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ありふれた災厄 月村了衛


 新しくオープンしたシネコンの発券機は、購入番号を何度入力してもチケットを吐き出してはくれなかった。

「すいません、ちょっと」

 背後を振り返った梶田義昭は、ロビーを横切ろうとしていた女性従業員に大声で呼びかけた。

「はい、どうなさいましたか」

 九〇度に近い角度で進行方向を変え、小走りに寄ってきた従業員にスマホの画面を示す。

「オンラインでチケットを購入したんですけど、何度やってもダメなんです。QRコードはどうも好きじゃなくて」

「少々お待ち下さい」

 スマホに表示された購入番号を入力しかけた従業員は、その手を止めて梶田に向き直った。

「これ、当劇場ではございませんよ」

「え、だって池袋に新しくできたシネコンって、ここのことでしょう」

「いえ、もう一つございまして、ここに劇場名が書かれておりますが、サンシャイン通りをまっすぐ行かれた所にある別の劇場でございます」

「えっ、そうなの」

「はい。では失礼します」

 女性は忙しげに去っていった。心なしか、舌打ちの音さえ聞こえたような気がした。

 いまいましいのはこっちの方だ――

 梶田はやむなくエスカレーターを使って外に出た。

 プライベートで愛用するグレイのスポーツバッグだけを持ち久々に映画館に出かけたのは、若い頃に観たいと思って果たせずにいた作品の修復版がリバイバル上映されていると知ったからだ。しかも上映は今日までで、際どいところで間に合った。

 幸か不幸か、衆議院議員であった梶田は先の選挙で落選し、現在は浪人中である。時間だけは以前に比べて融通が利いた。そこで久々に映画でも観ようと単身足を運んだという次第であった。

 映画通を気取る梶田は、着古したシャツに同じくはき古したスラックス、それに流行遅れのジャンパーという、かなり質素な恰好でやってきた。皺が入ろうと汚れが付こうと気にならない、それが学生時代からの〈こだわりの映画鑑賞スタイル〉であった。

 なのに劇場を間違えるとは、観る前からケチが付いた気分になった。上映時間にはまだ少しばかり余裕がある。今から急いで行けば間に合うだろう。チケットのオンライン販売は便利だが、クレジットで購入した回しか使えないという点だけは不満に感じる。

 映画とはもっと自由な気分で観るものだ――それが梶田の持論でもあった。

 再開発の終わった豊島区立中池袋公園の周辺は、梶田の知る往年の光景とは異なり、どうにも馴染めないものだった。すっかり様変わりしていて、池袋だという気がしない。

 四方をモダンなビルで囲まれた公園の一角では、奇矯な恰好をした若い女がたむろしている。コスプレというやつだろうか。梶田にはまったく理解できない世界であった。

 あんな服装で出歩くなんて、どういう躾をされて育ったんだ――

 そこはかとない嫌悪感を抱かずにはいられない。ああいう手合いを放置すれば、日本の風紀は悪化する一方だ。それこそ近頃流行りの〈パパ活〉にもつながりかねない。

 やはり教育の根本的改革が必要だ。あの娘達は手遅れだろうが。

 自分が閣僚の地位に返り咲いた暁には、真っ先に着手しよう――いや、それより今は急がないと映画に――

 突然、目の前に黒い影が立ちふさがった。

「はい、ちょっとすみません」

 中年の制服警官だった。気がつくと背後にも一人、梶田の逃げ道をふさぐかのように眼鏡をかけた若い警官が立っている。

「なんでしょうか」

 梶田はいささかぶっきらぼうに応じた。国家公安委員長まで務めた自分が、ヒラ警官になれなれしくされるいわれはない。

「免許証か身分証、見せてもらえませんか」

「え、どういうことでしょうか」

「だから免許証見せて下さい」

「だからどういうことかって訊いてるんですけど」

「お忙しいとこすみません、ご協力お願いします」

 梶田の質問にはまるで答えようとせず、同じことを慇懃無礼に繰り返すばかりである。

「協力って、何に協力するんですか」

 すると後ろにいた眼鏡の警官が耳障りなかん高い声で言った。

「さっきから言ってるだろうが、免許証出せって」

 梶田は背後を振り返って怒鳴りつけた。

「なんだその口の利き方は。無礼じゃないか」

 一瞬黙った若い警官は、上司らしい中年の警官に向かって言った。

「こいつ、絶対怪しいっすよ」

「怪しいとはどういうことだ。分かるように説明しなさい」

「まあまあ、落ち着いて下さい」

 中年の警官がなだめるように、

「こっちにはね、質問する権利があるんですよ」

 ようやく状況を理解した。

「もしかして、これは職務質問なのかね」

「そうですけど」

 相手は呆れたような、いや、小馬鹿にしたような目でこちらを見る。

「ご苦労様です。しかし職務質問なら任意のはずだが」

「だからご協力をお願いしているわけで」

「申しわけないが、今は急いでいるのでね。では失礼する」

 横をすり抜けて歩き出そうとした梶田の進行を妨害するように、中年の警官が慌てて前をふさいだ。

「ちょっと待ってよ」

「まだ何か」

「何かじゃないよ。協力してって言ってるでしょう、さっきから」

「どきなさい。職務質問は任意であり、私は同意しないと言っている」

「どうして同意できないの」

「急いでいると言ったじゃないか。聞こえなかったのか」

 相手を叱りながら腕時計を確認する。今から走って行けばまだ間に合う。

「分かったら早くそこをどきなさい」

「こっちもね、あんたに質問する権利があるんだよ」

「君は任意の意味を知っているのか」

「だから協力して下さいってお願いしてるんですよ」

 だからだからの繰り返しで、会話にもなっていない。自分が誰か明かしてやろうかと思ったが、それをやると相手の言いなりになったような気がして癪だった。

 警官はますます無遠慮な態度で、

「あんた、名前は」

「人に名前を尋ねるときはまず自分から名乗りなさいと親に教わらなかったのか」

「名前を言えないのは何かわけがあるんじゃないんですか」

「だから人に尋ねるときは自分から名乗れと言っておるんだ。馬鹿か、君は」

「あっ、こいつ公務員を侮辱しましたよ」

 眼鏡が得意げに上司を振り仰ぐ。教師に告げ口をする小学生そのものだった。

「ともかく、警察手帳を見せなさい。話はそれからだ」

「いいですよ、見せますよ」

 中年の警官は取り出した警察手帳をさっと開き、すぐにしまった。

「さ、これでいいでしょう。名前は」

「いいわけないだろう。全然読めなかったぞ。もっとはっきり見せなさい」

「なんだこいつ、さっきから偉そうに。自分の立場分かってんのか」

 眼鏡が狐のような顔で言う。

「警察官が市民に対してこいつとはなんだ。口の利き方に気をつけなさい」

「なんだとっ」

「いいからやめとけ」

 いきり立った部下を中年警官が制止する。そして今度は警察手帳を開いて差し出し、

「ほら、これでいいでしょう」

 そこには山畑という名前と、巡査という階級が記されていた。

「もう気が済んだよね」

 手帳をしまおうとする山畑に、

「ちょっと待て、今撮影するから」

 スマホのカメラを向けると、山畑はレンズを覆うように掌を突き出して、

「撮影はやめて」

「なぜだ。メモ代わりにしようと思っただけだが。国民の権利じゃないのかね」

「とにかく撮影はやめて。あと録画や録音もダメ」

「いいだろう」

 おとなしく従うことにした。一刻も早く駆けつけないと映画に間に合わなくなってしまう。弁護士資格も持っているという自負と自信とが、梶田に冷静を保たせた。

「それで、名前は」

「職務質問を行なうなら、警察官職務執行法2条1項にある不審事由を満たさねばならないはずだ。それを説明してほしい」

「は? なんだって?」

「できないならこのまま行かせてもらう。映画の上映時間が迫っているんだ」

「なに勝手なこと言ってんの」

「勝手だと? 私は映画を観に来たんだ。君は憲法で保障されている国民の権利を侵害してるんだぞ」

「勝手じゃないの。あんたが最初から協力してればよかっただけの話じゃない」

「だったら君には不審事由を説明する法的義務があると言ってるんだ」

 横にいる眼鏡が携帯している通信機で連絡を取り始めた。符牒だらけで意味不明だが、応援を要請しているらしい。

「法律を少しは囓ってるらしいけど、こっちも質問する権利があるんだから」

 山畑は頑なに同じことを繰り返す。不条理極まりない堂々巡りだ。

「まだ分からんのか。職務質問を行なうには、私のどこが不審なのか、君達には説明する必要があるんだ」

 そこで眼鏡が賢しらに口を挟んだ。

「あんた、あそこの女の子達を変な目で見てただろう。それだけで充分不審なんだよ」

「変な目だと」

 よりによってこの私に対して――

 怒りで頭がどうにかなりそうだったが、かろうじてこらえる。

「それが警職法にある『異常な挙動』に当たるのか。『合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる』と言えるのか。え、どうなんだ」

「言えるに決まってる。だってそう見えたんだから」

「それは君の主観だろう。私は客観的要件を尋ねているんだ」

「売春防止法に違反するように見えた」

「言うに事欠いて君は――」

 激昂しかけた自分自身をなんとか抑え、

「仮にそうであったとしても、売春行為には罰則がない。従って逮捕もない。そのことを理解して言っているのか」

「そっちこそ何言ってんだ。未成年と関係したら即逮捕だ」

「じゃあ彼女達に年齢を確認してくれ。未成年かどうかな。もし違っていたら君の言う根拠はすべて崩れる。どうした、ほら、早く行って確認してきなさい」

「こいつ……」

 眼鏡は顔を真っ赤にして梶田を睨み付けている。

「ちょっと場所を変えましょうか」

 唐突に山畑が、梶田の体にはぎりぎり触れずに道路の方へ誘導しようとした。周囲にいた若者達が、一人また一人と足を止め、スマホのカメラをこちらに向け始めたのを気にしているのだ。

「ここじゃ通行の邪魔ですから、とにかくあちらに移動しましょう。言っとくけど、これは法律で認められてる処置だから」

 自分も警職法くらい知っていると言わんばかりの口調であった。

「公園の真ん中で通行の邪魔とはおかしな話じゃないか。見ろ、みんな自由に歩いてるぞ。誰の通行を妨げているのか説明してくれ。具体的にだ」

 これにもまったく反論できず、山畑は誘導を断念した。

「いずれにしても山畑君、それは任意同行を求めるための要件だ。いいか、任意だ。そして私は同意しないと言っているんだ」

 山畑は苦い顔を通り越して無表情になっている。

「まあそうむきにならないで。名前を教えて下さいよ」

 息を整え、満を持して告げる。

「梶田義昭だ」

「そう、梶田さんね」

 予期に反して山畑と部下の眼鏡はなんの反応も示さなかった。

 聞こえなかったのかと思い、わざわざ繰り返した。

「梶田義昭だ」

「それは分かったから。で、仕事は」

 そこで詰まった。落選中で無職であるとは、公衆の面前で言いたくない。

 ほんの少しの間を置いて答えた。

「……弁護士だ」

 嘘ではない。東京弁護士会に登録し、自宅マンションを事務所ということにしてある。

 しかし、返答までわずかながらも間のあったことが山畑達の疑いを招いたようだ。

「ふうん、弁護士さんね」

 明らかに信じていない口振りだった。

「それで、今日は何しに来たの」

「さっき言っただろう」

「え、聞いてないよ」

「映画を観に来たと言ったはずだ」

「ああ、それね」

 そのいいかげんな言い方がどうしようもなく癇に障った。

「それとはなんだ、それとはっ」

 そこへ新たに四人の制服警官が早足でやってきた。眼鏡が呼んだ応援だ。

「はいはい、落ち着いてね」

 顎に大きなほくろのある警官が「こんなことには慣れている」といった顔で言う。

「私は落ち着いているが」

「そうは見えないけど、ま、いいから免許証出して」

 また一からやり直しだ。腕時計を見る。上映時間を過ぎていた。予告編やCMの時間を入れたとしても、もう間に合わないだろう。

 今日が最終上映日だったのに――

「君達のせいで映画に間に合わなかっただけでなく、チケット代が無駄になったぞ。この損害は請求させてもらう」

「いいから免許証出して」

「いいからとはどういうことだ。会話をする気さえないということか」

「免許証」

 ほくろのある警官は山畑以上に無礼だった。

 思い知らせてやる――

 黙って免許証を出し、ほくろの警官に渡す。

「梶田義昭さんね」

 山畑や眼鏡と同じく、ほくろはなんの感慨も示さず、通信機で免許の番号を照会している。

 こいつら、警官のくせして本当に私を知らないのか――

 驚きであり、呆れもした。次いでそれまで以上の猛烈な怒りが湧いてきた。

 身分を明かしてやろうかと何度も思ったが、圧倒的な怒りがそれに勝った。

 今に見ていろ――

 ほくろは礼も言わずに免許証を突っ返し、

「ちょっとそのバッグの中見せて」

「バッグ?」

 梶田は反射的にバッグを背後に隠すようにした。大した物は入っていないのだが、駅近くのコンビニで少年漫画誌を買ったことを思い出したからである。

 漫画であることも恥ずかしいが、少年誌であるにもかかわらず表紙は際どい、と言うよりあられもない水着姿のアイドル写真だった。ここでそれを見られるのはなんとしても避けたい。

 だが梶田のその動作により、警官達の態度が一層硬化するのが分かった。

「そう、それ。中を見せて」

「拒否する」

 総勢六人の警官が梶田の周囲を取り囲んでいる。その距離は冗談抜きで五センチばかり。身動きのしようがないどころか、こちらの指先一つ触れただけでも公務執行妨害で現行犯逮捕する意図があからさまに透けて見えた。

「あんたが拒否してもね、こっちには調べる権利があるんだ」

 またそれか――

「そんな権利はない。君も警察官ならもっと法律を勉強しなさい」

「ほらこいつ、さっきからこんな調子なんですよ」

 はしゃいだように言っているのはまたもあの眼鏡だ。

「見せてくれないとね、署まで同行してもらうことになるよ」

「それも任意のはずだが」

「そんなこと言ってもね、ほら、もうパトカーも来ちゃってるし」

 見ると確かにパトカーがすぐ近くまで徐行してきて停止した。しかも二台。

 パトカーが来ようと来まいと関係ないのだが、梶田はあえて承諾した。

「よし、では署に行こう。池袋署だな。社会のためにも君達の違法行為について署長に注意しておく必要がある」

 何人かの警官が噴き出した。

 笑っていられるのも今のうちだ――

 もう遠慮する必要はない。梶田は前をふさぐ警官を押しのけ、

「同行に応じると言ってるんだ。早くどきなさい」

 悠然とパトカーに歩み寄り、一同を振り返って宣告する。

「言っておくが、私は弁護士であり、元国会議員であり、総務大臣と国家公安委員長まで務めた梶田義昭だ。全員、相応の処分を覚悟したまえ」

 とうとう言ってやった――さあ驚け――自分達のしでかした事の重大さに震えろ――

 反応はなかった。

「さっさと乗れ」

 ほくろがパトカーの後部座席に梶田を押し込め、続けて自らも乗り込んだ。山畑も反対側のドアを開けて乗車する。山畑とほくろで梶田を挟み込んだ恰好だ。

 パトカーはすぐに走り出した。

「君達はいつもこんな違法行為を行なっているのか」

 車内で問うと、山畑がうるさそうに、

「その違法行為っての、やめてくれない? 我々は法に則って職務を遂行してるだけなんで」

 ほくろも一緒になって挑発的に言う。

「法律に自信ありそうじゃないか。起訴された経験でもあるんじゃないの。ま、調べればすぐに分かることだがな」

「今の言動も署長に報告する」

「おい山畑、こいつのスマホは? 録画か録音でもしてんのか」

 不安になったらしくほくろが山畑を質す。

「いや、それは最初にやめさせた」

「そうか」

 ほっとしているほくろに、

「録画も録音も必要ない。私が署長に言えばいいだけだ」

「あんた、元議員ってのは本当なの」

「どうして嘘をつく必要がある。調べればすぐに分かるんだろう」

「元ってことは、今は議員じゃない……んですよね?」

 ほくろの言葉遣いが急に変わった。

「その通りだが、元国家公安委員長だ。長らく警察を監督する責務を担っていた。職を離れた今もその精神を忘れてはいないつもりだ」

 そう言ってやると、二人とも黙り込んでもう何も言わなかった。

 やっと分かったか――だがもう遅い――

 パトカーはすぐに池袋署に着いた。

 署内に入ると同時に、梶田は山畑とほくろに構わず受付に赴き、大声で言った。

「元国家公安委員長の梶田義昭ですが、署長に面会をお願いします」

「はい?」

 受付の女性警察官はわけが分からず聞き返す。

 慌てて追いかけてきた山畑とほくろが、梶田を受付近くの応接室のような小部屋へと案内した。

「ここで待ってて下さい」

 そう言って姿を消した。

 梶田はソファにもたれかかって周囲を見回す。取調室ではないようだが、かつて閣僚であった者を迎えるにふさわしい部屋であり調度であるとは到底言えない。

 そう言えばほくろの名前も眼鏡の名前も聞いていなかった。

 まあいい、ここで尋ねればすぐに分かる――

 しばらくすると、風采の上がらない初老の小男が入ってきた。

「地域総務係長代理の安西です」

 無礼にも対面に座ってから名乗った。梶田も座したまま応じる。

「元国家公安委員長の梶田義昭です」

「公安委員、ですか」

「国家公安委員長です」

「ええと、それは都の委員か何かですか」

「君は国家公安委員会を知らないのか。私はその長たる国家公安委員長だったと言っているんだ」

 安西は曖昧且つぼんやりとした表情のまま、不明瞭な滑舌で発する。

「失礼ですが、それはどういったお仕事なんでしょうか」

 心底から絶句した。

「君は警察官でありながら、しかも管理職でありながら、国家公安委員会のなんたるかも知らないと言うのか」

「いえ、そういうわけじゃないんですが」

「そうとしか理解できない発言だったぞ」

「そうですかねえ。あなたの誤解だと思いますけど」

 悪びれる様子もなく安西は答えた。

 呆れ果てて声もないとはこのことである。

「私は署長に用がある。君では話にならない。早く署長を呼んできなさい」

 さすがに安西もむっとしたようで、

「なんですかあなたは、そんな偉そうに」

「だから偉いと言ってるんだっ」

 我ながら子供じみたことを言ってしまった。

 口の中でもごもごと文句らしきことを呟きながら安西は退室した。

 それから待つこと十二、三分。

「警務課長の徳島です」

 今度はやたらと体格のいい脂ぎった男が入ってきた。

「課長さんですか。しかし私は先ほどの方にも申し上げた通り、署長に用があって参りましたので、署長以外の方と話すことはありません。早く署長を呼んで下さい」

「本当に偉そうだな」

 徳島は初手から居丈高だった。

「いいですか。署長は多忙なのでアポなしで会うことはできません。それくらい常識でしょう」

「常識から逸脱する行為をここの署員が市民に対して行なっているんだ。元国家公安委員長として署長に注意しておく義務がある」

「だから誰であろうとアポがないとダメだと言ってるんだ。いい大人がなに言ってるの」

 またもや同じことの繰り返しだ。

「ただちに署長に報告しなさい。君程度の下っ端と話すつもりはない」

 下っ端と言われて頭にきたのか、徳島の顔色が変わった。

「そんな態度を続けてると何日か泊まってってもらうことになるけど、いいの、それで」

「恫喝ですか」

「職務です」

「容疑は」

「いくらでもある。まず公務執行妨害」

「状況を把握してないのか。署員からの報告を聞いてないんだな」

「いや、ちゃんと聞いているし、状況も分かっている」

 むきになって言い募った。

 この男は警務課長だと言っていた。「頭のおかしい馬鹿を俺が追い払ってやる」くらいのつもりで出てきたのだろう。

「とにかく君と話すことはない」

「そっちにはなくてもこっちにはあるんだよ。ええと、なんだっけ、名前」

「それは何度も言ったはずだが」

「私は初めてなのでもう一度お願いします」

「元国家公安委員長の梶田義昭です」

「ふうん……」

 彼は小馬鹿にしたような息を漏らし、

「その国家公安委員長だけどね、どうやったらなれるのか、あんた知ってますか」

「国家公安委員会の委員長は国務大臣であり、内閣総理大臣の任命により就任する。正式名称は国家公安委員会委員長だ」

 淀みなく答えてやると、徳島は一瞬たじろいだようだが、続けざまに訊いてきた。

「で、それって、どういう仕事をやっているの」

「国家公安委員会は下位組織であるところの警察庁を管理する」

「管理って、どういうこと」

「『国の公安に係る警察運営をつかさどり、警察教養、警察通信、情報技術の解析、犯罪鑑識、犯罪統計及び警察装備に関する事項を統轄し、並びに警察行政に関する調整を行うことにより、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持することを任務とする』。警察法第5条1項だ」

 徳島は黙った。

 思い知ったか――

 その様子を観察していると、ややあってから徳島が白紙の用紙とボールペンをこちらへ押しやり、

「ここに名前と住所、それに職業について詳しく書いて」

「書けと言うなら書いてもいいが、君は私が梶田であると信用できないのか」

「梶田って名前はそうでしょうけど、本当に国の公安委員だった人なら、どうして職務質問に協力しないの。おかしいじゃない」

「それはここの署員が、濫用の禁止規定を明記した警職法に反する違法行為を行なったからだ」

「当人達はそんなことしてないって言ってますけど」

 限界だった。

 梶田は憤然と立ち上がり、

「君はどうあっても私を署長に面会させないつもりだな」

「だからそれは無理だと最初から言ってるでしょう」

「もういい。君にはもう頼まん」

 そのままドアに向かい、退室する。まったく制止されなかった。部屋を出る瞬間に振り返ると、徳島は座ったまま無表情でこちらを見ていた。

 なんという時間の浪費だ――

 再び受付へと足を運び、先ほどの女性警察官に向かって言う。

「元衆議院議員で国家公安委員長だった梶田義昭という者です。大至急署長に面会したい。取次をお願いします。急いで下さい」

「はあ、ご面会ですか」

 怪訝そうに応じた女性警察官は、一枚の用紙を差し出して、

「ではこれにご記入をお願いします」

「聞こえなかったのか。私は元国家公安委員長の――」

「決まりですので、ご記入をお願いします」

 女性警察官はどこまでも冷徹にして無慈悲であった。

 やむなく記入して提出すると、彼女は掌を上に向けて梶田の背後を指し示した。

「あそこでお掛けになってお待ち下さい」

 振り返ると、一般用のベンチが設置されていた。昼間から飲んでいるのか、顔を赤くした老人と、化粧の下手な主婦らしい中年女が座っている。

 この私に対して失礼な――

 そう言いかけたが、受付で騒ぎにでもなったら逆効果だ。

「お願いします。元国家公安委員長の梶田とお伝え下さい。大至急です」

 それだけ言って、老人と主婦の間に座る。

 たちまち十分が経過した。

 立ち上がって受付窓口に向かう。

「君、いつまで待たせる気だっ。ちゃんと伝えたのかっ」

「静かにして下さい」

 いかにも迷惑そうに女性警察官が顔をしかめる。

「私のことをちゃんと伝えたのかと訊いているんだっ」

 そこへ、ばたばたと駆け寄ってくる足音がした。

「梶田先生っ、お久しぶりでございますっ」

 ひどく痩せた貧相な男だった。

「以前警察庁で国会連絡室にいた勝本です。警視庁からの出向だったんですが、今はこちらで副署長をやっております。いやあ、お懐かしい」

「勝本?」

 見覚えはまったくない。しかし勝本は「お懐かしい、本当にお懐かしい」と連呼しながら梶田をさっきと同じ応接室へと招じ入れた。

 梶田はほっと息をついた。少なくとも初めて自分のことを知っている人物が現われたからだ。

「お元気そうで何よりです、先生。こんな所でお目にかかれるなんて思ってもおりませんでしたよ」

 私もだよ、と言いかけて口をつぐむ。ここでつまらない皮肉を言っても仕方がない。

「先生が委員長でいらした頃は、まだまだ世の中は平和でしたなあ。あの頃私は上の娘が受験の真っ最中で、それはもう毎日大変でしたが、先生が頑張っておられるのを見て、私も負けてはいられないと大いに発奮したものです。ええ、当時の先生のご活躍と言ったら、それはもう仰ぎ見るばかりでしたねえ」

 副署長の長広舌は延々と続いた。

 しきりと梶田を持ち上げてはいるが、その功績の具体的な中身については一切触れない。自身の家庭事情については細かく話すが、梶田の家族の近況についてはまったく訊いてこない。

 要するにこの男は自分が国家公安委員長であったことは知っているが、国家公安委員会の仕事についてはなんの興味も持っていなかったのだ。

「最近は物価高が続いておりますから、ウチなんぞもう苦しいばかりで――」

「そんなことはどうでもいいっ」

 痺れを切らせた梶田は、勝本の空疎な世間話を強引に遮った。

「私は署長と面会したいと言っているのだ。早くここへ呼びたまえ」

 途端に勝本は表情を曇らせ、

「それが、署長はあいにく席を外しておりまして」

「ならばお帰りになるまで待たせてもらう」

「それが、今日はあいにく署へはお戻りにならない予定になっておりまして」

「そうか」

「はい」

「本当だな」

「もちろん」

 彼が防波堤となって懸命にこちらを署長に会わせまいとしていることは誰の目にも明らかである。

「君の話が本当かどうか、こちらから行って確かめてみよう。署長室は何階だ」

 立ち上がりかけた梶田を、勝本が慌てて押しとどめる。

「お待ち下さい、いくら先生でも署内での勝手は許されるものではございません、お腹立ちはごもっともと存じますが、どうかお平らに」

 確かに彼の言う通りである。勝手に署長室へ乗り込んだりしたら、別の厄介な問題が発生するおそれがあった。

 梶田はソファに座り直し、

「では、今日私を不当に拘束した山畑という巡査をここに呼びなさい。それと狐に似た眼鏡の巡査と、顎にほくろのある巡査もだ。遵法精神と警察官の心得について言い聞かせておく必要がある。さあ、早く呼びなさい」

「はっ、少々お待ちを」

 応接室を飛び出していった副署長は、きっかり三分後に戻ってきた。

「申しわけございません。三人とも巡回に出ておりまして署にはおりません」

「三人ともか」

「はい、三人ともでございます」

「では戻るまで待つ」

「それが、管内で窃盗事件が発生したようで、そちらに応援に向かったとのことで、いつ戻るか不明であるということです」

 でまかせもいいところだと思ったが、こちらが待っている限り署には戻らないと推測された。

「分かった。では署長には今日のことを正確に報告しておくように。警察の信頼に関わる重大事だ。いやしくも警察官が法を無視し、国民の人権を踏みにじっていては法治国家、民主国家の根幹を揺るがしかねない」

「はっ、まったく先生のおっしゃる通りでございます」

 副署長が深々と頭を下げる。一見すると丁重にも慇懃にも見えるその姿勢には、表情を相手に見せないで済むという効能があると梶田は初めて知った。

「それと、私は今日の体験をSNSに書くつもりだ」

 ずっと頭を下げたままでいた副署長が「は?」と顔を上げる。

「先生、先生ほどの大人物が、こんな些細なことにこだわっておられるとは、先生の器量にかかわります。お怒りはごもっともと存じますが、今日のことは、ご内密にと申しますか、一つこの場限りでお忘れになって頂くというわけには……」

「些細なことだと?」

 またしてもこれだ。

「君は私の話を聞いておったのか。警察の信頼や国民の人権に関わる重大問題だと言ったばかりではないか。それを些細なこととは……」

 怒りのあまり、それ以上言葉を続けることができなくなった。

「もういいっ。現場にはカメラで録画していた若者達が大勢いた。事実はすぐに明らかになるし、広く世間に拡散するだろう。署員全員で確認してくれたまえ」

 梶田はそう言い残し、大股で部屋を出た。ドアの所で振り返る。ずっと上目遣いであった勝本の顔から、愛想笑いが完全に消え失せていた。三白眼のようにも見えるその白目が、ただ梶田をじっと見据えている。

「なんだ、その目は」

 大声で叱咤すると、副署長は再び満面に親しげな笑みを浮かべ、

「どうかお気をつけてお帰り下さいませ。お会いできて本当に嬉しゅうございました」

 不出来なコミックのようなその変化に、梶田は慄然として応接室を後にした。

 署の正面口を出たときに気づいた。山畑ら現場のヒラ巡査は言うまでもなく、係長代理も課長も副署長も、誰一人として名刺を出そうともしなかったことに。

 こんな屈辱があるものだろうか。

 考えれば考えるほど信じ難い出来事だった。

 俺は国家公安委員長だったんだぞ――閣僚だったんだぞ――

 悔し涙さえ滲んでくる。楽しみにしていた映画は観られず、下っ端どもに無礼な口をきかれ、中間管理職には疑われ、たかがノンキャリの副署長にもいいようにあしらわれた。絶対にこのまま済ますわけにはいかない。

 山手線を使って自宅マンションに帰り着いた梶田は、在宅していた妻の佐代子と娘の香奈恵に自分の体験をぶちまけた。

 驚き呆れ、同情してくれるかと思った二人は、しかし意外と平静だった。もっと言えば無関心だった。

 大変でしたねえ――そういう意味の言葉を妻は一応口にしたが、娘は途中で飽きたようにスマホをいじり始めた。

「私はね、今日のことをSNSに書こうと思うんだ」

「SNSって、あのブログ?」

 娘がスマホから顔を上げる。

「そうだ。私にはあれが一番使いやすいからな。でもそれだけじゃない。ツイッターにもフェイスブックにもnoteにも転載する」

「えっ、パパ、そんなにアカウント持ってたの」

「馬鹿にするんじゃない。今どきそれくらい使いこなせないと政治家は務まらん。永田町でも常識だ」

「政治家って言ったって、今は無職じゃん」

 二十代も半ばになって、自身も無職の娘が言う。

「次の選挙では必ず比例上位に入れてくれると選対本部長の太田川先生もおっしゃっているんだ。心配は要らん」

「別にそういう心配はしてないけど」

「でもあなた、ネットに変なことは書かない方がいいですよ」

 心配そうに言う佐代子に対し、

「変なこととはなんだ。この事実を国民に知らしめるのは政治家としての私の義務じゃないか」

「警察に対する建て前としてはそうでしょうけど、ネットって怖いじゃない。もし何かあったら取り返しがつかないし」

「そうよ、ママの言う通りよ。あたしもやめといた方がいいと思うけどな。パパが炎上するのは勝手だけど、迷惑するのはあたし達だし」

「おまえ達は一体何を言っているんだ。私は被害者なんだぞ。炎上するわけないじゃないか」

「その予測がつかないから怖いって言ってるんですよ、私も香奈恵も」

「悪いこと言わないからやめといた方がいいって、ゼッタイ」

 自分は家族にさえ理解されないのか――

 ますます怒りが募ってきた。

「もういい。私は自分の好きなようにする」

 自室に籠もった梶田は、パソコンを起ち上げ、ブログの記事を打ち込み始めた。

 微に入り細を穿ち、体験したばかりのことを詳細に綴っていく。最初の声がけから副署長による口止めまで。怒りの分だけ打鍵の速度は異様に速い。一時間半ほどで書き上げ、最後は警察への猛省を促し、人権と民主主義を説き、国民に対する注意喚起で締めくくった。

 知らぬ間に凝り固まっていた首筋を揉みほぐしながら推敲する。我ながら正確に書けていた。

 これでいい――

 ほくそ笑みながら記事をアップする。次いでフェイスブック、noteに転載する。ツイッターに投稿するには分量が多すぎた。ツイッターには概要だけを記し、他媒体へのリンクを貼る。

 思い知れ、後悔しろ――これで池袋署に非難が集中すればいい――あいつら全員の将来が潰されればいい――

 ノックの音がして、妻が顔を出した。

「お夕飯、できましたけど」

「ありがとう。今行く」

 ダイニングキッチンで食卓につく。今夜の献立は海老フライの卵とじと豚大根、それに里芋の辛子和えとしじみ汁だった。

「いただきます」

 佐代子も香奈恵も、先ほどの話など忘れた如くに黙々と箸を動かしている。梶田もことさらそのことには触れず、食物の咀嚼に専念した。

 こうしている間にも、SNSを見た国民の怒りが高まっているに違いない――想像するだけで密かな愉悦に心が弾んだ。その分、味覚はどこかへ消えている。

「ごちそうさま」

 残さず平らげ、ゆっくりと茶を二杯飲み、席を立って自室に戻る。

 部屋を出てから一時間あまりが経過していた。

 さて、反応は――

 キーを押すとスリープモードになっていたパソコン画面が光を取り戻した。

 ブログにはなんのコメントも付いていない。ブログはすでに時代遅れのメディアであるから予想の範囲内だ。次にフェイスブックを覗く。数人の支持者から「それはひどいですね」といったコメントがあった。アップして一時間程度ではまあこんなものか、と思いつつ続けてツイッターの方を確認する。こちらには多くのコメントが付いていた。

 にんまりと笑いながら読み始める。

《このオッサン、バカじゃねえの》

 まず飛び込んできたのがそれだった。笑顔がたちまち凍りつく。そしてさらに、読み進めるに従い、どんどん険しいものとなっていくのが自分でも分かった。

《警察の対応もヒドイが、このオヤジも大概だな》

《この人、本当に国家公安委員長だったの?》

《それは本当。でも現在は落選中。正真正銘の無職です》

《落選した政治家ほどみじめなものはないね。巡査にもバカにされてさ》

《元国家公安委員長が不審者扱い。見てくれは正直ホームレスだし》

《政治家ってなんでこんなにエラそうなの》

《職質ってこんなもんだと知らなかったのかな》

 日本人の民意とはこの程度のものであったのか――

 分かっていたはずだった。ツイッターとは無責任で悪意に満ちた場であるということを。

 一旦ツイッターを閉じ、再度ブログを開く。

 比較的長文の投稿がいくつか寄せられていた。

《池袋署の対応は確かに言語道断で法を無視していると言っても過言ではないと思います。しかし、あなたは元国家公安委員長だったわけでしょう? なのに職務質問の実態を知らなかったのはあなた御自身の責任ではないでしょうか。職務質問とはずっと前からこんなものですよ。あなたは国家公安委員長という地位にありながら、警察の実態に目を向けることもなかったわけですよね? 市民の生活に関心なんかこれっぽっちもなかったわけですよね? なのに御自分が職務質問にあった途端、理不尽だ、職権の乱用だ、民主主義の衰退だはないでしょう。恥を知るべきです》

《国家公安委員会が警察を監督してるんなら、この人はなんで在任中にそれやんなかったの? この人達がちゃんと仕事をしてくれてたら、警察もちょっとはマシになってたかもしれないのに。何もしないでただエラそうにしてるだけで高い給料もらってたんだね。本当の責任は誰にあるのかって話だよ。なのに『警察官は法を遵守し、国民の立場に立って行動すべき』だとか、今頃なに言ってるんです? 自分勝手にもほどがあるって思いません? まあ、もう手遅れだけどね。この人にだけは投票しないって決めたわ》

《映画のチケット代返せだって? 政治家のクセしてセコいにもほどがあるね。訴訟でもなんでも勝手にやって下さいな。こっちはもっとひどい目に遭ってきてるんだから。職質のおかげで就活の面接に遅刻したんだから。もう人生メチャクチャ。損害は計りしれないよ。そんなときあんたらは一体なにをしてくれたっていうの? たまに痛い目見るくらいでちょうどいいんじゃないですか。自業自得ってヤツ? 因果応報とも言いますね》

 悪寒がする。心のどこかが音を立てて壊れていく。

 なんだ、これは――

 それ以上はとても読み進められなかった。急いでパソコンをシャットダウンする。

 なんなんだ、一体――

 耳の奥で鼓動が聞こえた。血圧が上がってでもいるのか。

 深呼吸だ、こういうときこそ――

 立ち上がって何度も深呼吸する。次いでヨガ教室でならった腹式呼吸もやってみる。

 大丈夫だ――私はもう大丈夫だ――

 パソコンの電源を入れ、ツイッターを見る。コメントはさらに増えていた。これまで何度か政策についての提言を投稿したことがあるが、そのときとは比較にもならない膨大な数だ。

 中には動画が添付されているものも散見された。タイトルは『職質で詰められている自称国家公安委員長』『元議員vs池袋署の見苦しい攻防』など。あの場で若者達がスマホで撮影したものだ。それらにもコメントが付けられている。

《画像検索したけど梶田義昭本人で間違いないね》

《顔にモザイクとか掛けとかなくて大丈夫なの?》

《公人なんだから問題なし》

《最初から名乗ってればいいのにね》

《後で正体を明かしてビビらせようとでも思ったんだろ》

《水戸黄門の見過ぎかよ》

《でも全然効いてないね》

《現場の警官が国家公安委員長の名前なんか知ってるわけないだろう》

《相手が自分のこと知らないんでこのオッサン驚いてるよ》

 画面には、コメント通りの自分の間抜け面が大きく映し出されていた。

 髪は乱れ、シャツの裾ははみ出ている。とても見られた姿ではなかった。

 こうしている間にも、画像は爆発的に拡散されていく。

 パソコンを閉じた梶田は、その上に突っ伏してしばらく動けずにいた。

 一時間ほどもそのままでいてから、のろのろとした動作で再びパソコンを開き、自分の使用しているSNSのアカウントを削除していった。一つずつ、淡々と。

 まるで法事のようだった。ただ粛々とアカウントを丸ごと消す。数多くの記事や提言、政策スローガンと一緒に消滅するコメントやリプライは、津波という災厄に逃れようもなく呑み込まれる民のようだった。彼らの悲鳴が、絶叫が、パソコンのスピーカーから流れ出たなら、それはどんなにか心地よく甘美な旋律に聞こえたろうか。あるいは、読経以上に退屈なノイズでしかないかもしれない。どっちでもいい。

 アカウントを一つ消すたび、何かが確実に喪われる。しかしそれが己の自尊心や矜恃であったとは断じて認めない。ましてや人生そのものなどではあり得ない。もしかしたら、虚栄の影であったかもしれないが、それを確かめる暇もなく何もかもが瞬時に消える。

 パソコン上からできる操作をすべて終えた梶田は、最後にデスクの引き出しから何年も使っていなかったライターを取り出し、スマホの画面をいつまでも炙り続けた。

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朝日新聞出版の月村了衛さんの本