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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第14回

第6峰『長崎絵師』『異風者』其の弐

すべてを出し尽くす第2巻は、勇気ある撤退の意思表明だったのか

 第2巻『白虎の剣 長崎絵師通吏辰次郎』の発刊は、第1巻から4年後の2003年。改題した文庫版からも2年近く経って出た。第1巻の舞台となった江戸の出来事をあまり引きずらず、この本だけを読む読者にもわかりやすく書かれている。
 
 動かさない部分と動かす部分も冒頭ではっきりさせた。動かさないのは、江戸から連れてきたおしのの視力。これは戻らない。茂嘉も相変わらず口を閉ざし、おしのだけに心を開いている。話がややこしくなってしまうので2人のことはいじらないと決めたように出番が少ない。
 
 動かすのはもっぱら辰次郎。長崎会所から密貿易の頭取をつとめるよう頼まれたかと思えば、すぐさま唐の秘密結社・黄巾党に襲われる。利権がほしい彼らは、密貿易の相手を阿蘭陀に絞り込む長崎会所が気に食わないのだ。
 
 長崎会所とて安泰ではない。江戸からきた新任の長崎目付は密貿易阻止に熱心で、執拗に辰次郎につきまとう。キリシタン画を描いているのではと疑い、遊女の肖像を描いていると知ればエロティックな絵ではないかと探りを入れるなどしつこい。こういう憎らしいキャラクターが全編を通じて出てくることは佐伯作品には少ないが、ここではいいスパイスになっている。
 
 辰次郎を中心に阿蘭陀と唐、長崎と江戸という趣の異なる利権争いが巻き起こり、合間には遊女とのスリリングな恋愛関係も織り込まれる。第1巻で感じられた力みはすっかり取れ、クライマックスに至る流れもスムーズだ。
 
 時の将軍・吉宗に取り入って公に貿易がしたい阿蘭陀は、貢物として虎を用意し、江戸まで運ぶ計画を立てる。当然、黄巾党が黙っているとは考えにくく、辰次郎に同行の命が下る。さて、虎は無事に江戸まで運ばれるのか。
 
 青龍刀や唐薙刀、短筒といった多彩な武器、海上での戦闘など、佐伯泰英の筆はいかにも軽快だ。なんとしてでも読者を楽しませようとする姿勢は同じでも、前作にはなかった余裕がここにはある。
 
 それとともに、いかにして物語を終わらせるかを考えながら話を進めている気もした。あくまで私見だが、佐伯泰英は長崎絵師をシリーズ化させることに消極的だったと思うのだ。読み切りのはずだった『密命』はシリーズ化で大化けしたが、こっちはそううまくいきそうにない、と。特殊な経歴と職業の持ち主を主人公とする物語は、そこに引っ張られる分、展開パターンが限定されがち。地域も狭い長崎となるとなおさらである。
 
 そこで、前作の読者が期待しそうな茂嘉の成長と、おしのの目が見えるようになる可能性を封印。その代わり、めったに出さないエロティックな場面まで用意して、異人が跋扈する国際色豊かなエンタメ活劇としての完成度を全力で高めたのではないだろうか。本当は辰次郎と瑠璃の子であることも知らされずにシリーズを終えられてしまった茂嘉と、親子としての会話をしてほしかったと思わないでもないが……。
 
 通吏辰次郎の活躍はこれで最後にします、この先があると期待しないでください。そんな胸の内を吐露するかのように、本書の最後はこの1行で締めくくられている。
 
〈三番蔵に向かいながら、辰次郎は再び異郷を旅する己を脳裏に思い描いていた〉
 
エンタメ時代小説の覇者が、ただ一度挑んだ理不尽小説『異風者』

 佐伯泰英が、2024年の時点で唯一発表した一冊ものの時代小説が『異風者』だ。発刊は2000年。『密命』シリーズの第3巻が出て、『夏目影二郎』シリーズが始まったばかりのタイミングで、6作目の時代小説にあたる。
 
 なぜ1冊ものの本など書いたのかと思われる読者がいるかもしれない。いまから振り返ってみれば、佐伯泰英は〝数々の長期シリーズをヒットさせた職人的エンタメ時代小説家”と言い表せる作家だからだ。
 
 だが、当時は時代小説家デビュー2年目。本が売れ、執筆依頼が殺到する中で、みずからの進むべき道をまだ決めかねていた時期でもあっただろう。自分の適性なんて、書いてみないとわからないものだし、いろんなスタイルに挑戦したいのは作家の性だ。
 
 現実には、押し寄せる依頼を引き受けているうち、短期間で自分の型をつかみ、佐伯流ともいうべき、読みやすくておもしろく、情にあふれるエンタメ時代小説路線を突っ走ることになる。
 
 その、せいぜい1、2年間の迷いの時期に書かれた奇跡の1冊が『異風者』だった。書いたときはシリーズ化が念頭になかった『密命』第1巻や『瑠璃の寺』(『悲愁の剣 長崎絵師通吏辰次郎』に改題)と合わせて3作の1冊もの時代小説の最後を飾る作品といってもいい。
 
 どうして『異風者』だけがシリーズ化されなかったのか。失敗作だから? 違う、続編なんて無理なのである。本作は、ひょんなことからやりたくもない親族の仇討ちをしなければならなくなった下級侍の不運を描く作品。のっけから読者の意表を突く1文で始まる。
 
〈夜じゅうしとしとと降り続いた梅雨が上がって、東京に朝の光が戻った〉
 
 明治5年の話なのだ。だから江戸ではなく東京。それなのに、旧肥後人吉藩の上屋敷前に立つ痩せこけた老人は髪をちょんまげに結い、刀を下げ、風呂敷に包んだ生首を持っている。
 
 何がどうしてそうなったんだと、一瞬で興味を掻き立てられるとすぐに種明かし。源二郎と名乗る老人は24歳のときから35年後の今日まで、仇討のために生涯をささげてきた男だった。
 
 うまいなぁ。ただこれだけで話の大枠がつかめフィクションの世界に入って行きやすくなると喜び、いつもの調子で読み始めた。ところが、どうも様子がヘンだ。主人公の源二郎が飢饉にあえぐ小藩の貧乏侍なのはいいとして、佐伯時代小説のヒーローが醸し出すさわやかさがどこにもないのである。
 
 源二郎は、剣術の才能があるのに仲間内で実力を示しても1文の得にもならないからと稽古で力を隠し、藩主の前で行われた大会で強豪たちをなぎ倒して優勝したりするので完全な嫌われ者。金にもセコく、いつでも出世のことばかり考えている。優勝が縁で転がり込んできた養子縁組の話も、相手がまったく好みではない容姿で年上の再婚者なのに、金貸しの娘であれば裕福だろうから貧乏生活から脱出できると了承する打算的な男でもある。
 
 本書内の説明では、書名の異風者にはふたつの読み方があり、〝いひゅごろ”と読むと蔑称に近く、〝いひゅもん”だと反骨精神の持ち主となるらしい。周囲がいひゅごろと蔑んでいる源二郎を、作者はいひゅもんとして描くということだろうか。どん底生活から抜け出すため、精進して研いだ牙をここぞというときのために温存し、引き受け手のいない年上女性の再婚話に乗る。そして、とにかく藩内での出世を目指す。きれい事など何の役にも立たないと割り切っている源二郎は、なんとかして人生を切り開いていこうともがく人間臭い男ということもできそうだ。
 
 いささか当惑しつつ読み進めると、こうなっていくのではという私の予想はことごとく外れるではないか。本当は心優しいのに、訳あって〝いひゅごろ”を演じているのではないか(違った)。結婚相手が見かけによらず魅力的なのではないか(前評判以上にひどい)。金貸し業で大きな成果を上げるのではないか(祝言の夜から上司に呼び出され、江戸まで連れていかれる)。目からうろこが落ちるような、人生の師との出会いがあるのではないか(出会うのは上司の命を狙う敵ばかり)。
 
 本のせいではない。シリーズ作家として完成されてからの作品を読んできた私は、佐伯作品とはこういうものだという先入観に支配されているのだろう。いったん休憩して頭を切り替え、佐伯作品のイメージを消して本書と向き合ってみた。
 
 そうしたら、これはこれでおもしろい。源二郎は仲間内のなれ合いに満足せず、泥臭い方法で江戸行きのチャンスをつかむと、結婚相手のことなど忘れてしまう。身体を張って上司を守ろうとするのも、出世の糸口をつかみたいからだし、そのことを隠そうともしない。人に好かれる要素は少ないけれど、言動は現実的で、下級武士の本音にあふれているのだ。
 
 この男を、どう活躍させ、生首を引っ提げて藩邸前に立たせる老人に仕上げていく気なのだろう。
 
 本書との接し方はわかってきたつもりでも、やっぱり先は読めないが、私以上に先が読めていないのは源二郎自身である。江戸についたはいいが、運命の荒波に飲み込まれてしまうのだ。
 
 上司たちがやっているのは小藩内での権力争いだから源二郎にはついていけない。頭脳明晰でもないので、自分が利用されていることがわからず、何人かに諭されても気がつけない。その姿は、地方から望みを抱いて上京した若者が都会人のテンポや考え方についていけない様にも似ている。
 
 ひとつだけ、いいことがあった。悪さをしている藩の上層部を追い出す際に監視役として行った上層部の妾宅で、佐希というその妾と一夜を共にするのだ。
 
 藩の乱れを正すべく国許に帰還する藩主に源二郎が同行するとき、佐希は「待っているわ」とささやく。ついに、源二郎の暗い人生に希望の光が差し込んだ!
 
 それなのに……。佐伯泰英は、幕末時代に地方の小藩で次男坊として生まれ、武芸以外に取柄のない若者が現実社会に弄ばれるシビアな話を書こうとしたのだろうか。
 
 故郷では内紛が勃発し、さらには婿入りした家の舅や妻が惨殺されてしまうばかりか、藩の裏側を知ってしまった源二郎を体よく追い出すべく、上司に藩を離れて仇討ちをするよう言い含められてしまうのだ。
 
 源二郎が婿入りの家を離れたのは祝言の日。舅がどんな人なのかもロクに知らず、妻には手さえ触れたことがない。もちろん愛情などない。祝言の日にひどい言葉を浴びせられ、うんざりした記憶があるだけなのだ。義理の父や妻を殺害された身内だから仇討をする資格こそあるものの、犯人への憎しみや恨みではらわたが煮えくり返るほどではない。
 
 現実派の源二郎は、とっとと仇討を終えて藩に復帰するしかないと4人の仇を追いかける。ところが相手はどんどん逃げて長崎から江戸へ、さらには加賀へ行ってしまう。熊本と江戸で計2人を始末したが、加賀までは追えず、路銀も尽きる。だんだん源二郎が気の毒になってきた。
 
苦いラストシーンの向こうに、『小籐次シリーズ』の成功があった!?

 最初の場面で明かされたように、源二郎の仇討ちは成就するわけだが、読者に爽快感はない。好きでもなければ世話になったこともない、ほとんど赤の他人のために35年もの時間を費やすことに、あまりにも意味がないからだ。
 
 源二郎も途中から、自分が何をやっているのかわからなくなってくる。敵のボスが、かつて大会で優勝したとき決勝で当たった相手だったという因縁や、よく知らない人だけど妻であるというつながりを心の支えに、かろうじて心が折れることを防いでいる。
 
 でも、実際はとっくに折れているのだ。昔は持っていた上昇志向もとうに失くし、夢もない源二郎は、仇討という自分だけに許された特別な目標にすがって生きるしかなくなってしまった。
 
 最後のチャンスは、幸せへの小さな灯だった佐希との再会だ。佐希は本気で源二郎を待っていたのだが、事情があって以前の家から引っ越し、いまは小さな料理茶屋を営んでいる。再会を喜んだ佐希は、中年の冴えない男を迎え入れようとする。
 
 良かった。これで源二郎の苦労も報われるだろうと、私はまた考え始める。だってそうじゃないか。最後はボロボロの姿で時代遅れの仇討を果たすことになろうとも、その前に幸福な時期がなかったら落差が生み出せない。ここまで、源二郎の幸福期は、大会で優勝した日と、それがきっかけで上司の護衛を頼まれ上京した旅、佐希と出会ったことのみ。人生にピークがないにもほどがある。
 
 だめだった。佐希との幸せもごく短期間で終わってしまう。これでもう完全に望みはなくなった。まったく、どうしてこんなに悲しい物語を読ませるんだ佐伯泰英よ……。
 
 答えはわからない。とにかくやってみたかったのだと思う。
 
 ナンセンスなまでに救いのないバカな男の1代記で、どこまで読者に迫っていけるか。エンタメ小説としての盛り上がりを極限まで抑えて、なおかつ読ませることができるか。その意味で、本書は野心にあふれた、奇妙な味の時代小説になっている。多くの佐伯作品を読んできた私にも、この作品は異色の実験作として楽しめた。読破タイムは3時間だったので、休むことなくページをめくった計算だ。
 
 ただ、一般受けという点では大成功した作品ではなかっただろう。勝手なことを言わせてもらえば、どこか手ぬるいのだ。現実的で利己的な主人公なら、もっと他人を蹴落とし、必要なら上司をも裏切る非情さを持っていてほしかった。
 
 私は、あえてそこまでしなかったのが佐伯泰英らしいと思う。源二郎はどこか人が良く、純朴で、ワルになりきれない。できることなら人を信じ、情を交わし、明るく生きたいと願っている。それは、作者が源二郎をそういう人でいさせたかったからではないだろうか。
 
 この作品を書いたことで、佐伯泰英は自らの適性をサービス精神と情にあふれたエンタメ作品であると納得し、思い切りそっちへ舵を切っていったのではないかと推測する。ここから、まるで吹っ切れたようにシリーズ作品を発表していくのだ。
 
 江戸長屋に住む源二郎の仕事は包丁研ぎである。そう、数年後にスタートする『酔いどれ小籐次』シリーズの主人公と同じ仕事だ。小籐次も小藩の出身で、脱藩して長屋で暮らす貧乏侍。おりょうという好きな女性もいる。
 
 ふたりの共通点を思い出し、源二郎がほしかった理想の人生を、佐伯泰英は小籐次に与えたのではないかと妄想してしまった。

※ 次回は、8/17(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)