急死した伯父の部屋には“幽霊”が付いてきた! 王谷晶さん『他人屋のゆうれい』冒頭特別公開
第一章 小さい夢
入り口のドアを開けようとしたら、中で誰かが言い争う声が聞こえてきた。
大夢はそれに気付いて、「くそ、またかよ」と小声で呻いた。
一旦、どこか別の場所で時間を潰そうかと思ったけれど、持っているビニール袋にはさっきスーパーで買ってきた生の鶏胸肉と、定価税抜き三十円からさらに一〇%値引きされたモヤシが入っている。
まだ六月なのに、今夜は歩いているだけで汗をだらだらかくほど蒸し暑かった。すぐに生肉を調理したい。モヤシも傷みかけている。水も飲みたい。
ため息を吐いて、ナンバーキーに長い暗証番号を打ち込んで、ドアを開けた。
とたんに、怒鳴り声が真正面からぶち当たってきた。
「どうすんだよだからさ! もう全員洗濯できねえんだぞ今日から! 洗濯機、完ッ全に壊れてっから!」
「俺のせいじゃないっつってんじゃないすか!」
「お前しかいないだろ羽毛布団なんて使ってんのはさこの家で!」
「知りませんよ調べたんすか確かめたんすか全員が何で寝てるか全部見てから俺に文句言ってんすか!?」
カビ臭く薄暗い玄関ホールで、短パン一丁の小太りの男と、てかてかしたスーツを着た若い男が、向かい合って大声で怒鳴り合っている。二人とも、大夢が入ってきたのに気付きもしない。
「他に羽毛布団使ってるやつがいたって、それを洗濯機で洗おうなんてバカはお前しかいねえよ!」
「はあ? 今バカっつった? おい、どういう意味だこの野郎!」
「バカはバカだろ、このバカ!」
とうとう二人はとっくみあい、もたもたと不器用に喧嘩を始めた。
玄関ホールは洗濯室と繋がっていて、そこのドアが開いていた。床に小さな白いものがたくさん散らばっている。よく見るとそれは、無数の鳥の羽根だった。
顔を上げると、壁の上の方に貼られた大きな紙が目に入る。
『シェアハウス・スマイルラッキーのルール:1・きれいに暮らす 2・静かに暮らす 3・思いやりの心を忘れずに』
ぼんやりとそれを見上げながら、すぐにでも、ここを出ていきたいなと思った。それは小さな夢だけれど、しかし、今は叶いそうにもない夢だった。
住所は一応東京だが、十分も歩けば埼玉県に到達する街の、私鉄駅から徒歩十三分のシェアハウス『スマイルラッキー』。南大夢は丸一年と少し、そこの404号室で暮らしている。
四階建ての小さな古いビルを改装した物件で、エレベーターは無し。一階に共有の洗濯室と台所とリビングがあり、トイレは各階共同。二階と三階に同じく共同のシャワーブースがある。
一室の広さは、最も大きい部屋が四畳ほど、最小は二畳。二畳の部屋にはパイプ製のロフトベッドが置いてあって、寝るのは上の段、その下に小さい机と椅子とカラーボックスが入っている。
大夢はその最小タイプの部屋で暮らしている。ドアを開けると、目の前がもうロフトベッドだ。それで部屋の空間ほぼ全てが埋まっている。
小さい窓はあるが、開けても隣のビルの壁が見えるだけ。上段のベッドで寝ると、天井がすぐ目の前に迫ってくる。寝返りを打つのもギリギリのスペースだ。
どちらかというと小柄なほうだが、それでも最初の一カ月ほどは、この窮屈さにかなり神経をやられた。悪夢を見たり、そもそも寝付けなかったり。今はもうすっかり慣れて、休日などは一日中部屋から出ずに過ごしても、まるで平気でいられるけれど。
家賃は共益費と水道光熱費・インターネット料金込みでぴったり六万円。ただし、夏冬にエアコンを使い過ぎると追加料金を取られる。
ここに越してきた当初、バイト先の人間などにこの家賃と生活環境を明かすと、「その家賃でその距離ならもっとまともなアパートあるでしょ!」と呆れられたことが、何度かあった。
そんなことは、大夢だって知っている。
しかし、普通の物件に引っ越すには初期費用というやつがいる。敷金礼金、不動産屋への手数料。ガス水道、電気にネットも自分で手続きして契約し支払わないといけないし、さらに入居するには審査があり、無職やフリーターははねられやすい。保証人も必要で、現役で働いている戸籍上の父親に頼むのがベターだと、ネットには書いてあった。更新費という恐ろしい制度もある。
そういうことを全部調べてよく理解したうえでの、二畳・ロフトベッド・トイレ共同・シャワーのみ生活なのだ。
なのに軽い調子でその大夢の選択を間違っている、失敗したとみなす連中があまりに多いので、もうどこのどんな部屋に住んでいるか、他人に詳しく言うのはやめることにした。
どたどたと喧嘩を続けている二人を尻目に、共用の台所に入った。このスペースはそこそこ広く、ファミリーサイズの大型冷蔵庫が置いてある。その横には油性マジックの入ったペン立てがあり、住人は全ての食べ物に自分の名前か部屋番号を書いて冷蔵庫に入れるルールになっている。
しかし、その行為はあまり意味をなさない。盗まれるのだ、食べ物は。ここに来るまでずっと実家で生活していた大夢は、最初、名前をしっかり書いてある他人の物を平気で盗む人間が存在していることと、それと一つ屋根の下に暮らしていることに驚き、恐怖を感じた。
でも、他の住人は誰もそのことについて騒いでいないし、ここではそれが「ふつう」のことで、盗まれて困るような物を置いておくほうが悪い、くらいの空気を感じたので、諦めて値の張る食材は買わないことにした。ちなみに、調理しないと食べられないものは、比較的盗られにくい。
シンクには汚れた鍋や食器が溜まっている。使った人間がすぐに洗う決まりだが、これもろくに守られていない。棚に未使用のアルミ小鍋があったので、それに水道水を入れて火にかける。
リビングには大型の液晶テレビとソファとダイニングテーブルがある。無人なのにテレビがついていた。壁際の棚には蓋付きのプラスチックケースが並んでいて、一部屋につき一つ使えるようになっている。数字式の南京錠が付いているが、この番号も000とか123みたいな分かりやすいものにしておくと、簡単に開けられて中身を盗られる。
大夢は自分のケースから袋ラーメンを一つ取り出した。今夜は鶏モヤシ味噌ラーメンだ。
出来上がった夕飯を鍋のままリビングで啜っていると、玄関で争っていた短パン男が入ってきた。
「あのさ、あなた羽毛布団使ってる?」
汗まみれで真っ赤な顔をした男は、大夢の顔を見るなりいきなりそう言った。ちょうど麺で口の中をいっぱいにしていたので、無言で首を左右に振る。
「あ、そ」
そして短パン男はまたどこかへ去っていった。大夢は彼の名前も知らない。
ここで住人間のコミュニケーションが発生するのは、ほとんどがトラブルが起きた時だ。ネットのシェアハウス広告によく出てくる、若者たちが和気あいあいと仲良く楽しそうにしている状態なんか、見たこともない。
ポケットの中に入れていたスマホが震えた。派遣先だろうか。表示された名前を見て、思い切り顔をしかめる。
震えるスマホに表示されているのは、「南弘樹」の三文字だった。迷ったが、出ることにする。
『今いいか』
電話の向こうの実兄の声は、相変わらず硬く、冷たい。
「なに」
応えるこちらの声も低くなる。誰かがつけっぱなしにしていったテレビのうるささが、急にありがたく思えてきた。
『お前、春夫おじさんって憶えてるか』
「母さんの、お兄さんのほう?」
大夢の母には兄が一人と弟が三人おり、その四人のおじの中で一番の変わり者が春夫おじさんだ。正月やお盆などの集まりに一切顔を出さないのだ。かわりに、他の親戚による噂話はたくさん聞いている。
『そう。春夫おじさん、亡くなったから』
「えっ。なんで」
『クモ膜下。自分で救急車呼んで、部屋から出ようとしたところで力尽きたらしい』
驚いた。驚いたけど、先の通り実際に会ったことは数える程度しかない繋がりなので、悲しいとかショックだとかの感情はなかなか湧いてこなかった。顔すらよく憶えていない。
『その部屋の片付け、お前やれるか』
「俺が? どうして……」
『俺は仕事があるし、母さんに力仕事やらせるわけにいかないだろ。場所、東京だし、お前なら時間の自由もあるし』
「べつに、俺も暇じゃないんだけど」
さらにむっとしながら答えた。多いときには週に六日はシフトに入って働いているのだ。カレンダー通りの休日に有休まである兄より下手すると忙しいし、自由は利かない。そう言い返したい気持ちはあったが、どうせもっともらしい屁理屈で言い負かされるだけだと思い、口をつぐんだ。
『場所は東都線の千朝駅だ。後でLINEで住所送る。あっちの大家には、月内になんとかしてくれって言われてるから』
思わずリビングの壁に貼ってある大きなカレンダーを見た。今日は二十日。「月内」なんて、もうちょっとしか残っていない。
『じゃあ、頼んだからな』
こちらの答えを聞く前に、兄はぶつっと通話を切った。眉間に皺を寄せたまま、手の中のスマホと壁のカレンダーを交互に見た。見るしか、なかった。
翌朝、満員の通勤電車で押しつぶされながら、大夢の気分はいつもより憂鬱だった。
今の職場は、新宿の高層ビル内にあるコールセンターだ。有名な通販会社の所属で、大夢は商品を購入した後に問い合わせてくるカスタマーの対応チームに入っている。簡単に言うと、クレーム係だ。
コールセンターはどの業種でも女性が圧倒的に多い職場だが、このチームは半分以上が男性オペレーターで構成されている。クレーム係に男を置いておくと、クレーマーの勢いがだいぶ削がれるのだという。
「女性オペレーターに『お前じゃ話にならん、男を出せ!』と仰るお客様はよくいらっしゃいますけど、男性オペレーターに『お前じゃ怒鳴りにくい、女を出せ!』と仰る方はなかなかいませんからね」
上司であるSVの中島は、チームに新人がやってくると必ずそう言う。鉄板の持ちネタだ。
他の社員の話によると、中島はクレーム対応の達人なのだという。顧客にこちらの姿は一切見えないのに、いつもびしっとネクタイを締め髪をセットして、爽やかに笑っている。なんだかアンドロイドみたいで、ちょっとおっかないな、と大夢は密かに思っている。仕事の上で何度も助けてもらっているので、気取られないように気をつけてはいるが。
休憩時間、その中島のデスクに行き、シフトの調整を頼んだ。すでに入れてあった休みと合わせて、なんとか連休にしてもらえないかという申し出だ。
「随分急だね」
「すみません……伯父が急に亡くなって、住んでた部屋を片付けないといけなくなっちゃって」
「ああ、じゃ忌引になるのかな」
「葬式に出るわけじゃないんですけど、それになるんですか」
不安で、つい小声になる。
「たぶんそういうのも忌引になると思うよ。とりあえず申請は出しておくから、今日中に結果言うね」
「ありがとうございます」
「悲しい?」
「え? いや、正直そんなに」
「じゃあよかった。悲しいのはよくないからね。午後もがんばって」
そのままホームページとかに載せられそうなぴかっとした笑顔で、中島はうんうんと大きく頷いた。
持ち場に戻りながら、大夢は頭の中で首をひねった。悲しいのはよくない。まあ、悲しいことなんて無けりゃ無いほうがいいけど、でもなんとなく変な、モヤモヤと納得できない言葉だ。
着座した瞬間に着信が来て、すぐに仕事モードに戻らされる。おかしなモヤモヤは、いつの間にか頭の中から押し出されていった。
次の休み、大夢は初めて乗る路線で複雑な乗り換えをしながら、「なんで俺がこんなことを」と頭の中で繰り返していた。
兄は簡単に「場所、東京だし」と言ったが、大夢の家から東都線千朝駅は、遠かった。そこは荒川を越えたいわゆる下町ゾーンの一角で、東京湾にも程近い。観光スポットも名所も特に無いし、当然、今まで一度も行ったことのない街だった。
改札を出ると、目の前に『千朝銀座』と大きく書かれた商店街のゲートが現れた。平日の朝でも人通りは多く、歩行者も自転車も、カートを引いたお婆さんも入り交じってその中を進んでいる。
スマホに送られた地図を片手に、きょろきょろしながらその商店街に入る。すぐの場所に牛丼チェーンの『竹屋』があって、貼られている期間限定カレーのポスターに胃がぎゅっと唸る。今朝は、焼いていない食パンにマヨネーズを塗ったものを食べてきただけだ。
ドラッグストア、花屋、ラーメン屋、またドラッグストア……地味な商店街が続く。シャッターの閉まっている店もちらほら。そこを五分ほど歩くと、そのマンションは簡単に見つかった。
それは、想像していたよりずっと大きい建物だった。ほぼ立方体の、どかんとした真っ白いマンション。入り口には金属製の看板で『メゾン・ド・ミル』と書かれている。オートロックは無いようだ。照明や床のタイルなどがかもしだすのは、全体的に〝昭和レトロ〟な雰囲気だった。
マンションに入ると、すぐ左手にガラス引き戸の付いた小部屋があった。「管理人室」という札が付いている。
中を覗き込むと、真っ青なポロシャツを着た老人が椅子に座って新聞を読んでいた。
「あの、すいません」
「宅配? セールスと道案内はお断り」
新聞から視線も動かさずに、老人は野太い声でそう言った。
「いえあの、404号室の片付けに来た者ですが」
老人はぱっと顔を上げ、窓越しにじろりと大夢の顔を見た。
「小野寺さんの?」
「はい、その、小野寺春夫の……親戚です」
わけもなく怒られているような気分になり、もごもごと小声になった。
「ちょっと待っといて」
老人はよっこいしょと立ち上がると、小部屋から出てきた。腰に下げた鍵束がじゃらじゃらと鳴る。
「一人で片付けんの?」
頷くと、老人はすたすたとマンションの奥に進みながら首を振って言った。
「無理だね」
一緒に狭いエレベーターに乗って四階に向かう。偶然にも、今大夢が住んでいるのと同じ404号室。よく考えると、ちょっと縁起でもない数字だ。
「なんだ、これ……」
四階に到着し、エレベーターの外に出ると、思わず声が出てしまった。
メゾン・ド・ミルは、ホテルのように真ん中に廊下があり、向かい合わせに各部屋のドアが並んでいる構造だった。ただ、その廊下になぜかベンチやスタンド看板がいくつも並んでいる。大きな観葉植物や、よく分からない奇怪なオブジェのようなものまで。
「ここ、マンションじゃないんですか?」
「店舗利用もできるよ。あんた、小野寺さんから聞いてなかったの」
確かに、いくつかのドアには「CLOSE」のプレートや、店名らしき看板が付いている。
404号室は、長い廊下の一番奥にあった。頑丈そうな金属製のドアには、板切れに筆文字で黒々と『他人屋』と書かれた看板がくっついている。
他人屋。読みは「たにんや」でいいのだろうか。見たことも聞いたこともない屋号だった。
「あの、伯父はここでなにか商売をしてたんですか」
大夢が言うと、老人は鍵束をじゃらつかせながら、横目で睨みつけてきた。
「あんた、ほんとに小野寺さんの親戚?」
「そ、そうです。甥です。でも付き合いはあんま無くて。近くに住んでる親戚が自分だったんで……」
老人は鼻を鳴らし、「ま、片してくれるんならなんでもいいんだけどね」と投げやりに言い、部屋の鍵を開けた。
「オーナーが十二時すぎに来るから、その時間には部屋に居てくださいよ。あ、ゴミはちゃんと分別して」
それだけ言うと、管理人はさっさと廊下を引き返していった。
大夢はドアの前に立って、もう一度『他人屋』の看板を見た。大胆にのたくった筆文字は居酒屋やラーメン屋みたいな雰囲気だけど、こんなところで飲食店でもしていたんだろうか。
ここに来るまで、何とか伯父・春夫の人となりを思い出そうとしたが、やっぱりほとんど記憶に残っていない。あるのは、親戚たちの「あいつは変わり者」「いい歳して一度もまともに働いたことがない、ろくなもんじゃない」「大学まで行かせてもらったのに、とんでもない親不孝者だ」「結婚もしないで、気味が悪い」という悪口と噂話だけだ。ああでも、一度だけ、伯父と何かを話した気がする……。
母方の一族である小野寺家は、とにかく人の数が多い。大夢の従兄弟だけでも十人以上いる。
盆暮れ正月冠婚葬祭だけでなく、定期的に親族内でグループをつくって温泉や海外旅行に行ったりとイベント事も大好きで、祖父母も大夢たちが顔を見せに行くたび、なぜか近所の人まで集めて大宴会を開いた。
小野寺家の親類間の情報は、光よりも速く全員に共有される。しかもみんな喜怒哀楽のはっきりした、よく言えば賑やかな、悪く言うとめちゃくちゃうるさい、お喋りでハイテンションな人間ばかりなので、正月なんかはもう大変なことになる。
春夫おじさんは、その中では珍しい、とても無口な人だった。
普通、無口な人間というのは目立たないものだが、小野寺一族の中では、ミカンの箱にメロンが紛れ込んだくらい目立つ。
なのでみんな、寄ると触ると「変人」の春夫おじさんの噂をする。しかし、本人は人前にめったに姿を現さないのだ。
大夢は小さいころから、会ったこともない「春夫おじさん」の噂話をたくさん聞いた。その噂から生まれた想像の中の春夫おじさんは、二目と見られないほど汚くだらしない格好をし、この世のあらゆる悪徳を煮染めたような大悪党だった。絶対に会いたくない、と思った。
春夫おじさんの話の枕詞としてよく出てくるのが、「長男なのに」というフレーズだった。
大夢は次男だ。長男と次男に年齢以外に何の違いがあるのかということを知る前から、「大夢ちゃんは次男坊だから」と言われてきた。
不思議なのは、その「なのに・だから」の後に続く言葉は、常に何もないことだ。「長男・次男」とさえ言えば後は全て分かるだろ、という含みだけを投げ渡される。春夫おじさんほどではないが、口の達者なほうでなかった大夢は、ついぞ「次男だから、何だよ」とは言い返せずに思春期をやり過ごした。
中学二年の冬に行われた祖父の葬式で、ついに初めて春夫おじさんと対面した。胸に「喪主」と書かれた白い大きなリボンをつけた春夫おじさんは、やはり誰とも喋らず何もせず、メモリアルホールの片隅でぼんやりと座っていた。
葬儀には、それまで見た中でも最大の人数の親類が集まり、大きな会場は絶えず元気に喋りまくる喪服の集団でごった返していた。しめやかな、とか故人を偲んで、みたいな雰囲気はまるでない。ほとんどお祭り状態だった。
大夢の母も小さな身体を弾ませるようにあちこち人の間を飛び回っていて、家にいるときよりずっと楽しそうだった。兄は従兄弟たちのグループに交ざっていて、大夢はなんとなく一人でぽつんとしていた。
その葬儀場でなんにも喋っていないのは、大夢と春夫おじさんだけだった。
遠巻きにおじさんを観察してみたが、特に汚くもなければ悪い人にも見えない。顔は遺影の祖父に似ていた気がする。本当に何もせず、ただ椅子に座って窓の外を見ている。
退屈していた大夢は、思い切っておじさんの近くまで行ってみた。そして――。
「……やっぱりよく思い出せないな」
ドアを見つめたまま、呟いた。確かにあのとき春夫おじさんと何か喋ったはずなのだが。
しかしとにかく、今は気が重い。このドアを開けるのが。
以前、YouTubeのゴミ屋敷を片付ける特殊清掃動画にハマって見まくっていたのだが、どの部屋も想像を超える汚さ、散らかり具合で、虫がわいたり何かが腐っていたり、モザイクが掛かるような現場も多かった。
もし、この中がああいう状態になっていたらどうしよう。というか、春夫おじさんは部屋のどの辺りで死んでいたのだろう。
『クモ膜下。自分で救急車呼んで、部屋から出ようとしたところで力尽きたらしい』
電話での兄の言葉が甦る。ということは、まさに今自分が立っているドア前辺りで死んだのでは?
とたんにぞっとして、足元を見ながら一歩後ずさった。嫌だ。帰りたい。
しかし、ここで帰ったら、また兄にどんな嫌味を言われることか。
思い切ってノブに手を掛け、ドアを開けた。
淀んだ空気が、部屋の中から溢れてきた。思わずマスクの下で息を止めた……が、おそるおそる呼吸を再開すると、そんなにえげつない臭いは発生していないようだった。他人の家のにおいがする。
昼間なのに、部屋の中は薄暗かった。それでもひと目見て、そこがただ寝起きをするために使っていた場所ではないのは分かった。
まず、入ってすぐの位置に向かい合わせに古びた大きなソファとテーブルが置いてあった。いわゆる応接セットだ。片方のソファの上には何故か派手なヒョウ柄の毛布が丸めて置いてある。
さらに、壁には天井近くまである棚が並び、中はファイルや本などでびっちり埋まっている。応接セットの周囲は衝立でぐるっと囲まれていて、テーブルの上には色とりどりの飴が入った菓子鉢が置いてあった。
ここは、明らかに、誰かを迎え入れるための場所だ。
衝立の中の「応接間」には、他にも色々な物がごちゃごちゃと置いてあった。重ねられた三角コーン、種類の分からないでかい観葉植物の鉢、釣り竿、プラスチックの衣装ケース、大きな姿見、積まれた大小の段ボール箱、野球のバットとグローブ、バドミントンのラケット、ペットを入れて運ぶケージ、などなど。
脈絡無く集められたがらくたに見えるが、春夫おじさんは、一体ここで何をしていたのだろう。
しかしとりあえず、特殊清掃の動画に出てくるような、分別されていないゴミ袋やペットボトルが積み重なった部屋でなかったことには、ひとまずほっとした。
だがしかし、この部屋がとても一人で片付けができるようなものでないのは分かる。さっきの管理人の『無理だね』という言葉がリフレインする。
部屋の間取りは、大きなワンルームのようだった。今の大夢の部屋の十倍くらいはありそうだ。
建物は古いが、駅からも遠くないし、ここなら家賃はかなりするんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、おそるおそる部屋の奥に進む。
学校の保健室で見るようなパイプと白い布製の衝立をどかして中を覗き込むと、キッチンと、その横にバスルームに続くらしきドアが見えた。
角の二面に大きな窓があり、紺色のカーテンがしっかり閉められている。ここにも棚と段ボール箱とがらくた類が積まれていた。
窓際に、シングルベッドがあった。掛け布団が捲れ上がっていて、今さっきそこで寝ていた人が出ていったばかり、という雰囲気だ。生々しい生活感に、再び背筋がぞくっとする。
ベッドの周囲は、いかにも男の独り暮らし、という空間だった。パイプハンガーには紺色の作業着やジャケットが下げられ、物は多いが倉庫みたいでそっけない。
雑然としてはいるが、床は見えるし、今のところ虫はいないし、キッチンもたいして汚れていないように見える。春夫おじさんは、この奇妙な部屋でそれなりにまっとうに生活していたようだった。
改めて、部屋全体を見回した。広い。正直、コンパクトな四畳半か何かで暮らしていると想像していた。こんなに大量の物があるとは思っていなかった。持ってきたリュックサックには、五十枚入りのゴミ袋と軍手くらいしか入れてきていない。とてもじゃないが、そんな装備で太刀打ちできる部屋じゃない。
「やっぱり業者とか頼んだほうがいいんじゃ……」
誰かに相談したかったが、そんな相手はどこにも居ない。
とりあえず、明らかにゴミだったり不用品っぽいものだけでもまとめよう。そう考えて、まず一番近くにあった段ボール箱を開けてみた。
中身は、古ぼけたタオル類だった。みっしり詰まっている。それが三箱も。
別の箱には、やはり古くてぼろぼろのぬいぐるみや人形が詰まっていた。明らかに誰かの使用済みのものだ。気味が悪くて、すぐに蓋を閉じた。
ますます、この部屋の正体が分からなくなってくる。古道具屋でもしていたのか? でもこんな古タオルやぬいぐるみを売ったり買ったりする人がいるとも思えない。
もう、どこから手を付けたらいいのか分からなくなってきた。大夢もそもそも、掃除や片付けが得意でも好きなほうでもない。
腐るものがあったらまずいな、とはっとしたので、キッチンの冷蔵庫をおそるおそる開けてみた。
ラッキーなことに、中にはあまり、物が入っていなかった。卵のパック、納豆、調味料が少し、ひからびた長ネギ、袋入りの焼きそば程度。おじさんは酒を飲まない人だったらしい。冷蔵庫の中にも、他の場所にも酒類は見当たらなかった。
キッチンの棚には袋麺やレトルトカレー、インスタント味噌汁やお茶漬けの素と、無洗米の袋があった。最低限の自炊はしていたようだ。
ベッドに近付くと、枕元に白い紙袋がいくつも置いてあった。手にとって見ると、「内服薬」と書かれている。中には何種類もの錠剤が入っていた。袋には薬の名前も書かれているが、何の治療のための薬なのかは分からない。
「おじさん、病気だったのか……」
中年、男、独身、一人暮らし、病気。そこに自分のこの先の人生がふっと一瞬、かいま見えたような気がして、大夢はそら恐ろしくなった。
半年くらい前に、ひどい食あたりを起こしたときのことを思い出す。
トイレはいちいちベッドから下りて部屋の外に行かないといけないし、水や食べ物を買いに行くこともできなかったし、助けを求める相手もおらず、あの時は本当に死ぬんじゃないかと思った。トイレ前の廊下で蹲っているときに、たまたま通りかかった名も知らぬ住人にスポーツ飲料を貰わなかったら、本当に死んでいたかもしれない。
春夫おじさんの死は、他人事じゃない、のかもしれない。そう思うと、気分はますます重く、暗くなってきた。
そのとき、コンコン、スココン、とやけに軽妙なノックの音が聞こえた。
驚いて振り向くと、ぎい、と音を立てて入り口のドアが開いた。
「こーんにーちはー」
女の人の声だ。子ども向け番組の司会のお姉さんのようなイントネーションで、しかしハスキーでなんとなく気だるい声が、部屋の中いっぱいに響いた。
慌てて衝立から「応接間」の方に顔を出すと、そこにはパンツスーツをびしっと着込んで、大きなバッグを肩から下げた女性が立っていた。
「小野寺さんのご家族さん?」
女性はつかつかと部屋の中に入ってくると、大夢の前でぴたっと止まり、深々と頭を下げて、
「このたびはどうも、誠にご愁傷さまでした」
と言った。言葉に関西っぽい訛りがある。
「あ、いえ……ありがとうございます」
こういうときって「ありがとうございます」でいいのか? と思ったが、とっさにそう返してしまった。
「メゾン・ド・ミル大家の林と申します。いやーもうもうもう急なことで。小野寺さんには特に長年住んでいただいてたので、本っ当に残念ですわ。まだお若いのに、ねえ。息子さん?」
「ええと、甥です」
「そうですか。それでね、まあお部屋は見ての通りで、まーキレイに使っていただいててね、ありがたい限りなんですけどとにかく今月分はお家賃頂いてるんで、荷物のほうをね、月内にバーッとやっていただきたいんですけども」
「はあ」
「まー、お荷物多いから大変かとは思いますけど。いやほんまにえらい荷物やな。業者さんとかもう頼んでます?」
「いえ、ええと、自分一人でやるのかな、と……」
「いやいやいやいや、そーりゃ無理ですよお!」
大家は大げさにのけぞりながら手をぱたぱたと振る。三十代くらいに見えるが、なぜかかなりのおっさんと喋っているような気がしてくる。
「トラックとか持ってきてます?」
「いえ……」
「じゃ~無理ですわ」
大家は腕組みをして部屋の中をぐるりと見回した。
「あの……伯父は、ここにどれくらい住んでたんですか。正直、あまり伯父のことよく知らなくて」
思い切ってそう訊いてみた。
「だい~ぶ長いですよ。私がこの家業継ぐ前からの店子さんですからねえ。たぶんもう、二十年は住んではったんちゃうかな」
大家の林はひーふーみーと手指を折りながら言った。それは、確かに長い。つまり、二十年分のいろいろが、この部屋には詰め込まれているわけだ。
「もう一個、質問いいですか」
大夢はおずおずと言った。
「伯父は、ここで何の商売をしてたんでしょうか」
「はあ、ご存じない?」
頷く。あれだけ春夫おじさんの噂話でもちきりだった小野寺家連絡網でも、その情報は大夢の耳には入ってきていなかった。
考えてみれば、妙な話だ。しかしある時期から確かに、春夫おじさんの話が親戚連絡網で回ってくることがめっきり減った。それがいつくらいの時期からだったのか。思い出そうとしたが、曖昧だ。
大夢は、親族のごたごたや噂話になるべく関わらないようにして立ちまわっていた。今回は無理くりにその渦中に叩き込まれてしまったが。
「小野寺さんは、こちらで長いこと他人屋さんを営んでましたよ」
「その、他人屋、っていうのはどういう」
「まあ、便利屋さんて言うんですかね。人手のいることならなんでもどこでも呼ばれていって、チャッとお手伝いする、みたいな」
なるほど、便利屋。そういう仕事があるのは聞いたことがあるが、まさか身内が実際にやっているとは思わなかった。しかもあの、無口で、奇妙で、人前に出てこない春夫おじさんが。正直、まるで想像ができない。便利屋には詳しくないが、それなりにコミュニケーションが必要な仕事なんじゃないだろうか。
「儲かってたんでしょうか」
「どうですかねえ。そこまではちょっと私の方では分からんですわ」
「でも、こういうマンションの家賃、けっこうするんじゃないですか。滞納とかしてなかったんですか」
春夫おじさんには悪いが、ここは部屋は広いがどう見てもお金に余裕のある人間の暮らしぶりには見えない。大夢も同じく余裕がないので、貧乏生活のオーラはよく分かる。
しかし、大家は質問には答えず、腕組みをしたまま、今度は急にじろじろと大夢を上から下まで眺めまわしはじめた。
「甥御さんは、このへんにお住まいで?」
「都内ですが、近くはないです」
「お仕事は」
「派遣社員です」
「働いてらっしゃる」
「はあ、まあ」
「失礼ですが、今現在のお住まい、お家賃はいかほどですか」
「六万円ですが……」
家賃は六万円だが、水道光熱費コミコミのシェアハウスということは言わないでおく。
「もしもの話、あくまで仮の話として聞いていただきたいんですけどね」
大家の声がぐっと低くなる。大夢は急に緊張してきて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ここ、五万で住めるとなったら、どう思います?」
「ええ?」
何の話かとっさに分からず、聞き返した。大家はそのまま立て板に水の調子で胸を張ってつらつらと喋り始めた。
「この部屋、東都線千朝駅徒歩五分鉄筋コンクリートエレベーターあり管理人常駐エアコン付きフローリング角部屋二面採光室内洗濯機置き場ありのこの『メゾン・ド・ミル』404号室の部屋にですね、月五万円で住めるとなったら、どう思います?」
大家は真顔で大夢を見ていた。これは「ボケ」というやつなのだろうか。
「ええと……すごく安いなあ、と思いますけど」
「そうなんですよ。安いんです。破格です。なんでそんなに安くなると思います?」
急にクイズを出された。
「……事故物件?」
「そう、心理的瑕疵ちゅうやつですな。で、本来ならこの大荷物ぜーんぶ片していただいて、それからうちの方で修繕やらハウスクリーニングやら入れてまーひと仕事大仕事してから、やっとのことでまた入居者さんをね、募集できると。その上で入居希望者さんがいらしたら、ビャッと説明をしないといけないわけです。その、心理的瑕疵の内容を」
大家は腕組みし、分かりやすく「困った」という表情で首を振る。
「この心理的瑕疵ちゅうのがねえ~。なんとも悩ましいもんでして。特にお子さん連れや女性のお客さんは嫌がりますし、本当に困りもんなんですわ。や、小野寺さんはなんっも悪くないですよ。ああいうことはね、しょうがない。誰にでも起こることです。人は生きるしいずれ死ぬ。それが人間様相手にこういう商売をするっちゅうことですわ」
「はあ」
「しかし、そうは言っても手続きはめんどくさい。正直。時間もお金もめ~ちゃくちゃ、かかります」
「はあ」
まだ話がよく見えない。つるつると喋る大家に、すっかり気圧されてしまっていた。
すると急に、大家はぐっと大夢に迫ってきた。
「あれですか、甥御さん、小野寺さんとは仲良しでしたか」
「いやあの、さっきも言いましたがあまりよく知らないんです、伯父のことは」
「でも、ご身内でいらっしゃる」
「それは、そうですけど……」
大家は、何か考え込むような表情でしばし部屋の斜め上あたりを睨んだ。
「よし、敷礼手数料なし。これでどうでしょ。あとはうちの事務所の方で、チョチョッと書類書いていただければ」
「書類って、何のことですか」
「引っ越しするとき書きますでしょ? 賃貸契約書ですよ。ここからちょっと歩きますけど、うちの事務所のコーヒーはうまいですよぉ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。あの、もしかして俺にここに引っ越せって言ってます?」
ここで大家は初めて歯を見せてニカッと笑った。
「私ね、こういう仕事してるんでだいたい相場が分かるんですよ。廃品処理とか遺品整理。まー、このくらいの規模でしたら、最っ安で三十万はかかりますよ。最っ安ね。あくまで」
「さ、三十万」
「けっこうな額でしょ。今はほんとにねえ、物は買うより処分するのにお金がかかる時代ですよぉ」
「別に、俺が払うわけじゃないですから……」
でもじゃあ、誰が払うんだ。大夢の頭に、兄や母の顔がぽこんと浮かんで、消えた。
第二章 メゾン・ド・ミル
大夢の一年間は、トランク一つとリュックと紙袋に全部収まってしまった。
その中身もほとんどが服やこまごました日用品で、思い出のある品物や、どうしても持っていきたい大切なものは、シェアハウスの二畳の部屋には一つも無かった。
自分の財産全てが詰まった小さいトランクを見ながら、「今ならこのまま、どこにでも行けてしまえるな」と、ふと思った。そんなことをするつもりはないし、行きたいところもないし、実行するお金も時間も、まったく無いのだが。
平日の昼下がり、シェアハウスは全体的にひっそりしていた。荷物を持ってリビングに下りてみたが、そこにも誰もいない。誰かいたところで、その人の名前も分からない。
結局大夢は、春夫おじさんが住んでいた『メゾン・ド・ミル』404号室に、いわゆる「居抜き」の形で引っ越すことになった。
その事を兄の弘樹に伝えると、案の定、非常識だとか馬鹿じゃないのかとかいろいろ言われたが、大夢はそれを聞き流した。どうせ、自分が自分なりに考えたことを兄に話しても、何もかも理屈をつけて否定されるだけと分かっているからだ。
荷物を抱えて駅に向かう。
一年と少し暮らしたこの街や駅にも、特に思い出はできなかった。寝に帰るだけの場所だったし、友達どころか知り合い程度の人間関係も無い。得たのは、東京といってもぜんぶがぜんぶ、新宿や渋谷みたいな場所じゃないんだなという実感くらいだ。
面倒な乗り換えを繰り返し、千朝駅に到着する。時間は昼過ぎになっていて、千朝銀座はこの前に来たときよりもさらに賑わっていた。
前はちゃんと観察する気持ちの余裕がなかった商店街を、きょろきょろと見回しながら歩く。
白いのれんの掛かった古そうな食堂、どういう需要があるのか分からない「お茶と海苔」の店、布団屋、色褪せたパッケージのプラモデルを並べているおもちゃ屋、米屋、ブティック、酒屋。
地元でも見たことのないレトロな風情の店舗が軒を連ねる。安そうなスーパーやパン屋もあり、買い物には困らなそうだ。
何より、この街は賑やかだった。
シェアハウスのあった街は、コンビニすら乏しい、ひたすら住宅だけが詰まっている所で、人が行き交う姿は駅以外ではほとんど見ることもなかった。同じ東京でも、風景がぜんぜん違う。
大夢はもともと、東京や都会に強烈な憧れを持っていたわけでもなかった。ただ、地元では仕事と一人で暮らせる環境を見つけることができなかったから、東京に来ただけだ。
テレビで見る渋谷や六本木の光景に「人がすげえ」と思うことはあっても、そこで暮らしたいとは思わなかった。引っ越してからも殺風景な住宅街と高層ビルの立ち並ぶ都心の職場の往復で、それ以外の東京の景色をほぼ知らなかった。
千朝町は、大夢が初めてじっくりと見る都会の下町だった。
人が多い。でも、老若男女いろんな人がいる。どちらかというと老の割合が多い。そして、だいたいの人が気楽な服装をしている。スーツの人や奇抜なおしゃれをしている人はあまりいない。あと、自転車に乗っている人が多い。地元では自転車に乗っているのは学生くらいで、あとはみんな車移動だったので、そんな風景も新鮮に見える。
メゾン・ド・ミルに到着し四階に上がると、そこはこの前来たときとは、がらっと様子が違っていた。
あちこちの部屋のドアが開き、「OPEN」の看板が出ている。マンションというか、雑居ビルのようだ。
404号室の向かいの部屋も〝開店〟していた。スタンド式の看板に「BOOKS小石 休憩できます」と書いてある。書店らしい。
ちょっと中を覗き込んでみると、確かに壁際には本棚が並んでいたが、部屋の中央にはなぜか種類の違う一人がけのソファがいくつも置いてあった。
変な本屋だな、と思いながら、404号室の鍵を開ける。
中は相変わらず、薄暗く、静かだった。
明かりをつけた。シーリングライトの強い光が部屋をすみずみまで照らす。やっぱり物が多くごちゃごちゃしていて、お世辞にも住みやすそうとは言えない。
普通の人間ならこんな、倉庫みたいな場所で寝起きするのは避けたいだろう。でも。
この部屋には自分専用のトイレと風呂と洗濯機まであるし、冷蔵庫に入れておいたものは盗まれない。天井が落ちてきて圧死する夢も見なくて済みそうだし、薄い壁の向こうのイビキやテレビの音に悩まされることもない。
それだけで、じゅうぶん理想の住処になると思った。
改めて部屋の中をじっくり見ると、そこは一人で暮らすにはやはり大きすぎる間取りなのがよく分かった。ファミリー向けか、少なくとも二人くらいで住むのがちょうどよさそうな広さだ。風呂とトイレも分かれていて、風呂は今どき珍しいバランス釜だが、追い焚きができるのは嬉しい。
でも、この404号室に人が居られる場所そのものは、少ない。大夢は自分の少ない荷物をとりあえず空いているスペースに押し込み、「応接間」のソファにどかっと腰をおろすと、春夫おじさんが遺した大量のガラクタたちを見上げた。
段ボール箱や衣装ケースで作られた巨大迷路のような部屋だ。床が見えている面積は、全部合わせたらそれこそ四畳半くらいなのではないだろうか。
ずっと一人で、この物がみっちりと詰まった部屋で、何を考え何をして暮らしていたのだろう。ふとそう思ったが、それが想像できるほど、おじさんの人となりを何も知らない。
「ん?」
テーブルの菓子鉢の下に、鍋敷きみたいに一冊のノートが敷かれているのに気が付いた。手に取ると、表紙にあまり上手くない字で「日誌」と書いてあった。
ぱらっとめくると、日付と天気と、数行のメモのようなものが書かれたページがずっと続いている。
『◯月×日/水曜/雨 午後、伊勢屋の主人来。年末のチラシ折りと投函依頼。請。◯月△日/金曜/快晴 五丁目松原さん宅。納戸整理。無問題――』
どうやら、業務日誌みたいなものらしい。
内容を拾い読む限り、春夫おじさんがここでやっていた『他人屋』というのは、本当にただの便利屋的な仕事だったようだ。他にも店番や引っ越しの手伝い、庭掃除など、こまごまとした仕事が書き連ねてある。
そのまま日誌をめくり続ける。何か、おじさんの知られざる内面が書かれているページでもあるのではないかと好奇心が湧いたからだ。
『◯月□日/土曜/晴れのち曇 来客無。急な気温低下。幽霊の上着探すこと。』
「……幽霊?」
唐突に現れたその二文字は、簡素な業務記録が並んだノートの中で、不自然に浮き上がっていた。
注意して他のページをめくると、「幽霊」はときどき日誌の中に出現していた。『伊勢屋からおこわ貰う。幽霊も食べた。』『幽霊、不調。病院行くべき?』『幽霊、靴下必要?』……。
「幽霊に、靴下?」
ノートに書かれたその意味不明で不気味な文字に、悪寒が走った。
子どものころから、ホラーとか怪談の類いは大の苦手だ。春夫おじさんはオカルト好きの人だったのか? 思わず、部屋の中を見回す。誰もいない。いない……はずだ。
ノートに視線を戻す。業務日誌と「幽霊」の話のほかには、食べ物の記述が多い。誰に何を貰った、という話がよく出てくる。
「自転車屋橋田さん・リンゴもらう……トネリコのマスター・お土産の缶詰もらう……二階の周さん・変わった春雨くれる……小石さん・幽霊に焼き菓子……」
また幽霊だ。しかも、おじさん以外の人にもその幽霊の存在は知られていたような書き方だ。
そこではっとした。幽霊というのは、おじさんがここで飼っていたペットか何かの名前なのかもしれない。ずいぶん悪趣味なネーミングだが、変人と名高い人だったから、不思議ではない。
ソファのすぐ近くにあった、ペット用の大きなケージを見た。そうか、これはそのためのやつか。でも、今は部屋に動物はいない。おじさんが亡くなる前に手放したか、死んでしまったのかもしれない。そうだ。そうに違いない。そうであってくれ。
ちょっとほっとしたら、急に腹が減ってきた。
せっかく専用のキッチンがあるし何か作るかと思ったが、冷蔵庫はこの前掃除して空になっているし、おじさんの遺した米や袋麺なんかはまだ食べられそうだが、野菜やおかずになりそうなものは何もない。
「買い物行くか……」
近所の探検がてら、出かけることにした。
とはいえ、今までと変わらず、贅沢はできない。引っ越しにあたって費用がほとんどかからなかったのは奇跡だが、給料は安く、いつまで同じところで働けるかも分からないからだ。
それでも、コールセンターは資格も学歴も体力も職務経験もない人間が就ける仕事としては、けっこう高時給だ。エアコンの利いた屋内で働けるし、残業はほぼ無いし、職場はだいたい交通の便のいい都心にある。できるなら長く続けたい。でも、そう希望したからといって叶うわけではない。派遣先が大夢をもう必要ないな、と思えば、そこで終わってしまうのだ。
だから、余計なお金は使えない。削れるところは削って、できるだけつましく生活して、いつか来るかもしれない急な失職のショックに備えないといけない。
外に出ると、いつの間にか空がだいぶ曇っていた。雨になるかもしれない。
一番近い店は、『やはぎ』という小さな青果店だった。店先に野菜や果物の入ったプラスチックのかごが積まれ、それぞれに手書きの値札がついている。エプロンを着けたおじさんがポケットに両手を突っ込んで、その後ろでぼんやりと突っ立っている。
これがいわゆる「八百屋」というやつか。アニメや漫画ではよく出てくるが、実物を見たのは初めてかもしれない。
大夢の生まれ育った町にも大昔は商店街があったらしいが、とっくに消滅していて、あるのは車で十五分くらい走ったところにある大型のショッピングセンターだけだ。巨大な敷地にあらゆる種類の店がぎゅっと詰まっていて、なんでも安くて、買い物が一度で全部済む。
大夢はあらぬ虚空を見つめている八百屋のおじさんの後ろの店内を、そっとのぞき込んだ。平台の冷蔵庫があって、モヤシや豆腐が売られている。肉や卵は見当たらず、ここでは本当に野菜しか買えないというのを確認した。
(不便じゃないのかな、このへんの人は)
通りに目を向けると、やはり肉屋や魚屋の看板も見える。いちいち専門店に入って、別々に会計して、別々の袋に入れて持って帰る。かなりめんどくさそうに思えるが、こういう街ではそれが普通の買い物の仕方、なのだろうか。
ふと顔を上げると、おじさんと、ばちっと目が合った。
「安いよっ!」
「うわっ」
急に大声を出され、飛び上がるほど驚いた。
「お兄さん、今日は茄子が安いよっ!」
おじさんがびしっと指さした先には、かごに盛られた茄子が並んでいた。一山百六十八円。
「確かに安い……」
「そう。うちはモノはそこそこ、でもとにかく安い! 貧乏人の味方っ!」
そう言いながら、おじさんは手際よく茄子を一山ビニール袋に詰めると、大夢の目の前に突き出した。
「い、いや、買うとは」
「でも安いよっ!」
「あの、ひ、一人暮らしなんでこんなに茄子あっても困りますし」
「じゃハーフだ。はい、ハーフで百円!」
数分後、大夢は茄子の入ったビニール袋を手に、狐につままれたような気持ちで商店街を歩いていた。
まるで催眠術にかかったように、言われるまま百円を出してしまった。これが下町の買い物。気をしっかりもたないと大変なことになりそうだ。
気を改めて、さっきよりこころもちきりっとした顔で油断なく辺りを見回しながら歩く。今度こそ計画的に買い物をせねば。
部屋にあった無洗米はカビも虫も湧いていなかったから、しばらくはあれで主食はもつ。あとは納豆と卵、それとさすがに調味料は買いなおさないとだめだ。マヨネーズとめんつゆと味塩コショウがあればとりあえずなんとかなる。野菜は、袋入りのカット野菜が七十八円以内で手に入る店を探す。茄子は……茄子は、どうにかしよう。茄子の料理なんてしたことがない。実家でも出たっけ?
考え考え歩いていると、鼻先をふわっと甘い匂いがかすめた。
一軒の店先から、真っ白い蒸気が道に向かってさかんに噴き出ている。甘い香りの発生源は、そこのようだった。
「あ」
看板を見て、思わず声が出た。伊勢屋。春夫おじさんの日誌に何度か出てきた屋号だ。
伊勢屋は和菓子店だった。道に面したガラスのショーケースには、大福や串団子と一緒になぜかおにぎりが並んでいる。その横には大きなせいろがあり、何かを激しく蒸している。もう夏だというのに、何をそんなに熱くしているんだろう?
ちょっと眺めている間にも、お客さんがひっきりなしに集まってきて、おにぎりがどんどん売れていく。コンビニのものより小さめで、値段は少し高い。それでも売れていく。白い三角巾をつけた店員が、お客一人ひとりと笑顔で会話を交わしている。
知らない生活だ、と思った。都会の下町と田舎は、買い物ひとつ取ってもこんなに違うのか。自分はなんだか、こういうの、馴染めそうにもない。商店街の入り口近くにあったチェーンのスーパーに頼ろう。
そう思った矢先、頭のてっぺんにぽつりと冷たいものが落ちてきた。
「マジかよ……」
雨粒はあっという間に勢いを増しながら、アスファルトを濃い灰色に染めていく。
大夢は迷った。近くにある店――ラーメン屋と、あと喫茶店兼ケーキ屋みたいな店がある――に飛び込むか、走ってマンションに戻るか。
ケーキ屋の店内では、小さい子どもを連れた母親たちが、楽しそうに笑い合っていた。
それを見た瞬間、走った。
何かを振り切るように走った。その何かが何なのかは、分からない。でも走った。雨脚が強くなる速度に負けないように。
それでも結局、かなり濡れた。到着したメゾン・ド・ミルの白い外壁は、灰色の空の下だと余計に白く浮き上がって見えて、不気味に感じるほどだ。
茄子の入った袋だけ持ってエレベーターに乗ると、急にみじめな気分になって、それからむしょうに腹がたってきた。
何に対しての怒りなのかは分からない。歩いていて、雨に降られただけだ。なんてことない。だが刺々しい憤りは、なかなか収まらなかった。
前髪からぼたぼた雫を垂らしながら、俯いてポケットから部屋の鍵を出す。
「あれっ」
すると急に、後ろから知らない人の声がした。
「他人屋……さん?」
振り向くと、見知らぬ男が立っていた。背が驚くほど高い。カラフルなバッジのたくさんついたピンク色のエプロンをしていて、目をまん丸く見開いている。
「なんですか」
虫の居所が悪かったので、不機嫌さを隠しきれない、尖った声で返事した。
「いやあの、他人屋さん――小野寺さん、最近姿を見ないんですが、どうされたのかなと思って。もしかして、入院とかされてるんですか」
「死にました」
そう言うと、男はひゅっと息を呑みこんだ。
「ああ、そんな……」
顔色が、みるみる青ざめていく。
そのエプロンには、よく見ると「小石」という字が刺しゅうしてあった。向かいの本屋は『BOOKS小石』。たぶん、その店の人だ。
「ほ、本当ですか? 小野寺さんが、亡くなった?」
「嘘つく理由、ありませんけど」
雨に濡れた全身が冷えてべたついてきて不愉快で、大夢の声はますます刺々しくなる。早く部屋に入ってシャワーでも浴びたい。
しかし、エプロンの男は、まだまだ話しかける気まんまんという雰囲気で、ぐぐっとこちらに詰め寄ってきた。
「救急車で運ばれた、って話は聞いてたんです。でも、まさか、亡くなったなんて。その前の日も元気そうだったのに、どうしてそんな、急に」
「あー、クモ膜下出血らしいです。救急車呼んで部屋からちょっと出たけど、間に合わなかったらしくて。自分も詳しいことはあんまり知らないです」
男はさらに悲しそうな、心底辛そうな顔をして、エプロンの胸元をぐっと掴んだ。
「なんてことだ……。その日、ちょうど店を休みにしていたんです。普段通り僕が店に居たら、助けられたかもしれないのに……」
その目から、ぼろっと大粒の涙が流れて、ぎょっとしてしまった。
この人は、春夫おじさんとずいぶん親しかったようだ。確か日誌にもちょくちょく「小石」は出てきた。
男はシャツの袖で目元をぬぐいながら、大夢の顔をじっと見た。
「失礼ですが、あなたは……?」
自分が亡くなった小野寺春夫の甥であること、その部屋を〝居抜き〟で借りて引っ越してきたことを、エプロン男に簡単に説明した。
「そうだったんですか……」
鼻をぐずぐずいわせながら、男は何かを噛みしめるように俯いた。
そのとき、ふいに、春夫おじさんの死をこんなにストレートに悲しんでいる人に会うのは初めてだ、ということに気付いた。
兄も、そしておじさんの実の妹である母も、その死に対しては何よりもまず「困ったこと」という態度を見せていた。そしてそれは、大夢も同じだ。
親戚一同の中から浮き上がっていた春夫おじさん。小野寺一族の中で、こんなふうに泣くほど悲しんだ人は、いたんだろうか。
「申し遅れました。僕はそこの『小石』という書店で店主をやってます。小石川と言います」
なるほど、小石川だから、「小石」。年齢は大夢よりちょっと上、アラサーくらいに見える。虹色や紫や赤の派手なバッジをエプロンにびっしりつけていて、それ以外にもピアスやブレスレットのアクセサリーがじゃらじゃらしている。でも、陽気なチャラ男という雰囲気でもない。
なんか変な人だな、と思った。そしてはっきりした理由もなく、なんとなく苦手だな、この人。とも思った。
「他人屋さん――小野寺さんには、よくお仕事をお願いしてたんです。棚卸しとか、模様替えとか、店でやるイベントのお手伝いとかしてもらって。僕、去年横浜から越してきたんですけど、小野寺さん、自分はここに住んで長いから何でも聞きなよって、街も案内してくれたり、すごく親切にしてもらって……」
思わず、「それ本当に、小野寺春夫の話ですか?」と訊き返しそうになってしまった。
だって、親戚の自分ですら姿を見ることもレアで、声もほとんど聞いていないような、動く岩みたいな無口で人ぎらいだった人なのだ。他人にそんなに親切にしているところなんて、まったく想像ができない。
「とにかくもう、この部屋に伯父は住んでないので」
そう言って部屋の中に引っ込もうとすると、小石川ははっとしたような顔で大夢を見た。
「じゃあ、これから他人屋さんはあなたが引き継ぐんですか?」
大夢は驚いて立ち止まってしまった。
「え? いや、やりませんよそんな。普通に仕事あるんで」
「そ、そうですか。でも、看板がまだ出てるので、てっきりまだ他人屋さんが営業してるのかなと……」
言われて初めて、『他人屋』の看板がドアに付いたままなのに気付いた。
すぐに力任せに外そうとしたが、接着でもしてあるのか、ドアにしっかり張り付いていて剥がれない。なんだこれは。賃貸でこんなことしていいのか?
しばらくガタガタと看板と格闘して、自分の力ではどうあっても剥がれそうにないのが分かると、だんだん腹が立ってきて、とりあえずさっさと部屋の中に入ってしまおうとした。しかし。
「あ、あの!」
またしても、小石川に呼び止められてしまった。
「なんすか」
もはや一切イライラを隠さずに、勢いよく振り返る。
小石川は、なぜかきょろきょろと目を泳がせてから、思い切ったように口を開いた。
「あのう……部屋に、幽霊さんは、まだ出るんですか」
「……は?」
〝幽霊〟。また、その言葉だ。
「い、いえ、いいんです。何もなければ。すみません、変なこと言って」
ぺこっと頭を下げ、小石川は慌てたように自分の店に戻っていった。
大夢は404号室の中に入り、すぐに明かりをつけた。背中のあたりがぞくぞくする。雨に濡れたせいだけではない。
部屋の中をじっと見回す。出ていったときと、何も変わっていない。変わっていないはずだ。
でも、何かがおかしい。
有名なファミレスチェーンのテーブルに置いてあるすごく難しい間違い探しみたいに、ほんのわずか、はっきりとは分からないくらい、部屋の中の何かが変化している、気がする。
絶対に気のせいだ。幽霊の話なんかされたから、錯覚しているだけだ。必死で頭の中でそう唱える背中を、一気に悪寒が駆け上がってきた。
「へっくしょい!」
部屋中に響き渡るような、大きなくしゃみが出た。
「……風呂入ろう」
洟を啜りながら、独り言を言ってバスルームに向かった。
雨に濡れて、風邪をひいてしまったのかもしれない。だからぞくぞくするし、部屋も変なふうに見えるんだ。自分にそう言い聞かせて、ほぼ正方形の小さいバスタブにお湯を張り、湿った服を脱ぐ。
実家に居たときは当たり前過ぎて意識すらしなかったが、トイレと風呂がちゃんとしている部屋というのは、素晴らしい。何ものにも代えがたい。
前のシェアハウスの常に薄汚く臭かった共用トイレと、凄く狭くてお湯が出たり出なかったりしたシャワーブースを思い出す。
仕方ない、と我慢しながら一年以上も暮らしていたが、離れてみると、もう絶対あんなところに住みたくないという気持ちが強く湧いてきた。
しかし、髪の毛を洗ったりしているうちに、温まっているはずなのに首の後ろあたりの悪寒がどんどん強くなってきた。
(やばいぞ、これは)
バスルームから出て着替える頃には、完全に「風邪ひいた」という実感が襲ってきていた。首から上だけのぼせたように暑く、あとは全部寒い。
よろよろと窓際のベッドに向かった。横になりたい。今からしっかり寝れば明日には治っているはず。そうしたら、仕事を休まずに済む。
前の部屋から持ってきた薄いタオルケットにくるまり、安っぽいパイプベッドの上に、倒れるように身を投げ出した。
仕事は休みたくない。仕事が好きなわけじゃないが、時給で働いている。一日休めば、そのぶん収入が減ってしまう。一日ぶんの給料は大きい。だから多少の風邪くらいなら、市販薬とスポーツドリンクをがぶ飲みしてなんとか働く。
横になっているのにめまいがしているようだった。熱の奥に頭痛が顔を出している。暑い。寒い。
ベッドの上で震えながら、以前患ったひどい食あたりのことを、また思い出した。あの時はシェアハウスだったからたまたま他人に助けてもらえたが、今は完全に、一人だ……。
次第に強くなってきた寒気にぶるぶる震える。久しぶりに感じる、胃の奥がひんやりするような気分に奥歯を噛み締める。
これは、心細さだ。
実家から出ると決めたとき、自分の感情をひとつ、殺すことにした。寂しいという気持ちを。
これから一生――寿命を全うすると仮定すれば――五、六十年くらいの時間を、一人きりで生きることになる。そのときに一番危険なのが、「寂しさ」というものだと思ったからだ。
だから、ちょっと風邪をひいたくらいで心細くなるわけにはいかない。こんな程度の辛さに耐えられないようじゃ、先が思いやられる。五十年だぞ。その間、何度も何度も、こういう日がやってくるはずだ。一人きりで、具合の悪さに耐えなきゃいけないような日が。何か別のことを考えるんだ。何か楽しいこと。気がまぎれるようなこと……。
目を閉じて、そう一生懸命自分に言い聞かせる。しかし、ぜんぜん、楽しいことが思い浮かばない。
こんなとき、何か趣味でもあったらそのことを考えてやりすごせるんだろうか。そうか、趣味ってそのために必要なのかもしれない。この風邪が治ったら趣味を探そう。五十年くらい暇をつぶせる趣味を――。
いつの間にか、うとうととしていた。浅い眠りの中に、曖昧な夢が流れ込んでくる。
さんさんと日が差す庭に、子どもの笑い声があふれている。ばたばたと駆け回る足音も。でも、姿は見えない。子どもの声は、聞き覚えのあるものだった。
『おとなになったら、おれはね、おしろをたてる! ちょう、でっかいやつ! そんで、おかあさんとひろむとおしろでいっしょにくらす! ずっといっしょ! だっておれ、おにいちゃんだから!』
目が覚めた。
喉が渇いて、心臓がばくばくしている。頭には嫌な夢を見た、という感覚だけが残っていて、その内容はもう消え去っていた。
その時、急に、とても嫌な予感がした。
――視線を感じる。
薄暗い部屋の中で、そっとタオルケットから顔を出した。
そして、ベッドの足元に、ぼんやりと黒い人影が立っているのを、見てしまった。