わずか三百石の身分から老中まで上り詰めた田沼意次の生涯を描いた傑作長篇歴史小説 文芸評論家・細谷正充さんによる文庫解説を公開
「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」
寛政の改革を皮肉った、詠み人知らずの狂歌
代表作のある作家は幸せである。だが、代表作があまりに強力だと、他の作品が霞んでしまうことがある。平岩弓枝は、そのような作家のひとりだ。なにしろ代表作の「御宿かわせみ」シリーズが、あまりにも有名すぎる。作者の名前を聞いて、すぐにこのシリーズを思い出す人が多数ではなかろうか。しかし作者の創作領域は、ひとつのシリーズだけでは語れない。経歴を見ながら、そのことを説明していこう。
平岩弓枝は、1932年、東京の代々木にある代々木八幡宮の宮司のひとり娘として生まれる。日本女子大学国文科卒。第32回直木賞を受賞した『高安犬物語』を始めとする動物小説で知られる戸川幸夫に師事し、その後、長谷川伸が主宰する新鷹会に入会。新鷹会が発行する「大衆文芸」に幾つかの作品を発表し、1959年に『鏨師』で第41回直木賞を受賞した。選考を見ると、かなり揉めたようである。また受賞決定後に女性作家と知って、驚く選考委員が多かった。高評価を付けた選考委員の川口松太郎は、
「他の委員は話の内容の嘘をあげたが、大衆小説の本道からいっても、面白く読ませる技倆が大切であり、平岩君は話術の巧みな作家だと思える。まだ年も若いのだし、充分自重して、よい作品を書いてくれるように大期待をかける」
と、称揚していた。その大期待に応えるように、現代小説・青春小説・ミステリー・時代小説・歴史小説など、幅広いジャンルの作品を発表。作家としての地歩を固めていった。一方で、テレビドラマの脚本も多数執筆。日本女子大学附属高等学校に通っていたとき、友人たちと演劇部を作り脚本を執筆していたというから、これも作者のやりたかったことなのだろう。
そんな作者が、さらに飛躍することになった作品が、「御宿かわせみ」シリーズだ。1973年から「小説サンデー毎日」で連載を開始し、82年から「オール讀物」へ移行。以後、長期にわたり連載を続け、絶大な人気を獲得したのである。後に「小説現代」で始まった「はやぶさ新八御用帳」及び「はやぶさ新八御用旅」シリーズも好評を博した。その傍ら、旺盛な筆力で多彩な作品を順調に刊行。歴史小説も定期的に発表している。「週刊新潮」2001年1月4・11日号から12月27日号にかけて連載され、2002年3月に単行本が刊行された『魚の棲む城』も、その一冊なのである。
本書の主人公は、かつて賄賂政治の代名詞になり、悪徳政治家と思われていた田沼意次である。″かつて″と書いたのは、現在、意次の政策が見直され、先見の明のある有能な政治家だということが明らかになっているからだ。作者の目的は、こうした意次の実像を物語の形で広く世に知らしめることだと思われる。
これに関して、注目したい作品がある。1999年の『妖怪』だ。南町奉行として天保の改革に辣腕をふるい、江戸の庶民から″妖怪″と恐れ憎まれた鳥居甲斐守忠耀が主人公。極めて評判の悪い人物であり、歴史時代小説に登場すると、ほとんどの作品で悪役にされてきた。そんな忠耀の人生を作者は能吏の悲劇として捉え、新たな人間像を打ち立てたのである。『妖怪』と本書は、どちらも長年にわたって悪人扱いされてきた実在人物を、物語の形で再評価しているのだ。
とはいえ意次を再評価した小説は、平岩作品が初めてではない。山本周五郎の『栄花物語』や村上元三の『田沼意次』で、有能な政治家であることが書かれている。しかし、一度貼られたレッテルを剥がすのは、なかなか大変なことだ。今年(2024)、村木嵐が上梓した『またうど』の主人公が意次であり、やはり有能な政治家として描かれていた。意次の再評価の流れは、現代まで続いている。山本・村上・平岩・村木という作品の流れは、このことが逆に、確定した人物像を覆すことの難しさを実感させてくれるのである。
いささか前置きが長くなってしまった。本書の内容を見ていこう。まず感心するのが、物語を読ませる力である。そもそも歴史小説は史実や実在人物を題材とするため、ある程度、それに関する知識があった方が楽しめる。だから、知識がないため近寄りがたいと思ってしまい、歴史小説を敬遠する人も少なくないのだ。ところが本書は歴史小説でありながら、非常に時代小説寄りの書き方をしている。これを象徴するのが主人公だ。意次の他に、作者の創造した人物がふたりいるのだ。
生家の速水家が二百石の旗本の龍介は、蔵前の札差「坂倉屋」の養子になり、今は坂倉屋龍介と名乗っている。素直な気性だが、一本筋の通った好漢だ。やはり生家の斉藤家が二百石の旗本のお北は、家のために菱垣廻船問屋「湊屋」の当主・幸二郎の妻になった。しかし幸二郎は仕事を番頭に任せっぱなし。夫婦の仲も隙間風が吹いている。そんなふたりの幼馴染が、紀州藩士から旗本になった父親を持つ田沼龍助だ。今では徳川9代将軍家重の小姓頭取となり、田沼主殿頭意次と名乗っている。なお、龍介と龍助という名前の共通性が意図的なものであることは、いうまでもない。
意次とお北は若い頃から、互いを恋しく思っていたが、別々の道を歩んでいる。龍介も密かにお北に恋心を抱いていたが、ライバルが意次だと思うと、不思議と嫉妬や憎しみを覚えることがない。恋情と友情で繋がった3人が、ストーリーの中心になっているのだ。しかも冒頭からミステリー・テイストが濃厚で、読者の興味をぐっと惹きつける。3人の幼馴染で、田沼家に通い奉公をしていた梅本志尾が、本所の旗本家の後妻になるが、しばらくして離縁された。すでに身ごもっていたからである。そして相手は意次ではないかという噂が流れた。
一方で、連続辻斬り事件が発生。龍介も目撃者となる。このふたつの件が結びつき、意外な真相が明らかになる。いち早く真相を察知した意次は、まるで名探偵のよう。ミステリーも得意とする作者らしい、エンターテインメント性に満ちた導入部なのだ。ついでにいうと志尾の産んだ子供は、後に、作中の史実に絡んでくる。大ベテランにこの言葉は今更だが、とにかく物語の組み立てが巧みなのだ。
冒頭のミステリーに続く大きなエピソードは、意次とお北が結ばれたこと。とはいえお北は、まだ幸二郎と夫婦である。このことを知った龍介は、泣きながら意次を諫める。いざとなれば「坂倉屋」を潰してでも意次に協力しようという龍介の言葉は、意次のみならず、読者の胸にも強く響くのだ。
ここまでくると、もう意次・龍介・お北の3人に対する、感情移入が止まらない。人間臭いドラマに魅了されてしまう。その間に、幕府の経済状況が悪化していることや、意次を巡る政治状況など、史実が挿入されていく。感情移入した人物がかかわっていることだからこそ、史実に抵抗を感じることなく、ストレートに受け入れることができるのである。
さて、側用人時代に新貨幣の鋳造を実行した意次は、明和6年(1769)に老中格になると、幕政の表舞台に立つ。世にいう"田沼時代″の始まりだ。重商主義の政策や、印旛沼の干拓、蝦夷地の開発など、幕府を立て直す方策を次々打ち出す。しかし天明になってから全国的に気温が不順となり、特に東日本は大雨と冷夏が続いて米が不作となった。しかも天明3年(1783)7月に信州の浅間山が噴火。これが引き金となり、天明の大飢饉が起こる。天災なので意次に責任はないが、出世を嫉まれていたこともあり、大きな批難を浴びるようになった。さらに意次の息子で若年寄の意知が、江戸城内で旗本の佐野善左衛門に斬られて死亡するという悲劇にも見舞われる。この件に関して作者は、あることで意次を憎む、白河藩主の松平定信の陰謀があったのではないかと匂わせている。本書は幾つかの史実にも作者の創意が込められており、読みどころになっているのだ。
おっと、創意といえば、意次とお北の間に生まれた新太郎のことを忘れちゃいけない。大坂で中風になった幸二郎は、樽廻船の船主・魚屋十兵衛の、魚崎にある別宅で世話になる。ここでお北と幸二郎の愛憎のドラマがあるのだが、それは読んでのお楽しみ。お北との縁から、意次と龍介と知り合った十兵衛は、やがて成長した新太郎を船に乗せる。幾つかの描写から分かるが、船を愛し、海の向こうの世界に憧れる新太郎は、意次の叶えられなかった夢の続きを歩く人になるのだ。意次の人生に寄り添い続けた龍介とお北の描き方も素晴らしい。作者は、彼らとのかかわりを通じて、史実とフィクションを融合させ、田沼意次の新たな人間像を、鮮やかに立ち上げたのだ。
ところで2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公・蔦屋重三郎は、田沼時代に大きく飛躍した江戸の地本問屋である。当時の江戸の文化について本書では、龍介が「この節、狂歌と申すものが流行って居ります」というぐらいだが、この狂歌の人気にも重三郎が関係していたりする。重三郎が版元としてさまざまな本や絵を出せたのは、庶民の文化を締めつけない、田沼時代の空気があってこそだろう。実際、意次が失脚し、新たな老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、庶民文化が抑えつけられるようになる。本書を副読本にしてドラマを見れば、より深く楽しめるのではないか。そんなことも思っているのである。
(ほそや まさみつ/文芸評論家)