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最適解じゃないほうの――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第24回

台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第24回 最適解じゃないほうの

 

 移民というのは乾坤一擲けんこんいつてきのような重大な決断に思える。しかし当然ながら、全ての決断にはそこに至るまでの脈絡がある。

 交換留学が終わってから一年半後、私は再び日本に上陸した。今度は一時的な滞在ではなく、移民しようというしっかりとした決意を伴って。

 取っかかりは大学院である。交換留学していた一年の間、私は日本の大学院に進学する決意を固めた。まずは修士号を取ってから、博士課程に進学するか、それとも就職するか決めようと考えた。

 振り返れば、自分の人生はパズルのようなものに思えなくもない。それぞれの段階で課されたタスクの全体像を把握した上で、要領よくこなす。目標を見定めてから、与えられた選択肢を見極め、目標から逆算し、複数の選択肢から最適解を導き出す。どこまでも合理的で、論理的なプロセスである。

 もちろん、予想外のことはいくらでも起こった。東日本大震災がその一つだった。震災のせいで、私は交換留学を断念するか続行するかという選択を迫られた。とはいえ、予想外のことが起きても、やることは実はそんなに変わらない。物事の全体像が変わり、それに応じて自分に取れる選択肢にも変化が生じた。であれば、全体像を把握し直し、選択肢を見極め、その中から最適解を選べばいい。時にはリスクを取る必要もある。衆議を排して独善を貫く必要もある。しかし、非合理的なリスクを背負い過ぎないよう、独善が最適解に繋がるよう、それなりに情報収集にも努めた。

 一方、目標から逆算した結果、目標の実現に繋がる選択肢が目の前に並べられていないという結論に達することもある。私は中学時代から作家になりたかったが、作家のなり方は今ひとつ分かっていなかった。読書や習作など、自分にできる努力はそれなりにしたが、人脈や環境、文化的資本といった所与の条件は、そもそも平等ではなかった。高校時代、クラスメイトには大学の文学部教授の子どもがいた。大学から海外に留学できるような環境が整っていた子もいた。それらの条件を持っていなかった私は、(理系を選べ、せめて商学部や法学部に入れという親の圧力を振り切って)国内の文学部に進学するという、当時の自分の手が届く範囲の中での最適解を選んだ。それでも、作家になるための道筋は見えてこない。自分には作家になるという目標に繋がるための選択肢が与えられていないんだと、そう悟った私は作家の夢を断念した。それもまた、最適解だった。

 このように、私は人生の岐路に立つ時、いつも最適解を選び続けた。最適解だと思って選んだ選択肢の先に待ち受けていた結果は、必ずしも満足のいくものとは限らないし、挫折もまたつきものだった。それでも、それらの選択の一つひとつは、当時の自分の手が届く選択肢から、把握できる情報に基づいて弾き出した合理的な判断であることに変わりはない。だから私は自分の下した決断に大きな後悔を覚えたことはない。思い通りにいかないことやままならないことはいくらでもあったが、自分に制御できない事態は自分のせいではないので、後悔する必要もないと割り切った。

 修士課程への進学は、いわば選び取った最適解の一つに過ぎなかった。当時の私は台湾にほとほと嫌気が差していて、そこで生きていく将来が思い描けなかった。交換留学を経て、日本への想いが募る一方だった。日本語も上達していたし、日本社会に適応できる見込みが十分にあった。そんな状況で、移民は最適解だと判断した。移民という目標から逆算した時、修士課程への進学は最適解だった。修士課程への進学という目標から逆算した時、早稲田大学の日本語教育研究科が最適解だった。早大は好きだし、環境も熟知している。日本語教育学は交換留学中に力を入れて勉強したし、学部で習った言語学の知識を活かすこともできる。合格する見込みが十分にある。言語学と語学教育は興味のある分野で、研究したいことがはっきり決まっていたわけではないが、研究計画のアイディアはいくらでも思い浮かんだ。将来的に日本語教師になるという進路もある。そして何より、早大は留学生受け入れのために給付型の奨学金を手厚く用意していた。

 アメリカの名門大学の比ではないが、私学の雄である早大の授業料も馬鹿にはならず、当時の自分には到底負担できるような額ではなかった。留学のために奨学金はどうしても必要だ。そして当然、奨学金は秀でて優秀な学生にしか与えられない。そこで、私は受験先をたった一つに絞り、そこに全力を注いだ。第一志望のみ受験するという「全か無か」の戦略だ。背水の陣とはいえ、それなりに自信はあった。結果、合格しただけでなく、かなり条件のいい奨学金も手に入れた。入学金と授業料の全額免除のみならず、毎月の生活費も支給される。これで少なくとも修士課程の二年間は日本での生活基盤が保障される。

 

 念願の日本移住を前に、私はいくつかの準備作業をした。そのうちの一つが、中国語教師資格の取得だった。

 台湾の教育部(文科省に相当する政府部門)は「対外華語教学能力認証考試」という試験を毎年行っている。これは中国語を母語としない中国語学習者に、中国語を教えるための知識と能力を測る検定試験である。

 試験には五つの科目がある。筆記の「国語」「中国語教育学」「中国語言語学」「華人社会と文化」、そして口頭試問の「中国語口語表現能力」である。「国語」は高校レベルの問題が出題され、「中国語教育学」は言語教育や第二言語習得論の知識を、「中国語言語学」は言語学の知識を問うものだ。いずれも専門分野なのでお手の物である。

「中国語口語表現能力」は発音の正しさを試す科目である。そもそもこの検定試験を受ける人の大半は中国語教師志望の台湾人で、そのほとんどが中国語母語話者である。しかし、中国語には様々な方言となまりがあるので、中国語母語話者であれば誰でも標準的な発音ができるというわけではない。とりわけ台湾の中国語は、巻舌音がはっきりしないとか、歯茎鼻音しけいびおん(n)と軟口蓋なんこうがい鼻音(ŋ)の区別がつかないといった問題点がよく指摘される。いわゆる「児化アルか音」も標準的な中国語の要素とされているが、台湾ではあまり使わないので発音できない人が多い。だから母語話者でも発音を試す科目が設けられている。これも私にとって問題ではなかった。

 私にとって一番時間を費やして勉強したのは「華人社会と文化」という科目だ。これは華人文化圏の伝統と文化に関する知識を問うもので、例えばこんな問題が出題される。

 

・以下のうち台湾の客家ハッカ籍住民が祀っている神はどれか?

①三山国王 ②保生大帝 ③清水祖師 ④西秦王爺

・伝統的な華人の家族制度の中で、一人の男子が二つの家の血縁を同時に受け継ぐ習俗は何という?

①兼祧 ②帰宗 ③入贅 ④過継

・華人文化圏は茶を飲む文化があり、各地で様々な茶葉が生産されている。以下の著名な茶葉の種類とその産地の対のうち、正しくないものはどれ?

①鹿谷の烏龍茶ウーロンちゃ ②杭州の龍井ロンジン

③黄山のへき螺春らしゅん ④安渓の鉄観音てっかん のん

・儒家思想の伝統が唱える「中庸」は今でも華人の言動に大きな影響を及ぼしている。日常的な例を挙げながら述べよ。(記述問題)

 

 ――伝統をありがたがるお偉い先生方が考えつくような問題が多く、どこかかび臭いにおいがして、私には面白く感じられなかった。私も一応「華人社会と文化」の中で二十数年間生きてきたが、それらの問題は私にとって身近なものではなかった。「三山国王」なんて見たことないし、「兼祧」なんてしたことないし、「黄山」も「安渓」も行ったことがない。中庸の道理は分かるが、これだって別に華人だけの専売特許というわけではない。ほかの科目はノー勉でも合格できるが、これだけは勉強しなければちょっと苦しい。私は勉強した。勉強しておくのが最適解だったからだ。そして予定通り合格した。

 移住する前に中国語教師の資格を取っておいたのは、日本で中国語を教える仕事につきたいと考えていたからだが、台湾政府公認のこの資格は日本ではほとんど何の役にも立たないということが、後になって分かった。

 台湾の学校で中国語を教えるなら、確かにその資格は必要だったのだろう。しかし日本となると、そもそもほとんどの人がこの資格の存在自体を知らないから、資格は無価値に等しい。当たり前だが、教育現場で大事にされるのは合格証明書よりも教育の実務経験で、本で得た知識よりもそれを生徒に教えるスキルである。経験もなければたいしてスキルもない私は結局のところ、交換留学時代と同様、中国語教師の職にはありつけなかった。面接の場で見下す態度を取られ、不採用通知すら届かないまま連絡が途切れたというようなこともあった。

 一回だけ例外があった。パートタイムの中国語教師として採用されたのだ。中国人が経営していたその学校は、しかし労働条件は最悪としか言いようがない。世に言うブラックな職場である。

 まず、時給は千二百円。最低賃金をクリアしてはいるが、語学教師としてはありえない安さだ。しかも、ちょっとした仕掛けがある。実際に授業をしている時間しか給料が支払われないのだ。授業は一コマにつき四十分、コマとコマの間には十分間の休憩が挟まれる。一コマ四十分なので、給料は八百円。十分間だけの休憩時間は外出もできず、学校内で次のコマの準備をしなければならないから、実質拘束されている。にもかかわらず、給料は出ない。このような計算方法を適用すると、例えば午後一時から六時までの五時間勤務で、計六コマだから、給料は四千八百円になる。平均して一時間九百六十円。当時の最低賃金すれすれで、コンビニのバイトとほぼ変わらない。

 給料が安くてもやりがいがあるなら、まだ我慢できたのかもしれない。しかしあの学校はマンツーマン形式なので、教室運営のスキルが身につかない。生徒だって毎回同じ人を受け持つというわけではなく、生徒が来校する時間にたまたまシフトが入っている講師が授業をするという仕組みだ。つまり、どの生徒に教えるか、生徒のレベルがどれくらいか、授業の進捗しんちょくがどうなっているかといった基本的な情報は、授業の直前まで分からない。引き継ぎもない。そういう仕組みだから、事前準備ができるはずもない。休憩の十分間で急いでテキストを読んでおくのが精一杯だ(給料は出ないけれど)。準備不足の状態で授業に臨むのだから、いつも行き当たりばったりの感じで、ストレスばかりが溜まる。

 結局あの学校は一か月足らずでやめてしまった。給料が全て当日手渡し(これも脱税のためではないかと勘繰ってしまうのだが)なので賃金の不払いはなかったという点だけは助かった。なんで日本の中国語学校はこんなのばかり? と恨めしい気持ちにもなったが、しかしもっとちゃんとしている学校もきっとどこかには存在するはずだ。例のブラック学校は恐らく授業料の安さを売りにしていたのだろう。だからちゃんとした給料を払うこともできず、ちゃんとした給料を払うことができなければちゃんとした講師を雇うこともできなかった。それで、私のような経験の乏しい修士課程の大学院生でも拾われた。要はちゃんとした学校に採用してもらえるような技量を私が持っていなかった。それだけのことである。

 しかし、そんなブラックな学校でも奇跡というべき印象深い出来事があった。

 あの学校に通っていたのはほとんど四、五十代のサラリーマンの男性で、恐らく仕事の必要に迫られて中国語を習い始めたのだろう、正直モチベーションもレベルも高いとは言えなかった。ただ、一人だけ、女子高生のYさんがいた。彼女は本当に中国語が好きなように見えて、勉強もとても頑張っていた。将来、中国語圏に留学したいとも言っていた。私は一か月未満の勤務で、Yさんに一回だけ当たったことがある。たぶん二コマ分、八十分だけ教えた。

 ブラック学校で教えた数週間は履歴書に書けるような経歴でもないし、あまり覚えていたいことでもない。時が経つにつれ、その数週間の勤務も、そこで教えた何人かの生徒の顔も、ごく自然に記憶の水底に沈んでいった。

 時間が流れ、数年が経った。私は大学院を修了し、会社に就職し、さらには作家デビューした。ある日、アジアの国際交流系の何かのイベントで早大に行ったら、休憩時間に急に「ことみ先生!」と話しかけられた。

 Yさんだった。

 もちろん、私は彼女の顔も、彼女を教えたことがあることも覚えていなかった。しかし彼女は私のことをよく覚えていた。それだけでなく、イベントの会場で偶然見かけただけで、私だと分かったのだ。

 私には逆立ちしてもできない芸当(芸能人や俳優の顔すらまともに覚えられない)だが、世の中には一回会っただけで相手の顔をいつまでも覚えていられる種類の人間がいるというのは確かだ。脳の構造や記憶の仕組みが違うのか、はたまた心の底から人間が大好きなのか、いずれにせよ、私はこんな人には畏敬の念を抱かずにはいられない。

 八十分限りの教え子だったYさんは、再会した時には立派な大学生になっていた。中国語だけでなく韓国語も学び、どちらもかなり上達した。夏休みと春休みは色々な国に旅行し、中国や台湾にも留学していた。アジアの国際交流の活動にも携わっていた。例の学校は私にとってはブラックな職場だったが、彼女にとっては思い出深い啓蒙の地だったようだ。実は給与体系はかなりブラックだったけどね、と私が打ち明けると、そうだったんですね、と彼女は驚きを禁じ得なかった。

 たとえブラックな学校でも、育つ人は勝手に育つんだなと、私は感心した。

 Yさんとはそれきりだったが、その記憶は、私のそう長くない教師経験の中ではとびっきりの宝物になった。

 中国語だけでなく、日本語も教えたことがある。

 台湾にいた頃、家庭教師として何人かの生徒に日本語を教えていた。そのうちの何人かは本当に優秀で、順調に上達していった。高校生のうちに日本語能力試験の最上級に合格しており、「これ以上何を教えればいいんだろう」と悩んだ生徒もいた(小説の読解や難読漢字や古文を教えた)。このような張り合いのある生徒に出会うと教師としてもやる気が湧き、何時間もかけて自作のプリントを用意した。

 Yさんにしろ、日本語の生徒にしろ、私自身にしろ、語学において上達するのは結局、必要に迫られる人ではなく、その言語と、言語が使われる社会と文化に深い愛情を抱いている人なんだなと、何度もしみじみ思った。

 実のところ、母語である中国語より、第二言語である日本語のほうがずっと教えられる自信がある。私自身も日本語を学んできた身なので、日本語の文法や発音の仕組みも、単語や文型の難易度もある程度把握しており、かつそれを言語化して伝えることができるからだ。

 ところで、日本で日本語教師になるには、次の三つの条件のいずれかをクリアする必要があると言われている。

①大学等で日本語教育を専攻または副専攻とし、修了すること

②学士号を有し、かつ日本語教師養成講座の四百二十時間のコースを受講し、修了すること

③日本語教育能力検定試験に合格すること

 このうち、私は①と③をクリアしている。③の「日本語教育能力検定試験」は名前が長く、また「日本語能力試験」とは字面が似ているから混同されることもあるが、まったく異なる試験である。「日本語能力試験(JLPT)」は日本語を学ぶ学習者の日本語能力を測る試験で、留学や就職など、幅広い場面で使われる。日本語学習者にとって最も身近な試験といっても過言ではない。一方、「日本語教育能力検定試験」は日本語を教える能力を測る試験で、主に日本語教師志望者が受けるものである。ちなみに、似ている検定試験に「日本語検定」というものがある。こちらは日本語母語話者を想定した、日本語の運用能力を測る試験である。学習者を対象とする「日本語能力試験」とは似て非なるものだ。

「日本語教育能力検定試験」は合格率二十%の難関である(*1)。試験では言語学、第二言語習得論、異文化コミュニケーション論、言語政策、文化と社会、日本語教育史など、幅広い分野の問題が出題される。学習者の発音を聞いて、発音の問題点を音声学的に指摘するリスニング問題もある。

 例えばこんな問題が出される。

 

・【 】に示した観点から見て、他と性質が異なるものはどれか?

 【調音方法】

①[ɾ] ②[s] ③[ʒ] ④[h] ⑤[ð]

・「得点の平均値を比較」する分析手法として最も適当なものはどれか?

①因子分析 ②カイ二乗検定 ③t検定 ④相関分析

・中国残留邦人が日本に帰国する契機となった出来事はどれか?

①日華平和条約締結 ②日中国交正常化 ③日中平和友好条約締結 ④日中文化交流協定締結

・「人をどのように呼ぶかは、場面や相手との人間関係などの要因によって異なる」のような言語現象を何という?

①リンガフランカ ②レジスター ③プロトコル ④ピジン

「日本語教育能力検定試験」は一発で合格したが、しかし私は日本語教師にはついにならなかった。必要とされる学歴と専門性の高さとは裏腹に、日本における日本語教師の待遇は決していいとは言えないからだ。

 日本国内における日本語教師の勤務形態は、ボランティアが三分の一強、非常勤が三分の一強で、常勤講師は二割未満である。つまり日本語教師のほとんどが無給かアルバイトだ。研究者になり、大学教授の職につけば話は別だが、一般の常勤講師でも待遇は過酷で、日本の平均年収を下回るケースがざらにある。業界全体がブラックで、いわば「やりがい搾取」の世界だ。

 大学院を修了し、日本語教育学の修士号を取得した後、日本語教師になるという選択肢は確かにあった。早大に残り、かつて自分が日本語を学んだ「別科日本語専修課程」で教鞭をとるという道だ。さぞかしやりがいのある仕事になるだろう。Yさんのような嬉しい生徒も何人かは輩出するだろう。しかし、たとえ雇用されても非常勤で、担当できるコマ数は限られている。計算してみると、月収二十万未満の世界だ。飢え死にはしないが、家賃もあるので生活をぎりぎりまで切り詰めなければならない。夏休みや春休みは収入がないので、別の仕事をする必要がある。非常勤雇用では就労ビザが下りるかどうかも未知数だ。

 一方、修士号という学歴で就職活動し、一般企業に正社員として就職すれば、高い賃金が期待でき(初任給でも日本語教師よりは高い)、福利厚生も完備で、安い社員寮にも住める。終身雇用の安定性があり、食いっぱぐれることはない。就労ビザもほぼ問題なく下りるだろう。二つの選択肢を前にした時、私は当然、最適解を選んだ。

 結果的に、それでよかった。会社員になっていなかったら、私は朝の通勤電車に乗ることもなければ、「死ぬ」で始まるデビュー小説を書くこともなかっただろう。そうしたら李琴峰という作家も、今まさに読まれているこれらの文章も世の中に生まれなかったに違いない。文学部、交換留学、大学院、移民、就職――最適解を選び続けているうちに、私は結果的に中学時代の夢を叶えることになった。まるで予定調和のようだ。

 それでも私は時々、選ばなかった最適解じゃないほうの選択肢に思いを|
馳《は》せる。もしあのとき日本語教師になっていたら、今の自分はどうなっているのだろうか。そんな想像をしながら、私は『星月夜ほしつきよる』という小説を書いた。W大学で日本語を教える台湾人女性を主人公に据えるこの小説は、ありえたかもしれない、いわばもう一つの可能世界の形だ。

*1 私が受けていた時は二十%くらいだったが、改めて調べたら、近年合格率は三十%になっているらしい。
 

※毎月1日に最新回を公開予定です。

李琴峰さんの朝日新聞出版の本

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