
桜井美奈『復讐の準備が整いました』第8回
シュウを自分のもとに引き止めておけたのは、それほど長い時間ではなかった。
そして、これで最後にしようと思っていたのに、やっぱりまた行ってしまう。あの場所がなくなったら、リリはどこへ行けばいいのか、わからないからだ。
自分が、自分らしくいられるところ。
それがあの店ではないことはわかっていても、次の場所が見つけられないリリは、それからも金を作っては、シュウに会いに行った。でも、行く回数も使える金額も少なくなっていくと、どんどん雑な対応をされた。
シュウに大切にしてもらうには、お金が必要だった。
リリは3日ほどかけて、10を超える店舗を回り、いつものように薬を求める人たちのところへ行った。
「あ、リリだ」
歓迎ムードの声で、リリに近寄ってくる少女がいた。香月瑠奈だ。それが本名だとわかるのは、中学校の学生証を見せてきたからだ。甘えたがりの寂しがりや。いつも誰かと一緒にいたいらしく、1人になるのを怖がっていた。リリにもよく絡んでくるが、目的は決まっている。
「ねえ、薬ちょうだい」
「どのくらい? 今日は瓶もあるよ」
「何錠入りなの?」
「1番大きいのは1瓶120錠かな。それは2瓶しかないけど」
「あ、じゃあそれを全部」
「わかった」
「え、売ってくれるの? リリって、いつもそんなにいっぱいはダメって言うのに」
「まあね。その代わり今日は安くないよ」
「えー、あ、うんいい。それでいい」
瑠奈は一瞬だけ異を唱えそうになったが、リリの気持ちが変わらないうちに薬が欲しいのだろう。そそくさと財布から1万円札を2枚ほど出した。どうやって得たかを聞くつもりはないが、不健康そうだな、と思いながら金を受け取った。
リリにしてもまだカバンの中には大量の薬がある。早く売って現金にしたい。瑠奈との取引が終わると、ぞろぞろと、リリの周りに人が集まってきた。
個数制限をかけなければ、薬はあっという間になくなる。値段も、市価より高いくらいなのに、だ。
「まだある?」
背後から声をかけられて、リリが振り向くと、背の高い男がいた。こげ茶色のレンズが入ったサングラスをかけ、短髪で背が高いから威圧感がある。遊馬晃臣、19歳。以前瑠奈に、遊馬のSNSのプロフィール画面を見せられて、彼には気をつけろと忠告されていた。
「ない」
「ずいぶん派手に売ってたな」
サングラスのせいで遊馬の瞳は見えない。だが、グラス越しに睨まれているのは、低い声から伝わってきた。
刺激しないほうが無難そうだ。
「今日だけだから見逃して」
実際、1日でここまで大量に売ったことはなかった。
「いや、この前も売ってた」
どうやら、しばらく見られていたらしい。
「まあ、1度に売りさばく量は少ないし、毎日ってことでもない。だけど、定期的にここで売っている。それ、どうやって仕入れてる?」
「ちょっとね……」
本当は、関係ないでしょ、と言いたかった。だが、遊馬を怒らせたらどうなるかわかったものではない。
リリは少しずつ距離を取るように足を動かす。
だが遊馬は、リリが動いた分だけ近づき、口元をにやりと歪めた。
「盗ったよな」
「してないし!」
遊馬もそれ以上は追及してこなかった。
「まあいい。これ以上、ここには来るな」
なぜ遊馬に、こんなことを言われなければならないのかわからない。
ここは、誰のものでもない。行き場がない人たちが、居場所を求めてやってくるところだ。それなのに、まるで自分のモノのように言うのが、気に入らなかった。
「そんなの、私の勝手でしょ」
遊馬がリリの首元に手をかける。
「なるほど。じゃあ、俺がここで何をしようとも勝手だな」
遊馬の手には力は入っていない。だが、一瞬で首を絞められてしまうところにある。そして筋肉質の腕を見れば、やられてしまうことは想像に難くなかった。
リリの足が震える。
「もう1度言う。ここで勝手なことをするな。店に出入りすることまでは目をつむる」
もしかすると、遊馬もリリと同じように市販薬を売って利益を得たいのかもしれない。リリがいなければ、競争相手が減る。その分、遊馬は高値で売れるかもしれない。だから、リリの動きを止めたかったのだろう。
「別に、いつまでも続けるつもりはないし」
「じゃあ、今日でやめるんだな」
遊馬の指に力が入った。大きな手は、片手でリリの首を楽々つかんでいる。あと少し力を籠めれば、リリは物理的に呼吸を止められてしまう。
とはいえ周囲に人はいる。チラチラと、こちらをうかがう様子はある。リリが本気で助けを求めれば、誰かがくるだろう。
これは脅しだ。
「わかった」
リリが了承すると、遊馬の指が首から離れた。
軍資金を得たリリは、すぐに『シリウス学園』へ行った。そしてその日、久しぶりにシュウと楽しい時間を過ごすことができた。
前回のシュウとの時間が忘れられず、数日後、リリはまたドラッグストアへ行った。それまで近所の店は避けていたが、最近はダミーの空き箱をレジで交換する店も増え、思うように薬を手に入れられない。いくつかの店を回ることを考えたら、顔見知りがいるかもしれない自宅近くの店にも、行かざるを得なかった。
だが、いつものようにドラッグストアで薬をカバンに入れると、店を出たときに「ちょっと」と、声をかけられた。
初めて捕まったことに、リリは頭の中が真っ白になった。
ヤバい、ヤバい。こんなことしていたら、シュウに会えない。
今日はもう、行くって連絡したのに。
待っているって、返事もあったのに。
それでもかろうじて、リリは叫ぶのを堪えた。バレたら面倒なことになることだけはわかっていたからだ。
店のバックヤードに連れて行かれ、親の連絡先を口にしたのは、捕まってから20分くらいしてからだった。
険しい表情で店に来たリリの母親は、床に頭が付くかと思うばかりの勢いで謝罪をした。
「大変申し訳ありません」
怒りと悲しみと、そして困惑が混ぜ合わさったような表情をしている母親を見たことは、これまで1度もなかった。
「本当に、本当に申し訳ありません」
リリも一緒になって頭を下げた。何が悪かったのか、正直なところよくわかっていなかった。もちろん、万引きをすれば捕まることも、店の物を盗るのは悪いことだというのも知っている。だけど、何度も繰り返してきたことで、いつの間にか罪悪感は薄れていた。
ただ、母親の様子を見ていると、少なくとも尋常でないことをしたのは理解できた。
幸いその日は母親が代金を支払い、帰ることを許された。
だが帰り際、店の人が言った。
「一応、初犯だから今回は学校にも言わないでおくけど、慣れているよね?」
捕まったのが初めてだっただけでしょ、と暗にほのめかされた。
「あ……えっと……」
リリは、うん、とは言えなかったが、違うとも言えなかった。
「自分で飲んでたの? 薬は、決められた使い方をしないと、身体に悪いんだよ」
リリに向けている眼差しは、心配も含んでいた。
商品を盗まれた店の人がなぜそんな顔をするのかと疑問に思ったが、売ったお金で遊んでいたリリには、訊ねることなどできるわけもない。
結局「はい」とだけ答えて、店をあとにした。
自宅に着くと母親に叱られ、夜になると父親からも電話でさらに怒られた。
何が不満だ、どうしてこんなことをしたんだ、と訊かれても、答えようがない。眠っているとき以外はずっと不満で、シュウに会っていたときだけが、何もかも忘れていられたからだ。もっとも最近は、その時間も前ほど楽しめない。
「お前は、いったい何がしたいんだ! 自分の将来をどう考えているんだ!」
受話器越しに怒鳴る父親の声は割れていて、聞き取りづらかった。それでも怒っていることは十分伝わってきた。
父親は、小学生のころには建築士になりたいと思っていたらしい。そのまま夢をかなえた父親には、リリの気持ちなど理解できるわけがない。
リリのそばにいる母親は、泣きながら何度となく同じことを口にしていた。
「やればできるはずなのに、どうしてやらないの。勉強だって、もうちょっと頑張れば、もっと上の学校に入れたのに……」
親の価値観は、やっぱり学歴だけだ。こんな場面でも変わらないことに、リリは絶望的な気持ちになった。
「それに盗んだ薬はいったい、どうしていたの? 私が見た感じでは、自分で飲んでいないでしょ?」
「……いつも家にいない人たちが、そこまでわかるわけ?」
「これが初めてのことだったら、気づかないでしょうね。でも、お店の人の話しぶりだと、もう何度もしているんでしょ。それなのに、1度も私が気づかないなんておかしいじゃない!」
激昂する母親もまた、子どものころに新しい薬を作りたいという夢を抱き、製薬会社に入った人だ。母親の祖母、リリからみると曽祖母になる人が病気で、母が小学生のころに亡くなっている。それを見て、自分が病気を治す、と思ったという。
夢のために努力をして、それをかなえた人からすると、今のリリはゴミのように思えるに違いない。
顔を真っ赤にして泣いている母親は、リリの胸倉をつかんだ。
「これまで盗んだ薬、どうしたの?」
売ったことを認めればさらに怒られる。飲んでないと言えば、どこへやったと訊かれる。自分で飲んだと言えば、すぐにでも病院に連れていかれるだろう。
だからリリにできることは、黙っていることだけだった。
「答えなさい!」
何度怒鳴られてもリリが口を閉ざし続けると、親の方が先に音をあげた。
だからといって、無罪放免ではなかった。当面、学校以外の外出は禁じられた。
とはいえ、両親が仕事を休むわけもなく、GPSで管理されるだけだ。
翌日、リリは学校から自宅へ帰ると、制服から私服に着替えて、スマホを置いて再び家を出た。
財布よりもスマホがないと落ち着かない。電車に乗るのも不便だし、誰かから連絡がきているか――と、1番気になる相手には、これから会うのだから、何とか我慢できた。仮に親から連絡が来ても、寝ていたと言えば、大事にはならないだろう。
財布にはそれほど残っていなかった、リリの全財産が入っている。
店につくと、シュウの姿がなかった。
リリは新顔の店員にシュウが出勤しているかを訊ねた。
「今、ちょっと出てます」
「買い物とか?」
「あ、俺は詳しくは聞いていないので」
言葉の濁し方で、外で客の相手をしているのがわかった。
「せっかくなので、ゆっくり待っていてください。俺、ドリンク作れるんですよ。もちろんノンアルで作りますから」
理久と名乗った男性は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「理久さんは、何歳なの?」
「22です」
瞬時に噓だと思った。老け顔ではないが、チャラそうに見えて、妙な落ち着きを感じた。
「本当は何歳?」
リリが問い詰めると、理久は周囲を見回してから、「24」と答えた。
「24の新人……」
「この店にいるときは、22歳の理久です」
「どうしてこの店に?」
「大人はいろいろあるんです。まあ、方向性の違いってやつ?」
「そんな、バンドの解散理由みたいな……」
ドリンクを作れると言うだけあって、理久は手際よくシェイカーを振っていた。初めてアイスティー以外の物を頼んだ。
「私のこと気にしなくていいから」
シュウを待っているだけだから、あなたには用はないと暗に伝えても、理久はあまり気にした様子はなかった。
「推しを変える気はないんですね」
「うん、今日で最後にするつもりだから」
「その言葉、シュウさんに会っても言えますか?」
新人の理久に見抜かれていたことが面白くなかった。ドリンクは人工的な甘い香りがした。
「そういえばリリさん、撮影NGですか?」
シュウ以外と写真を撮ってはダメだと思っているのだろうか?
意味がわからず、リリが「撮影って?」と訊ねると、このあと取材で写真を撮る人が来ると説明された。
「テレビとか雑誌?」
「いえ、そういうんじゃないです。あ、いらっしゃいませ」
店のドアが開くと、リリの親と同世代くらいの、ジャケット姿の男性が1人で店に入ってきた。
メンズコンセプトカフェに、男性が1人で来るケースはほぼない。
「先日はありがとうございました。今日は突然、お願いして申し訳ありません」
「今なら、すいているので大丈夫です、と言われています。お好きに撮影してください。ただ、お客様を写す場合は、了承を得てからにしてくださいとのことでした」
理久はオーナーから言われていることを、そのまま伝えているようだ。撮影に来た男性は、特に質問をすることなく、うなずいていた。
男性は入り口に1番近いイスにカバンを置き、スマホを出した。それを見てリリは少し驚いた。撮影というから、てっきり大きなカメラで撮るとばかり思っていたからだ。ただ、よく考えれば男性が持っていたカバンは書類などを入れる厚みのない横長のもので、そこには大きなカメラは入りそうもなかった。
「じゃあ、奥の方から撮影させていただきますね」
どういうことだろう?
しばらくリリがドリンクを飲んでいると、スマホを手に男性が戻ってきた。
「あの、飲んでいるところを撮ってもいいですか?」
「SNSとかに載せるんですか?」
さすがにそれはまずい。親に見つかる可能性は低いだろうが、どこでバレるかわかったものではない。
男性の目的がわからないリリが警戒心を見せると、「そういうのはないです」と、ジャケットの内ポケットから名刺入れを出した。
「私、永陽出版の出水と申します」
雑誌の取材? と思ったが、名刺には『月刊ダイヤ』とあった。
「青年向けの漫画雑誌です。知らないですよね」
「ごめんなさい……」
「先日、私が担当している先生と取材させていただいたのですが、なぜか1部データが消えていて、再度撮影させてもらうことになったんです。先生は地方にお住まいなので、撮影だけなら私でもと思いまして」
そういえば、シュウが漫画家の人が取材に来たと言っていた。
「そういうことなら、写真がどこかに載るってわけじゃないんですよね? だったら、いいですよ」
ちょっと面白そう、と思うのは、自分の知らない世界だからかもしれない。
「こういうことって、よくするんですか?」
出水はリリに向けていたスマホを下ろした。
「取材ですか? 題材にもよりますし、描かれる先生によってもまちまちですが、珍しくはないですね。漫画家さんによっては、自分で取材先を決めて、1人で見てこられる人もいますから、必ずしも編集者が同行するわけではありませんけど」
「これまでどんなところへ行きましたか?」
出水は、うーん、と悩まし気に声を漏らした。
「1番普段の生活からでは見られない場所となると、自衛隊ですかね。子どものころから戦闘機の図鑑とかを見るのが好きだったので、テンションが上がりました。少しだけ訓練にも参加させてもらいましたし。翌日動けなくなりましたけど」
「へー……」
リリにとっては、それほど興味のないことだったせいか、そっけない返事になってしまった。
それが伝わったらしく、出水が苦笑していた。
「普段の生活では見られない場所を見せてもらえる楽しさはあります。そういう意味では、こういった店も、私には縁がなかったので、興味深いです」
「知っても、どうってことないと思うけど」
出水がリリにスマホを向ける。距離を取って店の全景が入るようにしながら、何回かシャッターを押していた。
「もちろん、知らなくても生活はできます。でも漫画家の先生たちは、もっといろいろ経験をしておけば良かったと言います。知っていることと、知らないことでは、描き方が変わってきますから」
「そんなものなのかなあ……」
リリの両親は、メンコンなど存在すら知らないかもしれない。でも、そのことを少しも悔いているわけではないし、恥じているわけでもない。むしろ、娘がこの世界に入り浸っていることを知ったら、烈火のごとく怒るだろう。
「知識があって損をすることはありません。今の経験が生きるときがきっとありますよ」
出水はそう言って、店をあとにした。
「こんなことが経験になるとは思えないけど……」
出水が帰って少しすると、シュウが店に戻ってきた。
「シュ――」
最後まで言えなかったのは、店に入ってきたのはシュウ1人ではなかったからだ。シュウの隣には、ぴったりとくっつくように、リリより少し年上の女子がいた。
リリに気づいたその女子は、余裕の笑みを浮かべている。
シュウは特に狼狽する様子もなく、リリに近づいてきた。
「あれ、来てたんだ。いつからいた?」
「30分くらい前、だけど……」
来ることは伝えておいた。だが、すっかり忘れたかのようにふるまっているシュウは、意外なことを口にした。
「タツって知ってる?」
あまりにも予想外なことに、リリの反応が遅れると、待ちきれないとばかりにシュウが話す。
「広場の隅にいるガリガリの男子。リリより少し上かな。いや、顔もちゃんと見たわけじゃないけど、栄養失調みたいなヤツ」
「あ……QLTAMのロゴの入った帽子をかぶっている人?」
「そう、ソイツ」
「どうかしたの?」
「泡吹いて、救急車で運ばれてた」
「え?」
「一気に飲んだんだろうなあ」
シュウの言葉を遠くに感じながら、リリの足が震えた。
救急車で運ばれる人は、そこまで珍しくはなかった。たいてい、いつの間にかまたやってきて、街の中に溶け込んでいる。
だから少年も大丈夫。そう思おうとするが、やっぱり怖い。
「ねえ、いつまでここで話してるの?」
女子はシュウの腕をつかんで引っ張ろうとしている。
シュウは隣にいた女子に、先に店の奥に行くように言ってから、リリの耳元でささやいた。
「アイツに薬売ってたよね」
見られていたのか、誰かに聞いたのか。シュウの言葉には確信を持っている響きがあった。
それが事実なだけに、リリは否定できない。
「ほどほどにした方がいいんじゃない? あんまり派手にやると、パクられるよ?」
シュウは「ほどほど」というところを少し強調するような言い方をしていた。
「別に、俺には関係ないけどさ」
じゃあね、とシュウはリリを残して店の奥へと行った。
恐らくシュウは、リリはもう、自分のために金を使う客だと思わなくなったらしい。それ以上に魅力的な打ち出の小づちを見つけたから、面倒な客はいらないと判断したのかもしれない。
だが何より、自分がしたことの結果を知ってしまって怖くなった。わかっていたことなのに、見て見ぬふりをしてきた現実が一気にリリに覆いかぶさってきた。
ここにはいられない。
リリは代金を支払うと、逃げるように店から飛び出した。
※ 次回は、2/18(火)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)