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台湾出身の芥川賞作家は、日本語の何に魅了されたのかーー李琴峰さん『日本語からの祝福、日本語への祝福』冒頭特別公開
弊社PR誌「一冊の本」およびWebTRIPPERで連載されていた芥川賞作家の李琴峰さんによる日本語にまつわるエッセイ『日本語からの祝福、日本語への祝福』が、2025年2月21日(金)に発売となりました。日本語への新たな知見があふれる本書の冒頭部分を特別に公開いたします。
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バレンタインの奇跡
これ開巻第一章なり。まずは詩を二首――
十載苦吟窮鹿島、 十載 苦吟すれども 鹿島に窮し、
一朝独舞進扶桑。 一朝 独り舞ひて 扶桑に進む。
漂漂浮芥帰何処、 漂々たる浮芥 何れの処にか帰らん、
四海八荒皆故郷。 四海八荒 みな故郷。
未有白翁蒼浩筆、 未だ 白翁の 蒼浩たる筆有らず、
也無邱女冷繊魂。 また 邱女の 冷繊たる魂も無し。
孤琴偶得周郎顧、 孤琴 周郎の顧みるを 偶たま得たれば、
漢柱和絃究道源。 漢柱と和絃もて 道源を究めん。
時は二〇一七年二月、明仁天皇の御代。生前退位のご意向を示されたことにより改元へのカウントダウンが始まった一方、東京五輪に向けて世の中が本格的に賑わい始め、訪日外国人数が過去最高を更新し、新型コロナ禍などまだ誰一人予測していなかった平成の世。当時二十七歳の私は品川に通うしがない会社員で、しかも入社一年目の下っ端。ちょうどバレンタインだった。女性たちがお金を出し合って職場の男性陣にチョコレートを贈ろうという異性愛規範臭がぷんぷんする恒例行事を断り、代わりに自腹でチョコレートを買って女性陣に配った後の夕方、残業に備えて社員食堂の隅っこで一人で夕食を取っていた。その時、突如携帯が鳴り出した。
知らない番号だった。出てみると、聞いたことのない男性の声が喋り出した。電波が悪く、男性も早口だったので、最初は話の内容がはっきり聞き取れなかった。またしてもクレジットカードの勧誘か、と思う。有名な大企業の会社員になってからというもの、不動産投資や個人型確定拠出年金、クレジットカードの勧誘電話がしょっちゅうかかってくるようになった。休み時間は十五分しかないのでさっさと夕食を済ませて職場に戻りたいと思っていた私は少しいらつきを覚えたのかもしれない。しかし、男性が発した「講談社」という言葉に、思わずハッとした。
それは半年前、講談社主催の「群像新人文学賞」に応募した小説「独舞」が最終選考に残ったことを知らせる電話だったのだ。
電話を切った後もしばらくの間、私は放心状態だった。今しがた伝えられた奇跡を、どこか信じきれずにいた。
ずっと作家になりたかった。言葉の美しさに魅了され、初めて(中国語で)小説の習作を書いた十四、五歳の時から、ずっと作家になりたかった。高校受験の勉強の傍らに小説は書き続けた。陰鬱な高校時代、周りがマージャンやネトゲや恋愛や部活に打ち込んでいた時、私は狭いアパートの部屋に閉じ籠もって独り原稿に向き合っていた。生の根源に苦しみ、自己表現の手段を見失い、深刻なスランプに嵌まっていた大学時代、それでも作家の夢は諦めたくなかった。純文学が無理なら大衆作家を目指し、通俗小説やライトノベルでも書いてみようかとも考えた。来日して大学院に入り、修士論文を書いていた間も小説のことは考え続けた。自分は天才ではないことを受け入れ、世間のスケジュールに合わせて就活をし、内定を勝ち取って会社員になってからもずっと、内心どこかで文学の夢を見続けていた。乗り始めた朝の通勤電車。春爛漫という言葉に相応しく咲き乱れる桜の花。そんなある日、「死ぬ」という日本語の言葉に導かれて書き始め、五か月かけて仕上げた小説が「独舞」だった。それは私が最初に第二言語である日本語で書いた小説にして、初めての長編小説だった。
母語ではない言語で小説を書くのは難しい。内容のしんどさもあり、執筆の途中は苦しかった。しかしいくら苦しくとも、言葉を紡ぎ、繋いでいく作業の確かな感触が私に喜びをもたらしてくれた。出会ったこともなかった言葉を辞書から引っ張り出したり、知ってはいたがなかなか使う機会のない言葉を小説に組み入れてみたりするのは、とても楽しかった。自分の書いた原稿をプリントアウトし、印刷された文字を眺めているだけでたっぷり満足感に浸ることができた。「群像新人文学賞」に応募したのは単なる偶然で、傾向や対策や選考委員のことなど考えていなかった。ちょうど締め切りも枚数も合致するので出してみることにした、それだけだった。過去の応募数を調べたら、毎回ざっと二千作くらいの応募があったと知る。一作一作が、この日本列島のどこかに住んでいる、一人の作家志望者の心血の結晶なのだろう。日本語を母語とする作家志望者だけでも掃いて捨てるほどいるのだ。非母語話者の自分に受賞の機会が回ってくるなど考えてもみなかった。
それだけに、バレンタインの夕方にいきなりかかってきた最終候補入りを告げる電話は衝撃的だった。それはどこか運命的なものを感じさせてもいた。それもそのはず、自らの生まれた国を離れ、子ども時代から馴染んできた母語を離れ、大変な努力をしてようやく手に入れた日本語能力を携えて独りこの日出づる列島に引っ越してきた。移住を決意した時は何かを捨てる覚悟をしていたはずだ。台湾にいた頃は十年間、ずっと小説を書き続けたが、結局単著は一冊も出せなかった。生国と母語を離れる決意をした瞬間は、青臭い作家の夢も半ば遠い過去に捨てたはずだ。太平洋の上空から海へ投げ捨ててきたはずだ。
しかし、バレンタインの電話を受けた後、誰かがまた私の耳元で囁き出した。知っている、あなたは諦めきれていない。これこそあなたが日本に移り住んだ意味、そしてこの世に生を受けた意味かもしれない。それがミューズの神託なのか、はたまたサタンの誘惑なのか、当時の私には到底知り得なかった。残業をする気持ちにはとてもなれなかった。私は職場に戻り、軽く荷物をまとめてから退社した。まだ最終候補に過ぎない、最終選考で落ちる可能性は十分にある、期待のし過ぎは禁物だ――そう自分に言い聞かせながらも、あの日見上げた寒空は底の見えない漆黒に覆い尽くされていたが、どこか煌めいて見えた。
果たして「独舞」は正賞にこそ選ばれなかったものの、佳作に当たる「優秀作」の二作の一つに選ばれ、私は一応作家としてデビューした。そして翌年三月、「独舞」は『独り舞』に改題され、出版されることとなった。初めての単著だ。何という遠回りだろう。台湾にいた頃、私は一か所に留まり続けることがあまりなかった。大学時代は様々な事情で半年か一年半ごとに引っ越しを余儀なくされた。私が住んだ土地、歩んだ軌跡、出会った人々、紡いだ記憶。絶え間なく流れ続ける歴史の大河からそれらを繋ぎ止めるのは、私の綴る言葉だけだった。しかし、それらの言の葉の芽を一冊の本として結実させるためには、まさか生国を離れ、親類縁者を離れ、母語の外側に出て、海まで渡らなければならなかったとは。誰かの手によって紡がれた、意地悪極まりない因果の糸に思いを馳せると、感慨で胸がいっぱいになった。
冒頭の漢詩二首は、そのような感慨に耽りながら初の単著『独り舞』の出版を記念して作ったものだ。ざっと現代日本語の散文に訳してみよう。
「鹿がたくさん生息していたことから『鹿島』とも呼ばれていた台湾で丸々十年間、いくら苦心して書き続けてもなかなか文名が揚がらなかったのに、まさか独りで日本に渡来し、日本語で書いた「独舞」で作家の肩書が得られるとは思ってもみなかった。根無し草みたいに各地を転々としてきたこの身にとって、一体どこが最終的な落ち着き先なのだろうか。まあ、その気があればこの広い世界、どこでも故郷となり得るはずだ」
「私には白先勇(*1)のような円熟した文才がなく、邱妙津(*2)のような繊細な精神も持ち合わせていない。それでも、この孤独な琴が奏でる音がたまたま音楽に精通する周瑜によって認められた以上、漢文化と日本文化という二つの文化を内包している私は、これからも中国語と日本語、二つの言語で書き続けてこの世の道理を探究してみよう。ちょうど漢製の琴柱と和製の琴線でできた特殊な琴のように」
『独り舞』の刊行から、四年間。たかが四年、されど四年。この四年間で平成の世が終わり、首相が二度交代し、新型コロナ禍が世界に襲いかかり、日常生活が大きく変容した。ミャンマーでは軍部によるクーデターが起こり、アフガニスタンではタリバンが政権を奪取し、ロシアがウクライナ侵攻を始めた。私は日本の永住権を手に入れ、会社を辞めて作家業に専念し、幸運にも五冊目の小説『彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した。賞のおかげでほんの少しだけ知名度が上がり、仕事の幅も広がった。いくつかの肩書や謳い文句もついた。「芥川賞作家」「史上初の台湾人芥川賞受賞者」「非母語話者では史上二人目」。台湾では一部のネットメディアがアクセス数を稼ぐために、「あの村上春樹ですら取れなかった芥川賞を台湾人作家が受賞」なんていう扇動的で、見ているこちらが申し訳なくなるタイトルの記事も出していた。
賞の結果は当然、運によるところが大きい。芥川賞の選考委員が一人でも違えば、賞の行方は違っていたのかもしれない。「運も実力のうち」とは言うけれど、運の要素を無視していては自分自身に対する評価を誤ってしまう。それだけは何としてでも避けたいことだ。
しかしながら当然、私みたいに日本語を母語としない作家――つまり最初から言語的なハンデを背負っている作家――が芥川賞を取るのは、単純な幸運で片付けられるものでもあるまい。そこには少なくとも日本語という言語を必死に学習する努力が求められる。そしてそうした努力は恐らく、誰でもできるようなものではない。私は天才ではない。自分は天才ではないし、文学の神からもさほどギフトを授かっていないという事実は二十歳を過ぎた辺りから受け入れている。加えて、名家の出でもない。特段裕福な家に生まれたわけでもなければ、文豪の祖父や著名人の親も持ち合わせていない。それとは逆で、むしろリソースが欠乏している台湾の農村地帯で生まれた。親ガチャで言えばせいぜいNといったところだ。天賦の才もなければ、頼れる家柄もない人が何かを成し遂げるためには、こつこつと努力するしかない。
これから始まるのは、台湾の田舎で生まれた一人の平凡な少女が、ひょんなことから日本語に心を惹かれ、日本語に恋をし、日本語と戯れ、時には挫折もしながら次第に身につけていき、やがて海を渡り、日本語の紡ぎ手となるまでの物語だ。私たちは自分の人生しか、しかもたった一度しか生きられない。しかし物語を通して、他者の人生を何度でも追体験できる。私が子どもを産むことはきっとないだろう。自分の遺伝子を誰かに押し付けるなど、想像だけで気分が悪くなる。代わりに、私は言葉を紡ぐ。私の作品は私の唯一無二の子で、たとえこの身が滅んでしまった後でも、誰かが読み続ける限りいつまでも私の命を繋いでいく。時間の果てまで、私の精神が再生されていく。
芥川賞にはもう一ついいことがある。『大辞泉』など一部の国語辞書は芥川賞作家の名前を全部見出し語として収録しているらしい。少女時代からこよなく愛し、大変な時間と労力をかけて獲得した日本語という言語に、自分の名前を刻むことができる。私にとってはそれこそ恋の成就にも似た幸運だ。
それではこれから始まる物語に、どうかしばしお付き合いあれ。
*1 台湾の代表的な男性作家。一九三七~。七〇年代の台北新公園のゲイ・コミュニティを描く『孽子』が代表作。
*2 台湾の代表的な女性作家。一九六九~一九九五。自身もレズビアンであり、レズビアンをはじめ何人もの性的少数者が登場する代表作『ある鰐の手記』で知られている。一九九五年、留学先のパリにて二十六歳の若さで自死。