
愛憎とカネ勘定は別だ――中山七里「特殊清掃人」第12回
伊根の遺体があった部屋の清掃を終えた五百旗頭は、再び新宿署に向かう。
事務所に帰着した五百旗頭は照子宛ての請求書を作成し終えると、諏訪に電話を入れた。
「ついさっき当該物件の清掃を済ませたところだ」
『お疲れ様でした』
「浴槽の特殊清掃は何度やっても慣れることがないな」
『ウチも同じですよ。臨場するなり吐きそうになったヤツがいました』
「浴室だけじゃなく、リビングや寝室も鑑識が入ったんだよな」
『事故死と判断するまでは通常の捜査ですからね』
「現場を見て、不審な点が多々あった」
『五百旗頭さん』
諏訪の口調が警戒の響きを帯びる。
『先にも言いましたけど、五百旗頭さんはもう民間人なんですよ。犯罪捜査に関わらないでください』
「犯罪捜査じゃなくて、清掃費用の算出に必要な情報を収集しているだけだ。鑑識がゴミ箱の中を漁っていったろう。何か事故死を疑うようなネタはあったかい」
『そんなものがあったら事故死と判断しませんよ。ウチの署をいったい何だと思っているんですか』
新宿署管轄内では地元のヤクザはもちろん半グレ集団や中国マフィアまでが抗争に加わり、揉め事が絶えない。そのため、警視庁管内でも事件の発生件数は群を抜いている。自ずと事件性のない案件には手薄になる傾向が否めない。
「慢性的な人手不足で大変だと思ってるよ。もし俺が集めた情報があんたたち新宿署の役に立つのなら幸いだ」
束の間、沈黙が生まれる。諏訪がこちらの提案を値踏みしている気配が伝わってくる。
『五百旗頭さん、どこまで本気ですか』
「少なくとも俺が今まで警察に不利益をもたらしたことはないはずだが」
『それは、そうですけど』
警戒の響きが小さくなった。畳み掛けるのなら今だ。
「伊根欣二郎は女をとっかえひっかえしていたと言っていたな。それはどこからの情報だよ」
『死体の第一発見者である伊根の部下からですよ』
「へえ、社内でもドン・ファンぶりが有名だった訳かい」
『いえ、彼の付き合っていた女性が全員自分の部下だったからですよ。おまけに、その死体発見者がそのうちの一人でした』
五百旗頭は、あんぐりと口を開けた。
2
伊根の会社は新宿区荒木町の一角にあった。雑居ビルにオフィスを構えているとの事前情報で赴いたが、平成初期に建てられたような古めかしい建物だったので少し意外だった。
ただし意外な感はそこまでで、七階のオフィスに足を踏み入れると印象ががらりと変わった。落ち着いた内装と控えめに流れるBGMは初めて来訪する五百旗頭もリラックスさせる。オフィス自体はさほど広くないが家具の配置に工夫があり、手狭には感じさせない。
入口に一番近い場所に座っていた社員に来意を告げると、彼は一瞬目を伏せてから、応接室へと案内してくれた。
待つこと数分、現れたのは三十代と思しき女性だった。
「秘書の浜谷智美と申します」
キャリアウーマンというよりは、スケジュール管理に徹した裏方といった風情だ。伏し目がちで、なかなか五百旗頭の顔を見ようとしない。
「社長の自宅をお掃除していただいたようで誠にありがとうございます。これで故人も成仏できたと思います」
これで、という言葉は彼女が部屋の惨状を知っていることを窺わせる。
「浜谷さんは死体の第一発見者だったんですってね」
単刀直入に訊かれると、浜谷智美はその時の光景を思い出したのか、不味いものを舌にのせたような顔をした。
「会社では常に社長のサポートをしていましたから、きっと縁があったのでしょうね」
「縁と言えばプライベートでも深い縁があったのでは」
途端に智美は険のある目でこちらを睨む。
「本当にプライベートな話ですが、〈エンドクリーナー〉さんの業務に何か関係するのでしょうか」
「亡くなった伊根さんにはご家族がいらっしゃらないとか」
「ええ。ご両親は他界され、本人も一人っ子だったそうなので」
「それで困っています」
五百旗頭はさも困ったかのように頭を掻いてみせた。
「弊社は特殊清掃以外にも遺品整理を承っているのですが、伊根様の遺された品々をいったいどなたに形見分けしていいものやら判断に苦慮している次第です」
「形見分け、ですか。伊根社長はあまりブランド品には興味のない人で、さほど高価なものは身に着けていなかったと思いますが」
「会社では常にサポートをされていても私生活では別だったのではありませんか。だったら彼がどんな資産を持っていたかもご存じないはずでしょう」
智美は口惜しそうに唇を噛む。
「〈イネ・ライジング〉さんがベンチャー企業というのは聞きましたが、具体的にはどんな製品を開発しているんですか」
「製品開発というよりは企画ですね。近年ではドローンを利用した新しい広告宣伝をプロデュースしました」
「あれは飛ばすのに、土地の所有者や管理者の承諾を得るのが大変らしいですね。 確か道路交通法の縛りがあるんでしたっけ」
「よくご存じですね。でも弊社の企画というのはイベントやコンサート会場で演出用にドローンを飛ばしたりという試みも込みなので、利用目的は広範なのです」
彼女の説明によれば、巨大なクジラの張りぼてをドローンで会場上空を浮遊させたり、立体の広告物を大挙して空に並べたりするらしい。確かにドローンという既成の利器を効果的に使用する画期的なアイデアだと感心した。
「お蔭様で弊社の業績は右肩上がり、経常利益も毎年更新しております。もちろん利益は社員に還元されており、基本給は毎年アップしています」
「そりゃあすごい」
「当然、社長が手にする報酬も年々上がっています。でもそれにも拘わらず、伊根社長はブランド品を買ったり家を購入したりはせず、もっぱら飲み食いや交遊に散財していました」
「宵越しのカネは持たない主義だったんですかね」
「本人自らが言ってましたが、根っからの享楽主義者なんだそうです」
「その享楽主義の中には女性関係も含まれていたんでしょうねえ」
「否定はしません。警察にもそう申し上げましたから」
「あなた自身も、伊根さんと付き合っていたんですよね」
智美は軽く五百旗頭を睨んでいたが、やがて腹立ち紛れのように嘆息した。
「あれは、とても付き合っていたと言えるような関係ではありませんでした」
「彼のことが好きじゃなかったんですか」
「まさか。強制的な関係でした」
いったん話し始めると、智美は感情的になっていった。
「秘書という仕事なので、伊根社長とは四六時中一緒でした。ベンチャー企業はどこもそうなのか社員数が少なく、一人一人がこなさなければならない業務の範囲が広くなります。勢い、残業や休日出勤が当たり前になって、社長と一緒にいる時間も増えてしまいます」
「一緒にいる時間が長ければ男女の仲に発展してもおかしくないでしょうねえ」
「そんなんじゃありません」
智美は語気を強くした。
「わたしは社長のストレスを発散する道具に過ぎませんでした」
「これはまたひどい卑下の仕方ですね」
「卑下ではなくありのままの表現です。社長である手前、取引先や社員には有能さと篤実さをアピールしなければなりません。実際の社長は有能ではあっても、決して篤実ではなかったんですけどね」
智美の証言には次第に毒が現れ始めた。
「外面が良ければ良いほどストレスは溜まります」
「そのストレスが、いつも一緒にいるあなたに向けられたんですね」
「社長が他の社員とも関係しているのは知っていました。わたしとの間は男女の関係なんて甘いものじゃなくて、単なるパワハラの対象だったんです。俺は取引先の接待で疲労困憊している。今度はお前が俺を癒す番だとか。命令に従わなければ、秘書から営業に戻すぞって」
「それだけあからさまなパワハラなら断る手立てはいくらでもあったでしょうに」
「四六時中一緒にいると、世間の常識とかモラルが段々麻痺してくるんです。社長の言っているのが正しくて、逆らうのはルールに反するみたいな。まともな判断力があればおかしいというのは分かるんですけど、この感覚は他の人にはちょっと理解しづらいと思います」
「伊根さんの自宅に行ったことはありますか」
「残業で終電を逃した時はしょっちゅうでした」
「伊根さんの形見分けをご希望ですか」
智美は束の間考え込み、ゆっくりと面を上げた。
「本当は社長の形見なんて欲しくないんですけど、わたしにはもらう権利があるように思います。矛盾していますけど」
「矛盾はしていないと思いますよ」
愛憎とカネ勘定は別だ。だが敢えて口にはしなかった。
「これで尋問は終了ですか」
「尋問だなんてとんでもない。形見分けのための形式的な質問ですよ」
「わたしに声をお掛けになったということは、他の女性社員にも同じ質問をするつもりなんですね」
「察していただけて大変有り難いですな」
「今、順番に来させます。少々お待ちください」
※毎週金曜日に最新回を公開予定です。
中山七里さんの朝日新聞出版からの既刊