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鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第15回

十五

 即妙体の自在を得た観月は、すでに吹き流れる風も同じだった。

「さっさと済ませるわよ。時間が勿体ないから」

「こっ」

 リーダーの目に血が上った。怒気が溢れるようだった。

「このアマッ。言い――」

 続く言葉を観月は待たなかった。待ってやる義理もない。

「やがったなっ」

 唾と一緒に吐かれる言葉を、観月はリーダーの後ろで聞いた。

「お生憎様」

 リーダーに、いや、立ち並ぶ半グレたち全員に、伊橋とキミカとジュンナにも、観月の動きはわからなかっただろう。

 その動きは軽やかにして松籟を呼ぶ風であり、音もなく止めどない流水だった。

 愕然として振り返るリーダーの顔面に掌底を叩き込む。

「ぶえっ」

 先手必勝は喧嘩の決まり事だ。動画を撮られているのはわかっているが、男六人で観月一人を囲んだ時点で、多勢に無勢、雉と鷹の図式は出来上がっている。

 正当防衛は、〈やり過ぎ〉なければ観月の手の内にあるだろう。

 白目を剥いて仰け反るリーダーの後ろに、街灯を撥ねるふた筋の光が見えた。花柄と般若のスカジャンが二人ともナイフを手にしていた。

 けれど、観月が怯むことはなかった。

 即妙体を現した観月は無敵だ。

 広く捉える俯瞰の視界の中に、それは見えていた。

 仰け反るリーダーの胸を突くように押し込めば、二人の意識が倒れゆくリーダーに向けられた。

 その一瞬の隙に観月は身を低くし、摺り足で割って入った。

 左右の手で花柄と般若のナイフを持ったそれぞれの手首を押さえる。

 それでもう、勝ちは得たに等しかった。

 手前に引いて重心を崩し、大きく伸びあがるようにしてひねってやれば二人はそれぞれ勝手に宙を舞った。

 柔に力は要らないと知っている。

 剛を制し、滅す柔。

 それが、愛すべき鉄鋼マンが観月に授けた関口流古柔術だ。

「んだオラッ」

 歩道側から金のブレスレットが光った。真っ直ぐに突き出される右の拳があった。

 前に置いた左足の体重を、後ろの右足に移す。

 それだけでブレスレットは観月の眼前を通過した。

 伸び切ったところで肘を下から軽く叩く。力は要らない。

「ぎぃっ」

 情けない悲鳴をあげ、肘を押さえて男は地べたに蹲った。右手は少なくとも今夜中はもう、使い物にならないはずだ。

 残る者は観月から見て道路側に一人と、背後に一人だった。

 何が起こったかわからないように、身を固くしていた。

 目に冴えた光を灯し、観月は自分からまた動いた。

 バックステップで背後に飛び、と同時に振り出した右足の踵で思い切り背後のスカジャンの脛を蹴る。

 イメージは出来ていた。

 痛みで顔が落ちながら前に出るところに、胸を張るように右肘を出せば完了だ。スカジャンはそのまま膝から落ちるだろう。

 残る一人がようやくアクションを起こし、左足を振り出してきた。

 それにしても未熟なもので、勢いも踏み込みも足りなかった。観月にすればまるでスローモーションだ。

 斜に一歩退いて避け、二歩出る。

 男には観月の接近は慮外であり、理解出来なかったろう。

 人の意識の隙、死角から死角に自在を得る。緩急と斜の歩行は、関口流古柔術の玄妙の技だ。

 軸足を刈るのは簡単なことだった。児戯に等しい。

 男は声もなく、無様に後頭部から歩道に落ちた。

 一連は流れるようで、ひと続きにして一瞬の出来事だった。

 瞬く間に半グレ六人がアスファルトとインターロッキングの上に倒れていた。

 その中で一人立ち、クイーンは周囲を睥睨した。

 その後、ゆっくりと右手の人差し指を立て、倒し、顔を向ける。

 この動作を観月が立つ花椿通りの前後に、二回繰り返す。

 通りの向こう側で目を見開き、戦慄く唇に手を当てるジュンナに、そして同様に、通りの先で呆然と固まったままの、伊橋とキミカに。

 その直後、

「コラァッ。何をしてるっ」

 通りに鋭い警笛の音がした。

 七丁目交差点の方向から、こちらに駆けてくる何人かの雑然とした靴音もある。

「あ、さすがにやばいかな」

 タクシーの乗務員が近寄ってきて制帽を取った。

「あの、こんな結果になるなんて思わなかったもんで。私が呼んじゃいました」

 なるほど、先程どこかに掛けていたのは、一一〇番電話だったようだ。

 済まなそうな顔をする乗務員に、観月は顔を横に振った。

「ううん。気にしないで。それより、後はよろしくね。私は、今日はこのままで乗らないから」

「了解です。あ、小田垣さんのことは絶対に言いませんから」

 殊勝なことを言ってくれる乗務員に片手を上げ、観月はその場を離れた。

 取り敢えず並木通りの方へ戻る恰好でさりげなく歩く。

 とはいえ、歩いてはみたものの――。

「さて、どうしますか」

 惑いの思考が声になった。

 ただの一学生だ。こういう場合の対処の仕方を幾通りも心得ているわけではない。

 そのときだった。

――ちょっと。

 ふいに、おそらく観月に向けて女声が掛かった。

 見ればすぐ近くに、〈銀座スリー〉ほどではないが、割りと大きなテナントビルのエントランスがあった。

 揃いの黒いコートを着た数人のドアマンが興味津々といった目でこちらを見ていた。

 客のエスコートと車両の管理を担当する専用スタッフだろう。同じような役回りの従業員を〈蝶天〉も数人抱えている。

 そのテナントビルは当然、〈蝶天〉からタクシーまでの途中ということもあり、帰り道に毎回通り掛かる場所だった。

 恐らく男たちは〈蝶天〉と同じく最上階に店を構える、〈ラグジュアリー・ローズ〉のスタッフだとは思っていた。

 ドアマンの間に、肩からショールを掛けたドレス姿の女性が立っていた。

 少しウェーブが掛かった亜麻色の髪、高い鼻、厚めに整った唇、すっきりとした輪郭の小さな顔。美人、ではあった。

 歳は三十を超えているか。いや、肌の感じ、目元の張り。

 物憂げな表情がそう見せるだけで、もう少し若いかもしれない。

 観月と目が合うと、女性はショールを羽織り直した。

「こっちよ」

 ただひと言で観月を誘い、女性はエントランスの奥へ身を翻した。

「あんたたち、余計なことは一切、言わないでよね」

――へぇい。

 揃った武骨な返事が、エントランスに屯するような全員からあった。

 観月は取り敢えず、女性の後に従った。この場はそれが得策だということは、瞬時に理解された。

 エレベータに乗り込むと、女性は案の定、最上階のボタンを押した。十階だった。

「あの、失礼ですけど」

 動き出したエレベータの中で、観月は口を開いた。

 当然の質問だったろう。女性はすぐに答えた。

「私は沖田美加絵。〈ラグジュアリー・ローズ〉のオーナーママよ」

 あなたは、と聞かれた。小田垣観月だと正直に言った。

「観月ちゃんは、学生さん?」

 そうだと答えた。どこと聞かれ、東京大学だと、これも正直に答えた。

 答えさせる、そんな雰囲気が沖田美加絵にはあった。

「へえ」

 美加絵はさも驚いた風に目を動かした。

「東大って、本当になんでも凄いのね」

 美加絵に連れて行かれた〈ラグジュアリー・ローズ〉の内部も、〈蝶天〉同様、主に黒服が閉店後の作業中だった。

 店内の雰囲気も高級感に溢れて、〈蝶天〉と大差ないように思われた。どこも少しずつ古い気はしたが、それは営業年数から滲み出る〈味〉というものだったろう。

「こっちよ」

 美加絵に、店長室へと誘われた。

 そこも、〈蝶天〉の本社部屋と変わらない広さだった。狭さともいえる。

 防犯システムから監視カメラの類はあまり多くないようだ。その分、おそらく美加絵の私物だろう物を置く棚などが並び、遊びのスペースはあまりない。

 そんなことを確認しながら立っていると、美加絵に洒落た革張りのソファを勧められた。

 なかなか、座り心地のいいソファだった。

「しばらくいるといいわ。下の様子は、誰かに見に行かせるから」

 それから、酒とコーヒーを尋ねられた。

「いえ。これ以上は」

「遠慮しなくていいわよ。そう、最近滅多にない、いいものを見せてもらったから。そのお礼よ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 それで、コーヒーを頼んだ。飲みながら少し、話をした。

 生まれた和歌山の、有本のこと。

 若宮八幡神社で習い覚えた、古の術技のこと。

 少ししか動かない感情のこと。

 ほとんど動かない、表情のこと。

「ふうん。面白い話ね」

「面白いですか」

「面白いわ。全部、私にないものだから。お陽様の下の、眩しい話」

 美加絵は遠くを見るように目を細め、寂しく笑った。

 その寂しさが、他人にそれ以上、深く入られることを拒んで見えた。

※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。


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