【保阪正康著『田中角栄の昭和』春名幹男氏解説】対米従属を拒否した田中角栄
対米従属を拒否した田中角栄
春名幹男
著者の保阪正康氏は半世紀にわたって昭和史の研究成果を世に発表し続けてきた。豊富な資料を駆使して分析し、時代を解き明かし、読者の支持を得てきた。彼の魅力は総合力だ。新聞社で言えば、政治部、文化部、経済部といった主要各部が収集するような情報を一人で集めて巧みに構成する。だから、既存の田中伝記では「田中角栄は語られているように見えて、その実、語られていない」と切り捨てている。
彼は、昭和時代を3期に分けて、前期を戦前・戦中の「軍事主導体制」、中期を占領下の「国家主権喪失体制」、後期を「物量至上の社会体制」と色分けし、前期を代表する東條英機首相と中期の吉田茂首相の評伝はすでに書いた。
今回、後期を代表する田中角栄の評伝に取り組んだのは、「最近の政治状況の中に田中政治が顔をだしている」からだと動機を明らかにしている。田中政権の時代と近年の政治状況にはアナロジーがある。彼の指摘でそのことに気がつき、はっとした。
田中の時代、第四次中東戦争とそれに伴うオイルショック、そして田中金脈問題などの不祥事で政権が大きく揺らいだ。今は、ロシアのウクライナ侵攻と、それに伴う西側の制裁でサプライチェーンが乱れ、円安も重なって物価高を招いた上に、自民党と旧統一教会の癒着や「裏金問題」で追い詰められ、石破茂首相が登場したが、総選挙で自公与党の衆議院議席は過半数割れとなった。その上「対米従属」や「日米地位協定」への国民の不満が募り、与党はさらに追い詰められそうだ。本書はまさに刺激的にタイムリーな出版となった。
田中は1974年末に退任後、1年余りたって、未曾有の国際的スキャンダルである「ロッキード事件」に見舞われ、逮捕・起訴。長期にわたる法廷闘争を余儀なくされる。しかし田中には、これは単なる刑事裁判ではなく、法廷自体が政治裁判であり、自分は「元首相」の立場で、「敵対する勢力との間で行われた政治闘争を今またくり返している」との思いがあった、と保阪氏はいみじくも鋭い指摘をしている。
この機会に、米国でロッキード事件関係の公開された機密文書を渉猟した立場から、田中の「政治闘争」について、話を補強できたらと思う。実は田中が闘った相手は、対立する日本の政治家だけではなく、米国のリチャード・ニクソン政権にも政敵はいたのだ。
次のような結論を先に申し上げたい。
現代の状況に関連付けて言うなら、田中は自主外交を進め、対米従属を拒否した最後の首相である。歴史的経緯から言えば、田中は自主外交を進め、対米従属を拒否して米国側から嫌われ、逮捕されたのだ。
もちろん、外交とは無関係の法的手続きで、法執行機関が5億円のわいろを受け取った事実を立証したので、田中は逮捕され、裁判でも有罪を宣告された。しかし、その法的過程で、米国政府はロッキード社から田中有罪を立証する文書を提出させる仕掛けを作っていたのである。
次に、田中逮捕を決定的にした経緯を以下に振り返っていきたい。
実はロッキード事件は日本で大騒ぎが始まる約5カ月前に、米国で裁判沙汰になっていた。事件が発覚したのは、日本で表面化した1976年2月5日の約8カ月前、1975年6月10日に上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ小委員会)が別のテーマで行った公聴会だ。直ちにチャーチ小委と証券取引委員会(SEC)はロッキード社に対して、「政府高官名」が入った資料の提出を要求した。しかし、ロッキード社側は拒否した。
チャーチ小委は断念したが、SECは提出を要求し続けた。それでもロッキード社は応じないので、SECは1975年10月9日、同社を相手取ってワシントン連邦地裁に提訴し、高官名が入った文書の提出をあくまで求めた。
困ったロッキード社はヘンリー・キッシンジャー国務長官に要請し、「機密メモ類の公開は望ましくない」として、文書を提出しなくても済むよう助力を頼んだ。キッシンジャーはこれを受けて、11月28日に司法長官あてに意見書を提出した。意見書は最終的に連邦地裁に提出された。A4判で1ページ半程度の長さだが、内容は以下のように非常に難解だ。
「外国高官の名前と国名が第三者に早まって公開されると、米国の外交関係にダメージを与える」として、一般論としては公開に消極的な考えを示している。
同時に「判事が望めば、国務省の代表が判事と面会して非公開で助言し、国務省の正確な限度について話し合いたい」とも提案している。「限度」を超えなければ、高官名入り資料をSECに提出してもかまわない、という仕立てになっているのだ。
この限度とは、何のことだろうか。前後の脈絡からみて、米国の外交関係にダメージを与えるほどの高官名と国名、という意味と考えられる。
判事はこの意見書の内容を取り入れて結審した。その結果、文書がSECに提出された。
文書が最終的に東京地検特捜部に渡されたことは、当時のロッキード社社長A・C・コーチャンと担当検事堀田力の回想録などで明らかにされている。堀田氏によると、高官名が入った捜査資料は3点ある。
第一に「Tanaka」の名前が中心に位置する人脈図、
第二に「PM(田中首相の略称)」に対する働きかけの経緯を記した文書、
第三に田中派幹部を含む政治家名とカネの支払い額に関するリストである。
これらの文書は、ロッキード社からSECに提供され、米国司法省経由で東京地検特捜部に渡された2860ページの一部である。
キッシンジャーに助力を依頼して、コーチャンは「『これでわれわれは十分保護された』――私はそのときそう感じて安心したものである」と回想録に書き残している。
しかし、現実はまったく反対だった。国務省とキッシンジャーは、これら三点の文書とそこに出てくる高官名は「限度内」とみていた。言い換えれば、キッシンジャーは事実上、田中が立件される程度であれば文書の提出はOK、と考えていたに違いない。
事実、キッシンジャーは田中をひどく嫌っていた。国務省の次官補(日本の局長級)以上の幹部を集めたスタッフ会議でキッシンジャーは田中のことを、ただのウソつきではなく「彼はウソつきの世界記録を持っている」などと口を極めて罵っているほどだ。
外交問題では、ニクソン政権は田中による「日中国交正常化」に反対していた。キッシンジャーの秘密外交が成功して、日本より先にリチャード・ニクソン大統領の訪中を実現したではないか、と言われそうだ。確かに1972年2月にニクソンが先に訪中し、田中訪中は半年以上あとの同年9月になった。
しかし中身が違う。田中訪中で発表された日中共同声明は、日中の国交を正常化し、「中国は一つ」「台湾は中国の一部」と認めている。これとは全く異なり、ニクソン訪中で発表された「上海コミュニケ」は「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している」という巧みな文章で、中国側が求めた米中国交正常化をかわしているのだ。
キッシンジャーはこのコミュニケを「歴史的成果」、とその後も誇りにしてきた。「通常、コミュニケは棚の上の短い命である。……ニクソンの中国訪問についてまとめたコミュニケの場合は違う」と自慢している。
しかし、日本が日中国交を正常化すれば、中国に外交の主導権を握られる可能性が出てくる、とキッシンジャーは恐れた。彼は田中らに、中国をめぐって「日米が競争すべきではない」と繰り返し説いた。日米が争って中国に秋波を送れば、中国側は有利な立場になり、日米に対して指図をする可能性もある。
1974年11月。訪中したキッシンジャーは、中国副首相・鄧小平から、米中関係でも国交正常化を、と持ちかけられ、回答に戸惑う局面があった。鄧は国交正常化では「『日本方式』をご存じのことと思う」と言い、日本方式を取るよう検討を求めたのだ。中国側から突然、国交正常化を求められ、焦ったのか、米国務省の会談録によると「But(しかし)」を二度続けて口にした。プライドを傷つけられたと感じたことだろう。
もう一つは、1973年の第四次中東戦争で、「石油ショック」が起きた時のことだ。文字通りの「油断」で、日本は戦後最悪の経済危機を迎えると恐れられた。このため田中は日本外交の基軸を「親アラブ」に転換して石油の供給を図ることを決めようとしていた。
キッシンジャーは1973年11月に来日して、田中の説得に努めた。ところが田中は頑としてこれに従わず、2人は正面から衝突して言い合いになった。田中に対するキッシンジャーの怒りは、不可逆的な憎しみに転化していったようだ。
キッシンジャーが首相官邸に田中を訪ねたのは11月15日。田中は言った。
「日本の石油消費量……の80%は中東からの輸入で、うち40%はアラブ諸国から。アラブ諸国は20%の輸出削減を日本に通告、さらに30%に拡大した……早急に行動しなければパニックは広がる」。そして田中は懇願した。
「長官が『心配するな。米国には大量の石油がある』と言ってくれたらうれしい」
これに対し、キッシンジャーは冷徹な言い方で警告を発した。
「日本の問題を緩和する方策について日本と協議する意思がある。……総理の言葉には、アラブの要求に屈することを示唆する意味合いがある」。そして、
「日本がアラブに譲歩すれば彼らは彼らの要求を繰り返す。その過程で日本とアメリカ の対立が表面化する」。しかし、田中も粘る。
「何もしないことは自分の首を絞めることになる」。だがキッシンジャーは
「われわれの唯一の対応は忍耐だ」と自重を求める。そして最後に、
「日本がいま声明を出すと効果は無駄になる」と言い放った。
しかし、米国の戦略に乗っても、日本に石油が供給される保証はなかった。日本経済を預かる最高責任者として、田中が石油の確保を最優先したことは責められない。
翌16日、田中政権は石油緊急対策要綱を明らかにした。そして1週間後の22日に「親アラブ」への中東政策の変更を発表、自主外交を貫いたのである。
戦後の対米外交で、日本側が「ノー」と言って自主外交を貫いた例は非常に少ない。1950年6月、吉田茂首相はジョン・フォスター・ダレス国務省顧問が求めた「再軍備」に「ノー」と言ったと伝えられている。実際にはダレスは日本の再軍備を要求した。しかし、吉田は巧みにはぐらかして、ダレスを煙に巻き、ダレスは「『不思議の国のアリス』のような気分」だったと述懐したという。吉田は実際には「ノー」と言っていないのだ。激しい論争でノーを貫いたのは、歴史上田中だけだった。
田中の政治闘争は続いていた。ワシントン連邦地裁の判事はロッキード社の高官名入り文書を見せて、国務省関係者に判断を求めた。報告を受けたキッシンジャーは「Tanaka」の名前を見て、米国にとって望ましくない人物だからSECに渡してもかまわないと考えたのだろう。米国の外交的ダメージになると判断していたら、「Tanaka」文書は東京地検に届けられることはなかった。やはりロッキード事件は政治闘争だったのだ。