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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第9回

17


 けたたましい音がした。最終兵器として購入した3つ目の目覚ましだ。

 ただし、3つ目であってこの朝だけは、入れ替えたから1つ目だ。1つ目として盛大に鳴った。

 その目覚ましで起きる。つまり、諄いようだが、1つ目だ。

 携帯が鳴って15分。それくらいしか〈寝坊〉はしていない。普段からすれば、〈寝坊〉などしなかったに等しいくらいだ。

 ベッドの上で大きく伸びをする。

 実に清々しい朝だった。

 そんな朝にけたたましい目覚まし音は無粋な気がした。

 あの最終兵器としてのけたたましさは、階下から和風なビートで刻まれる鍋底アラートに乗ってこそ耳に馴染むというものだ。

 と、まあ――。

 こんな思考は、〈ほんの少しでも〉、早く起きることが出来たときだけの優越感に過ぎないとは重々承知ではあるが。

「さて、と」

 ベッドから降りて、自分のスリッパの音だけが響く階段を降り、自分のスリッパの音だけで食堂へ向かう。

 世の中的には2日前の、1月9日の日曜日がUターンラッシュのピークということだった。

 ドミトリー・スズキでもご多分に漏れずその9日がピークで、10日の夕方には、各地で成人式に出席の何人かを除き、ほぼ9割方の寮生が戻っていたようだ。

 そこで前日の10日の晩、玲の家庭教師を午後六時に終えた観月は、夕食時間に間に合うようにドミトリーに戻り、食堂で大々的に和歌山土産の分配を行った。

――ぐわっ。

――ぐえっ。

 そんな苦悶のような声も聞こえたりはしたが、気にしない。

 風邪でも流行り出しているのだろうか。そのくらいだ。自分は元気だ。

「ちょっと観月。あのさ。大盤振る舞いもいいけどさ」

 何故か眉間に皺を寄せてそんなことを口にしたのは、立野梨花だ。梨花は7日の授業に間に合うように、六日のうちに新潟から帰ってきていた。

「え、大盤振る舞い? 誰が? 何を」

「――ああ。いいわ。私が悪かった。有難う」

「どういたしまして」

 寮生とは大なり小なり、お土産を渡すとそんな会話になったが、最後には礼を口にしつつ皆受け取ってくれた。

「うん。いいね」

 いいことをすると、気持ちがいい。

 そんな善行を施して眠ると、翌朝は先ほどのように目覚めが軽いのだろうか。

 今度また試してみよう。

 まだ和歌山土産には観月が思うに、〈若干〉の余裕があった。

 などと考えながら朝の食堂に顔を出すと、

――あ。

――えっ。

 なぜか朝食を摂っている寮生たちの動きが止まり、暖簾のところでトレイを抱えて立っていた連中の目が泳いだ。

 全員の視線の向かう先はまちまちだが、見ているものは同じだった。

 おそらく、思い思いの場所に置いていたそれぞれの紙袋だ。

 近鉄と高島屋とVIVOと――。

 観月の配った、〈和歌山土産詰め合わせ〉で間違いない。

「あ、観月。これはさ」

「観月先輩。実はこれには深い、あ、深くはないけどわけが」

「うわぁっ。ごめんなさぁい」

 ドミトリーの食堂に、いきなり朝らしからぬ喧騒が巻き起こった。

 誰もが慌てている様子だが、別にいいのに。

「どうしたの。みんな」

 観月は特に変わりのない無表情で朝食用のトレイを手に取った。

「学校に持っていって食べるんでしょ。別に私に断ることなんかないよ。どんどん持っていって。我が故郷、和歌山のPRにもなるからさ」

――えっ。

 不思議なほどによく揃った声だった。

「あ、持っていくくらい気に入ってくれたなら、しょうがない。私の分と思ってたけど、もうワンセットずつあげようかな」

――結構です。

 これも見事に乱れがなかったが、よくわからない。

 美味しいのに。

「変なの」

 順番が来て、厨房から手を伸ばしてくる竹子の前にトレイを置く。

「たまに早く起きたと思ったら、騒がしいね」

 時間が経った焼き鮭にカップの納豆、味付け海苔、生卵、竹子自慢の沢庵漬けが次々に載せられる。

「えっ。私のせい?」

「その自覚のなさが罪さね。量が量なだけに、可愛らしさは欠片もないね」

 竹子は言いながら碗にご飯を盛った。それに、湯気の立つ味噌汁椀が添えられる。

 ドミトリー・スズキの朝は決まってそんなワンプレートだ。

 竹子に追い払われるようにカウンターを離れ、テーブルに向かう。

 梨花がいた。いるのは当たり前というか、わかっている。

 今日の早起きも、実は梨花に頼みごとをした結果だった。

「なんか、あんたを見てると、本当に帰ってきたって気がするわ」

 梨花は頬杖を突いて、しげしげと観月を見た。

「ん? なんで?」

「新潟には生息してないもの」

「――そりゃあね。和歌山産だから」

「和歌山にだってさ。あんたみたいなのは、――はいはい」

 早く食べな、と梨花は観月を急かした。

「外にもう来てるよ」

「あっ。そうなんだ」

 この日は梨花を通して、近くに住むという医学部の先輩にワンボックスカーを出してもらう手筈になっていた。それに和歌山土産を詰めるだけ積んで、駒場キャンパスに運ぶのだ。

 朝から冬晴れの、いい天気だった。

「こんなに積むの?」

 と言っていた男の先輩の声は聞き流すとして、30分ほど掛けて車に積み込み、それで駒場に運んだ。

 この日が2学年最後の授業日で、明日から2日間は補講日となる。

 そんな日だからもう、観月の仲間のたいがいがキャンパス内にいた。

 キャンパスプラザB棟にはブルーラグーン・パーティの面々がいて、A棟には〈Jファン倶楽部〉で一緒の早川真紀もいた。

 真紀は観月の感覚からすると、力持ちだ。最初から手伝わせる気はあった。

「倍、あげるからさ」

「要らない」

「お昼、奢る?」

「ありがと」

 そんな真紀の手も借り、配りに配ると昼近くになった。

 なかなか重労働だった。

「今日はどうすんの」

 昼食のテラスで真紀に聞かれた。

「うん。授業が4限までで、その後、夕方からバイト」

「バイト? 何?」

「中3受験生の家庭教師」

 4限が4時40分終わりだから、玲と話してこの日の家庭教師は6時からにした。6時から9時までの3時間だ。

「うわ。そんなのもやってんだ」

「そうね。掛け持ちになるときもあるけど、それだけで今日は上がり。明日はいつものさ。〈私の居場所 ・本郷・1〉の方だから」

「ああ。病院か」

「そ」

〈私の居場所 ・本郷・1〉とは、東大病院のことを指す。ちなみに、この〈私の居場所〉には2もあり、それが〈四海舗〉だ。

 どちらも本郷だが、観月が駒場にもドミトリーにもいないときの居場所、ということになる。

 明日はとにかく、東大病院で定期検査の日だった。

 それで体調の万全を考慮して、普通なら〈蝶天〉には出勤しない。

 ただ今回は、本当なら大里珠美が〈蝶天〉に今日から出勤のはずだった。1人は心細いかも知れないと思い、それで少し前までは観月も出勤するつもりでいた。

 それが、急ではあったが珠美の先週の出勤で、まあ、観月が考えなくてもいいようになった。

――なんか度胸があるって言うの? やる気が全面に出てて、最初はあのくらいでもいいんじゃない?

 と、その日の珠美の様子を見て、アキホグループのシオリがそう評したくらいだ。

 やる気の珠美はそれから、先週は観月と一緒に連日の出勤をした。

 観月の場合は、そもそも5日と6日の両日は店長たちに頼まれたからで、7日は本営業開始日だからなんとなく出ないわけにはいかない空気に巻き込まれて出勤した。

 それで連チャンになったが、珠美は自ら進んで手を挙げた格好だ。

 観月は病院やら授業の関係で今週は銀座は休み勝ちになるが、珠美は今週もフルタイムのフル出勤をするようだ。

――水が合ったのかしら。でも、水商売に水が合うっていうのには、何かしらの理由が必要だけど。

 金曜にバーカウンターを挟んで、アキホはそんなことを観月に言った。

 良くないですか、と聞いた。

――そんなことはないわよ。

 アキホは緩く頭を横に振った。

――理由のある人は、強いから。遣り方さえ間違わなきゃ、大丈夫じゃない。

 大丈夫なら、脳の検査前にわざわざ飲酒と夜更かしをすることもない。

 どちらも間違いなく、脳にはダメージだ。

 特に、観月のように普段から膨大な負荷が掛かる脳には。

 それでこの日は、家庭教師の後はドミトリーで大人しく過ごすだけだった。

18


 翌朝、観月の目覚めは前日以上に強引なものになった。それこそ、携帯のアラームから3つの目覚ましからすべての設定を前倒しにした総動員態勢だ。

 こういう寮生の努力に応える寮母の竹子も、普段の朝食時間を前倒しにして観月の分を用意してくれた。

 なんといってもこの日は、東京大学病院に行く日だった。

 だから早く起きる、ということは別に恒例ではない。

 だが、前年で懲りたということもあり、この1月に関しては検査の日取りを入念に考えた結果、この12日の予約の1番時間である、8時半に設定した。

 まあ、このことだけが理由ではないが、まずこの予約時間ありきで全体の行動が早くなったのは間違いない。

 もともとの観月の主治医である、和歌山市立病院の藤崎医師が、観月が東京に出てくる際、東京大学病院の精神神経科に細かな紹介状を書いてくれた。

 幸運なことに、藤崎医師も東大医学部のOBだった。

 以来、観月の担当は同大学病院精神神経科の百合川女医に移り、毎月10日前後に、各種の定期的な検査や問診を受けるのが決まりになった。

 ただし、検査にしろ問診にしろ、目的は経過観察で、治療ということではなかった。現状維持の確認だ。

 いずれにしろ、藤崎というOBからの細かな紹介状は、百合川女医の判断もあって東大病院内を巡ったようで、初診のときから観月の受診は1科に留まらず、多岐に亘った。

 精神神経科、脳神経外科、脳神経内科、心療内科、etc.

 毎回全科の受診ということはないが、1科の受診で済むということもまずなかった。

 そのため、特に変わりのない通常の受診でも、早くて1時間半、長ければ2時間を優に超すこともざらにあった。

 観月自身としては〈四海舗〉という待機場所も見つけ、1年時の、しかも年内のうちに〈慣れた〉つもりでいた。

 甘かったと知るのは、2年生の現在からちょうど1年前、東大で迎えた初めての正月、1月のことだった。

 この年初めの受診で、観月はしこたま懲りた。異常に大変だったのだ。

 2004年の1月10日は土曜日だった。

 一般企業では長い人で12月の29日から1月12日まで、なんと15連休という長期冬期休暇が可能だった。

 このときの、観月の恒例とする10日前後の検査予約となると、平日初日は13日ということになった。

 初めての正月ということもあり、律儀に10日という前提を守り、その10日を過ぎた長期連休明けの13日の午後に予約を入れた。

 大学のカリキュラムとしてこの日、1学年次は補講があり、その関係で午前にすることは出来ず、やむなく午後にしたのだが――。

 この日は特に混雑が激しかったようだ。観月は予約時間のだいぶ前に病院に入ったのだが、午後診療が始まる前から、東大病院のロビーはまるで、若宮八幡神社の初詣と見紛うほどの混み具合だった。

 結果として、午後1時半の予約に対し、観月がすべての検査と問診を終えたのは午後6時過ぎだった。

 それに懲りて、1年後のこの年は休み明けの初日は11日になるが、そこは外した。1拍置く格好だ。

 外して、その分努めて早くした、というわけではないが、空いていたので時間は朝一番から入れた。1日ずらしても、それなりに混雑するだろうことは検査等の予約状況から年内のうちにわかっていた。

 どのくらいの時間が掛かるかの予測まではつかなかったが、早く始めればその分早く終わるのは自明のことだった。

 まず検査部で検体検査の採血に始まり、脳神経外科、脳神経内科の案内で順に生理検査室を行き来し、各科の問診を経て、最後に辿り着いた診察室が精神神経科だった。

 百合川女医の診察室だ。

「失礼しまぁす」

「――小田垣さん。何それ?」

 スライドドアから入室した観月の様子を見るなり、百合川は怪訝な顔をした。

「いえ。今年初めてなので、検査と年始のご挨拶を兼ねたらこうなりました」

 今年もよろしくお願いします、と言いながら観月は頭を下げた。

 入室して普段より1歩前に出、〈和歌山土産詰め合わせ〉の紙袋を差し出す。

「有難う。頂くわ」

「なかなか、科の皆さんに回るほどはお持ち出来ませんけど」

「そう? 十分だと思うけど」

「ああ。なんか、回る先、回る先で皆さん、口を揃えるように同じことをおっしゃってましたけど。でも、先生。3つ4つずつ食べたって、そんなの全然、食べた気にならないじゃないですか」

「そうかな。2個でも私なんかは十分もたれる気がするけど」

 言いながら百合川は、紙袋を背後に控える看護師に渡した。

 振り向いた関係で、言葉の最後が聞き取りづらかった。

「えっ。なんですか?」

「いえ」

 百合川は右手を横に振った。

「個人的見解よ。気にしないでちょうだい。で、それより、小田垣さん、そのさ。――ああ。そうか。なるほどね。他の科でも配ったってことか」

「はい。検査室にも。一か所に一袋ずつっていうのが、どうにも申し訳ないですけど」

 MRI室や脳波検査室も含め、この日、観月が携えてきた土産は、百貨店の紙袋九つ分になった。

 それを各科や検査室に配り歩き、百合川の精神神経科で最後だった。

 観月としてはだいぶ身軽になったのだが、先程、百合川が怪訝な表情をしたのは、そんな今日の観月の格好を見たからで、納得したのはおそらく、そんな格好の理由を悟ったからのようだ。

 紙袋9つ分の和歌山土産を運ぶために、観月はまず、ドミトリーでワンダーフォーゲル部の友人から130リットルのバックパックを借りた。

 それに加えて、観月が使っている自分の60リットルのキャリーケースで運ぼうと思ったが全然足りなかった。

 はたと考え、梨花が大型のダッフルバッグを持っていることを思い出した。まだ新潟の荷物が入ったままだということで梨花は渋ったが、頼み込んで逆さにして振ってから借り出した。

 それで、中身を詰めて食堂に置いておいた土産袋は一旦ばらし、袋は畳んで仕舞い、効率を考え、同じ種類の土産を重ねて、バックパックとキャリーケースとダッフルバッグに分けてようやく全部を詰め終えた。

 それを全部携帯して電車に乗った。まるで雪山に向かう登山家のような格好になった。

 悪いことに、病院の予約時間から逆算すると、観月の行動と通勤ラッシュが見事に重なっていた。

 他人の迷惑も考え、ラッシュ前に都心部を抜けるための、さらに早い行動を観月は自分に強いた。

 そうして運んだ和歌山土産をもう1度、紙袋に入れて〈詰め合わせ〉状態に戻したのは、東大病院に来てからだ。到着は7時40分過ぎだった。

 4つまではまだ人のいない早朝のロビーで〈お店〉を広げてセットし、五つ目からはその都度、各科の検査室や診療室の待合で入室前に詰めた。

 ということで、最後になる百合川の前にいる観月は、小さくすることが出来たダッフルバッグこそキャリーケースの中だが、バカでかい登山用のバックパックを背負い、キャリーケースのハンドルを支えのように手にして、という格好だった。

 百合川でなくとも、病院に来る傷病人の格好かと言えば、異質な感じはあるだろう。

 それどころか、たとえばそれらが、この日に入院する患者の手荷物だったとしても違和感は満載だ。

 傷病人や入院患者がそんなものを自分で背負って抱えて転がして、病院にやって来るわけもない。

 そのくらいのことは観月にもわかる。簡単な道理だ。

 そもそも、病院に来る本来の目的と観月の格好は、意味合いをまったく異にするのだ。

 言えば医学と社会学、いや、民俗学的風習というか、日頃の感謝を込めて、年始回りの挨拶として――。

 とにかく、

「お口に合えば嬉しいです」

 観月は百合川に頭を下げた。

 細い背中で、大きなバックパックがやけに乾いた音を立てた。

「まったく、小田垣さんらしいって言えばらしいけど」

 百合川は微笑んだ。

 診察室の奥で看護師たちの弾んだ声が聞こえた。

 美味しそう、と。

 やはり、早起きして運んでよかった。

 日頃の感謝と新年の挨拶をしてよかった。

 また来月の検査予約をして、百合川の前を辞す。

 朝1番の、午前8時半から受け始めた検査と問診は流石に順調に進み、10時半前にはすべてを終えた。

「さぁて」

 この後は会計を待って、それから〈四海舗〉でエネルギーを補給する予定だった。

 夜は、児玉店長にまたバーテンダーを頼まれたから、〈蝶天〉に出勤しなければならない。

 その前にまた、資生堂パーラーに寄ろうか。

 それから〈ぎをん屋〉にも顔を出そうか。

 今日の〈蝶天〉に卸す京風スイーツはなんだろう。

 慌ただしい生活の中の束の間の休息、ささやかな楽しみ。

 少なくとも家庭教師のアルバイトは、この日は休みだった。


※ 次回は、2/10(月)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)