったら休んだって思うだけだから」
自由すぎ……と、由利の口がそう動いた。
「だって、漫画は家でも描けるでしょ。強制して描くものでもないし」
「だったら葵さんは、これまで1人だったにもかかわらず、どうして漫研にいるんですか?」
「家よりここの方が、集中できるからかな。家は静かすぎて、逆に落ち着かないんだよね。部室は静かだけど、廊下やグラウンドは賑やかでしょ。そのくらいの音があった方が、私は落ち着くんだ。それに、昔の漫画本も結構おもしろいし」
由利の目が本棚へ動く。
昭和と平成の名作がずらりと並んでいる。背表紙は色褪せて紙は黄ばんでいるが、漫画の価値が下がったわけではない。むしろ、それだけの時間、愛されてきた物語だと伝わってくるものがあった。
「葵さんは、毎日来ますか?」
「学校に来た日はね。でも無理しなくていいよ。由利のペースで」
小さくうなずくと、由利はまた本棚を向いた。
「わかる、わかる。漫画好きにはたまらないラインナップだよね。由利もここに置いておきたい漫画があったら持ってきて」
家に置場はないけど、捨てられない本がある、と由利は照れくさそうに言った。それは葵も同じだ。手放したくない本は、部室の本棚に置いていた。
「あと、飲食はしてもいいけど、原稿を描いているときは気をつけてね。汚したら大変だから。注意はそれだけかな。由利はアナログ?」
アナログは紙にペンで描く、昔からあった手法だ。40代以上の教師に漫画を描いていると言うと、たいていそのイメージを持たれる。
「デジタルです。合格祝いにタブレットを買ってもらったので」
「凄い。高いのに」
「クリスマスもお年玉も4月の誕生日もナシで、合格祝いと一緒にしてもらいました」
「それなら納得。私、タブレットは興味あるけど、まだ使ったことないなー。今度教えて。そのうち使えるようになりたいから。タブレットも水濡れ厳禁だよね」
葵は紙とペンのアナログで描いている。どちらにせよ、汚したり濡らしたりはしたくない。
「で、由利はどんなの描いてるの? 見せて」
勢い込んで、葵が由利に近づく。が、由利が飛びのくように距離を取った。
「あの、今日はタブレット持ってきてなくて……」
「じゃあ、今度見せて」
グイッとまた葵が距離を詰めると、由利が困ったように顔をそむけた。
「上手くないので……」と、少し身体を震わせている。
強い拒絶を感じて、葵は失敗した、と思った。初日からグイグイ行きすぎた。
これまで、1人でやっていたところに人が来て、浮かれて距離の取り方を間違ってしまったようだ。そもそも葵は人との付き合いが下手だ。
「えっと……じゃあ今日は、漫画を読んでもいいし、とりあえず説明も終わったから、帰ってもいいし、自由にして」
「……はい」
「それと、一応ここにある机は、私と本沢先生が使っているから、次に来るときは、由利が使うのを持ってきて。余っている机の置場は、本沢先生に訊けばわかるから」
返事の代わりなのか、由利は小さくうなずいた。どうやら、完全に引かれてしまったらしい。
「さようなら」と、小声で言うと、由利は部室を出て行った。
もしかしたら由利はもう、漫研部には来ないかもしれない。
翌日、葵がそう考えながら部室のドアを開けると、自分用の机とイスを運び込んだ由利がいた。本棚の前で、どの本を手に取ろうかと悩んでいた由利は、葵に気づくとちょこんと頭を下げた。
「こ……こんにちは」
「こんにちは」
挨拶はしたものの、お互い視線を合わせずに、狭い部室の中に気まずい空気が流れる。
由利は昭和に発売された、名作と呼ばれる少女漫画を手にして、イスに座った。読破するという覚悟の表れなのか、全10巻のその漫画を机の上に積み上げている。黄ばんだ紙は、開くと独特の匂いがする。だけど由利は、そんなことを気にする様子もなく、黙々と読み始めた。
初日にやらかしたせいもあって、葵からは話しかけない。カバンから自分のノートとペンケースを出して、机の上に置いた。
葵は絵の練習と並行して、アイディアを書き溜めている。もともと、絵を描くことは好きだったが、思うように物語が作れずにいる。でも漫画を描きたいなら、そんなことは言っていられない。だから毎日1つ、どんな些細なことでも良いから、ネタを考えるようにしていた。もちろん気に入った題材はストーリーを膨らませ、キャラクターも作る。すぐにでも漫画にできそうなアイディアもあれば、そのままでは使えないものもあるが、書き溜めたノートは、もうすぐ4冊目を用意しなければならないところまできていた。
今のところそのネタ書きを、4か月ほど続けている。とはいえ、誰かに見せたことはなく、また見せられるレベルでもなかった。
葵が漫研に入ったのは、高校入学直後ではない。そもそも、3年間休部だった部活の存在など、認識すらしていなかった。1年生の夏休みが終わり、漫画を本格的に描こうと思い、漫研を作りたいと当時の担任に願い出ると「以前はあった」と言われた。
休部状態とはいえ、部室はそのまま残っていた。顧問を引き受けてくれそうな教師を探し、本沢に頼んだところ、条件付きで引き受けてもらえた。その条件とは、自分が持っている漫画を部室に置く、ということだった。
教師に指導を頼めるものでもなかったため、条件は問題なかった。
部員がおらず予算もないのだから、家で漫画を描いているのと違いはなかったが、漫画に浸れる空間を得たことで、葵は満足していた。
でも、心のどこかで仲間が欲しかったのかもしれない。
積極的に部員を勧誘はしなかったが、誰かが扉をたたいてくれるのを待っていた――と、由利の後ろ姿を見たときに感じた。だから、初っ端からグイグイ行きすぎた。
鉛筆を走らせながら、葵は顔を上げずに、眼球だけ動かして由利の様子をうかがい見た。
由利は、葵の存在など忘れた様子で漫画を読んでいる。だが、あまりにも集中している姿は、力が入っているようにも思えた。
もしかしたら、葵の反応を見ているのだろうか。
だとしたら、どうするのが正解なのか。
「あのさ……」
由利はピクリとも動かない。いや、紙をめくることはするが、葵の問いかけには反応しなかった。
「由利!」
「え?」
名前を呼んだら顔を上げたが、あからさまに迷惑そうな表情をされた。そればかりか、怒りさえ滲んでいる。
「ゴ、ゴメン、何でもない」
葵がそれだけ言うと、由利はまた、漫画を読み始めた。
※ 次回は、1/28(火)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)