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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第16回

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 2月3日は、定期学年末テストの最終日だった。節分会でもある。

 ドミトリー・スズキではこの日、夜になると豆撒きをするのが恒例らしい。観月も去年、初めて参加した。夕食に恵方巻が出ることはなかったが、最近は日本全国どこにいても、スーパーやコンビニで買えるようになっているから便利だ。

 今年の恵方は、〈西南西やや西〉だという。

 この日は朝から、雲ひとつない冬晴れの1日だった。

 ラストスパートに賭ける学生もいる以上、完全とは言わないまでも、朝から駒場キャンパス内に流れる空気は、天気のこともあってだいぶ緩んだものになった。

 なんといっても、鬼も退散する追儺の節分会だ。

 1限を終え2限を過ぎ、昼食時になると、キャンパス内の空気はなお一層に緩んだものとなる。

 この段階で、すべての試験を終えた者は、1年2年を合わせて半数近くになったのではないか。

 観月もそんな中の1人だった。

 生協食堂で昼食を摂り、キャンパスプラザの部室で和歌山土産の福菱のかげろうをふた箱ほど〈頂く〉。

 この〈頂く〉は、誰かが忘れていったのかもしれないと、補講の期間中に箱の上に張り紙を貼って注意を喚起していたものだからだ。

〈賞味期限があります。試験最終日の正午を過ぎてもこのままの場合、2年の小田垣が責任をもって処理しますので、そのつもりで〉

 そんな張り紙をしたが、誰も現れないまま期限が過ぎた。

 というか――。

 張り紙をした置き忘れの上に、どういうわけかさらに置き忘れが重なり、逆に増えたりもした。

 みんな試験で頭が一杯で、ふと置いてうっかり、そのままにしてしまうのかもしれない。

 思えば、去年も同じ現象が起きた気がする。

 そのことを失念していた。

 せっかくの帰省土産だ。みんなに些少でも味わってもらいたい。

「来年は通し番号でも打とうかな」

 そんなことを呟くと、部室の中で河東がなぜか悶えるようにして首を大きく左右に動かした。

 理学部3年の河東は、今日の1限で試験を終えたようだ。それで駒場の部室に顔を出した。

 昼前から来ているが、テニスウェアに着替える素振りはない。みんなのアイドル、仲村梢の様子を伺いに来たのだろう。

――部長は勝手に放っておいても大丈夫だろうけど。梢ちゃんは試験、どうだったのかなあ。ドキドキ。

 勝手に大丈夫という、河東の何気なくも間違った使い方の日本語が、少々癪に障りもした。

――どうですかね。彼女ももう試験終わったはずだから、もうすぐ来るんじゃないですかね。ご自分で聞いてみたらいかがです?

――デハデハ。そうなんだ。じゃあ、そうしようかな。ウンウン。そうしよう。

 観月の言葉に河東は大きく頷いた。

 そうしておそらく、5限まで試験のある梢を待つのだろう。河東は素直で律儀な男だ。

 ついでに言えば、5限が終わった後は、もう間違いなく暗くて寒い。そんな頃おいに試験終わりの梢が、わざわざ部室に顔を出すかどうかは定かではない。

 警視庁の犬塚から連絡があったのは、そんな節分の木曜日の、午後2時過ぎだった。

――お疲れさまでした。今日の試験はどうでしたか。

 終わったと知っているような犬塚の口振りだった。

 最終日のこの日、観月の試験はたしかに2限までだったが、どうして犬塚が知っているのかは脇に置く。そんなことは些事だ。

「何か」

 そう聞くと犬塚の方こそ、終わりましたよ、と言った。

「えっ。それって」

――電話ではなんです。終わったのひと言では、あなたも気になるでしょう。

「ええ。大いに」

――そういう人だということは聞いています。

〈四海舗〉で、と犬塚は言った。

 観月はショルダーバッグを肩に掛けた。

「河東先輩。戸締りよろしく」

「え。あ。うん。任せてドンドン」

 部室には他にも3人の部員がいたが、観月は河東を指名した。この時間から5限が終わるまで帰らないのは、河東くらいのものだろう。

 河東は素直で律儀な理学部生だ。

 観月は部室を飛び出し、押っ取り刀で〈四海舗〉に向かった。

(終わったって、どういうこと。どうなったってこと)

 気持ちは急く。

 必然として、足は速いものになった。

「松婆っ」

 店に飛び込む。

 語気を読むか。木彫りの置物の松子は文句を言わなかった。うっそりとそこにいて、ただ顔を上げた。

「なんだかぞろぞろと、先に来てるさね」

「了解。有難う」

「面倒ごとは、あまり持ち込んで欲しくはないけどさ」

「そうだよね。ごめん」

「頼んでおくれ」

「じゃあ、いつもの条頭を」

 50皿。

 瞬間的に松子が、

「毎度ありっ」

 と年甲斐もない反射で立ち上がって腰を折り、咳払いで何かを誤魔化した。

「面倒ごともたまにはいいさね」

 観月は中庭に急いだ。

 扉を押し開けると西陽の中に、犬塚がいた。ユウミもルウもいた。3人で円卓を囲んでいた。

「元気だった? 大丈夫?」

 ユウミに聞いた。そして、ルウに聞いた。

「うん」

「大丈夫」

 松子の手によって条頭が運ばれる。

 運ばれて、運ばれる。

 それでも載り切らず、庭の南側の隅に置かれた別のテーブルにも条頭が置かれる。

――うわぁっ。

 ユウミとルウは手を叩いた。

「2人はあっちのを食べてよ。遠慮しなくていいよ。私の奢りだから」

 促せば、はぁい、と揃った返事でいそいそと動き、2人はすぐに箸を手に取った。

「一体、何皿頼んだんですか?」

 犬塚がテーブル上の皿を顎で数えた。

「50皿ですけど、お腹が空いているならもう50皿いきますけど」

「さて、話を進めましょうか」

 どうしてそういう向きになるのかはわからないが、気にしない。警視庁流だろうか。

「じゃあ、私は失礼して、食べながら聞きます」

「私は食べないで話しますけど」

 熱いプーアル茶を飲みながらの犬塚の話は、言えば、大いにざっくりとしたものではあった。

「詳しくは話せません。どうしても知りたいというのであれば、小日向さんと同じように、警察庁キャリアになって、いずれ私の上司にでもなることがあればお教えしましょう」

 そんな言葉で始まる話は、とうぜん大味なものになる。

「半グレなら半グレ、マフィアならマフィアに対する処し方はありますが、今回はそこまで血生臭いものにはなりませんでした。私の知り合いにですね」

 とある都市銀行の本店営業部に勤務している男がいます、と犬塚は続けた。

「大手でして。大体都市銀行2行か3行と信用金庫。法人登録された会社ならそのくらいは付き合いがあるはずです。」

 その手の話は、観月にもなんとなくわかる。単なる経済の、表の話だ。

「平松っていう、JET企画金主ですか。調べたら、その都市銀に口座がありました。平松土地建物っていう会社です。父親の和正が社長で、そいつは1人息子のボンボンですね。ただ、この会社の金は間違いなく、JET企画というところに定期的に流れています。現在は貸し付け金ということなのでしょうが、いずれは出資金として株式に転換されるのでしょう。だから」

 父親の方から攻めました、と犬塚は言った。

「銀行を通じて、JET企画の悪い噂を、この社長にそれとなく」

「なるほど」

「まあ、実際にはそれだけではないですが。その他はご勘弁ください。いずれにしても、父親は青くなってから大激怒です。息子は飛び上がって驚く。貸し剝がしに動かざるを得ない。JET企画は1文無しどころか、追い込みを掛けられる立場に転落です。そこで、その貸し付けを巡って私が動く。闇の名刺で。この辺もご勘弁ください」

「はあ。もう何が何だかわからないですけど」

 それでいいです、と犬塚は笑った。

「いずれにせよ、交換条件を出しました。今まで通りに肩で風を切っていたければ、することは3つです。いや、3つだけです」

 犬塚の視線が、庭から店への扉の方に動いた。

 かすかな軋みが上がった。

――あっ。

 最初に声を上げたのはルウだった。

 手に大きな紙袋を提げた珠美が立っていた。

「やっと届きましたか。――彼女とあの紙袋は、その条件のうちの2つです」

 彼女の解放と、これまで撮ったビデオのすべてのマスターと、そして今後一切、同様の詐欺紛いの恫喝と恐喝をしないことが条件の3つ目。

「破った場合、2度と表の社会には出られなくなると脅してもありますが。まあ、こんな呪文は、まだまだチンピラ暴走族の域を出ないから効く薬です。本式のヤクザや半グレになったら、いつまでどこまで守れるかは疑問ですが。そのときにはそのときで、モードを切り替えるだけです」

 ことも無げに言って、犬塚はプーアル茶を飲み干した。

「では、私はこれで」

 犬塚は立ち上がり、こちらに寄ってくる珠美から、擦れ違いざまに紙袋を受け取って去った。

 珠美が来て、観月の正面に座った。

 2人のテーブルに、赤い夕陽が差した。

「食べる?」

 答えは返事ではなかった。

「ごめんなさい」

 珠美はそう言って頭を下げた。

「食べなよ」

 それしか言えなかった。

「うん」

 珠美もきっと、それしか言えなかったのだろう。

 食べて、食べる。

(でも)

 それでいい。

 ひと口ごと、ひと皿ごとに、元気になればそれでいい。

「ねえ。今日、お店に出ない?」

「えっ」

 珠美は箸を持ったまま顔を上げた。

 観月は努めて大きく頷いた。

「節分だから、またコスプレ・デーだって。本当は来週からにしようと思ってたんだけど、手が足りないってまた店長に泣きつかれちゃってさ」

「コスプレ・デーなんだ」

「そう」

「また何か着るの?」

「えっと。鬼」

「やだ」

 珠美は笑った。

 夕陽を受けて――。

 泣いた赤鬼。

 それでいい。

(ああ。いいなあ)

 それを思っても、観月は泣けない。

 だからといって、笑えるわけでもない。

32


 学年末試験がすべて終了すると、駒場キャンパスにも春が訪れる。

 阿鼻叫喚に引き続き悲喜こもごもではあるだろうが、諦めも喜びも含めて、1番波のない空気が駒場東大という空間に満ちる頃だったろうか。

 学生は自分が東大生であることを実感しつつ、やがて緊張の面持ちでやって来るだろう各地からの受験生にその場を明け渡す。

 そうして、そのまま4月7日までの春季休業に突入することになる。

 観月にしても、ブルーラグーン・パーティの活動自体は、3月後半の全体トレーニングまで何もない。それまでは形ばかりは自主トレ期間となる。

 鍛える鍛えないも本人任せの、つまり自由期間だ。ただ、怠惰に過ごすと春季からの活動が辛くなることは目に見えている。

 ブルーラグーン・パーティは観月が部長を務める以上、サークルというより体育会系の部活に近い。

 この春季休業中にあるとすればというか、突出して大事なのはもちろん、〈Jファン倶楽部〉の方だ。

 3月3日の木曜日、桃の節句の大安の午後6時。

 小日向純也を交えたラストサロンが開催される。

 場所はつい2日前、帝都ホテルの小ホールに決まった。

 ビックリするほどの金額が掛かるが、ビックリするほどの集金を大島楓がしてくれたので、個々人の持ち出しはなんとゼロでいける試算だった。

 どちらかと言えばホテル側の日程調整の方が問題だったが、これは〈王子様〉の方が口を利いてくれたようで、〈王子様〉本人から連絡があった。それが2日前だ。

――ホテルじゃなくて、お前たちが希望していたホテルの会場をさ、そこを押さえていた会社に伝手があってね。動いてくれたから使えるよ。その代わり、そこの会社の名誉会長って言うか、うちの婆ちゃんもラスト・サロンに参加だって。

 とまあ、そんなハプニングもありはしたが、無事に開催日時は決まった。

 順調にして、喜ばしいことだった。

 観月としては肩の荷が下りると同時に、待ち遠しくもあった。

 それまでの約1ヵ月は、おそらく〈蝶天〉でのバイトに明け暮れる毎日になるだろう。

 イレギュラーに始まってイレギュラーに中断している家庭教師は、また始まったとしても終わりは見えている。最初から玲の受験までの約束だ。そもそもの終了はそう遠くない。だから基本的に、観月のアルバイトは現在、〈蝶天〉1本だ。1本しかない。

 ただ、それでも同じ時期の去年と比べれば、やる気も希望も雲泥だ。

 ことアルバイトに関する限り、観月の場合、やはり無表情は大きなハンデになったようだ。

 表情のなさは雇用主に言わせれば愛嬌のなさで、長く続いたバイトはない。

 面接の合否もさることながら、合格しても一週間と続かない。

 また探し、また働き、また探し、また働き――。

 働いた期間より、バイトを探すことに費やした時間の方が長かった気がする。

 東京に出てきて約1年半の、去年の10月になるまでそれは続いた。

 宝生裕樹は、観月にとって救いの神だったかもしれない。正確には観月の家計にとって、ということになる。

 そう考えれば、多少の〈アクシデント〉はご愛嬌だ。

 観月に愛嬌はないらしいが――。

 余人のことは知らないが、銀座はそういった意味で、観月に温かい場所だった。

 この日も夕方になって銀座に出て、観月は〈蝶天〉に出勤した。

 ユウミもルウも、そして珠美も元気を取り戻し、朗らかだ。

 先週木曜に警視庁の犬塚が八坂らを潰してくれて以来、3人の身の回りには特に大きな変化はないらしい。

 変化がないことが、平穏に生きる一般人には有り難い。

 それでもまだ、油断は禁物と言ったところだろう。土日を挟んで、わずかに4日しか過ぎていない。

 厄災というものは、忘れた頃に猛威を振るうものだ。

 木曜、金曜、そして今日と、3人については特に注視した。

 仲間の身の安全を確認するのは、GLとしての職務だろう。その分、普通のアルバイトよりいい時給を貰っているのだから。

 明るさを保った3人を確認しつつ、マドラーを握り、シェイカーを振る。
 この日の観月の担当はバーテンダーだった。

 少し、板について来た気が自分でもした。

 〈長江〉でのただ呑みは、大いに役立っていた。

 師匠、あるいはコーチと言ったものは、どの世界にも必要なのだと知る。

 カクテルのレシピを覚えるのは、それこそ100種類が1000種類であっても観月には簡単なことだが、現実の味に熟成させるのには遥かな時間が掛かるものだろう。

 師匠やコーチは、その遥かな時間を見事に短縮してくれる存在だった。短縮して導き、超えてゆけと背中を押してくれる存在だ。

 観月の住んだ和歌山にも、あるときまで存在した。

 関口の爺ちゃん、おっちゃん、とっちゃん、兄ちゃん、新ちゃんに川益さん。

 みな元気だろうか。

 観月の作るカクテルには、〈長江〉での経験の他に、そんな師匠たちと過ごした日々も、味わいとして溶けているのかもしれない。

 この日もそんな観月が作るカクテルを、カウンターに座った客の大半は美味い、と言ってくれた。言わなかったのは泥酔が間近い数人だけだった。

 そうして〈蝶天〉はこの日も繁盛して、閉店時間を迎えた。

 珠美もユウミもルウも、その時間にはもういなかった。

 木曜日以降、観月は珠美と一緒に帰るようにしていたが、この日は別だった。

 バーテンダーを担当する日は閉店後の後片付けなどもあって、確実に終電に間に合わないからだ。

 伝えたとき、珠美は少し不安そうな顔をしていたようだが、さすがにこの夜だけは、たとえバーテンダーでなかったとしても一緒に動くわけにはいかなかった。

 ただ、それを見たルウが、

――じゃあさ。うちのアパートに来ない? 私も1人だと、まだ少し怖くてさ。

 と珠美を誘ってくれて事なきを得た。

 ユウミも巻き込んで、今頃は3人で鍋でも突いている頃だろうか。

 全部の仕事を終えたのは、12時半過ぎだった。

 それから一人、〈長江〉へ足を向けた。

――2月7日に、またいらっしゃい。2月7日の深夜12時半を回ったら、ゆっくりでいいから。

 バーテンダーの坂井に、そう言われていたからだ。

 沖田剛毅が来るのかという確認はしていない。けれど、来るのだろうと確信した。

 広域指定暴力団龍神会系沖田組組長、沖田剛毅。

 そんな闇のど真ん中に居座るような男がいる場所に、闇に触れて傷ついた珠美を連れて行けるわけもない。

 隘路の奥に〈長江〉のスタンドサインはあったが、明かりは入っていなかった。

 営業を終えて消したものか。

 人気もなく、あるのは〈長江〉が入るビルの、常夜灯のささやかな明かりだけだった。

 だが、来なさいと言われた時間には頃合いだったろう。間違えてはいないはずだ。

 時間は、12時45分に近かった。

 何度か通りを曲がり、観月は隘路に1歩、足を踏み入れた。

 と――。

 背中に氷を落とされたような悪寒を感じた。

 咄嗟に振り返る。

 そこに、いつの間にか黒いスーツに身を包んだ男が2人立っていた。

――どなたさんですか。

 目の前に見て、けれどどちらの男が発した声なのかもわからなかった。

「あの」

 自分の声が、少し遠くに聞こえた。

――よさねえか。

 今度は、隘路の奥から声が聞こえた。そちらも、気配などは微塵も感じられなかった場所だった。

 身体を振り向けた。

 何故か、観月は知らず身構えていた。

――けど、兄貴。

――客人だ。

――客人?

――来たら入れろと、おやっさんに言われてる。

――そうっすか。

 観月を挟み、観月を通過して、影と影の遣り取りがあった。

(ああ)

 内容はわかった。

 剛毅のボディーガードだ。

 いや、これが屈強の、本物のヤクザというものか。

 通りの2人が左右に散る。

 見れば広い通りの遠くに、1台のベンツが止まっていた。

 気が急いていたからか、まったく気が付かなかった。

 その間に隘路の奥の、兄貴と呼ばれた気配は、いつの間にか消えていた。


※ 次回は、2/27(木)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)