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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第18回
35
翌10日は、前日に続く冬晴れの1日だった。
観月にとっては月に1度の、東大病院における定期検査の日だ。
そして玲にとっては、この日は第1志望となる、W大学付属高校の受験日でもあった。
ひとまず、順調だった。
予約時間に対する観月の寝起きも、受験に当たっての天候も。
この日観月が受けることになっている幾つかの検査の、最初の予約は少し遅めの午前11時だった。
寝起きには負荷が少なくて助かる反面、こういう時間帯の予約は前々がある関係上、どうしても待ちが長くなるのは覚悟しなければならない。
順調にこなしたとして、各科の問診も含めれば全体で、早くて1時間半、長くなれば2時間を優に超す流れだということは目に見えていた。
つまり、昼をまたぐことになる。
こういう日は、観月は病院の検査に入る前に、本郷裏の〈四海舗〉に顔を出すことに決めていた。
ドミトリーで竹子の朝食を摂り、〈四海舗〉で松子の甘味を食す。
昼をまたぐ検査のときは、この甘味が昼食も兼ねるというわけだ。
糖分の補給は、脳の健康状態を整える意味でも観月にとっては大事だった。
検査前には特に、一石二鳥と言える。
白シャツに黒いジーパンの出で立ちは変わらないが、この日はその上にモスグリーンのダウンジャケットを羽織っていた。
朝9時過ぎの本郷辺りは、まだ少し肌寒かった。
冬晴れは間違いないが、少し風が出始めていた。そのせいか。
北風だった。
今は微風だがそのまま強まれば、枯葉を拾う落葉風になるかもしれない。
もっとも屋内にいる分には当然、寒さの限りではない。
観月も玲も、対象外だ。
「受かるといいな」
15皿目の条頭を口にし、そんなことを白い息に乗せた。
ちなみに観月はこの日、条頭の前に5個の月餅を食していた。
外気は寒いが、お腹の中は仄々として温かい。
「何さね」
1台だけ使用中の円卓の、観月の真向かいには松子がいた。
午前9時前後など、実はまだオープン前だ。
特に観月が病院に行く日は、〈四海舗〉はその時間に連動して、観月が願えばオープンを早める店だった。
――そりゃあ、もう。
と最初の頃、松子が揉み手で干涸びた笑顔を見せたが、そんな店主に言わせれば、観月は上得意なのだという。
「どの検査の話さね」
ショールを纏った松子が、プーアル茶のカップを両手で包むようにしていた。
寒いようだが、寒がって室内にいては観月の注文が受けられず商売にならない、ということらしい。
商売人の鏡、ではある。
「検査じゃないよ。1度も引っ掛かったことないし」
「じゃあ、なんさね」
「高校受験」
「ふん」
鼻を鳴らし、松子はプーアル茶を飲んだ。とにかく寒いようで、両手はカップから離れない。
「遠い昔のことさね」
「えっ。そんな昔じゃないよ」
「あたしのだわ」
「それって、高等女学校だっけ?」
「冗談のつもりかい? 面白くないよ」
「じゃあさ」
「なんだい?」
「あと5皿」
「毎度ありぃ」
松子はショールを脱ぎ捨てるように立って、小走りに店内に向かった。
朝の寒さが、そんな会話とそんな所作で少しずつ解れるようだった。
風より先に、東からの陽射しが強くなる。
その後、もう5皿を追加した条頭を平らげれば、そろそろ病院〈方面〉に向かう頃合いになった。
「じゃ、行こうかな」
やおら円卓の席を立つ。
「おや。早くないかい」
「ここもそろそろ、オープン準備でしょ」
「そりゃね。でも本音を言えば、あんたが15分いればさ。営業2時間分の売り上げが立つさね」
「冗談返しのつもり? 面白くないけど」
「――ああ、ね。ま、そのくらいの方が気楽でいいさね」
「よくわからないけど、少し早いのはわかってる。ちょっとさ。病院に行く前に、こっちの先輩と約束があるんだ」
昨日、〈無事〉に狂走連合の連中を撃退した後、観月は河東に連絡を取った。
思うところの準備が出来たからだ。
――おめでとうございます。予定通り、お願いしたいことが出来ました。
――ええっ。ハテハテ。何がおめでとうなのかな。
――私への先輩の借りが減ります。
――ドドン。それはいいことだ。
じゃあ、10時には本郷に行ってるよ、とそんな話になった。
偶然ではあったが、時間的にもちょうどよかった。それらを河東の持った運だと思えば、貸しを2、いや3減らしてやってもいいかもしれない。本人には、癖になるから言わないが。
待ち合わせは総合図書館前の、噴水脇に並べられたテラス席にした。
河東とは何度か待ち合わせをした、もうお馴染みの場所だ。
陽があまり差さない場所で、この寒い時期だと待ち合わせには不向きにも思われるが、河東との待ち合わせなら断然、屋内より屋外だ。
中で近くで煙草を吸われるより、暑かろうと寒かろうと副流煙が一気に拡散する屋外に限る。
そんな理由から、前回も同じ場所にしたことを思い出す。
観月が到着したのは、10時10分を回った頃だった。
案の定、河東は噴水脇のガーデンテーブルに陣取り、空き缶の灰皿を置いて煙草を吸っていた。
意外だったのは、他のテーブルも3、4割方が埋まっていたことだ。
どのテーブルにも空き缶が置かれ、斜めに流れる紫煙があった。
寒いのに、と観月にはよくわからないが、喫煙者の根性というか、執念にはそれなりのパワーが感じられた。
いずれにせよ、これから病院に検査に行く身としては、環境的に最悪だ。
用事が済んだらすぐに離れよう。
いや、その前に用事そのものを最短で切り上げよう。
「お待たせしました。早速ですけど」
ひと息に乗せた挨拶の間で、河東がやあ、と言いながら煙草を指に挟んだ手を上げていた気がするが、完全になかったことにする。
観月はおもむろに、ジャケットのポケットから小さなふたつのポリ袋を取り出し、ガーデンテーブルの上に置いた。
空き缶の灰皿の脇を通し、河東の前に滑らせる。
「これって鑑定出来ますか」
「ホエホエ?」
紫煙を吐きながら、河東はそれらを指先で摘まみ上げた。
ポリ袋に入っているのは、どちらも毛根付きの髪の毛だ。
白いまだらの毛が1本だけ入った片方は、沖田剛毅の物になる。
〈長江〉の夜、殴るポーズで剛毅の耳の上辺りから失敬したものだ。
――何か仕掛けましたか?
坂井に笑顔で聞かれた、仕掛けの結果がそれだ。
そしてもう一方には、観月が細く長めの数本を集めて、入れた。
観月より少し長い髪の毛だ。
「どれどれ。ジ――」
重ねて煙草とは逆の手で摘まみ、河東はしげしげと眺めた。
「DNA検査、やれますよね」
長く話すつもりはない。
だから単刀直入だ。
「グワグワッ」
河東は大げさに仰け反った。
「何? うちの講座で?」
「駄目なら回してください。たしか前、院の法医学教室に高校からの先輩がいるって言ってましたよね」
「ドドン。言いました」
「よろしくお願いします」
「ウモモ。でもでも。これってさぁ。またなんか危なそうなんだけど」
「大丈夫です」
「ハテサテ、ハテサテ」
そう言いながら腕を組み、河東は身体を左右に揺らした。
面倒臭いし、空気が撹拌されて紫煙が観月の方にも押されて流れる。
つまり、煙草臭い。
「先輩。お静かに」
観月は身体ごとテーブルに乗り出した。
「今回も、依頼主は国家公安委員長です」
「ウゲゲッ。ここっかこっか!」
「お疑いなら、いずれお引き合わせしてもいいですが。銀座の並木通りによく出没してますから」
「シュパパッ」
河東は素早く隠すようにポリ袋をカバンに仕舞い、結構ですと言った。
「ではお願いします。ゲキ速で」
そこかしこから紫煙の棚引く総合図書館前を足早に離れ、三四郎坂を下る。
そこから御殿下グラウンドの裏を通れば、東大病院は近い。
時刻は10時15分を過ぎたところだった。
少し早いか。
喫煙者の群れと少し強まった風に背を押された格好だが、遅れるよりはましだろう。
36
この日の東大病院の外来診療棟は、観月の肌感覚として比較的空いている感じだった。
どこの外来も少しずつの余裕をもって、検査も順調に、特に何事もなく終了した。
最後に百合川女医の診察室で総合判断を仰ぐ。
結果はいつも通り、停滞を示す〈可もなく不可もなく〉だ。
それならばプラスマイナスゼロの方がいい。プラスが減ってマイナスが増える危険性は承知のうえで、プラスを伸ばしマイナスを減らす。
その過程にこそ希望が見える。
百合川女医と3月の予定を確認し、会計を済ませて院外に出る。
時刻は割合に早く、午後1時を少し回った頃だった。
「うん。今日は色々、ちょうどいいかな」
蒼天を振り仰ぎ、燦々と降る陽射しに目を細める。
観月にはこの日、この後さらに回ろうと目論む場所があった。
板橋区弥生町。
そこには日本有数の規模を誇る大学の、日本有数の規模を誇る巨大病院があった。
このN大学附属弥生病院こそが、どうやら愛子の転院先らしかった。
――N大のさ、板橋にあるでっかい病院。そこだってさ。
前夜、大井町での狂走連合との立ち回りの直後に掛かってきた電話で、立野梨花はそう言った。事細かに、病室番号までわかったようで教えてくれた。
愛子は板橋区弥生町にあるN大学附属弥生病院の、入院病棟8階の個室で加療しているようだ。
――大変だったのよ。聞いて聞いて聞き回ったもの。でも、医者の卵は全滅。殻を割った雛もまったく駄目だったわ。だから、最終的に大変だったのは、私じゃなくてパパだけど。やっぱり、餅は餅屋って言うの? 親鳥は親鳥? とにかく、パパの伝手でなんとかなったのよね。
梨花の父親は新潟の開業医だ。聞くところに拠れば私立の名門、K大医学部の出身だという。
ついでに言えばヨット部で、今回はこのついでの方が役に立ったようだ。東医体(東日本医科学生総合体育大会)や関東の競技会で、他大学との交流は随分多かったらしい。
その伝手を辿り、間に3人ほどを挟んだところでN大学附属弥生病院の、部門の病棟医長に行きついたという。
――そもそも、大井町総合病院からで、抗がん剤治療でしょ。転院先は間違いなく大井町以上の大規模病院に限られるし。最初から当たりは付けられたみたいよ。
守秘義務の関係もあり、互いにぼかしにぼかしながらだったというが、親鳥には、それでも確信を得るに十分だったようだ。
――パパって、私が思う以上に顔が広くて優秀みたい。今回のことで、ちょっと見直しちゃったなあ。
見直す前は父親の何を見くびっていたのかに興味はあったが、それは次回に回してこのときは聞かなかった。
なんといっても背後の遠くでは、まだ狂走連合の連中が喚いていた。
板橋区弥生町にあるN大学附属弥生病院へは、まず本郷3丁目から東京メトロ丸の内線に乗って池袋に出る。
そこから東武東上線で中板橋に行けば、徒歩で約10分だ。
観月が病院に到着したのは、午後2時過ぎだった。
正面から西陽が当たり、外来棟が燃えるように見えた。
ちょうど、面会が許可される時間だった。病棟で面会受付を済ませ、8階の病室に向かう。
ノックに対する答えはすぐにあった。
「はい」
間違いなく愛子の声だった。
「小田垣です。あの」
玲ちゃんの家庭教師の、と言おうとすると、
「どうぞ」
と、室内から愛子の穏やかな声が掛かった。
「失礼します」
スライドドアを開ける。
愛子は背を起こしたベッドにもたれ、編み物をしていた。
約1ヵ月振りに目にする愛子は、松の内の頃よりも少し痩せていた。
そうして少しずつ少しずつ、痩せて小さくなってゆくのだろうか。
心が動くという感覚は持てなかったが、挨拶に続く言葉がすぐには出なかった。
それも、何かの情だろうか。
そんなことを思っていると、
「そんなところに立ってないで、入ったら」
愛子は笑顔で手招きした。
ほっそりとした、白い腕だった。
笑顔もうっすらとして、まるで陽炎のようだった。
青白い陽炎だ。
「あ。――どうも」
観月は頭を下げた。
促され、室内に足を踏み入れる。
観月の背後で、音もなくスライドドアが閉まった。
愛子の病室は観月が想像するより広い部屋だった。
目見当だが12畳、いや、15畳はあるように見えた。入って真正面の窓際に、簡易ソファとテーブルのセットもあった。
個室でも上等な部類だろう。
支払いはいくらになるのか知らないが、保険ですべて対応出来るとは思えない。
小市民としては気になるところだが、一連の物事には沖田剛毅が絡んでいる。
余計なお世話と言ったところか。
ベッド脇に丸椅子があった。ソファは愛子まで遠かった。
だからそこに座った。
愛子越しの窓の外に、色付き始めた空があった。
冬の午後の空だった。
春の訪れは、まだまだ遠い。
さて、何をどう聞くか。
と――。
「ごめんなさいね」
観月を見る愛子の笑顔が崩れ、透けるように見えた。
(ああ。この人は、わかっているのか)
感情とは別に、一連の物事の流れと愛子の存在、愛子の思いが、大いに腑に落ちた。
「今日ですね」
口を開く切っ掛けは、玲のことだった。
共通項。
愛子の生きる希望、生きる力、そして、生きる意味。
「そうね。受かるといいんだけれど」
「大丈夫ですよ」
「そう?」
「彼女は出来る子です。そして多分、強い子です」
「そうであってくれればいいのだけれど。そうでないとこの先、――いえ。今は今日の話。明日の話は早いわね」
そうですね、とも、そんなことありません、とも、観月の口は動かなかった。
どちらを言ったら悲しい。
どちらを言ったら嬉しい。
感情のさじ加減はどうにもならない。
ただ、玲の前に立って盾となるには、腹に飲む重しのようなものが欲しかった。
飲んで深く沈めて、観月を動かさない錨のような重しだ。
だから――。
「玲ちゃんはお父さんのこと、わかってるんですか」
それだけを口にした。
それだけは聞いておきたかった。
中学生が高校生になり、大学生に、社会人に、そして母になる日があれば、本人が必ず自分の人生の中に答えを探そうとする問題だ。
「えっ」
愛子は編み棒を持つ手を置き、観月に目を据えた。
観月も受けて、真っ直ぐに見返した。
愛子の目に、揺らめきが見えた。
光の揺らめきだった。光はやがて、炎に見えた。
いや、最初から青白い炎だったのかもしれない。
「いいえ。あの子には教えてないし。だから、知るはずはない。知るすべもない」
青白い炎は、覚悟だろうか。それとも――。
「沖田の一族なんてこと、あの子には必要ない。そういう強い子に、私は育てたつもり。だから私は言わない。言わないで私は、お墓の中まで持って行くの。それがあの子の幸せ、いえ、あの子の人生のためだと思うから」
いい答えだった。
「そうですか」
解を聞けば観月の腹も決まった。
「じゃあ、私も言いません」
「……あなた」
青白い炎が、一瞬赤く燃え上がった気がした。
「よろしくね。先生」
「はい」
絡んだ縁は、結ばれるものだ。
観月は窓の外に目を遣った。
朱い雲が流れていた。
春は案外、近いかもしれない。
「大丈夫ですよ。玲ちゃんは。何があっても。何もなくても」
「そう? そうだといいのだけれど。あなたのように」
「いいえ」
観月は頭を横に振った。
「私は弱いです。だから、周りの人に助けられてばかりで」
ふふっ、と愛子は声にして笑った。
「人は、そういう人を支えるの。支えられた人は強いわ。折れないから。そういう強さを見せてやって」
「見せられるでしょうか」
「見せられるわよ」
「どうすれば」
「普通にしているだけでいいんじゃない? だってあなた」
面白いもの、と言って愛子は笑みを深くした。
顔に差す朱は、傾きゆく冬の陽を映したものではないだろう。
病人に少しは、観月も希望と力を渡せただろうか。
「玲ちゃんの試験、誰にも邪魔させませんから」
遠くでカラスが鳴いた。
愛子は小さく、有難うございます、と言った。
※ 次回は、3/3(月)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)