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鬼火 鳴神響一

 


    

【1】


 

 石造りの建物のなかは陰うつな蛍光灯の明かりで照らされていて湿っぽかった。一〇〇年以上はっていそうな古めかしく陰気な警察署内だった。鉄格子の向こうには隣接するワイナリーを取り巻く明るい緑の森が見えている。
「小僧たち、いい加減に観念しろ。おまえたちは麻薬の密売人なんだ。一生刑務所暮らしは覚悟するんだな」
 なまりの強い英語が響いた。
 黒い制服を着たせぎすの中年警察官は、人さし指を突き出して脅した。
「ウィーンで借りたレンタカーです。トランクに入ってた工具入れなんて触ってもいません。麻薬はクルマを借りたときに最初から入っていたんです」
 僕の相棒は声をらして叫んだ。
「その説明は聞き飽きた。もっとマシな言い訳はないのか」
 憎々しげにあごを突き出して警察官は低い声で言った。
「事実なんです。僕たちは日本から来た大学生です。この国に麻薬なんて持ち込むはずはありません」
 目の前の机がドンと鳴った。振動が空気を通して伝わってきた。
「おい、小僧、めるなよ。おれたちはたしかに二〇〇グラムのコカインを押収してるんだっ」
 耳が痛くなるほどの声で警察官は怒鳴った。
 ウィーンで真新しいワーゲン・ポロのレンタカーを借りた僕たちは、スロバキアに入り、ドナウ川沿いのデヴィーン城を見学した。その後、首都のブラチスラバ市街の中心地を目指して出発したのだ。ところが、五キロも走らないうちに二台のパトカーに追尾され停止を命じられた。次々と降りてきた六人の警察官に、クルマじゅうを調べられた。
 トランクを開けた警察官たちの叫び声が上がった。
 僕たちは拳銃けんじゅうを突きつけられ身体を拘束された。トランクから麻薬が出てきたと警察官は告げた。麻薬密輸の嫌疑で僕たちは近くの小さな警察署に連行されたのだ。
 すでに荒っぽい取り調べが三時間にも及んでいた。
 いっさい身に覚えのない嫌疑だった。二人とも麻薬はおろかタバコも吸わない。もちろん密輸なんか夢のなかでも考えたことはなかった。
 こんなに恐ろしい災厄に巻き込まれるとは……。
 国境を越えてこの国に入ってきたことを心の底から後悔した。
「ひと昔前なら死刑だ。我が国で死刑が廃止されたことを神に感謝しろ……まぁ、おまえたちの態度によっては考えてもいいんだがな」
 もう一人の太った警察官はニヤニヤと笑いながら左右のてのひらを開いて目の前に突きつけた。
「一〇〇万スロバキア・コルナだ。それで勘弁してやってもいい」
 太った警察官は急にまじめな顔になった。
 ワンテンポ遅れて僕は気づいた。この男は賄賂わいろを要求しているのだ。
 こいつらは最初から賄賂をせしめる目的で、僕らのクルマを止めたのに違いない。
 つまり僕たちは冤罪えんざいに陥れられたカモなのだ。
 腹の底から怒りがわき上がってきた。
「そんな大金……持っているわけない」
 僕はかすれ声で答えた。
 一〇〇万スロバキア・コルナは、日本円では五〇〇万円くらいになるのではなかったか。
「まぁ、支払いについては相談に乗らないでもない。おまえはいい時計をしているじゃないか」
 僕のオメガを物欲しげな目で見て、太った警察官は言葉を続けた。
「だが、拒否すれば、おまえたちは二度と塀の外には出られないぞ。この国では最近、麻薬が青少年をひどく汚染している。外国からの持ち込みは決して許すことはできない。おまえらの罪は重いんだ」
 太った警察官はぶ厚い唇を突き出した。
「冤罪だ。僕たちはそんなことはやっていないっ」
 怒りで顔全体が膨れ上がったような錯覚を感じながら、僕は大声で叫んだ。
「おいっ、静かにしないと本当に撃つぞ」
 太った警察官は素早くホルダーから黒光りする拳銃を抜いて、僕に銃口を向けた。
 全身が板のようになった僕は、恐ろしさのあまり身体が震えることさえなかった。
 そのときだった。
 野太い声のスロバキア語が背後で響いた。
 振り返ると、スーツ姿の大柄な男性と、薄青のワンピースを着た少女が立っていた。
 男性は早口のスロバキア語で弾丸のようにしゃべり始めた。
 僕たちを取り調べていた二人の警察官が立ち上がった。
 彼らは顔色を失って、スーツの男性に向かって必死に言い訳を始めた。
 だが、スーツの男性は「! Nie! Nie!」と叫んでいる。警察官たちの言い訳を否定しているようだ。
 警察官たちは二人とも石床に両膝りょうひざをついた。胸の前で手を組んでいる。
 引きつった表情の彼らは、スーツの男性に向かって哀訴しているようにも見える。
 助かった。僕たちを襲った災厄は過ぎ去ろうとしている。
 僕は全身から力が抜けるのを覚えた。
 ようやく、スーツの男性のかたわらにいる少女に目を向けることができた。
 ヨーロッパ人と見えるが、どこの国の女性かははっきりとわからない。
 鼻筋の通った白い細面に薄いグレーのひとみ。ふっくらとしたやさしげな唇。まさに美少女だ。
「僕たちはもう不当な扱いを受けなくてよいのですね」
 あまりうまくない英語で僕は少女にいた。
「こちらは国家警察のコヴァチョヴァ警部です。ブラチスラバ市警察の腐敗を調べています。残念ながら、この地の警察官の一部には旅行者などを冤罪に陥れて金品を脅し取る人間が存在します。彼はあなたたちをその被害から救いに来ました」
 それはきれいな発音の日本語だった。
 僕は口もきけないくらいに驚いた。
 コヴァチョヴァ警部は僕たちを見て厳しい顔つきで頭を下げた。
「あなたが助けてくれたのですね」
 椅子いすから立ち上がることができ、近づいてきた相棒が日本語で少女に問うた。
「隣のワイナリーを訪ねたら、あなたたちが連行されるところを見ました。あなたは日本語で『僕たちは無実だ』って叫んでいましたね。あわてて関係機関に連絡しました。安心してください。あなたたちは自由です」
 まさに彼女は救いの女神だった。
「そうだったのですか……」
 相棒はうなり声を上げて長く息を吐いた。
「あなたはどなたなのですか」
 震える声で僕は訊いた。
「ブラチスラバ市在住の者です。国籍はあなた方と同じ日本ですよ」
 救いの女神はにこやかな笑顔で答えた。
 日本人だったのか。あらためて僕は驚いた。
「ありがとう。本当にありがとう」
 相棒はその場に土下座した。
「あなたは生命いのちの恩人です」
 隣で僕も石床に膝をついた。
「立ってください。でも、よかった。お助けできて」
 少女はやわらかく笑って白いハンカチを差し出した。
 僕の顔はいつのまにか涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 

    

【2】


 

 五月の空は澄みきって輝いていた。
 左手にフェリス女学院のホールが鎮座する汐汲坂しおくみざかが続いている。現場はその一本東側の坂道だった。
 途中の左手には元町百段公園があり、最後は階段となって代官坂通りに出る。
 坂の入口には黄色い規制線テープが張られていて、山手が丘署の地域課員が立哨りっしょうしていた。
 すぐ上の山手本通りには、パトカーや面パト(覆面パトカー)などの捜査車両がずらりとまっていてものものしい雰囲気が漂っていた。
 神奈川県警捜査一課の夏目吉将なつめよしまさ巡査部長は、部下の野口麻衣のぐちまい巡査長とともに、左右に豪邸の建ち並ぶ坂道を下っていった。
 ふだんは制服姿の女子中高生が登校のために上ってくる時間帯だ、人の姿は見られない。
 狭いながらも自動車が通れる舗装路が終わって、階段が始まるところまで下りてきた。
 数メートル下に踊り場が見えている。中央付近には、頭を下にしてうつ伏せに倒れている男性の遺体が見えた。
 遺体の周辺でライトブルーの活動服に身を包んだ鑑識課員が作業中だった。黒地に白い英数字の入った鑑識標識がいくつも並べられ、指紋採取や写真撮影の作業が続いている。
 少し上の段にスーツ姿の二人の機動捜査隊員が立っていた。
「あれぇ、もう捜一のお出ましですか」
 顔見知りの機動捜査隊員が、吉将を見て階段を上りながら声を掛けてきた。
「たまたま、港の見える丘公園の近くにいたんだよ。一斉無線を聞いたからのぞきに来たんだ。うちの課が臨場するんで先遣隊にさせられたってわけだよ」
 苦笑交じりに吉将は答えた。
「そりゃ、間の悪いことでしたね……ところで君は初めて見る顔だね」
 機捜隊員は麻衣の顔をじっと見つめて訊いた。
「四月から捜査一課に参りました野口です。以前は厚木署の刑事課におりました」
 麻衣はにこやかに答えて頭を下げた。
「夏目さんによく仕込んでもらうといいよ。なんせこの人は鋭いからね」
 にやにや笑いながら機捜隊員は言った。冗談なのかもしれない。
「はいっ、頑張ります」
 元気よく麻衣は答えた。この初々しさが吉将にはとまどいを呼ぶ。
「ところで、事件性はありそうかな」
 吉将の問いに機捜隊員は首をかしげた。
「うーん、判断が難しいところじゃないですかねぇ。階段の手すりからもいくつも指紋が出てますけど、ホシのものとは限らないですしね。たまたま足を滑らせて階段を転げ落ちたのか。それとも誰かに突き落とされたのか……」
「転落時にできたもの以外の傷が出ないと、検視官も他殺とは断定できないかもしれないな」
「ええ、判断しにくいでしょうね」
 そんな会話を続けていると、年輩の鑑識課員が階段の下から声を掛けてきた。
「おい、作業は終わったぞ」
 吉将たち待機していた者はいっせいに階段を下りていった。
「うわっ、ひどっ!」
 麻衣が頓狂とんきょうな声で叫んだ。
 遺体はすさまじい形相で仰向けに転がっていた。恐怖が顔にりついたように目をき、顔中に深いしわを刻んでいた。
 とは言え、死体のこんな表情は珍しいものではない。
 麻衣は厚木署の刑事課強行犯係で二年は勤めている。いまだに死体にここまで驚くのか。
 焼死体や水死体に出会ったら、麻衣はどんな反応を示すのだろうか。
 しばらくすると、捜査一課のメンバーや検視官が現場到着ゲンチャクした。本部から近いこともあって、福島ふくしま捜査一課長も臨場した。
 検視官はさっそく遺体の見分を開始した。
 鑑識の話では、犯人の遺留品は残されていない。また、指紋やゲソこん(足痕)についても決定的なものは見つかっていなかった。
 吉将と麻衣はとりあえず付近の聞き込みにまわることにした。
 階段が始まる左手に建つ小さいながら瀟洒しょうしゃな建物の前に立って呼び鈴を鳴らした。
 三〇歳くらいのシャンブレーシャツ姿の男が出てきて、うさんくさげに吉将と麻衣を見た。
 二人が警察手帳を提示すると、男は不機嫌な声で訊いてきた。
「なんか用ですか」
「この下の階段で転落死した人がいましてね」
「そうか……あのときの……」
 男ははっとした顔で吉将たちを見た。
「なにか見聞きしましたか」
「昨夜ね、そうだな、夜の一一時くらいでしょうか。『なにをする』って男の声が聞こえたんですよ。それきり、声は聞こえなくなったんですけどね」
「ようすを見にいかなかったんですか」
「僕には関係ないことだからね。それにもうベッドに入っていましたんでね」
 不機嫌な口調のまま男は言った。
 たしかに、彼に見にいく義務などあるはずもない。
「ありがとうございました。またお訪ねするかもしれません」
 さらに階段の上に並ぶ数軒の民家も訪ねたが、ほかに不審な人物を見たとか、声を聞いたというような居住者はいなかった。
 現場に戻ると、五十年輩の検視官が一課長に話している。
「ホトケの両手にね、ひっかき傷がありますねぇ。爪痕つめあとと思われます。争った形跡のように見えるんですよ。事件性ありと疑ったほうがいいでしょう。司法解剖にまわすべきですよ」
 検視官はベテラン刑事が法医学などを修めた後に就く。基本は警視の職だが、警部が就く場合もある。
「そうか……捜査チョ本部ウバを立てるべきだな」
 福島一課長はあごに手をやって考えていたが、吉将に向かって声を掛けてきた。
「夏目、なにか言いたいことがありそうだな」
「すみません、係長に伝えようと思ってたんですが……」
「いいから話せ」
 ふつうなら一課長は直接話すような相手ではないが、現場でなら許されよう。
「階段の上の民家に聞き込みにまわったところ、午後一一時頃に『なにをする』という男の声を聞いたとの証言を得ました。ここからいちばん近い家です」
 階段の上のほうを指さして吉将は言った。
「そうか、そいつは被害者マルガイの最後の叫び声と考えてよさそうだな」
 福島一課長は吉将の顔を見てうなずいた。
「うん、その時点でマルガイが突き落とされたと考えることができる。死亡推定時刻は司法解剖の結果を見たいが、死斑の出方などからして一〇時から一二時頃だと考えていた」
 しきりに検視官はうなずいている。
「わかった。刑事部長には捜査チョ本部ウバち上げるように進言しよう」
 福島一課長はきっぱりと言った。
「それがいいでしょう。死因はおそらくは外傷性の硬膜外出血などでしょうね。頭蓋骨ずがいこつが割れてますから」
 遺体のほうを向いて検視官は渋い顔つきで言った。
 一課長の進言と検視官の判断により、刑事部長が捜査本部を山手が丘署に開設した。吉将と麻衣も参加することとなった。
 最初の捜査会議で被害者の身元が明らかにされた。遺体が所持していた運転免許証等から米原寛則よねはらひろのりという三九歳の男性であると推察されていたが、署内で妻によって身元確認がされた。かなり年下の妻は号泣して取り乱しており、事情聴取は先延ばしにされた。遺体は司法解剖にまわされることとなった。
 現場の環境から計画的な犯行とは考えにくかった。たしかに人通りの少ない道ではあるが、階段上部には左右に民家が建ち並んでいる。また現場から階段を下った代官坂通りには店舗も多く、深夜でもある程度の人通りがある。目撃者がゼロだったのは偶然のことと言えた。
 また、現場に一〇万円以上の現金やカード類の入った財布が残されており、被害者の腕には高級腕時計もめられたままになっていた。物盗ものとりの犯行とは考えにくかった。
 これらの事実から、本件は、ケンカ等の末の突発的犯行ではないかと推察された。
 米原は不動産、美術品や宝飾品を扱っているブローカーだった。捜一の捜査員が今日調べてきた範囲では、売主への代金の支払いが遅いなどあまり評判のよくない人物だった。
 捜査員は地取り班と鑑取り班に分けられた。地取り班は崖上がけうえの山手本通りと崖下の代官坂通り付近まで範囲を拡げて被害者や不審者の目撃情報と防犯カメラ探しに入る。鑑取り班は米原寛則の仕事上の交際関係や友人との交友関係を洗うこととなった。とくにブローカーとしての取引関係で恨みを持っている人間などが存在しないかを重点的に洗うことになった。
 吉将と麻衣はペアとなって鑑取り班に組み入れられた。本部と所轄の刑事がペアを組むことが多いが、麻衣の捜一での経験が浅いことから吉将が指導役として組まされたようである。
 捜査会議終了後に吉将たちが出かけようとしていると、捜査を仕切っている二階堂にかいどう管理官から呼ばれた。
「犯人を知っているという者が現れたんだ。夏目、ちょっと事情聴取してくれ」
「本当ですか。今朝の事件は米原寛則さんの名前も含めて報道されてはいますが……」
 吉将は半信半疑で答えた。実際に虚偽や勘違いの申告も少なくはない。
「ああ、医者なんだ。デタラメを言うとも思えんからな」
 二階堂管理官は唇をゆがめた。
「わかりました。しっかり聞いてみます」
 吉将は一礼して管理官席を離れた。 

   

【3】


 

 刑事課のフロアに下りると、所轄の捜査員が四十前くらいのツイードジャケット姿の男性を連れて待っていた。さっぱりしたショートヘアで、きまじめな雰囲気を漂わせていた。
 吉将は被疑者ではないのだから取調室は避けて、男性を小会議室にいざなった。麻衣と記録係の捜査員が席についた。
 正面に座った男は落ち着かないようすで身体を小刻みに震わせている。貧乏揺すりをしているようだ。だが、初対面の刑事と向きあって緊張するのはふつうの反応だ。
「捜査一課の夏目と言います。わたしがお話を伺います。まずあなたのお名前とご住所、ご職業を教えてください」
 やわらかい声で吉将は言った。
「よろしくお願いします。僕は勝沼信彦かつぬまのぶひこと言います。県立横浜みなと病院で麻酔科の医師として勤務しています。住所は……」
 勝沼は柏葉かしわば公園近くの住所を告げた。現場からは直線距離なら一キロほどの住宅地である。職場の横浜みなと病院は、新山下にあって病床数六〇〇を超える公立病院だった。
「昨晩、元町百段公園近くの階段で発生した転落死について、ご存じのことがあるそうですが」
 吉将はゆったりと切り出した。
「僕は……米原さんを殺した犯人を知っているんです」
 まっすぐに吉将の目を見て、勝沼は唇を震わせた。
「犯人を知っていると言うのですか」
「正確に言うと、動機を持っている人間です。あいつなら米原さんを殺しかねないです」
 吐き捨てるように勝沼は言った。
「いったい誰なんですか」
森川正俊もりかわまさとしという男です、本牧ほんもくに住んでる洋画家です。創美会そうびかいという団体に所属しています」
 両目からつよい光を放って、勝沼はきっぱりと言い切った。
「その森川という絵描きがどんな動機を持っているんですか」
「森川は自分の作品二点を米原さんに売ってもらったんですよ。ところが、その代金約五〇〇万円を半年以上も受けとっていないんです。森川は米原さんをかなり恨んでいたと思いますよ。おまけに森川は金に困ってるらしいんですよ」
 勝沼は唇を歪めて答えた。
「なぜ、あなたはそのことを知っているんですか」
 吉将は勝沼の目をのぞき込むようにして訊いた。
「殺された米原さんとはむかしからつきあいがありましてね。先週、ちょっと飲んだときに、森川が怒っているって話を聞いたんですよ。『たしかに森川さんへの売上代金は買い主とのトラブルがあって遅れてる。ちゃんと遅延損害金は支払うって言ってるのに、ただじゃすまさないぞなんて電話をかけてこられたりして困ってる』って言ってたんですよ」
 顔をしかめて勝沼は言葉を継いだ。
「僕は米原さんに警察に相談したほうがいいって言いました。米原さんは平気な顔をして『そんな客はときどきいるさ』なんて答えていてね。だけど、こんなことになるくらいだったら、無理しても米原さんを警察に引っ張って行くべきだった……」
 悔しげに勝沼は唇を噛んだ。
「犯人はあいつに決まってますよ。早く逮捕して米原さんの無念を晴らしてください」
 最後は激越な調子になって勝沼は歯を剥き出した。
 この発言が事実とすれば、森川に米原を殺害する動機があることは間違いない。
 むろん、動機のみでは犯人としての可能性があるだけだが、ほうってはおけない。裏をとる必要がある。とはいえ、いまの段階で森川を犯人扱いすることはできるはずもない。
「情報提供ありがとうございました。またお伺いすることがあるかもしれませんので、勝沼さんの連絡先を教えて下さい」
 吉将はさらりと答えて、勝沼に連絡先を聞いて帰した。
 森川という画家の連絡先は美術団体の創美会に確認すればいいはずだ。
「勝沼さんは森川って絵描きさんを憎んでるんですかね。ずいぶん激しい口調でしたね」
 麻衣が不思議そうに首を傾げた。
「勝沼と米原とは仲がよかったということじゃないのか」
 勤務医とブローカーの接点はどこにあるのだろう。その点は吉将には不思議だった。
「そうかもしれません。でも、他人を犯人かもしれないって警察に密告しているんですよね。しかも、確証があるわけじゃないでしょ。たとえば、森川さんが米原さんを突き落とすところを見たなら別だけど。勝沼さんが訴えてるのは動機だけです。それなのにずいぶんと堂々としているって言うか……わたしならもっとこっそり密告しますね」
 かすかに笑って麻衣は言った。
 吉将は二階堂管理官に、勝沼から聴いた森川の動機などについて報告した。
「鑑取りに動いている捜査員の一部を、いまの話の裏取りにまわす」
 二階堂管理官の指示で捜査員たちが森川の周辺を洗ったところ、勝沼の証言は事実であることが明らかとなった。森川は自分の作品の売上代金が米原から支払ってもらえないことを、馬車道の画廊のオーナーに愚痴っていた。
 吉将と麻衣のコンビは翌朝、森川に聞き込みに行くことを命じられた。
 ところが……。
 朝、いちばんで山手が丘署に当の森川が姿を現したのである。
 応対した者に「米原寛則を殺害した犯人を知っている」と訴えているという。
 吉将は二階堂管理官から命じられて、森川から事情を聞くことになった。
 森川は勝沼と同年輩くらいの逆三角形の輪郭を持った神経質そうな男だった。
 茶色く染めたミドルヘアに黒のセル縁メガネがアーティストらしい外観を作っていた。
 昨日と同じ小会議室に森川を連れて行った。麻衣も同席した。
 氏名・住所の次に職業を訊かれると森川は唇を歪めた。
「僕を知らないんですか? 洋画家としちゃ、ちょっとは知られてるんだけどな」
「すみませんね。刑事なんてもんは美術とか芸術関係にはまるっきり疎くてね」
 吉将は苦笑しながら答えた。洋画家の名前を知らないのは自分だけではあるまい。
「とにかく僕は絵を描いています」
 森川は不機嫌そうな声で言った。
「一昨日に元町百段公園近くの階段で転落死した米原寛則さんに関する情報をお持ちなんですよね」
 おだやかな調子で吉将は訊いた。
「警察はあれをはっきり殺人と断定しているんですよね」
 吉将の質問には答えずに森川は念を押した。
「いや……殺人と断定はしていません。傷害致死なども考えられますので」
 慎重に吉将は答えた。
 最初の発表では事件と事故の両面で捜査中としていたが、捜査本部が立ったことによりマスメディアは殺人を視野に入れての捜査と報道している。
「アイツが殺したんです」
 目を怒らせ声を震わせて森川は言った。
「誰のことを言ってるんですか」
「勝沼信彦という医者ですよ。県立横浜みなと病院に勤めています。プライドばかり高い嫌な男です」
 森川は汚いものでも語るような口調で言った。
 まさか……。吉将は少なからず驚いた。
「なぜ、その勝沼さんが殺したというんですか」
 内心の驚きを抑えて吉将は平静な声で訊いた。
「勝沼は伊豆高原に中古の別荘を買ったんです。三〇〇〇万円くらいだそうですが、仲介者の米原さんには六〇〇万円の手付金を払っていたと聞いています。ところが、その別荘はほかの人が所有者から別の仲介業者を通じて購入してしまったんですよ。米原さんは手付金の返済を怠ってたんですね。もちろん返すつもりだったのに滞っていただけだそうです。そしたら、勝沼は『あいつは犯罪者だ。殺してやりたいくらいだ』って息巻いていたそうです。米原さんはそんなに心配なようすも見せていなかったんですが、僕は大変に心配でした」
 森川は眉根まゆねを寄せた。
「そんな事情を、どうしてあなたは知っているんですか」
 平らかな声で吉将は訊いた。
「米原さんはむかしからの知り合いでね。酒を飲むこともあるんですよ。僕の絵を扱ってもらうこともある。先週だったかな……米原さんと飲んでね。そのときに勝沼の話を聞いたんですよ」
 森川は、昨日の勝沼とよく似たことを言っている。
「でも、大きな病院の勤務医なら六〇〇万円くらいの金で人を殺したりしますかね」
 詳しい事情が知りたくてあえて吉将は反論した。
 吉将の年収とそう変わらない金額ではあるのだが……。
「これは米原さんから聞いた話なんですけどね、どうやら勝沼はFX取引などで金に困っているそうです。もともと公立病院の勤務医なんてそれほどの高給をもらっているわけじゃないみたいですよ。資産運用の失敗で奥さんともケンカが絶えなかったと聞いています」
 森川は唇を歪めて言った。
「そんな人が三〇〇〇万もする別荘を購入しようとしていたのですか」
 吉将が当然の疑問を口にすると、森川は声を潜めて言った。
「実はね……別荘購入代金は奥さんの実家からなんですよ。奥さんは金持ちの一人娘でね。伊豆高原が好きなんだそうです。将来は、奥さんのお父さんに個人病院を開院する資金を出してもらう話になっていたらしいんですよ。だから、別荘購入が頓挫とんざした上に奥さんや義理の父親ににらまれて相当に腹を立てていたようです」
 事情はわかったが、森川の発言も勝沼と同じく動機を説明しているに過ぎない。
「ところで、ずいぶん詳しく勝沼さんのことを知ってますね」
 吉将の問いに、森川はちょっとあわてたようにつけ加えた。
「あ、それもぜんぶ米原さんから聞いた話です。最近の勝沼のことはなにも知りません」
「最近は知らないということは森川さんは勝沼さんとはお知り合いなんですか」
「実は高校で三年のときに同じクラスだったんですよ」
 軽く顔をしかめて森川は答えた。
「どちらの高校なんですか」
横浜栄聖学院よこはまえいせいがくいんです」
 胸を張って森川は誇らしげに答えた。
 横浜の山手公園近くにあるカトリック系の一流進学校だ。
「優秀な学校なんですね。それで、おつきあいは続いていなかったんですか」
「あいつは医者になってからエラそうなんで、もう一〇年以上はつきあいはないです。何年か前に同窓会で会ったくらいですかね」
 つまりは、勝沼も森川も同級生をののしっているわけだ。
「米原さんも同級生ですか?」
「違います。あの人は東京の出身なんで……」
「なるほど。ところで、あなたは米原さんに絵画作品の売却を委託して、五〇〇万円という代金を半年以上も受けとっていないということですが……」
 吉将は森川の目を覗き込むようにして訊いた。
「それは事実ですが、僕は別に米原さんを恨んじゃいませんよ。遅延損害金も払ってくれるって約束してくれましたからね。だいたい絵ってのは一流の画商でも売るのに苦労するんです。とくに大作はね。値が張る上に飾る場所も限られますから」
 明るい顔で森川は笑った。
 勝沼の言い分とはかなり異なるが、現時点では突っ込むには材料が足りなすぎる。
「なるほど、よくわかりました。ほかに今回の事案でなにか知っていることはありませんか」
「いえ、ほかにはとくに」
 ちょっと考えて森川は首を横に振った。
「ありがとうございました。またお話を伺うかもしれません。ご協力に感謝します」
「とにかく米原さんのかたきを取って下さい」
 森川はしっかりと頭を下げて小会議室を出て行った。
「なんか違和感があるんですよね。二人のしゃべっている内容が、あまりにも似通っている感じがして……」
 麻衣が首を傾げた。
「動機自体はまったく違うじゃないか。森川の場合は絵の売却代金のトラブルだし、勝沼に関しては別荘の手付金のトラブルだ」
「そうなんですけど、話の構造が似てるっていうのか……」
「どういう意味だ?」
「どちらも米原さんの仇を取るのが目的とかではなくて、米原さんの死を利用しようとしているような感じがしたんですよ。二人とも米原さんと本当に親しいんでしょうか。わたしにはそうした感情が読み取れませんでした」
 吉将は麻衣の観察眼に内心で舌を巻いた。
 たしかに森川も勝沼も米原との親しさを語るときの言葉が通り一遍で、表情の変化に乏しいことは吉将も感じていた。
「その点では俺も同じ印象を持ったな」
「森川さんと勝沼さんが対立している関係で、お互いに相手を陥れようとしているのなら辻褄つじつまが合う気がするんです。森川さんと勝沼さんはお互いに相手を憎んでいるんですかね」
 麻衣ははっきりしない表情で言った。
「いずれにしても、勝沼と森川が動機として挙げているトラブルが現実に存在したのか、その裏づけをとらなきゃならない」
「勝沼さんと森川さんの関係も気になりますね」
 麻衣は吉将の顔を見て言った。
「裏を取るのはほかの捜査員にまかせよう。人数も必要だろう。二階堂管理官に頼んでみる」
 吉将の言葉に、麻衣はしっかりとうなずいた。

 

    

【4】


 

 吉将は二階堂管理官に、森川から聴取した内容を告げた。
 二階堂管理官は、各捜査員に連絡して森川が主張した勝沼の動機について調べることを命じた。さらに森川と勝沼の犯行当時のアリバイを調べるように下命した。
「もしよろしければ、わたしたちは森川と勝沼の関係を調べてみたいんです」
 麻衣の発言に引っかかっていた吉将が申し出ると、二階堂管理官は首をひねった。
「高校の同級生なんだろ?」
「それはそうなんですが……二人はお互いに米原さんを殺害した犯人を相手だと言っています。どちらに真実性があるのか、あるいは……」
 吉将の言葉を二階堂管理官はさえぎって言った。
「二人とも、虚偽の供述をしている可能性があるというわけだな」
「仰せの通りです」
「わかった、夏目たちは二人の関係についての聞き込みを続けてくれ」
「ありがとうございます」
 吉将たちは一礼して捜査本部を出た。
 麻衣は横浜栄聖学院の事務室に電話して、洋画家森川正俊を三年のときに担任していた教員の連絡先を教えてもらった。
 三年生時の担任である千賀重雄ちがしげおは磯子区汐見台に住んでいた。吉将たちはすでに現役を引退しているという七十年輩の老教師を高台のマンションに訪ねた。
 吉将たちは磯子港方向の眺めがよく陽光が降り注ぐリビングに通された。
 ソファの正面に座った千賀は長めの白髪が似合うほっそりとしたおだやかな雰囲気の老人だった。
「森川くんのことを聞きたいのかな。彼は理数系のわたしのクラスではちょっと変わった生徒だったが、創美会の立派な絵描きになったからね。二浪したが、芸大入試じゃあ短いほうだよ。しかし警察がまたなんでかな?」
 不審そうに千賀は吉将たちの顔を見て訊いた。
「森川正俊さんと勝沼信彦さんは、実はある事件の重要な証人なのです。二人の証言の確認をとるために千賀先生がご存じの当時の二人のことを伺いたいと思いまして」
 麻衣がにこやかに答えた。この聴取は麻衣にまかせることにしていた。
「ああ、勝沼くんか。わたしのクラスのもう一人の変わり者だ。結局は医者になったがね。あの二人はなんというかガリ勉タイプではなくてね。大学進学に目の色を変えているような生徒ではなかった。余裕があるというのかな。うちの学校は文系なら官僚か法曹三者、あるいは経済人、理系なら医師を目指す者が多い。平たく言えば東京大学への進学だけを考えている生徒が多かった。だが、あの二人は違ったね。自分の未来を夢見ているような男たちだった。だから、気が合うようで仲がよかったんだ」
 千賀はゆったりと言ったが、吉将と麻衣は顔を見合わせた。
「二人は気が合っていたというのは本当ですか……」
 麻衣は平静を装って訊いた。
「ああ、大学時代の夏休みにもね、あの二人は外国旅行に行ってたんだよ。まぁ、親御さんものんびりとした教育方針の人たちで、両家とも経済的にも余裕があったんだよね」
 ふたたび吉将と麻衣は顔を見合わせた。
「外国って、いったいどこへ旅行したのですか」
「オーストリアに行ったんだ。ついでにチェコ、スロバキア、ハンガリーあたりをまわったと思う。変わってるよね。若者ならアメリカ合衆国とかフランスとかイギリスとかに行きたがるような気がするがね」
 千賀は楽しそうに笑った。
「そんなに仲がよかったんですか……。医師となってからの勝沼さんはエラそうなんで同窓会を除いてはここ一〇年くらい会ってないって、森川さんは言ってましたよ」
 麻衣の言葉に、千賀は意外そうに首を横に振った。
「そんなことはないだろう。三年ばかり前の同窓会のときにも、二次会の後にあの二人に引っ張られて関内駅すぐのショットバーに行ったんだ。そのときも二人は音楽の話で盛り上がっていたよ。ジャズやクラシック界がどんなに厳しいかなんて話だったな」
 千賀の話を聞いているうちに、吉将は勝沼と森川が警察に出頭してきた意図がまったくわからなくなっていた。二人で共謀して米原を殺して仲間割れでもしたのだろうか。しかし、それにしては稚拙な行動だ。自分たちが我々に目をつけられるだけなのだから……。
「そのショットバーの名前は覚えていますか?」
 麻衣は気負い込んで訊いた。
「うん、覚えているよ。《キングス・ロード》って店だったな。わたしとあんまり年の変わらないマスターときれいな女性のバーテンダーがいたね。なんでも勝沼くんがずっとひいきにしている店らしい」
 吉将はすぐにスマホで検索を掛けた。イセザキモールの裏手にあるちいさな店だ。午後四時から翌朝三時までの営業時間となっていた。
「森川さんと勝沼さんがめていたようなことは聞いていませんか」
 麻衣は千賀の目をまっすぐに見つめて尋ねた。
「いいや、まったくないね。わたしが担任していた当時の3Aでは、いま現在でもいちばん仲のよい二人だろう」
 千賀ははっきりと首を横に振った。
「先生、3Aの生徒さんで連絡先のわかる人がいたら教えていただけませんか」
 麻衣は質問を変えた。
「ああ、この前の同窓会のときに配られた名簿があるはずだ」 
 千賀は奥の部屋からA4判の薄い名簿を持ってきた。
「こちらを写真に撮らせて頂いてよろしいですか」
 にこやかに千賀はうなずいた。
 これ以上、千賀から聞ける話はなさそうだ。吉将は麻衣に目顔で指示して退出した。
 吉将と麻衣は、名簿に掲載されている一七人のなかから、横浜市内に勤務する医師など四名の職場を訪ねた。だが、誰もが森川や勝沼については同窓会で会う程度で、最近のようすなどはまったく知らないと言っていた。
 午後四時過ぎに二人は、関内の《キングス・ロード》を訪ねた。
 洋酒の瓶がずらっと並んだ棚を背にしたカウンターで、老マスターと三十代半ばくらいのバーテンダーが並んで迎えてくれた。二人ともちょうネクタイに黒ベストというクラシカルなスタイルに身を固めている。
 早い時間なのでほかに客はいなかった。吉将たちはソフトドリンクを注文した。
「こちらのごひいきさんだという勝沼信彦さんというお客さんについて伺いたいのですが」
 今回も質問は麻衣にまかせた。
「ああ、勝沼さんですか。若い方だけど、ずいぶん前からのお客さまですよ。そうねぇ、一〇年近く前からときどきお見えです。お医者さまでしょう。仕事での緊張をほぐすためだってよくおっしゃってます」
 真っ白な髪をオールバックにしたマスターは、口もとに笑みを浮かべ答えた。
「一緒に来るような方はいませんでしたか」
 麻衣の言葉にマスターはかるくうなずいた。
「うん、絵描きさんとよく来ていた。たしか……森川さんっていったかな」
「よく来てたんですか……最後に来たのはいつでしたか」
 畳みかけるように麻衣は訊いた。
「えーと、あれは……いつだったかな……」
 天井に目をやってマスターは考え込んだ。
「勝沼さまと森川さまなら先週の火曜もお見えだったじゃないですか」
 鼻筋の通った卵形の顔に髪をきりっとひっつめた女性バーテンダーが助け船を出した。
「そうだ。マユミちゃんは記憶力がいいなぁ」
 マスターは気弱な感じで笑った。
「先週も来ていたんですか」
 麻衣はマユミと呼ばれたバーテンダーに尋ねた。
「はい、お二人ともカクテルがお好きで、火曜もわたしがギムレットとマティーニをお作りしましたので覚えています。月に一度くらいはお二人で見えてます」
 やわらかい笑みを口もとに浮かべてマユミは答えた。
 相当に仲のよい二人だったとしか思えない。
「二人が仲違なかたがいしていたようなことはありませんでしたか」
「いいえ、お二人ともすごくジェントルな方で、いつも明るくお酒を召し上がっていました。でも、そうだった。たしかこの前の火曜はちょっと深刻っていうか、えないお顔でしたね」
「そのときはどんな話をしていましたか」
「ちょっと待ってください」
 マユミは額に手を当てて考え込んだあと、パッと鮮やかに笑った。
「思い出しました。お二人の共通の知人の方が困っているから助けたいというようなお話だったと思います」
 女性の答えに吉将の胸はざわついた。
「その知人のお名前やどんなことで困っているかは聞いていませんか」
 麻衣は息を弾ませるようにして尋ねた。
「ごめんなさい。そのあとすぐにお帰りになったので詳しいことはわかりません」
 頭を下げてマユミはびた。
 吉将たちは礼を言って《キングス・ロード》を出た。
「わたしの勝手な妄想を言っていいですか」
 関内駅へ戻る浜っ子通りで、いきなり麻衣が言い出した。
「聞かせてくれ」
「勝沼さんと森川さんは共謀していると思います」
「二人で米原を殺したというのか。しかし、だったら出頭なんかして来ないだろう」
「そこが納得できないんです……もしかすると真犯人をかばっている可能性もあるような気がするんです」
「それも変だろう。勝沼と森川が出頭してくれば、警察はその周辺に目をつける。かばっている誰かがホンボシだとすれば、いつかは我々も気づく。勝沼たちの行動には意味がなくなる」
 吉将の言葉に麻衣は眉間みけんにしわを寄せた。
「わたしもそう思うんですよ。だから事件の構図がわからないんです。でも、千賀先生とマユミさんの話を聞いて、勝沼さんと森川さんの対立は事実ではないと確信しました。あの二人は共謀してウソをついているんです。お互いが相手の動機と主張していることは、事実ではあっても米原さん殺害とは無関係です。つまり二人は犯人ではないと思います」
 吉将もその点については全面的に賛成だった。
「とにかく勝沼と森川をもう少し追いかけたい。なにかが隠されている」
 これは刑事としてのたしかな直感、いや、見込みだった。
 吉将たちは捜査本部に戻って夜の捜査会議に参加した。まず、勝沼と米原の伊豆高原中古別荘売買に関する金銭トラブルについて調べた捜査員から、伊豆高原の別荘を扱っている都内の不動産業者が事実である旨を証言したことが報告された。森川が主張した勝沼の動機は正しかったのである。さらに別の捜査員から新たな事実が提示された。
 鑑取り捜査にあたっていた捜査員が、被害者の米原寬則を恨んでいる者たちが少なくないことを報告した。米原は、あちこちで詐欺まがいの取引をしており、動産や不動産を仲介した売却代金の支払い遅滞も少なくなかった。非常に評判の悪い人物で、殺害動機を持つ人間はかなり数多く存在するのではないかとの見方が浮上してきた。ただ、具体的な被疑者が浮かんできている状態ではなかった。
 さらに別の捜査員たちが、勝沼と森川の二人にはそれぞれ確固たるアリバイが存在することを調べてきていた。
 犯行当時、森川は銀座で友人の画家が開いた個展の打ち上げパーティーに出席していた。その後も森川は都内で朝まで飲み続けていたとの、複数の証言が得られた。
 勝沼のアリバイはさらに明確だった。勝沼は勤務先の県立横浜みなと病院で執刀された手術の麻酔医を務めていた。難しい位置の脳内血腫除去術で、午後四時から午前一時までの大手術だったそうだ。勝沼が長時間手術室を離れることは不可能だった。
 吉将と麻衣はある程度予想していた結果だったが、山手が丘署の刑事課長や捜査一課の一部は吉将たちが勝沼と森川を追いかけていることに否定的だった。
 勝沼と森川が対立していた事実はなさそうなことと、場合によっては二人は共謀しているかもしれないことを吉将は報告した。
「アリバイが確実だからこそ、勝沼と森川を追いかける必要があると思います。彼らがなぜわざわざ出頭してまで、相手をおとしめるようなことをしたのか。これを明らかにすることで真犯人が浮かんでくるかもしれません」
 吉将は言葉に力を込めて主張した。
 この言葉に山手が丘署の刑事課長は不機嫌そうに訊いた。
「犯人が勝沼と森川の周辺にいると考える根拠はなんだ?」
「わたしは勝沼と森川が、真犯人をかばっていると考えます」
 反対意見を封ずるために、吉将は思いきって言った。
「まぁ、まだほかの方面もたいした収穫は上がっていない。米原を恨んでいる者の鑑取りに捜査員の多くを割くのは当然だが、夏目組は勝沼と森川の捜査を続行してもいいだろう」
 二階堂管理官の言葉でその場は収まった。
「あの……森川が出国を予定しているという情報を得ているんですけど……」
 山手が丘署刑事課の若手捜査員が気弱な声で言った。
「出国? 外国へ行くということか……詳しく話せ」
 二階堂管理官が厳しい声で言った。
「はい、森川の周囲を洗っていたところ、取引先の銀座の画廊の主人から、森川が明日ベルギーにつという話を聞いたんです。森川はいつも同じ代理店を通して航空券を入手していたという話なので、横浜駅近くの代理店を訪ねました。すると明日の九時四〇分に羽田発のルフトハンザ・ドイツ航空の便でミュンヘンを経由してブリュッセル国際空港までのビジネスクラス航空券を購入していることがわかったのです」
 捜査員は報告を終えると自席に腰を下ろした。
「この段階での出国か……いったいなんの用事なのか」
 あごに手をやって二階堂管理官は低くうなった。
「本人を任意で引っ張って聞き出しますか」
 山手が丘署の刑事課長がぼそっと言った。
「おいおい、なんの容疑だよ。森川は勝沼が米原を殺す動機を持っていると主張しただけだ。さらにそれは事実だった。この行動にはいかなる罪も当てはまらない」
「犯人隠避罪は無理ですかね」
 刑事課長は食い下がった。
「犯人が誰かもわかっていないのに、刑法一〇三条の嫌疑で引っ張れるわけがないだろう」
 二階堂管理官は苦い顔つきで答えた。
「では、森川と勝沼を引き続き追います」
 森川出国予定の話を聞いて、吉将は胸の奥にざらつきを感じた。
 きっとなにかの行動を起こすに違いない。
 捜査会議が終わると、麻衣が吉将のそでを引っ張った。
「ちょっと調べてみたいことがあるんです。どこかの部屋を借りられますかね」
 麻衣の頬は上気していた。なにかに気づいたようだ。
「ああ、小会議室が借りられるかたしかめてみる」
 数分後、吉将たちは段ボール箱が積み重ねられた狭い会議室の椅子に座っていた。
 タブレットを持ち出して麻衣は必死になにかを調べている。
「なにを調べているんだ?」
 吉将は背後から麻衣に訊いた。
「この先、数日間のブリュッセルで行われる国際的なイベントなどです。とくに日本人が参加するような……。森川さんがブリュッセルに観光で行くとは思えないんですよ。たしかに観光名所も少なくないし、美食の都です。でも、いまの状況でははっきりした目的があると思います」
 麻衣の口調は思いのほか強かった。自分の考えに自信があるのだ。
「つまりかばっている誰かと関係があるようなイベントってことか」
 半信半疑で吉将は訊いた。
「はい、そう考えています……あっ! これかな?」
 麻衣は興奮気味に叫んだ。
「なにか見つかったか?」
「三日後の午前一〇時からエリザベート王妃国際音楽コンクールの一次審査があります」
 歌うような調子で麻衣は答えた。
「音楽コンクールか?」
 冴えない声で吉将は答えた。
「これはとても大きなイベントなんです。開かれるのは四年に一回です。正確に言うと、ピアノ、ヴァイオリン、声楽などの各部門のコンクールが交代で四年に一度開かれるんです。チャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールと並んで世界三大音楽コンクールと呼ばれています。しかも、もっとも歴史が古いんです。このコンクールで上位に入賞すればクラシックの世界では一流の音楽家としてのスタートラインに立てるのです。日本人の入賞者は多くはありませんが、数名います。今年はピアノ部門が開催される年です。ちょっと事務局に連絡をとってみますね」
 麻衣はスマホを手に取った。
 いきなり英語でなにかを話している。さらに手帳にメモを書き始めた。
「一〇名以上の参加者がいるようですね。うーん絞り込む方法はないかな……そうだ! 被害者の米原さんの自宅の電話番号、わかりますか?」
 麻衣の両目がキラキラと輝いている。吉将には理解できないが、彼女なりになにかの筋読みをしているようだ。あえて質問を避けて麻衣の意のままに行動させようと吉将は思った。
「ああ、これだ」
 吉将は手帳を開いて、米原の自宅の電話番号を提示した。
「ありがとうございます。奥さんに訊いてみます」
 麻衣は頭を下げて手帳を見ながらスマホを手に取った。
「米原さんのお宅ですか。夜分に申し訳ありません。わたし神奈川県警捜査一課の野口と申します。実はご主人さまのご趣味のことで伺いたいことがありまして……」
 しばらくして電話を切った麻衣は、両の瞳を輝かせた。
「つながりましたよ。米原さんとブリュッセル!」
「なんだって!」
 吉将は思わず大きな声を上げた。
「明日、羽田空港で張り込みしたいです」
「事情を聞かせてくれ」
「はい、森川さんとおそらく勝沼さんも明日の朝、羽田に姿を現すはずです……」
 麻衣は自分の推理を一から話し始めた。
 吉将はうなり続けて麻衣の言葉を聞いていた。
 冴えた推理だ。
 麻衣は捜査員として天性の素質に恵まれているようだ。
 もちろん明日の張り込みには賛同した。

 

    

【5】


 

 翌日の午前八時。吉将と麻衣は羽田空港にいた。
 朝六時から空港内に来ているが、全身に気合いがみなぎっていた。
 ルフトハンザ・ドイツ航空チェックインカウンター後方の目立たない位置のソファに二人は座っていた。カジュアルな恰好かっこうで帽子とサングラスでちょっとした変装をしていた。
「ほらね……来ましたよ」
 麻衣が耳もとでささやいた。
 柱の陰からベージュとライトグレーの薄いコートを羽織った勝沼と森川が姿を現した。
 二人は大きな荷物は持っていない。
「たしかに……来たな」
 吉将の胸は高鳴った。麻衣の筋読みの正しさに舌を巻いた。
 さらに一〇分くらい過ぎた頃、一人の若い女性がキャリーケースを引いて現れた。
 サングラスを掛けているが、際だった容姿は間違いない。音楽サイトで確認した彼女だ。
「行きましょう」
 麻衣の声は緊張で少しうわずっていた。
「野口が声を掛けろ」
 低い声の吉将の指示に、麻衣は真剣な顔つきであごを引いた。
 二人は女性の前に立ちはだかって警察手帳を提示した。
 女性の両の瞳が大きく見開かれた。
さんですね。神奈川県警です。米原寛則さんが亡くなった件でお話を伺いたいのですが、ご同行頂けますか」
 麻衣は声を張らずに、しかしきちんとした発声で伝えた。
 一瞬、顔をこわばらせたが、祐未はすぐにうなだれた。
「お手数をおかけして申し訳ありません。ご一緒します」
 顔を上げて二人の顔を見た祐未ははっきりとした声で答えた。
「逃げろっ」
 いきなり横から勝沼が飛び出してきて、側面から麻衣に突き当たった。
「やめなさいっ」
 麻衣はさっと防御の体勢をとった。
「祐未さん逃げてくれっ」
 続いて森川が吉将の背中を強い力で突いた。
「バカなことはやめろっ」
 吉将は振り返って森川の利き腕をとった。
「痛ててっ」
 森川は激しい悲鳴を上げた。
「勝沼さん、森川さん、やめて……」
 祐未の言葉に森川は身体からだの力を抜いた。吉将も腕の力を弱めた。
 勝沼も森川もぼう然と突っ立っている。
「どうしましたっ」
 空港の民間警備員が二人、息せき切って駆けつけてきた。
「神奈川県警です。お騒がせしました。問題ありません」
 吉将は警備員に警察手帳を提示してその場から立ち去らせた。
「さぁ、では参りましょう」
 麻衣がやわらかい声で言うと、祐未は素直にうなずいた。
「いまの公務執行妨害は見逃すが、山手が丘署に出頭してくれ。彼女が心配だろ」
 吉将の言葉に、勝沼と森川は真剣な顔でうなずいた。
 山手が丘署に勝沼と森川が来ても、何日も待たなければ祐未と会うことはできない。しかし、この二人は必ず署にやってくると吉将は確信していた。
 ターミナルビルに待機させておいた覆面パトカーに祐未を乗せて、吉将たちは山手が丘署に向かった。車内で二階堂管理官に被疑者である波多野祐未を任意で連れてゆく旨連絡した。
 捜査本部での取り調べには、吉将と麻衣が当たった。
 あらためて面と向かうと、祐未はとても美しく気品ある女性だった。
 手に入れた情報では父親が日本人、母親がオーストリア人とある。だが、祐未の顔立ちは白人に見えた。
 父親は外交官でオーストリア大使を最後に退職していた。母親はピアニストとして活躍していたらしい。二人は現在はウィーン郊外に住んでいるとのことだ。
 ピアニストとして、いくつものコンクールの賞に輝く才能は母親譲りなのだろう。
「わたしは、あの男に脅迫され続けていたのです」
 暗い声で祐未は答えた。
「あの男というのは?」
 答えはわかってはいるが、本人から聞かなければ意味がない。
「米原寛則です。あの男は二年くらい前まではわたしのコンサートやリサイタルにもよく来ていました。ファンだと称して花束やケーキなども差し入れてくれていました。振る舞いもおだやかでしたし、ついうっかり食事の誘いに乗ってしまったのです。そしたらお酒になにかを混ぜられて、気づいたときはあるシティホテルの一室でした。わたしは屈辱的な行為をされたのです……」
 祐未の眉はつり上がって頬が紅潮している。怒りが全身を襲っているようだ。
「ここではそれだけ伺えばじゅうぶんです。詳しいことは裁判で訊かれるかもしれません。そのときはきちんとお答えください」
 吉将はやわらかい声で言った。
「ありがとうございます。その上、米原に証拠の写真まで撮られました。米原は写真をネタにわたしにお金を何度も要求してきたのです……あの晩も元町百段公園に呼び出されて一〇〇万という金額を要求されました。わたしは腹を立てて階段を下りはじめました。すると、なんということでしょう。米原はわたしの身体に触れて許せない行為をはじめたのです」
 祐未の声は怒りに震えた。
「どのような行為ですか」
 訊きたくない質問だったが、訊かないわけにはいかない。
「胸を触ったり、揉んだりしました」
 悔しげに祐未は唇を噛んだ。
「わたしは身体に触れてほしくないので、米原の身体を強く振り払いました。すると、米原は怒ったのかわたしに覆いかぶさろうとしたのです。わたしは恥ずかしさと怒りで米原の身体を突き飛ばしました。すると、あの男は叫びながら階段を転げ落ちていったのです。放っては置けないと思って米原が横たわっている踊り場まで駆け下りましたが、あの男はすでに死んでいたようです。息がなかったのです。わたしは怖くなってそのままふた小学校近くの自宅まで逃げて帰りました」
 祐未はわずかの間、静かに瞑目めいもくした。
 傷害致死か殺人かは微妙なところかもしれない。米原を突き飛ばした行為に、殺人の未必の故意が存在するか否かが争点だろう。また、生じた結果については過剰防衛には違いないが、行為には減刑の余地はある。また、事件の前提となっている米原のさまざまな犯罪行為は、祐未の量刑にはじゅうぶん考慮されるだろう。
「勝沼さんと森川さんに事件の話はしたのですか?」
 吉将はゆっくりと訊いた。
「翌日、報道を見て、森川さんがわたしのところに電話してきました。実は森川さんと勝沼さんは、以前から米原のことを心配していたのです。でも、わたしはあの屈辱的なできごとについてほかの誰にも話していません。いまここでお話ししたのが初めてです」
 祐未はほっと息をついて言葉を継いだ。
「けれども、コンサートなどにとつぜん姿を見せなくなった米原に不審の念を抱いていたようです。また、米原との取引で被害に遭っていたお二人は、階段での事件のことも感づいていたようです。わたし自身は今回のことも一切お話はしていません。ですが、森川さんから航空券が送られてきました。『コンクール頑張ってください』というメモだけがついていました。わたしはお礼の電話をしたときにも事件のことを話せませんでした。また、森川さんもなにも訊きませんでした。『当日、勝沼と羽田空港に見送りに行きます。ふだんの力を出してください』と励ましてくれただけでした。わたしは事件後、コンクールに参加することをあきらめていたのです。でも、森川さんたちに背中を押されて、心を決めました」
 感に堪えたように祐未は言った。
 この発言が真実だとすれば、勝沼と森川が勝手に祐未を守ったことになる。
「勝沼さんと森川さんは警察に出頭してお互いに相手に動機があると主張したのですよ」
 静かな口調で吉将は言った。
「そうなのですか……あのお二人には迷惑を掛けてしまいました」
 祐未は肩をすぼめた。
「二人はあなたをコンクールに出すために時間稼ぎをしたかったのですね」
 吉将は念を押した。
「そうだと思います。勝沼さんと森川さんには本当に申し訳なく思っております」
 祐未はうつむいて答えた。
 事件発生後すぐに勝沼と森川はそれぞれ相手の犯行だと思わせる動機を申告しにきた。初動捜査は目撃証言を捜すことをはじめ重要な時期である。一時的にせよ、捜査の主軸は見当違いの方向に進みかけた。また、二人の証言の裏取り捜査員を割かなければならなかった。捜査を混乱させる効果はあった。しかも勝沼と森川は、祐未を出国させるまでの時間を稼げればよかったのだ。
「正しい方法とは言えません。でも、二人の気持ちはわかるような気がします」
 刑事としては口にすべき言葉ではなかったかもしれないが、吉将の本音だった。
「わたしは正しい処罰を受けます。勝沼さんと森川さんを助けてください」
 祐未は大きく目を見開くと、熱っぽい調子で言った。
 この願いに安易に返事はできない。だが、勝沼と森川は送検しても犯人隠避罪では起訴されないような感触を吉将は持っていた。
「きちんと罪を償って、四年後のコンクールに挑戦なさってください」
 麻衣が言葉に力を込めた。
「ありがとうございます。お言葉を胸に、なんとか頑張って参ります」
 一語一語に吉将は祐未の強い覚悟を感じた。
 前方を見つめる祐未の目には澄んだ光があった。

「彼女を救えなかった……」
 山手が丘署に向かうタクシーのなかで、森川が低い声でつぶやいた。
「あと少しで出国させられたのにな」
 悔しそうに勝沼は歯噛みして答えた。
「やっぱり俺たちは素人だ。あんなウソをついても警察はすべてを見抜いてたんだな」
 力なく森川は言った。
「少しでも捜査を遅らせて、コンクールにだけは出してやりたかった」
 勝沼は唇を噛んだ。
「今回のエリザベート王妃国際音楽コンクールに出られたら、祐未さんは優勝したかもしれなかったんだ」
 思いは森川も同じだった。勝沼と二人で力を合わせ、彼女を送り出したかった。
「彼女の『鬼火』を聴きたかったな」
 勝沼は淋しげに言った。
 フランツ・リストの超絶技巧練習曲集第五曲『鬼火』は、今回のコンクールの課題曲のひとつだった。祐未が得意とする曲でもあった。
「あの日……スロバキア大使のお嬢さんだった祐未さんが助けに来てくれなければ……」
 石造りの湿っぽい取調室を思い出して森川は言葉を継いだ。
「俺たちはどうなっていたかわからない……」
「ああ、彼女は永遠に俺たちの女神さ」
 詠嘆するような声で勝沼は言った。
「これから祐未さんにはつらい日が続くだろうが、ずっと俺たちで守っていこう」
 言葉に思いを込めて森川は言った。
「もちろんだ。俺は自分にできる限りのことをする」
 勝沼の声音も力強かった。
「まずは俺たちを逮捕してもらおう。そうすれば今回の詳しい事情と祐未さんがどんなにすぐれた人かを警察に訴えられる」
 森川の言葉に勝沼は打てば響くようにこたえた。
「ああ、警察署に着いたら、あの夏目さんのところに出頭だ」
「その前にしっかりした弁護士を彼女につけよう。すぐに山手が丘署に行ってもらうんだ」
 いくぶん焦りを感じながら森川は言った。
「まかせろ、俺はスゴ腕の弁護士を知っている。刑事弁護にも強い女性ローヤーだ」
 勝沼はスマホを取り出した。
「頼んだぜ。相棒」
 森川は勝沼の肩をぽんと叩いた。
 窓の外にはみなとみらい地区のランドマークタワーや観覧車が近づいてきた。
 ベイブリッジから望む朝の海が目に痛いほどに青く輝いていた。

                                  (了) 

  

■警察小説競作
 月村了衛「ありふれた災厄」

 深町秋生「破談屋」