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桜井美奈『復讐の準備が整いました』第5回

 梅雨になって、雨が降るようになると、肌寒さを感じる日が続いた。

 漫研部の部室にもエアコンは設置してあるが、学校では使用期間が決まっている。冷房は6月の第3週から9月いっぱい。暖房は11月から3月までだ。

 6月になったばかりとあって、冷房も暖房も使えない。降り続く雨は室内に湿気をもたらし、漫画用の原稿用紙も、心なしかふやけていた。

「うわっ、この部屋寒いわ」

 部室のドアを開けるなり、本沢は寒い、寒いと繰り返す。

「じゃあ先生、暖房のスイッチ押してください」

「そこまでではないわよ。ところで今日、由利さんは?」

 狭い部室は一目で部員の数を把握できる。本沢は由利がいないことに、ドアを開けた瞬間に気づいただろう。

「咳をしていたので、帰らせました」

「そういえば、教室でもマスクしてたような……」

 熱はないから授業に出たのだろうが、出欠自由の部活に、無理をする必要はない。

「なんだ、面白いものを見つけたから持ってきたのに」

 本沢は右手に紙袋を持っている。中に何が入っているか見えないが、サイズからして雑誌だろうということは察しがついた。

「何ですか? また、新しい漫画を買ったんですか?」

「違うわ。本の整理をしていて、見つけたの」

 ふふ、と楽しげな様子で、本沢は紙袋を開ける。中に入っていたのは、少女漫画の雑誌『ガーベラ』だった。

「去年のなんだけどね」

「先生、雑誌まで買っているんですか?」

「懸賞のためにたまにね。そんなことより――」

 よほど葵に見せたいものがあるらしく、本沢は雑誌に付箋まで付けていた。

 本沢は葵が読みやすいように本を向けたかと思うと、「じゃーん」と効果音付きで、1枚紙をめくる。そこには、漫画の投稿結果が載っていた。

「ココ!」

 本沢の人差し指がさす場所の文字が、すぐに目に入った。

「この絵、由利さんの絵に似ていない?」

 よく部室に顔を出している本沢は、当然由利の絵を目にしている。

 たまに、自分の好きなキャラクターを描いてもらえないかと、頼んでいることもあったくらいだ。

「えっと……」

 掲載されているイラストは漫画の1コマで、証明写真よりも小さな枠にワンカットだけだ。これだけで確定するのは難しい。だが――。

「似てますね。とても」

 特に、目が似ている。いや、同じと言ってもよさそうだ。

 由利の描く人物の目はかなり特徴的だ。ただ、それだけでは判断できない。

「年齢が一緒ですね」

 投稿者の年齢も載っている。15歳。去年は中学3年生だから合っている。

「でも投稿者プロフィールに、群馬ってありますよ?」

「ああ……由利さん、親御さんの仕事の都合で、中学は群馬に住んでいたのよ。群馬にいたのは3年間だけだから、東京の方が慣れていると思うけど」

 そういえば、初めて漫研の部室に来たとき、小学校時代の同級生とは、中学が違ったようなことを言っていた。

 そう考えれば、つじつまが合う。だが……。

「偶然って可能性は?」

「それにしては、一致しすぎじゃない?」

 ですね、と葵は答えたつもりだったが、喉の奥に絡んで、うまく言葉が出てこなかった。

 葵はショックを受けていた。

 由利が漫画を描いたことがないと噓を言っていたことも、そして――。

「奨励賞とはいえ、中学生が受賞するって凄いことよね?」

 本沢の声は弾んでいる。だが新人賞に出しても、箸にも棒にも引っ掛からなかった葵からすると、羨ましいことだ。羨ましくて、羨ましくて、何で? と思ってしまう。

 そして、どうして漫画を描いたことがないなどと、噓をついたのか。

 葵のことを気遣ったのだろうか?

 だとすれば、かえってムカつく。人をバカにして……とすら思った。

「……本沢先生」

「んー……なあに?」

 処分するはずの雑誌を、本沢は表情を変えながら、夢中になって読んでいる。そのせいか、返事はどこか上の空だった。

「このこと、由利に確かめるんですか?」

「ん……」

 またもや反応が薄いことに焦れた葵は、本沢の手から本を奪った。

「先生!」

「な、何?」

 本沢は目を丸くしていた。

「……ごめんなさい」

「ううん、こっちこそ無神経だったわね。意識しちゃうのは当然だもの」

「えっと……」

 素直にはうなずけなかったが、否定もできなかった。

 この部屋で漫画のことを語っている最中、由利はどんな思いで聞いていたのだろうか。どんなことを考えながら、話していたのだろうか。

 心の中で、葵のことを笑っていたとまでは思わないが、レベルの低さに呆れてはいなかっただろうか。

 本沢は眉を下げた。

「私が余計なことをしたわね。まずは本人に確かめてからにするべきだったわ」

 確かに、本沢がうかつだったのかもしれない。ただ経緯はどうあれ、由利が漫画を描いていた、その事実は揺るがない。

 そのことにショックを受けている自分が情けなく、そしていらだっていた。由利が受賞を黙っていたのも、漫画を描いたことがないと言ったのも、葵に責める資格はない。それによって、害を被ったわけではないのだから。

 ただ、そう考えると、なおさら自分がみじめに感じた。急速に湧いた怒りは、すでに静まっていたが、今は情けなさで消えてしまいたくなる。

 うつむいていると、勝手に涙がこぼれてしまいそうになった。

「小野川さん」

 本沢の優しい声が、葵の頭の近くから聞こえた。

「焦る必要ないよ。小野川さんは正しく努力できれば、いつか自分の作品を、この世に出せる人だと思うから」

「先生は、漫画を描けなかった人なのに、わかるんですか?」

 口にしてから嫌味だったと葵は気づいた。だが、本沢は少しも気にする様子もなく微笑んでいた。

「だからわかるの。普通は憧れがあっても、そこへ踏み込もうとはせずに眺めているだけだし、私のように少し試してみて、その難しさに途中で引き返す人の方が多いと思う。だけど小野川さんは、最後まで描いたでしょ?」

「たった1度だけです。それも選外……」

「1度でも描けたってことは、2度目もあるのよ。最初の1歩が1番難しいんだから」
 本当だろうか。

 正直なところ、葵は本沢の言葉に、素直にはうなずけない。でも、そうであったらいいな、とは思った。

「先生、お願いがあります」

 その後も葵は、由利が漫画を投稿していたことを訊けずにいた。本沢には、『由利が雑誌に投稿していたことは黙っていて欲しい』と頼んである。由利がどうして葵に噓を言っていたのか、自分で訊きたいと思っていたからだ。雑誌は葵がもらった。

 ただ言い方を間違えると、詰問するようになってしまいそうで、訊ねられない。

 機会をうかがっていると、由利が「1つの設定から、いくつか話を作ることって可能でしょうか」と言いだした。

 別のことを考えていた葵は、一瞬返事が遅れた。

「あー……あるんじゃないかな? りんごだって、アップルパイになったり、ゼリーになったり、そのまま食べたりするでしょ」

 由利が目を丸くしたかと思ったら、次の瞬間ふき出していた。

「そんなたとえって、ありますか?」

「でもそうでしょ。素材が同じでも調理方法によって料理名が変わることなんて、よくあるじゃない」

「そうですけど」

 和やかな雰囲気の今なら、訊けるかもしれない。

 葵は自分に、落ち着いて、冷静に。そう言い聞かせながら、さりげない風を装った。

「ねえ、由利にはペンネームってある?」

 本棚の前にいた由利は、「どうしてですか?」と、不思議そうな顔で振り返った。

 唐突すぎただろうか。だがもう、口に出してしまったため、あとには引けない。

「えーっと……ちょっと、ペンネームに悩んでいて」

「ああ……」

 由利は少しの躊躇を見せてから「逆立ちするカメ」と言った。

「は?」

 口にこそ出さなかったが、ずいぶんふざけた名前だ、と葵は思った。

「それで投稿するの?」

 雑誌に投稿したときの名前とはまるで違う。作品の方向性にもよるだろうが、少女漫画家には、まず見ない名前だ。

「投稿するというか、アカウント名です。先入観を与えたくないので、性別がわからないようにしたくて」

「まあ、ネットは遠慮なく攻撃してくる人もいるからね」

 葵もSNSはしているし、イラストや漫画の投稿サイトの閲覧もしている。規模の違いはあっても、何かしら揉めている……いわゆる炎上している場面は、何度も目にしていた。

「それ、私が検索して見ちゃっても大丈夫?」

「ダメなら黙っています。こっちから見て欲しいってお願いしたら、葵さんが面倒に思うかなって言わなかっただけなので」

「そんなことないよ。むしろ、もっと早く教えて欲しかった」

 言わないのは、隠したいから。

 葵はそう思っていたが、由利にしてみれば、言わないのは、見てもらうのが悪いから、だったらしい。

 そう考えると『漫画を描いたことはない』と言ったのだから、雑誌に投稿した件には、触れて欲しくないのかもしれない。

「葵さんは何ですか?」

「ん?」

「さっき、葵さんペンネームに悩んでいるって言っていましたよね? 候補はあるんですか? 無理に訊くつもりはありませんけど」

「無理じゃないけど……前回投稿したときは、何にも考えていなくて、本名で出しちゃったから、次に投稿するときになるけど……」

 なぜか照れる。ただ、隠すほどのものではない。それにこういったものは、サラッと言った方がいい。引っ張れば引っ張るほど言いにくくなる。

「野川ひなた、にしようかと」

「え?」

 由利が目を瞬かせている。

「そんなに驚くような名前じゃないでしょ」

「えっと……まあ、はい。わりとどこにでもある名前だとは思いますけど……。由来はあるんですか?」

「一応ね」

『野川』は『小野川』から『小』を取っただけだ。

「本当は、葵って名前も気に入っているし、そのままにしようとも思ったんだけど、それだと本名とほとんど変わらないからね」

「そうですね」

「私さ、初めてあった日、由利に名前で呼んでって頼んだでしょ。それって、もしこの先……デビューできたら、野川と呼ばれることが増えるんじゃないかなーって……だから、葵って名前を覚えておいて欲しいと思ったんだよね。何をこだわっているんだって感じだけど」

 照れくさくて、葵はやたらと早口になった。

 だが、由利はからかうことなく、うんうん、とうなずいていた。

「10歳くらい上の従姉が、結婚して苗字が変わったことに抵抗を感じていると言っていたので、わからなくはないです。名前ならずっと使いますから。でも、ひなたはどうして?」

「それは……深い意味はない。何となく、パッと思いついたのをつけただけ」

「なんだ……」

 なぜか由利は、つまらなそうな顔をしている。

「私のペンネームに深い意味を求めないでよ」

「そういうつもりじゃ……良いと思います。素敵です」

「今さらいいですぅー。とってつけなくても」

 葵が頬を膨らませると、由利は笑いながら本を1冊手にして、カバンにしまった。

「あれ? もう帰るの?」

「はい、先週休んだから、ちょっと寄っただけです」

「あ、そっか。今日は月曜日か」

 ここ1か月ほど、由利は月曜日になると、部活を休んでいた。

「帰るのはいいんだけど、月曜日に何かあるの?」

 実は葵は、ずっと気になっていた。だが最初に、「休みたければ、休めばいいし、描きたくなければ描かなくていい」と言った手前、訊ねそびれていた。

「見たいアニメがあるんです」

「それなら、録画予約すればいいのに」

「リアタイしたいんですよ」

 それはわかる。大好きなアニメなら、放送中に1度、さらに録画したものか、配信でも繰り返し見たくなる。

 時間を気にする由利は、すぐに部室から出て行った。

 1人になった部室で、葵は制服のポケットからスマホを出す。由利が何のアニメを見るのか気になったからだ。

 テレビの番組表で、月曜日の夕方から夜の時間帯に放送される番組をチェックする。

「あれ?」

 何もなかった。幼児向けの番組すら、その時間帯にはアニメの放送は一切なかった。

「配信か有料チャンネルかな」

 それならチェックしきれない。

 葵はいつものようにノートを広げて、日課であるネタを書き始めた。

               ※

 ロング丈の黒いスカートに、黒のシンプルなTシャツを着て、バケットハットをかぶっている彼女は、黒いサングラスとマスクで顔のほとんどを隠していた。うつむいて肩をすぼめて歩く姿からは、誰かの目に触れたくないのだということは一目瞭然だった。夜であれば、闇に隠れてしまいそうないでたちは、全身を黒く塗りつぶしていた。

「リリ、しばらく会わないうちに、芸能人にでもなった?」

「……言わないで」

 どうやら、彼女もやりすぎた自覚はあるらしい。服装はシンプルなだけに、顔だけ隠した完全防備スタイルは、ある意味悪目立ちしている。

「そっちだって、相変わらず王子様みたいな恰好してるし」

 不貞腐れたように言い放つさまに、神田理久は思わずふき出した。

「25だよね?」

 とっさに理久は、唇に人差し指を立てた。

「言うなって。22歳で通しているんだから」

 時間的に、店内はまだそれほど人は多くない。もっとも、それがわかっていて、リリもこの時間に来たのだろうということは、理久は気づいている。

「最初に会ったときも22歳だった気がする」

「永遠の22歳なんだよ。ここは夢を売るところなんだから」

 客も店員も噓ばかりの場所だ。だがここに現実を持ち込んだらつまらない。

「そんなこと、リリも知ってるでしょ」

 理久はサングラスの奥にある、リリの瞳を覗き込んだ。

「ま、ここも飽きてきたから、そろそろ場所を変えるけどね。そうしたらリリ、通ってくれる? こっそり通してあげるから」

 この店はこの界隈では唯一、未成年でも入店できるコンセプトカフェだが、理久もさすがに年齢のギャップを感じていて、来月には転職する。

 次は大人向けの、アルコールを出す店に行く予定だ。

「行くわけないでしょ」

 リリには吐き捨てるように断られた。こんな場所、1秒たりともいたくない、と言わんばかりの態度だ。

「そんなことより何? 突然、あんなメッセージを送ってきて」

 この1年、1度も連絡をしてなかった。だから、理久をブロックもしなければ、消してもいなかったのだろう。

「嫌なら来なくていいよ、とも伝えたはずだよ。それより、注文をお願いします。一応ココ、カフェなんで。何だったら、ドリンク作るよ?」

 さっさと話を終わらせたかったリリは、すぐに出てくるリンゴジュースを注文した。

「で、何?」

「せっかちだなあ。まだグラスに氷を入れたところなのに」

 リリがこの場所から早く離れたいことはわかっている。だが理久も悪気があって呼び出したわけではない。手早くジュースを提供すると、会話を始めた。

「アイツが捜しているって」

「……え?」

 マスクをずらしてストローに口をつけていたリリは、弾かれたように顔を上げた。カウンターの中はライトで明るく照らされているが、客席は薄暗い。だがその一瞬で、リリの顔に焦りが浮かんでいるのを、理久は見逃さなかった。

 具体的な名前は出していないが『アイツ』と言った時点で、思い当たる人物は1人しかいないだろう。

 リリの口元が震えていた。

「どうして?」

 今さら、と言いたいのかもしれない。リリはここ1年以上、まったくこの辺りには姿を見せずにいた。1年……いや、半年も経てば、店も人もそっくり入れ替わっていても不思議ではないこの界隈の時間の進み方は、他の場所よりも早い。

 それなのに、なぜ、と思った。

「さあ? 俺も詳しいことは知らない。ただ、圭太からそう聞いたからさ。一応伝えておこうと思って。圭太も又聞きって言っていたから、細かくは知らなそうだったけど」

 理久は、圭太にも連絡する? と言ってみたが、リリは「ううん」と首を横に振った。

 グラスの中のリンゴジュースは、1センチも減っていない。だが、それ以上はもう、口をつける気はないらしく、リリは元の位置にマスクを戻す。代金をカウンターに置いて席を立った。

「教えてくれたことには感謝しているけど、それくらいなら、私がここへ来る意味ある?」

 そう言われることは、理久も想像していた。リリにとって、この界隈に来ることはリスクしかないことは知っているからだ。

 だが思わせぶりなメッセージを送ったのは、ここへ来て欲しかったから。もちろんそれには理由がある。

「だってただ情報渡すだけじゃ、俺にメリットないでしょ。ここは、売上がすべての世界なんだから」

 サングラスにマスクでは、表情はわからない。

 だけどリリが理久を睨んでいることは想像できた。

※ 次回は、2/6(木)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)