破談屋 深町秋生
1
葛尾静佳巡査部長の瞼が重くなった。
ひどい睡魔に襲われて意識が遠のく。視界が暗くなったところで、運転席の的場公平に肩を揺さぶられた。
「葛尾さん、ダメッす。寝だらダメッす」
「固えごど言うなや。少しだけ眠らせてけろ。五分ぐらいでいいがらよ⋯⋯」
「ダメですって。死んじまうべや」
的場に肩を激しく揺さぶられ、さらに平手で頰を打たれる。
彼は軽く打ったつもりなのだろうが、高校時代はアマチュア相撲に情熱を燃やし、県警では体力を買われて機動隊にもいただけに力が有り余っている。頰の皮膚に高圧電流を流されたような痛みが走った。衝撃で首がねじれ、危うく唇を切りそうになる。
とはいえ、すっきり目は覚めた。的場が携帯ポットに入れたコーヒーをカップに注いだ。静佳たちがいるワンボックスカー内の温度は摂氏三度以下だろう。コーヒーからもうもうと湯気が立つ。
「これでもどうぞ」
「ありがと。もう充分だべ」
静佳はミントガムを嚙んだ。的場は類いまれなフィジカルエリートで、三徹もこなす頼もしい相棒だが、いささか物覚えが悪い。張り込みともなれば、女性警察官の静佳はカフェインや水分を控えざるを得ない。
ふたりがいるのは、山形市の外れにある古めの住宅街だ。住民の多くは高齢者で、近くにコンビニや深夜営業の店舗はない。トイレが設置された公園はあるものの、冬期は水道管の破裂を防ぐために閉鎖されている。人気のない野原はいくらでもあるとはいえ、まさか野ションベンをするわけにはいかない。
「だげんど、珍しいっすね。葛尾さんが寝落ちなんて。疲れが相当溜まってるんでねえがっす」
「んだがもな」
静佳は話を合わせて肩を叩いた。後輩の相棒にあからさまな本音を吐露するわけにはいかない。
眠りかけたのは、やる気がまるで出ないからだった。監視対象者が悪党や犯罪者であるなら、冬の東北の寒さに耐え抜き、集中力を切らさず見張り続けるのだが、今回見張るのはただの一般市民に過ぎない。
「おっと」
的場がコーヒーを一気飲みした。
監視対象者に動きがあった。住処の玄関の灯りがついた。ふたりは赤外線双眼鏡を手に取り、静佳は腕時計に目を落とした。午前一時半を過ぎている。
住処は築五年の平凡なアパートだが、アパートの駐車場はフットサルができるくらいの広さだ。一世帯に二台分の駐車スペースが割り振られている。
玄関から監視対象者の平野仁美が出てきた。スウェットの上下に赤い綿入れ半纏を羽織っている。寒そうに身を縮め、白い息を吐きながら小走りになった。
彼女は大きなゴミ袋を手にし、ゴム長で凍った雪を踏みしめて広い駐車場を横切った。バツの悪そうな表情をしながら、ステンレス製のダストボックスにゴミ袋をそっと置く。今日は燃えるゴミの日の収集日ではあるが、このあたりのゴミ出しの時間は午前六時から午前八時と決まっている。
的場は赤外線双眼鏡で仁美を見つめながら呟いた。
「堂々と放りこんでかまわねえず。そだな申し訳なさそうな顔しねえでいいべ。おれが許す」
「ちょっと。あんた、監視対象者に感情移入しすぎ。そんじゃストーカーだべ」
「だって、あだないい娘、なかなかいねえっすよ。白衣の天使だべし、おれらと同じくらい働かさっでも、職場じゃ毎日ハツラツとしっだべし。あだな人と一緒になれるなんて羨ましいっすよ」
「さあ、どうだべな」
静佳も仁美を見つめた。残業が長引いたせいか、いささかくたびれた顔をしていた。職場では明るく振る舞っているが、家に戻ると憂いを帯びた表情を見せる。
仁美はそそくさと部屋に戻っていった。前髪をヘアピンで留め、化粧を完全に落としたようだった。看護師という職業であるため、顔はいつもナチュラルメイクだ。
仁美は優しげな目と二重瞼が特徴的で、身長が低いために実年齢よりも幼く見えた。年齢は二十六歳だったが、赤い綿入れ半纏を着こんだ姿は、深夜まで勉強に明け暮れた受験生みたいだ。
見た目こそ幼く映るものの、勤務先での評判はよく、同僚と患者から愛されていた。なかなかの苦労人でもあり、父親が会社をリストラされて、一家の家計が苦しくなると、看護専門学校の学費は奨学金とバイトで補った。
看護師となった現在は、月三万円を新庄市の実家に仕送りもしている。彼女の弟も調理師となり、銀山温泉の高級旅館の厨房で働いていた。
一家のなかに前科者はいない。仁美の祖父母や伯父伯母にあたる人物まで調べたが、極道や活動家だった者はいなかった。
彼女の両親も仁美の嫁入りを認めており、むしろエリート街道を走る警察官が婿になるのを歓迎してさえいるという。あとは静佳たちの調査をクリアするのみだった。
2
課長の奥山から調査を命じられたのは、十日前のことだった。
「この女性だ。正木勇一警部補と結婚するのは」
県警本部の会議室で書類を渡された。
書類は正木自身が書いたと思しき申告書と、仁美とその両親に関する文書だ。新庄署の巡回連絡カードや警察庁情報管理システムに登録された個人情報などだった。仁美の三親等にあたる人物の住所や前科前歴が軒並み記されてある。
「あの⋯⋯ひょっとして調べるのは私らだべが」
「そうだが?」
奥山は首を傾げた。おかしなことを聞くやつだと、あからさまに眉をひそめる。
彼は秋の人事異動でやって来た。有能な男として知られ、この監察課に着任する前は、仙台の東北管区警察局に出向していた。
真面目を絵に描いたようなルックスで、メタルフレームのメガネをかけ、頭髪をキッチリと七三に分けている。趣味はジム通いと読書で、酒は一滴も口にしなかった。
敬意を払うに値する上司ではあるが、近寄りがたい雰囲気を常に醸しており、部下の静佳たちとはいささか距離があった。少年時代を首都圏で過ごしたせいか、彼の言葉には訛りがまったくない。
奥山は微笑を浮かべた。
「君の噂は聞いている。なんでも“破談屋”などと呼ばれてからかわれているとか」
「ご存じでしたか」
「無論だ。県警約二千三百五十人の職員に目を光らせる部署に配属されたんだ。自分の部下のことを真っ先に把握するのは当然だろう」
「私に任せだら、あんまよぐねえ結果になっがもしれません」
「だからこそ、任せたいんだ。人事課長も同じ意見だった。君が監察課員になって約一年九ヶ月か。その間に三回連続で結婚に“待った”をかけたのは知っている。尋常ではない数字ではあるが、結婚相手を探す方法も多様化している時代だ。素性の知れぬ人間と出会って、身辺調査によって相手の正体が割れるケースが増えているに過ぎん。まさか君に縁切りの神様が取りついたわけでもあるまい。君の眼力が優れている証拠だ」
奥山の言葉が熱を帯びた。
他の課員にそれとなく押しつけようと足搔いた。しかし、逃げ道はなさそうだった。的場は無表情を装っているが、やりたくないと顔にしっかり書いてある。
県警の警察官を拝命してから約二十年。ただ単純に刑事ドラマに憧れ、悪党を退治するという正義感に燃えて入職した。
交番勤務を経て、所轄の刑事になり、ひたすら詐欺グループやクスリの密売人を追っかけたこともあれば、県警本部の警備一課に配属されて公安の仕事も経験した。
今までの働きが評価されて、警務部監察課というエリート部署に引っ張られたわけだが、そこでの仕事には未だになじめずにいる。
監察課は“警察のなかの警察”と呼ばれる。警察職員服務規程や規律違反が疑われる者に対する調査を行い、警察官や警察行政職員の職務倫理の保持を目的とし、内部に対する取り締まりを行う部署だ。
警察組織は徹底した懐疑主義で運営されている。道を歩く市民のなかにハッパやクスリを持った不届き者はいないか、凶状持ちが管轄内をうろついていないか、善良な顔をしながらヤクザや過激派の片棒を担いでいないかなど、疑いの目を向けている。
市民よりもさらに厳しくチェックするのが身内の人間だ。警察官を志望した時点で身辺調査を受け、家族の経歴も調べられる。そのなかに暴力団員や共産党員、警察がマークしているカルト宗教の信者がいるようなら、警察官になるのはだいぶ難しくなる。
警察官にプライバシーはない。信用組合や銀行の口座は見張られ、カネの流れに不審な点が見つかれば、疑いが晴れるまで振込み先や使い道を洗われる。
結婚にも当然のように口を挟めば、結婚相手とその家族も調査対象となる。やはり前科者や暴力団員、あるいは日本と対立している国や組織と関わりがあるようなら難色を示す。それでも結婚を強行しようとすれば、閑職に就けるといった報復人事が待っており、出世の芽は摘まれることになる。
警察官は総じて結婚が早い。組織をあげて早婚を奨励しているほどだ。早めに身を固めて一族の長であることを自覚させ、仕事に専念させる目的がある。しかし、その職制上、相手が誰でもいいというわけにもいかない。
静佳は申告書を読んだ。正木が手書きで作成したもので、きれいな文字だった。書き間違いや誤字脱字はない。捜査報告書や供述調書といった重要書類でもないのに、生真面目に向き合って書いているのが文面から読み取れた。交際相手の仁美から聞き出したのか、彼女の家族の経歴が詳しく記されてあった。書類仕事ではポカをやる的場が感嘆の声をあげる。
「さすがだなや。県警のスーパーエリートといわれるだけある」
正木勇一は現在三十一歳。県内トップの山形日出高校から、地元の国立大法学部へと進み、県警に入職。警察学校を首席で卒業した。
彼は一線級の警察署の交番に卒配され、激務をこなしながらあっさりと巡査部長の試験を突破した。二十七歳のときに警部補の昇任試験にも合格している。
こうした最速昇進者を“一発・一発組”というが、正木はまさにそれだった。ノンキャリアのなかのエリートコースを邁進し、所轄署の警備課係長といった役職を経て、現在は県警本部の警備第二課で災害対応の職務に就いている。いずれは県警の中枢を担う男として期待されていた。
「めんこい娘さんだべ」
静佳は呟いた。
正木は申告書に結婚相手である仁美の写真も添付していた。彼女はチェーン系カフェで、生クリームがどっさり載ったカフェラテを飲んでいる。息を吞む美女というわけではない。しかし、一緒にいて安らぎを与えてくれそうな女性だった。目には独特の温かみがある。警察官という因果な仕事のせいで、すっかり目つきが悪くなった静佳とは対照的だ。
奥山が首を横に振った。
「油断は禁物だ。もっとも、それをよく知るのは君だろうが」
「ええ、まあ」
静佳は相槌を打った。
警察官を長くやっていると人間不信に陥りそうになる。世間では謹厳実直で理性的と評価されている人物も、家では女房子どもをサンドバッグにしていた事例を山ほど見てきた。
清純そうな女性が十数人の男性相手にパパ活をし、それでも飽き足らず、何人もの友人や知人をそそのかして身体を売らせ、管理売春に励んでいたという事件もあった。
警察官も例外ではないのを、監察課に来て思い知らされた。陰湿なイジメや泥沼の不倫、ヤクザ顔負けの嫌がらせやつきまといなど枚挙に暇がない。
周りから好青年と見られていた交番勤務員が、SNSや匿名サイトで同僚や上司の悪口を毎夜書き殴っていたり、地味な女性警察官が何人もの同僚男性を手玉に取っていたりと、想定を超えた不祥事がちょくちょく起きる。
結婚相手の身辺調査も気は抜けない。静佳が初めて破談へ追いやったときも、調査対象者は仁美と雰囲気が似て純朴そうだった。
結婚を申し出たのは天童署地域課の二十九歳の男性巡査だ。三十前に家庭を持とうと婚活に励み、県の結婚支援サービスを利用して、同年齢の山形市在住の女性と知り合った。女性は同市内でフラワーショップの店員をしていた。
女性の戸籍謄本を調べると、父の欄に名前がなかった。男性巡査によれば、女性には物心ついたころから父はいなかったという。いわゆる隠し子で、母親は地元企業の会長の妾だったらしい。妾と隠し子がいることを本妻に知られた会長は、手切れ金としてフラワーショップを開けるほどの資金を提供。それからは母娘二人三脚で、店を切り盛りしてきたのだという。
会長とその本妻はとうの昔に亡くなっており、父親が本当に地元の財界人であったかどうかは不明だが、母娘に前科前歴はなく、警察組織が神経を尖らせる宗教団体に入信した経歴もなければ、政治活動もしていない。商売繁盛を願って懸命に働いてきた苦労人だと、男性巡査の上司も太鼓判を押した。
その上司が早々に媒酌人を引き受け、結納や顔合わせを済ませたところで、県警がその結婚に“待った”をかけた。静佳が看過できない問題点を見つけたからだ。
結婚相手の女性とその母親は噓をついていた。父親は地元企業の会長ではなく、仙台を本拠地にしているヤクザの親分だったのだ。
一番の問題は母親が経営するフラワーショップだった。山形市の繁華街の近くにあり、主な取引先はバーやキャバクラ、ナイトクラブといった夜の店だった。
そうした店に切り花や鉢物、観葉植物を納めていたのだが、市場価格よりも格段に高い値で取引されていた。フラワーショップはヤクザの企業舎弟であり、みかじめ料を上乗せして店側に買わせていたのだ。懇意にしていた情報提供者から、その事実を聞かされたときは、調査していた静佳まで深いため息をついたものだ。
情報提供者は山形市内でナイトクラブを営む八十三歳の大ママで、山形署のマル暴担当の刑事からも話を聞いてウラを取り、その情報を報告書にまとめて上司に提出した。
男性巡査は激しく混乱し、結婚相手に会って直接質問した。彼女は当初こそシラを切っていたものの、結婚が許されないとわかると、しぶしぶ事実を認めた。
暴力団員の父親とは一度も会ってはいないと主張する一方、母親が今でもみかじめ料を上乗せした特別価格で商品を売っていたのを認めた。
結婚相手は悪いと知りつつ、長年の慣習だからと深く考えずに商品を夜の店に納めていたが、男性巡査と一緒になりたかったため、なんとか身辺調査を潜り抜けるために噓をついてしまったと、泣きながら打ち明けた。
当の男性巡査は愛した女に騙されていたと知り、それがショックで自信を喪失。しばらく休職した。媒酌人を安請け合いした上司も、面目を潰され、しばらくは荒れた生活を送ったという。
静佳の仕事ぶりは高く評価された。警察官がヤクザの共生者の家族になるところだったのだ。身辺調査を巧みにかわして、結婚にまで到っていたら、もっと危うい事態になっていたかもしれない。
そう思う一方、愛し合うふたりの仲を引き裂き、不幸な結果をもたらしたという苦々しさを拭えずにいた。
次に破談に追いやったのは昨年の冬だった。寒河江署地域課の若い男性巡査で、高校時代から交際していた同級生の女性と所帯を持ちたいという。
女性は寒河江市内のサラリーマン家庭出身で、本人も同市内の電子部品工場に勤務していた。祖父母や親戚にも後ろ暗い経歴は見つからず、今度はなんの問題もないと思われた。だが、静佳はまたも違和感を感じてしまった。今度は結婚相手の女性や家族ではなく、男性巡査のほうだった。
ふたりを知る高校時代の同級生に聞き込みをしているさい、静佳は妙な話を耳にした。この同級生が男性巡査と居酒屋で飲んだときのことだ。自宅でペットでも飼ってるのか、男性巡査から猫の小便みたいな臭いがしたという。
男性巡査が暮らすのは待機宿舎という名の単身寮だ。事件や災害で何日も家を空ける事態が待っているだけに、生き物を飼うことなど許されているはずもない。
上司の許可を取って、男性巡査のほうまで洗うと、大麻の使用が明らかになり、結婚どころの話ではなくなった。男性巡査の友人関係に、ラッパーとして音楽活動をしている工員の男がおり、その男からたびたび乾燥大麻を購入していたのが判明した。
大麻の臭いをどう捉えるかは人それぞれだ。レモンやマンゴーみたいないい香り、もしくはほうじ茶のような香ばしい匂いと、肯定的に表す者もいれば、草むらに猫が尿をしたときのような悪臭だと顔をしかめる者もいる。
なんにしろ、男性巡査の異臭をきっかけに、県警本部の組織犯罪対策課との合同捜査に発展。結婚というめでたい話から一転して、県警の面目丸つぶれの不祥事となった。男性巡査は逮捕されて懲戒免職。寒河江署の上司たちもそれぞれ懲戒処分を喰らった。組対課員の取り調べに対し、男性巡査は結婚を機に大麻はやめる気でいたと自白した。
その後、男性巡査と結婚相手がどうなったかは不明だ。ただ、静佳に情報をもたらしてくれた同級生まで苦い思いをする羽目になった。高校時代の友人グループから、ペラペラ話すチクリ屋と罵倒され、縁を切られてしまったという。
悪いのは男性巡査だったが、同級生の境遇を知ったときは、胸がチクリと痛んだものだ。静佳が聞き流して、違和感など放っておけば、案外丸く収まっていたのではないかと思う日もある。
三度目の身辺調査は、酒田署の女性巡査だった。結婚相手は水産会社の社員で、家族にも前科前歴はなかったが、仮想通貨の投資に失敗して、三百万円の借金を抱えていたことがわかった。結婚資金を捻出するため、副業として怪しげなネットワークビジネスに手を染めてもいた。
その事実を上に報告すると結婚話は消失し、やがて静佳は警務部界隈で“破談屋”などという迷惑な仇名で呼ばれるようになった。
どの事例も組織防衛のためであり、ひいては治安の乱れを未然に防いだともいえるが、悪党に手錠をかけていたころのような充実感や解放感はなく、任務を完遂してもやるせなさがついて回った。一日も早く、監察課からおさらばしたいというのが本音だった。
静佳は奥山に訊いた。
「正木警部補ほどの逸材ともなっど、周りが放っておがねえもんだべした」
「もちろん、過去にも見合い話は山ほど来ていた。彼がヒラ巡査のころからな。今の警備第二課でも同じだ。同課の乾課長から二度見合い話を持ちかけられている。他にもあちこちから誘われていたようだ。合コンやカップリングパーティなどな」
「そ、そんなに⋯⋯」
的場が情けない声でうめいた。静佳は彼に尋ねた。
「そういえば、あんたが合コンしたって話はさっぱり聞かねえな」
「当たり前っすよ。監察課にいたら誘われるはずねえべした。同期の連中にすら距離取られぢまって」
奥山が的場に微笑みかけた。
「それなら私が紹介しよう。妻がその手の活動に熱心でな。いわゆるお見合いおばさんってやつだ」
「え、ああ、いや⋯⋯それは」
「嫌なものだろう、上司にプライベートまで踏みこまれるのは。それが今の時代というものだ。警部補も同じだよ。持ちこまれた見合い話の半分以上は事前に断り、見合い後も紹介者や相手に直接会って、すぐに断りの意志を伝えている。自力で相手を見つけたかったのだろう」
静佳は正木と面識はない。優れた事務処理能力を有しているうえ、なかなかの人格者でもあるらしく、エリート特有の傲慢さや特権意識はなく、物腰柔らかな人物だという。
「そんでマッチングアプリってわげが」
静佳は書類を睨みながら呟いた。
マッチングアプリはオンラインで出会いの場を提供するサービスだ。売春の温床といわれるスジの悪いものから、健全と評判高いものまで様々だ。現在では見合いや結婚相談所よりも手軽で、警察官も当たり前のように使っている。
正木が利用したのは、会員数がもっとも多いポピュラーなものだった。いかがわしさを払拭するため、登録者の身分証明に力を入れ、ワンナイト目当ての不届き者には注意を与えるか、強制退会といった処置まで取るという。
奥山は最後に告げた。
「なにしろ今回は相手が相手だ。ヒラ巡査とはワケが違う。あちこちから『念入りにひとつ頼む』とハッパをかけられているが、いつもの通りにやってくれればいい」
写真の仁美はかわいらしかった。ウラも後ろ暗さもなにもなく、今度こそまっとうに思えた。
しかし、それをいうならヤクザの共生者だった母娘も、大麻を使用した男性巡査も、調査をする前は全員がまっとうに見えたものだった。
3
ミントガムを嚙み続けて顎が痛くなった。静佳は包み紙にガムを吐き出した。
「葛尾さん、エンジンいいべがっす」
的場がエンジンスイッチを押そうとする。
厳冬期の山形市の夜にしては珍しく晴れていた。それでも空気中の水蒸気が凍てつき、フロントガラスは霜で覆われ、外がなにも見えなくなる。定期的にエンジンをかけ、デフロスターで霜を取る必要があった。
「いや⋯⋯ちょっと待で」
深い闇に包まれた住宅街に一台の車がやって来た。ヘッドライトが静佳らを照らす。
ふたりは頭をひっこめて身を潜めた。腕時計に目を落とす。時間は深夜二時を過ぎていた。
車は古い型のレンジローバーだった。高級外車のSUVは凍てついた雪道をなんなく踏み越え、ふたりがいるワンボックスカーの横を通り過ぎる。
「うっ」
ふたりはとっさに息を吞んだ。レンジローバーが仁美のアパートの敷地に入ったからだ。
すでにアパートの住民全員の顔や所有車は把握している。英国の高級車に乗っている者などいない。レンジローバーは駐車場に入ると、迷うことなく仁美の駐車スペースに停まった。彼女の軽自動車の前に停車する。
レンジローバーから細身の男が降り立った。黒のダウンジャケットに黒の細いパンツ、頭には黒いベースボールキャップをかぶっている。
黒ずくめの恰好とはいえ、盗人の類ではなさそうだった。ベースボールキャップにはスパンコールのロゴが入っており、銀色の輝きを放っていた。ダウンジャケットも光沢感があり、酒場がひしめく仙台の国分町や新宿歌舞伎町あたりのオラついた住人みたいに映る。金色に染めた頭髪が、さらに派手さを誇示していた。しょっちゅう職務質問されるタイプに見える。
静佳は赤外線双眼鏡で男を改めて見た。仁美には弟がいる。だが、顔も身長もまったく違う。見覚えのない人物だった。
「お、おいおいおい。ダメだ、ダメだぞ」
的場が祈るように呟いた。
男は黒のブーツで雪を踏みしめ、まっすぐに仁美の部屋へと向かった。インターフォンを何度も鳴らす。
しばらくして玄関の灯りがつき、仁美がドアをわずかに開けた。警戒しているのか、ドアガードをかけたままのようだ。男は隙間から仁美に熱心に声をかけていた。身振り手振りを交えて、彼女になにかを訴えている。仁美の様子はわからない。
仁美たちはしばらくドアを挟んで立ち話をしていたが、やがて彼女がドアガードを外した。迷惑そうに眉をひそめながらも、ドアを開けて手招きした。男は寒さに身を縮めながら、軽い足取りで部屋へと入った。
玄関の灯りが消える。
「あちゃー、なんだず。まるで寝取られ系のエロゲーでねえが」
的場が額を掌で叩いた。歯ぎしりをして仁美の部屋を睨みつける。
「かわいい顔しときながらナメた真似しやがって。あれじゃ正木警部補が憐れだべした。こだな時間に男引っ張りこむなんてよ。ロクなもんでねえ」
静佳は的場を肘で突いた。
「早合点すんでねえ。さっきまで白衣の天使だなんだってチヤホヤしっだくせして。ちょっどは落ち着けや」
「いや、だって――」
「あたり見張ってろ。仕事すっぞ」
静佳は助手席のドアを開けた。ピンと張りつめた冷気が頰をなでる。
ワンボックスカーを降りた。官用の携帯端末を手にしながら、仁美のアパートへと静かに近寄った。心臓の鼓動がなぜか速まる。
的場に注意をしたものの、頭を抱えたくなったのは静佳も同じだ。かなりクロといえる状況ではあった。いよいよ破談屋の名前は深く浸透し、このままでは縁切りの疫病神と見なされかねない。うちの県警の人間は、結婚相手の正体を見極められないバカばかりなのかと毒づきたくなる。
携帯端末のレンズをレンジローバーに向けた。ナンバープレートと車体をすばやく撮り、ワンボックスカーへと戻った。電話で照会センターに問い合わせる。
レンジローバーの所有者は菱沼龍輝といった。登録された住所は山形市内で、山形駅から近いエリアだった。
とはいえ、金髪の男が菱沼かどうかはまだ不明だった。車を乗り回している人間が所有者とは限らない。的場がうなった。
「えーと、菱沼って⋯⋯」
「知ってだのが?」
「参ったな。頭んなかで”A号ヒット”しました」
的場の顔が険しくなった。
”A号ヒット”は、照会センターとのやり取りで使われる通話コードで、犯罪歴があるという意味だ。図抜けた体力の持ち主である的場は、もっとも多忙といわれる山形署の駅前交番に卒配された過去がある。
「相当なワルっすよ。ガキのころから盗みとケンカやりまくって、鑑別所送りにもなっだ札付きだべ」
4
目的地の病院は想像以上の大きさだった。
野球場ほどの広大な駐車場がいくつもあり、建物は巨大工場を思わせる。誘導棒を持った警備員が何人も立って、引っ切りなしに車が出入りしている。
仙台市泉区の街並みはいかにもニュータウンといった風情で、近くに大きなアウトレットモールもあり、仙台駅前よりも活気がありそうだった。
病院内はアウトレットモールよりも賑わっていた。正面玄関からなかを覗くと、待合スペースの長椅子はすべて埋まっている。座りきれずに立っている者もいるほどだ。
静佳は取引業者用の出入口へと回った。
受付をしている警備員に警察手帳を見せて来意を告げた。眼科で看護師をしている谷内沙織に会わせてほしいと。アポイントメントは取っていない。警察官のいきなりの訪問に、警備員は目を白黒させた。しばし時間がかかったものの、沙織に会うことが許され、病院内にあるレストランに行くよう告げられた。
レストランはガラス張りで明るい雰囲気だった。厚い雪雲で覆われる山形とは違い、太平洋側の仙台は青空が広がっている。
午後二時を過ぎており、レストランは待合スペースとは対照的に、だいぶ空いていた。窓側の四人掛けの席を独り占めし、コーヒーを飲みながら沙織を静かに待った。
三十分ほどしてから、若い女性がレストランにやって来た。スクラブスーツのうえにカーディガンを羽織っている。女性はレストランのスタッフに声をかけながら、静佳の席へとやって来た。
静佳は椅子から立ち上がって女性に頭を下げた。なるべく訛りが出ないよう気をつけながら挨拶をする。地元の方言は温かみがあるけれど、場合によっては田舎者と侮られる場合があった。
「谷内さんでいらっしゃいますか。お忙しいところ、いきなり押しかけて申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。でも、びっくりしました。私なんかのところにまで来るもんなんですね」
「え?」
沙織はニコニコと笑った。
「仁美のことですよね。警察官と結婚するって話は聞いてましたから。きっと根掘り葉掘り調べられるんだろうなって思ってました。警察の人と前に合コンしたときに教えてもらったんですよ。いざ結婚となったときは、本人だけじゃなくて家族まで調べられるとか」
「なるほど、それで」
沙織は気さくな女性だった。
警察官にいきなり職場に来られたら、ほとんどの人間は身構えるものだが、警察の事情にも明るく、開けっぴろげに話してくれた。
静佳が約束もなしに訪れたのは、調査対象者である仁美と沙織の関係を考慮に入れてのことだ。仁美の看護学校時代のクラスメイトで、前もって連絡などしてしまえば、彼女と示し合わせる可能性があった。
沙織は紅茶とシフォンケーキを頼んでいた。昼飯を食べそびれたらしく、運ばれてきたシフォンケーキを瞬く間に平らげた。
「それでも、まさか私のところにまで聞きに来るなんて。けっこう昔のことまで尋ねて回るものなんですね」
「ええ、まあ。大きな声では言えませんが、県警ではわりと念入りにやっているかもしれませんね」
静佳はとっさに噓をついた。たかだか結婚の身辺調査ごときで、調査対象者の過去をここまでほじくり返すなど異例だ。
「友達の悪口を吹きこむわけにはいかないけど、ヘタに噓ついちゃったら余計にややこしいことになりそうだから、覚えてる範囲で答えますよ」
「ありがとうございます。それではお忙しいでしょうし、単刀直入に質問します」
静佳はメモ帳とペンを取り出した。コーヒーをひと口すすってから切り出す。
「あなたと静佳さんは、看護学校時代に国分町でコンカフェのアルバイトをしていた時期がありますね?」
沙織は背をのけぞらせて天を仰いだ。
「ああ、やっぱり。夜の店でバイトしてたっていうのは、警察官の奥さんとしてアウトなんですか?」
「そんなことはありません。静佳さん自身も過去に働いていたことは、交際相手の警察官に伝えています」
コンカフェとは、コンセプトカフェの略称だ。キャストがコスプレをするなど、いわゆる萌え系コンテンツが盛りこまれた飲食店などを指す。カフェとはいうものの大抵は酒を提供しており、夜遅くまで営業しているところもある。
代表的なのは一時期流行したメイドカフェだが、現在は多様化しており、東京あたりには忍者や魔女といった姿で接客する店もあるという。
仁美たちがバイトをしていたのは、メイドやアイドル風の衣装を着て、客とカラオケやダーツで盛り上がったり、お喋りをして愉しむ業態で、ガールズバーのコスプレ版といった店だったようだ。時給以外にもドリンクバックや、有料で客と写真撮影をするチェキバックもあったらしい。
沙織は紅茶に目を落とした。初めて寂しげな顔を見せた。
「私なんですよね。あの店で一緒にバイトしようって誘ったのは。それまではコンビニとかドラッグストアだったんですけど、本格的な実習も始まって、働ける時間はだいぶ限られてくるし、私も仁美も実家を頼れない貧乏学生だったんで。だからって、あんな怪しげな店で働くんじゃなかった」
「トラブルがあったわけですね」
静佳は正面から彼女を見つめた。さも知っているかのように振る舞う。
沙織が目を見開いた。
「やっぱり、もう知ってましたか」
「ある程度は」
静佳の手札はまだブタだ。本当は大して知りもしない。
わかっているのは、菱沼というワルが仁美の部屋を深夜に訪れたことと、その菱沼がごく最近まで国分町界隈でスカウトや夜の店で働いていたことぐらいだ。奥州義誠会という地元暴力団の息がかかったスカウトグループにも所属していたらしい。菱沼の前科前歴をしっかり洗ったところ、仙台署に何度も厄介になっているとわかった。
最近はボッタクリ居酒屋の客引きなどもしていたようだが、大して業績を上げられず、上からの圧力に耐えかねて逃げ出したという。仁美らが看護学生だった時期には、職業安定法違反や宮城県迷惑防止条例違反で逮捕されている。道行く女性にソープランドやデリヘルで働くのを勧め、それらの風俗店から紹介料を得ていた。仁美と菱沼の接点は、この看護学校時代にあるのではと、静佳は目をつけたのだった。
「よほど腹に据えかねることがあったようですね」
静佳が水を向けると、沙織は首を横に振った。
「じつを言えば⋯⋯私はそれほどでもないです。酒癖の悪い客にビンタしちゃって。一ヶ月でクビになりました」
「仁美さんは店に残って働き続けたんですか」
「ええ。私と違って辛抱強いし、太いお客さんがけっこうついてたから、いろいろ辛いことがあっても我慢していたみたいです。半年くらいはいたのかな」
仁美と沙織が働いていたのは国分町の『まじかるチャーチ』という店だ。沙織は早々に店を去ったが、仁美はここでも手を抜かずに働いたという。太客をめぐって先輩から嫌がらせを受けたり、客からセクハラをされたりもしたが、それにじっと耐え、SNSで店の宣伝やアピールもマメにやっていたらしい。社会常識に欠ける男性客にも一流アイドル顔負けの接客で、学生にしてはまあまあの収入を得ていたようだ。
「しかし、半年となると、あまり長くは続かなかったようですね」
「肝心な給料が急に支払われなくなっちゃったんで。十五万円くらいだったかな。店のほうが待ってくれとか言い出して」
「大金ですね。とくに生活が苦しい学生にとっては。とても待っていられる状況ではなかったでしょう」
「ふざけんなって話ですよ。仁美だって学校にいろいろ支払いを待ってもらっていたし、暮らしはいつもギリギリでした。あんな店を紹介したのは私だから、仁美と一緒に運営会社の事務所に押しかけたんです」
『まじかるチャーチ』の運営会社は、国分町に事務所があり、飲食店経営だけでなく、イベント企画や芸能プロダクションをしていたらしい。
仁美たちがなけなしの勇気を振り絞って訪れると、やたら腰の低い男性社員が応対し、拍子抜けしそうになったという。男性社員は給料の遅配を詫びる一方、別の儲け話を持ちかけてきた。給料は間違いなく払うが、撮影会モデルとして契約すれば、前払いとして十万円をすぐに用意する云々と。
沙織が吐き捨てるように言った。
「もうホントありえないですよ。当時は若くてバカだったから、十万円と聞いて飛びつきそうになっちゃって」
「なんともいかがわしい話ですね。その十万円は支払われて当然のお金だったわけですから」
「危うく丸めこまれるところでした。給料をまともに払わないやつらと仕事なんかできるはずないのに。今だったらわかります。あいつら貧乏学生の足元を見て、最初から罠に嵌めるつもりで、給料支払わなかったんだろうなって。撮影会モデルなんてどこまで本当だったんだか。たぶん風俗とかAVとかの世界に追いやるつもりだったんじゃないかと思います」
沙織によれば、撮影会モデルの話を蹴った途端、男性社員は態度を豹変させ、テーブルに足を乗せてふて腐れ、タバコをスパスパやり出したという。遅れていた給料は約一ヶ月後に振りこまれはしたが、ちゃんと支払われなければ、仁美は危うく学校を退学になるところだったと、彼女は当時を振り返った。
静佳はバッグから写真を取り出した。写っているのは菱沼龍輝だ。山形駅前の繁華街をぶらついているところを、静佳が望遠カメラで捉えたものだ。
あの夜に見かけて以来、監察課は人員を増やし、菱沼の動向もマークしていた。今ごろ的場は別の課員と組み、彼の動きをチェックしているはずだ。
静佳は写真をテーブルに並べた。沙織が即座に声をあげる。
「あ、こいつ!」
「ご存じですか」
「こいつですよ。例の社員。撮影会モデルの話を持ちかけた」
「間違いありませんね」
沙織はうなずいた。
彼女の話が事実であるなら、仁美と菱沼の接点はこのバイトのトラブルで生まれたようだった。
運営会社は奥州義誠会の企業舎弟だろう。困窮した若い娘を風俗に引っ張りこむため、あくどい絵図を描いていたのかもしれない。
仁美たちがギリギリのところで魔の手から逃れられたのは、菱沼がその年の初めに職業安定法違反で執行猶予付きの実刑判決を喰らっているのと関係があるのかもしれない。弁当持ちの身分でなければ、事務所を訪れた彼女たちをヤクザ者で囲むか、給料を踏み倒すといった嫌がらせをしていた可能性がある。
沙織が写真を指さした。
「もしかして、こいつが今になって仁美の周りをウロチョロしているんですか?」
「そこを調査しているところでして」
静佳は言葉を濁した。菱沼はウロチョロどころか、彼女の自宅にまで入りこんでいる。
「刑事さん、仁美は私なんかよりも真面目でバカ正直な娘です。ヤクザみたいな連中が現れたとしたら、あのころみたいに厄介なトラブルに巻きこまれただけなんだと思います。よく調べてやってください」
「もちろんです」
静佳は力強くうなずいた。
監察課員は刑事ではないが、徹底して調べ上げるつもりなのは本当だ。沙織の思うような結果になるかどうかは不明のままだが。
沙織への聞き込みを終えると、静佳はレストランを後にした。車に乗りこみ、的場に電話をかけた。ワンコールもしないうちに彼が電話に出る。
「どう?」
〈昨夜に続いて優雅な暮らし送ってやがります。やっこさん、午後に起きたら、そのまま北山形でパチスロっす〉
「そりゃ羨ましいなや」
静佳は昨夜の菱沼を思い出した。
菱沼はやけに羽振りがよさそうだった。山形駅前の繁華街でキャバクラ嬢と同伴。値の張る寿司店で食事すると、キャバクラ店に入って、同店が閉まるまで飲んだくれていた。零時を過ぎたころに店を出ると、まだ飲み足りなかったらしく、顔見知りと思しき客引きとともに、深夜営業の居酒屋に繰り出している。
〈パチスロのほうも豪快で、交替で打ちっぷりを見ったげんど、万札をどんどんサンドに突っこんでます〉
「ずいぶん景気がいいでねえが。仙台署の話じゃ、稼ぎの悪いチンケなスカウトだったらしいげんど」
〈平野仁美のヒモにでもなって、小遣いせびってんでねえべが〉
的場は暗い声で言った。菱沼が彼女の部屋に入るのを目撃してから、すっかり彼はアンチ仁美派だ。
「憶測で語んなっての。私もすぐ戻っがら」
的場に釘を刺した。とはいえ、静佳も同じ考えを持ってはいた。
――あのころみたいに厄介なトラブルに巻きこまれただけなんだと思います。
沙織の言葉が蘇る。
眠気や倦怠感はもうなかった。闘志を燃やしながら山形への帰路についた。
5
菱沼は、とあるホステスにご執心だった。
パチスロをやり終えて家に戻ると、ロングコートにダークスーツをピシッと着て、昨夜に続いて駅前の繁華街に繰り出した。有名ブランドのネックレスやブレスレットをつけ、本物かどうかは怪しいが、オーデマ・ピゲの腕時計までしていた。精一杯に己を飾り立てながら、キャバクラ店『クラブ・アンタレス』へと入っていった。
静佳は仙台から戻ると、的場と合流して菱沼を監視した。今は繁華街のなかのコインパーキングに車を停め、車内から『クラブ・アンタレス』を見張っていた。
「今夜もカレンちゃん目当てだべな」
的場がタブレット端末の液晶画面を見せてくれた。
同キャバクラ店の公式サイトで、キャストの出勤情報がアップされていた。菱沼がしきりに狙っているのは、カレンという源氏名の女性だ。昨夜は菱沼と一緒に寿司を食べてから出勤しており、今夜も店に出ているようだった。
彼女は宣伝用としていくつかのSNSを活用しており、評判のカフェレストランやスイーツ店で食事をする姿を熱心にアップし、セクシーなナイトドレスや水着姿を惜しげもなく披露していた。フォロワー数もかなり多く、じっさいに同店の人気嬢だった。スレンダーでモデルのような長身の美人で、都会的な雰囲気を持ち合わせてもいる。小柄な仁美とは対照的なタイプに見えた。
的場が呟いた。
「仁美に近づいたと思ったら、今度はカレンちゃんが。女のケツを追っかけんのに、よっぽど情熱燃やしてるみでえだなや。カネだって相当かかっぺず」
「しかも、かなりの見栄っ張りだ。今ごろ高いボトル入れっだがもな。かりに仁美からカネを巻き上げてだとしても、若手看護師の給料なんてタカが知れてるべ」
「別に金づるがいるんだべが」
「んだべな。しかし、危なっかしくて見てらんねえべ。いくら地元だがらっつっても、ここだって奥州義誠会の息がかかった連中はいるべ。羽振りのよさを不思議に思うやつは私らだけでねえはずだ」
菱沼は仙台から故郷に戻って実家暮らしを送っている。
実家は山形駅西口近くのボロアパートで、唯一の家族である父親は新聞配達員として糊口を凌いでいた。とても脛を齧れるような経済状況ではない。母親は菱沼が小さい頃に離婚し、大阪で寿司職人と再婚している。菱沼のカネの流れを突き止めることが、今回の謎を解き明かすための鍵に思えてならない。
静佳はミントの粒ガムをふたつ口に放った。糖衣を奥歯でガリガリと嚙みしめ、『クラブ・アンタレス』の正面玄関を睨んだ。
的場に冷やかされた。
「数日前と打って変わって、えらく気合入ってだなっす」
「おかげさんで」
任務はただの身辺調査だ。殺人事件のように、時効なしでいつまでも調べていられるわけではない。念入りに調べろといわれていても限度はある。人事課がシビレを切らして、報告書をまとめて調査を打ち切れと言い出すかもしれない。
このままでは中途半端な調査で終わってしまう。前科前歴まみれのワルが、仁美のアパートを深夜に訪れていたとなれば、幹部たちは結婚に難色を示すだろう。真相がどうであろうと関係はない。正木に仁美とは違う相手を見つけるよう命じるのが、もっとも手間の省ける安全策なのだ。そんな安易な手段でふたりの仲を裂きたくはない。
時間は零時を過ぎた。気温が一気に下がり、急に雪が大量に降ってきた。田舎町の繁華街の夜は早く、ほとんどの店がネオンを消して店じまいを始めた。
繁華街から熱気が失せ、静寂のときがやってきた。客引きたちは雪に負けじと、長いこと路上に留まって獲物を狙っていた。しかし、吞兵衛の姿すらなく、彼らも商売を諦めて引き揚げた。
『クラブ・アンタレス』も同様だった。ファザード看板の派手なネオンが消え、男性店員がスタンド看板を店内に運び入れ、閉店準備を進めていた。
「ようやぐお出ましか」
菱沼が千鳥足で店から出てきた。昨夜に続いて、だいぶ長時間、同店で遊んでいたことになる。
静佳は赤外線双眼鏡を覗いた。けっこうなカネを同店に落としたようで、カレンを始めとして多くのホステス嬢がズラッと並んで菱沼を見送った。菱沼は名残惜しいようで、肌を露出させたホステスが雪にまみれているというのに、カレンにいつまでも話しかけていた。
ホステス嬢のひとりがわざとらしく盛大なクシャミをした。それを機に、菱沼はようやく店を去った。
「あんたは待機してで」
静佳はワンボックスカーから降りた。右耳にイヤホンマイクをつけ、的場と連絡を取り合いながら菱沼の後をつけた。
天気予報が今月一番の冷え込みと報じていたが、どうやら見事に的中したようだった。客引きや酔っ払いがいなくなるのも当然の寒さだ。サラサラの雪が風で白く舞い上がり、路面はコチコチに凍りついている。スノースパイク付きのトレッキングシューズでなければ転倒していたかもしれない。
先を行く菱沼も足を滑らせていた。雪国の男らしく、転倒にまでは到らなかったものの、ロングコートに粉雪がたっぷりついた。まだ飲み足りないのか、誰もいない十字路で足を止めた。キョロキョロとあたりを見回し、顔見知りの客引きを探しているようだ。
静佳はビルの物陰に隠れて事態を見守った。菱沼は決して酒癖がいいわけではないようで、山形でも仙台でも悪酔いした挙句に、くだらぬケンカをして警察署にしょっ引かれた過去がある。
いっそ誰かに因縁でもつけて暴れてくれれば、その場で彼を現行犯で逮捕し、ゆっくり取調室で語り合えるだろう。それに備えて手錠も携帯していたが、誰かに絡もうにも、その相手すら見つけられずにいた。菱沼はつまらなそうに唾を吐き、大通りのほうへ出ようとする。
そのときだった。十字路に向かって一台の商用ヴァンがゆっくりと進んだ。仙台ナンバーの車で、菱沼の横で停止する。
ヴァンの運転席とスライド式のドアが勢いよく開いた。三人の男たちが次々に降りてくる。
三人はそれぞれガタイがよく、ツーブロックの坊主頭やコーンロウといった髪型をし、迷彩柄の作業着やスポーツブランドのジャージを着用している。いかにもそのスジの人間に見える。
「ひっ」
菱沼は短い悲鳴を上げた。男たちから逃げようとするも、凍った路面に足を取られて転倒する。
男たちもスケートリンクと化した道路に手を焼いた。足元に注意しながら菱沼に近寄る。坊主頭が菱沼の金髪を鷲摑みにし、コーンロウと迷彩柄の男が、それぞれ菱沼の両腕を抱えた。
静佳はイヤホンマイクを通じて的場に呼びかけた。
「あんたの出番だべ。『札幌なまらラーメン』の前」
〈マジっすか!〉
男たちは手こずっていた。
菱沼が必死に身体をねじり、足をバタつかせていた。コーンロウと迷彩服の男がバランスを崩して倒れこんだ。端から見ていると、酔っ払いがおしくらまんじゅうでもやりだしたように映る。
「ま、待って!」
菱沼が叫んだ。坊主頭が苛立たしげに鉄拳を見舞う。顔面を殴打され、菱沼は抗う力を失う。
静佳はヴァンに駆け寄った。男たちが菱沼の捕獲に夢中になっている隙をつき、ドアが開けっぱなしの運転席に近寄った。古いタイプの車で、イグニッションスイッチにキーが挿さっていた。それを抜き取る。
ヴァンのエンジンが停止し、ヘッドライトが消えた。男たちが一斉に静佳を睨みつける。
「おい、なにしやがる!」
「お前らこそ、なにしっだ。おとなしくしろ! 傷害の現行犯で全員逮捕だべ」
「てめえ、ふざけんな!」
迷彩服の男が力任せのパンチを放ってきた。身長は百八十センチ以上はありそうで、静佳よりも二回り以上は大きい。
天候と気温が静佳に味方してくれた。ツルツルの路面では、下半身に力が入らない。パンチのスピードはのろかった。
静佳は左腕でパンチを弾くと、カウンターで迷彩服の腹に当身を入れ、すかさず彼の右腕を摑んで一本背負いを放った。迷彩服はコチコチの路面に腰を派手に打ちつける。
「山形県警だ。抵抗すんでねえ」
「うるせえ、メスポリ! 邪魔するんじゃねえ」
坊主頭が歯を剝いて向かってきた。年齢は三十ぐらいで、三人のなかではもっとも体格がいい。リーダー格と思われた。
「あんたら、奥州義誠会だべ」
坊主頭の顔が強ばった。どうやら図星のようだった。坊主頭が足を踏ん張らせて静佳に突っこんでくる。
坊主頭の身体が弾かれた。車にでも衝突したように、後ろへと吹き飛ぶ。的場が間に合ってくれたのだ。
的場は駆けつけるなり、坊主頭に肩からぶちかましを放っていた。だいぶ手加減をしたと思うが、それでも坊主頭は三メートルほど路面を転がった。
コーンロウの男が雄叫びを上げて的場に殴りかかった。しかし、的場に軽く足払いをかけられると、男は派手に宙に浮いて肩から地面に叩きつけられた。的場の格闘能力の高さは県警内でもトップクラスだ。
「おい待で」
静佳は菱沼に大股で近寄った。菱沼は地面を虫みたいに這い、大通りへ逃げこもうとしていた。彼の襟首を摑む。
「な、なにしやがんだず!」
「用があんのはあんただべ。せっかくの機会だがら、ちょっと来てけろや」
「放せや! 警官なんだべ。今の見っだべや。おれは被害者だぞ」
「いいがら」
静佳は菱沼を引っ張りながら、あたりを見回した。
吹雪がひどさを増しており、視界がかなり悪くなっていた。怒号すら風で搔き消されていく。騒ぎに気づいた者は見当たらない。的場に手錠を放って、男たちを拘束するように指示した。
「寒くてわがんねな。ここでちっと温まるべや」
ヴァンのスライドドアが開けっぱなしだった。
そこに菱沼を押しやり、セカンドシートを陣取った。ひどいタバコ臭がし、足元にはスナック菓子の袋やエナジードリンクの空き缶が落ちている。不潔で不快な空間ではあるが、吹雪の外にいるよりはマシだ。
的場がバックドアを開け、男たちを次々に荷室へと放りこんだ。シートバッグポケットには、ゴミに混じって指錠やフォールディングナイフ、それに小型の催涙スプレーが入っていた。的場は男たちと一緒に荷室に乗りこみ、バックドアを閉めた。
「傷害と公務執行妨害、銃刀法違反ってところが。身柄をさらう気マンマンだったみでえだな」
静佳は荷室の男たちを指さした。菱沼に尋ねる。
「ありゃ仙台のチンピラどもだべ?」
「あんたら⋯⋯本当に警官なんだがず」
静佳は警察手帳を見せた。
「ほれ、このとおりだべ。今度はこっちの質問に答えてけろや。このヤカラども、奥州義誠会の者だべ?」
荷室に押し込まれた男たちが、菱沼に射るような視線を向けた。菱沼の喉が大きく動く。
「そだなやつら、し、知ねず⋯⋯」
「あっそう。んじゃ、私らは引き揚げっぺ。酔っ払いどもがちょっとはしゃぎたくなっただけみでえだ。雪合戦でも鬼ゴッコでも好きに続けたらいいべ」
的場に手錠の鍵を渡し、全員の縛めを解くように命じた。静佳はスライドドアを開けて降りようとする。
「な、なんだよ、そりゃ! 置き去りにするやづがあっがよ。んだず、んだず。仙台の不良たちだず」
菱沼が静佳の腕にすがりついてきた。
「てめえ⋯⋯」
坊主頭が憎々しげにうなった。全員が溶けた雪にまみれて濡れ鼠と化している。
「だいぶ素直になってけだようだなや。ここじゃなにかと話しづれえべ。続きはあっちだ」
静佳は菱沼をヴァンから連れ出した。
的場に男たちの見張りを任せ、コインパーキングのワンボックスカーへと戻った。静佳は運転席に乗りこむと、暖房を最大にして身体を温めた。助手席の菱沼もすっかり酔いが醒めたらしく、ガタガタと身体を震わせながら吹き出し口に掌を向けた。
静佳は頭髪についた雪を振り落とした。
「なして仙台のヤカラどもに追っかけらっだのや?」
「⋯⋯いや、ちょっとカネの貸し借りで揉めただけで」
「返すもんも返さねえで、仙台からバックレた挙句、こっちでカレンちゃんのために景気よく遊んでりゃ、そりゃあの不良たちも面白くねえべな」
「なしてそんなごどまで――」
「あんたのお遊びやトラブルはどうでもいい。一番知りてえのは遊びに使うカネと、それに平野仁美との関係だ」
菱沼が息を吞んだ。彼はうつむいたきり黙りこくる。
「おい、なんとか言えず」
静佳が肘で突いたが、菱沼の口は動かない。
「せっかく暖房が利いてきだってのに。煮え切らねえ野郎だなや。やっぱワルどものエサになったほうがいいべ」
運転席のドアを開け、菱沼を再び外へと引っ張りだそうとした。菱沼はシートにしがみついて叫んだ。
「待で、待でって」
「誰から遊ぶカネをもらってだんだ?」
「別れさせ屋! 別れさせ屋だず」
「ああ?」
「『みちのく探偵調査室』だ! そこから頼まっだんだよ」
静佳は再びワンボックスカーに乗った。荒っぽくドアを閉め、菱沼に詰め寄る。
「本当が」
「噓でねえ。昔のネタほじくって、あの女に近づくだけでいいがらって」
『みちのく探偵調査室』は山形市内に事務所を構える探偵業者だ。経営しているのは県警の警察OBで、不倫が原因で組織から追い出された元公安刑事がやっていた。
「洗いざらい話せ。でねえと、無事に明日は迎えらんねえぞ」
静佳は続きを促した。
6
乾辰典は警備二課長という要職に就くエリート幹部だ。しかし、今の彼は見る影もない。
着ているワイシャツの襟はよれており、顎にはそり残しのヒゲが伸びていた。風呂にもきちんと入っていないのか、垢と加齢臭が混ざったような臭いを漂わせている。パイプ椅子に腰かけているが、座っているだけでもつらそうだ。
監察課長の奥山が乾に語りかけた。
「それにしても、やってくれましたな」
「そう言われても、なんのことだが⋯⋯」
乾は消え入りそうな声で答えた。静佳がファイルを叩いた。
「すっとぼけんのはやめっぺや。探偵さんはみんな打ち明けてけだべ」
取調室内には三人しかいない。
ただしマジックミラー越しの別室には、県警の幹部たちがやり取りを見守っている。組織を騒がせる不祥事に発展したためだ。
監察課が山形署に話を持ちかけ、『みちのく探偵調査室』の内情を調べさせたところ、別れさせ屋といった違法性の高い裏仕事に手を染めていた実態が明らかになった。
同探偵事務所はこの手の工作を過去に何度もやっていたらしく、名誉毀損の疑いで家宅捜索をすると、パソコンのファイルには風俗店の偽チラシのデータなどが見つかった。パートナーの女性がかつて風俗店で働いていたかのように見せかけ、カップルの間にヒビを入れるのだ。
また、浮気相手を装ってSNSを駆使し、浮気を匂わすメッセージを一方的に送って不信感を植えつけるなど、他人の信用を貶める汚れ仕事で稼いでいた。キャバクラ嬢を工作員として雇い、対象者の男性に近づけさせて、浮気をでっち上げるといった手の込んだ仕事もやっていた。この悪徳探偵を頼るのは、相手に飽き飽きしているカップルのどちらかだったり、あるいはカップルそのものに恨みを抱く人間などだ。
悪徳探偵は依頼を受けて、正木警部補と仁美の仲を裂くために工作活動を開始。看護学校時代の仁美が、コンカフェ絡みで奥州義誠会系の企業舎弟と揉めた過去があるのを知った。そして、山形に舞い戻ってきた菱沼を今度の工作員として起用したのだ。
悪徳探偵にとっては楽な仕事になるはずだった。なにしろエリート警察官と結婚しようというのだ。県警が身辺調査に乗り出しているところを見計らい、菱沼という前科者を仁美に接触させれば、県警はアレルギー反応を起こし、彼女との結婚を認めずに破談させるだろうと睨んだのだ。警察組織の体質まで把握した狡猾な手口だった。
しかし、悪徳探偵は残念な人選ミスをやらかした。いくら簡単とはいえ、菱沼という半端者を工作員にしたからだ。菱沼は報酬の前金をもらうと、江戸っ子でもあるまいし、宵越しのカネなど持たねえとばかりに繁華街で散財した。おかげでヤクザ者や静佳たちから熱い注目を浴びる羽目になった。
菱沼は口も軽かった。仁美の自宅に入り込めた方法も、静佳にきれいさっぱり打ち明けた。
――まず、あのコンカフェの店長になりすましてよ、LINEで脅しのメッセージを送りつけてやったんだ。コンカフェの運営会社がヤクザで、そっがら給料もらってだって事実を、警察や結婚相手に全部知らせてやるって。ヤクザ絡みの芸能事務所とも契約してで、スケベな仕事もしてだって。あることないことガセネタ撒いて、結婚話なんかぶち壊してやるってよ。
――なるほど。たっぷり脅しつけてから、そこへあんたが白馬の騎士きどりで現れるって寸法が。
――あの女のアパートで芝居を打ったべ。おれがなんとかしてやるってよ。冷静に考えりゃ、昔と同じく罠に嵌めようとしっだって気づくもんだげんど、女は正木に嫌われたぐなかったようで、すっかり取り乱して引っかかりやがった。
静佳は殴りつけたい衝動に駆られたが、暖房を利かせたワンボックスカーで悪巧みをじっくり聞き出した。
ヤクザ者と話をつけた菱沼は、仁美にたっぷり恩を売りつけ、彼女を食事に誘う気でいたらしい。ふたりで食事をする姿を悪徳探偵に撮影させ、それを県警の人事課や正木に送りつければ、間違いなく仁美は別れを余儀なくされる。そんな絵図を思い描いていたらしい。
菱沼の証言をもとに、名誉毀損罪の疑いで『みちのく探偵調査室』を家宅捜索した。パソコンや携帯端末を押収して調べると、菱沼の証言を裏づける計画書や帳簿、データファイルがいくつも見つかった。
パソコンのなかには、きわどいマイクロビキニ姿で写る仁美の画像があった。コンカフェ時代の写真を使った合成画像で、彼女の評判を落とすために力を注いでいた事実が判明した。破談屋稼業でメシを食っている悪党が実在したというわけだ。
悪徳探偵の依頼主も家宅捜索で明らかになり、静佳を含めた捜査関係者全員を驚かせたものだった。
奥山が乾に冷ややかに告げた。
「シラを切りたければ、それでもこちらは構わない。これだけ材料が揃ってるんだ。逃げ切れると思うな」
「私は⋯⋯なにもしちゃいねえ」
静佳はマジックミラーを指さした。
「一応言っとぐげんど、隣じゃお歴々たちが勢揃いしったず。部長クラスや本部長まで。県警だけでねえ。管区警察局の方々まで来ちゃ、固唾を吞んで見守ってるべ」
「えっ」
乾が慌ててマジックミラーに目をやった。
「ここらで潔く喋ったほうが、トップたちの心証も違ってくるがもな」
奥山は冷淡な態度を崩さなかった。
「知らばっくれたいのなら、好きにするといい。こちらも加減なしにやるだけだ。娘さん、大学受験を控えているんだろう。気の毒なことだ。親父のせいでガサをかけられ、部屋をグシャグシャに荒らされる。親父は懲戒免職で、一家は憐れ路頭に迷う。受験どころじゃなくなるな」
「待で、待っでけろや。いくらなんも、そりゃ――」
「いくらもクソもあるか! あんたは部下や一般市民の人生を弄んだんだぞ」
奥山の一喝がトドメとなった。乾は観念したように自白した。
警察官は取り調べのプロだ。しかし、取り調べられる側に回ると、案外慣れていないのか落ちやすい。静佳は監察課員になって知った。
乾は県内屈指の進学校である山形日出高の出身で、同校出身の政財界人と親交があった。県内経済界のドンといわれる地銀の頭取が、同校の後輩にあたる正木を気に入ったのがトラブルの始まりだった。
頭取は同窓会をきっかけに正木と知り合い、食事会やゴルフコンペを経て、彼の生真面目さや如才のない性格に惚れこんだ。警察なんか辞めさせて、地銀にヘッドハンティングまでしようと試みたこともあったらしい。
頭取には未婚の娘がふたりいた。ヘッドハンティングがダメなら、せめて娘を正木のもとへ嫁がせられないものかと、側近や友人に漏らしていたという。その話を聞きつけたのが乾だった。
「⋯⋯頭取は長年の友人だべし、なにかと世話にもなってたんで、ここらでひと肌脱ごうと思ってよ。正木の将来を思ったら、頭取の娘婿になるほうがあいつのためになるはずだと、先走っちまったんだず」
乾は真相を語ったものの、言い訳がましかった。
正木を頭取の身内にさせ、たっぷり恩を売りつければ、就職先に困ることはない。悠々自適なセカンドライフを送れると睨んだのだろう。
誰だって還暦を過ぎてから安月給の肉体労働などしたくはない。民間企業の顧問だの社外取締役といった役職に就き、楽してカネを稼ぎたいものだ。乾は頭取に取り入るため、元同僚の探偵に依頼を持ちかけた。別れさせ屋としての実績があるのを知りながら。
ひとしきり聴取を終えて、静佳たちは取調室を出た。
別室で取り調べを見守っていた本部長たちも、やるせない表情でため息をつきながら後にする。なぜそんな愚かしい真似をするのかと、納得がいかない様子だった。
静佳たちも同じだ。監察課の仕事は人間の不可解さと向き合う仕事でもあり、今回もケリがついたところで苦々しい思いは消えなかった。
奥山とともに監察課に戻った。その途中、直立不動の姿勢を取った長身の若い警察官と出くわした。正木警部補だった。
正木は静佳たちに深々と頭を下げた。彼女はうなずいてみせた。
これで破談屋という仇名は消えてなくなるかもしれない。有望な若手警察官を救ってやれたのは大きな収穫だ。
静佳は久しぶりに満足しながら監察課の部屋に入った。
■警察小説競作
月村了衛「ありふれた災厄」