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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第18回

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 翌10日は、前日に続く冬晴れの1日だった。

 観月にとっては月に1度の、東大病院における定期検査の日だ。

 そして玲にとっては、この日は第1志望となる、W大学付属高校の受験日でもあった。

 ひとまず、順調だった。

 予約時間に対する観月の寝起きも、受験に当たっての天候も。

 この日観月が受けることになっている幾つかの検査の、最初の予約は少し遅めの午前11時だった。

 寝起きには負荷が少なくて助かる反面、こういう時間帯の予約は前々がある関係上、どうしても待ちが長くなるのは覚悟しなければならない。

 順調にこなしたとして、各科の問診も含めれば全体で、早くて1時間半、長くなれば2時間を優に超す流れだということは目に見えていた。

 つまり、昼をまたぐことになる。

 こういう日は、観月は病院の検査に入る前に、本郷裏の〈四海舗〉に顔を出すことに決めていた。

 ドミトリーで竹子の朝食を摂り、〈四海舗〉で松子の甘味を食す。

 昼をまたぐ検査のときは、この甘味が昼食も兼ねるというわけだ。

 糖分の補給は、脳の健康状態を整える意味でも観月にとっては大事だった。

 検査前には特に、一石二鳥と言える。

 白シャツに黒いジーパンの出で立ちは変わらないが、この日はその上にモスグリーンのダウンジャケットを羽織っていた。

 朝9時過ぎの本郷辺りは、まだ少し肌寒かった。

 冬晴れは間違いないが、少し風が出始めていた。そのせいか。

 北風だった。

 今は微風だがそのまま強まれば、枯葉を拾う落葉風になるかもしれない。

 もっとも屋内にいる分には当然、寒さの限りではない。

 観月も玲も、対象外だ。

「受かるといいな」

 15皿目の条頭を口にし、そんなことを白い息に乗せた。

 ちなみに観月はこの日、条頭の前に5個の月餅を食していた。

 外気は寒いが、お腹の中は仄々として温かい。

「何さね」

 1台だけ使用中の円卓の、観月の真向かいには松子がいた。

 午前9時前後など、実はまだオープン前だ。

 特に観月が病院に行く日は、〈四海舗〉はその時間に連動して、観月が願えばオープンを早める店だった。

――そりゃあ、もう。

 と最初の頃、松子が揉み手で干涸びた笑顔を見せたが、そんな店主に言わせれば、観月は上得意なのだという。

「どの検査の話さね」

 ショールを纏った松子が、プーアル茶のカップを両手で包むようにしていた。

 寒いようだが、寒がって室内にいては観月の注文が受けられず商売にならない、ということらしい。

 商売人の鏡、ではある。

「検査じゃないよ。1度も引っ掛かったことないし」

「じゃあ、なんさね」

「高校受験」

「ふん」

 鼻を鳴らし、松子はプーアル茶を飲んだ。とにかく寒いようで、両手はカップから離れない。

「遠い昔のことさね」

「えっ。そんな昔じゃないよ」

「あたしのだわ」

「それって、高等女学校だっけ?」

「冗談のつもりかい? 面白くないよ」

「じゃあさ」

「なんだい?」

「あと5皿」

「毎度ありぃ」

 松子はショールを脱ぎ捨てるように立って、小走りに店内に向かった。

 朝の寒さが、そんな会話とそんな所作で少しずつ解れるようだった。

 風より先に、東からの陽射しが強くなる。

 その後、もう5皿を追加した条頭を平らげれば、そろそろ病院〈方面〉に向かう頃合いになった。

「じゃ、行こうかな」

 やおら円卓の席を立つ。

「おや。早くないかい」

「ここもそろそろ、オープン準備でしょ」

「そりゃね。でも本音を言えば、あんたが15分いればさ。営業2時間分の売り上げが立つさね」

「冗談返しのつもり? 面白くないけど」

「――ああ、ね。ま、そのくらいの方が気楽でいいさね」

「よくわからないけど、少し早いのはわかってる。ちょっとさ。病院に行く前に、こっちの先輩と約束があるんだ」

 昨日、〈無事〉に狂走連合の連中を撃退した後、観月は河東に連絡を取った。

 思うところの準備が出来たからだ。

――おめでとうございます。予定通り、お願いしたいことが出来ました。

――ええっ。ハテハテ。何がおめでとうなのかな。

――私への先輩の借りが減ります。

――ドドン。それはいいことだ。

 じゃあ、10時には本郷に行ってるよ、とそんな話になった。

 偶然ではあったが、時間的にもちょうどよかった。それらを河東の持った運だと思えば、貸しを2、いや3減らしてやってもいいかもしれない。本人には、癖になるから言わないが。

 待ち合わせは総合図書館前の、噴水脇に並べられたテラス席にした。

 河東とは何度か待ち合わせをした、もうお馴染みの場所だ。

 陽があまり差さない場所で、この寒い時期だと待ち合わせには不向きにも思われるが、河東との待ち合わせなら断然、屋内より屋外だ。

 中で近くで煙草を吸われるより、暑かろうと寒かろうと副流煙が一気に拡散する屋外に限る。

 そんな理由から、前回も同じ場所にしたことを思い出す。

 観月が到着したのは、10時10分を回った頃だった。

 案の定、河東は噴水脇のガーデンテーブルに陣取り、空き缶の灰皿を置いて煙草を吸っていた。

 意外だったのは、他のテーブルも3、4割方が埋まっていたことだ。

 どのテーブルにも空き缶が置かれ、斜めに流れる紫煙があった。

 寒いのに、と観月にはよくわからないが、喫煙者の根性というか、執念にはそれなりのパワーが感じられた。

 いずれにせよ、これから病院に検査に行く身としては、環境的に最悪だ。

 用事が済んだらすぐに離れよう。

 いや、その前に用事そのものを最短で切り上げよう。

「お待たせしました。早速ですけど」

 ひと息に乗せた挨拶の間で、河東がやあ、と言いながら煙草を指に挟んだ手を上げていた気がするが、完全になかったことにする。

 観月はおもむろに、ジャケットのポケットから小さなふたつのポリ袋を取り出し、ガーデンテーブルの上に置いた。

 空き缶の灰皿の脇を通し、河東の前に滑らせる。

「これって鑑定出来ますか」

「ホエホエ?」

 紫煙を吐きながら、河東はそれらを指先で摘まみ上げた。

 ポリ袋に入っているのは、どちらも毛根付きの髪の毛だ。

 白いまだらの毛が1本だけ入った片方は、沖田剛毅の物になる。

〈長江〉の夜、殴るポーズで剛毅の耳の上辺りから失敬したものだ。

――何か仕掛けましたか?

 坂井に笑顔で聞かれた、仕掛けの結果がそれだ。

 そしてもう一方には、観月が細く長めの数本を集めて、入れた。

 観月より少し長い髪の毛だ。

「どれどれ。ジ――」

 重ねて煙草とは逆の手で摘まみ、河東はしげしげと眺めた。

「DNA検査、やれますよね」

 長く話すつもりはない。

 だから単刀直入だ。

「グワグワッ」

 河東は大げさに仰け反った。

「何? うちの講座で?」

「駄目なら回してください。たしか前、院の法医学教室に高校からの先輩がいるって言ってましたよね」

「ドドン。言いました」

「よろしくお願いします」

「ウモモ。でもでも。これってさぁ。またなんか危なそうなんだけど」

「大丈夫です」

「ハテサテ、ハテサテ」

 そう言いながら腕を組み、河東は身体を左右に揺らした。

 面倒臭いし、空気が撹拌されて紫煙が観月の方にも押されて流れる。

 つまり、煙草臭い。

「先輩。お静かに」

 観月は身体ごとテーブルに乗り出した。

「今回も、依頼主は国家公安委員長です」

「ウゲゲッ。ここっかこっか!」

「お疑いなら、いずれお引き合わせしてもいいですが。銀座の並木通りによく出没してますから」

「シュパパッ」

 河東は素早く隠すようにポリ袋をカバンに仕舞い、結構ですと言った。

「ではお願いします。ゲキ速で」

 そこかしこから紫煙の棚引く総合図書館前を足早に離れ、三四郎坂を下る。

 そこから御殿下グラウンドの裏を通れば、東大病院は近い。

 時刻は10時15分を過ぎたところだった。

 少し早いか。

 喫煙者の群れと少し強まった風に背を押された格好だが、遅れるよりはましだろう。

36


 この日の東大病院の外来診療棟は、観月の肌感覚として比較的空いている感じだった。

 どこの外来も少しずつの余裕をもって、検査も順調に、特に何事もなく終了した。

 最後に百合川女医の診察室で総合判断を仰ぐ。

 結果はいつも通り、停滞を示す〈可もなく不可もなく〉だ。

 それならばプラスマイナスゼロの方がいい。プラスが減ってマイナスが増える危険性は承知のうえで、プラスを伸ばしマイナスを減らす。

 その過程にこそ希望が見える。

 百合川女医と3月の予定を確認し、会計を済ませて院外に出る。

 時刻は割合に早く、午後1時を少し回った頃だった。

「うん。今日は色々、ちょうどいいかな」

 蒼天を振り仰ぎ、燦々と降る陽射しに目を細める。

 観月にはこの日、この後さらに回ろうと目論む場所があった。

 板橋区弥生町。

 そこには日本有数の規模を誇る大学の、日本有数の規模を誇る巨大病院があった。

 このN大学附属弥生病院こそが、どうやら愛子の転院先らしかった。

――N大のさ、板橋にあるでっかい病院。そこだってさ。

 前夜、大井町での狂走連合との立ち回りの直後に掛かってきた電話で、立野梨花はそう言った。事細かに、病室番号までわかったようで教えてくれた。

 愛子は板橋区弥生町にあるN大学附属弥生病院の、入院病棟8階の個室で加療しているようだ。

――大変だったのよ。聞いて聞いて聞き回ったもの。でも、医者の卵は全滅。殻を割った雛もまったく駄目だったわ。だから、最終的に大変だったのは、私じゃなくてパパだけど。やっぱり、餅は餅屋って言うの? 親鳥は親鳥? とにかく、パパの伝手でなんとかなったのよね。

 梨花の父親は新潟の開業医だ。聞くところに拠れば私立の名門、K大医学部の出身だという。

 ついでに言えばヨット部で、今回はこのついでの方が役に立ったようだ。東医体(東日本医科学生総合体育大会)や関東の競技会で、他大学との交流は随分多かったらしい。

 その伝手を辿り、間に3人ほどを挟んだところでN大学附属弥生病院の、部門の病棟医長に行きついたという。

――そもそも、大井町総合病院からで、抗がん剤治療でしょ。転院先は間違いなく大井町以上の大規模病院に限られるし。最初から当たりは付けられたみたいよ。

 守秘義務の関係もあり、互いにぼかしにぼかしながらだったというが、親鳥には、それでも確信を得るに十分だったようだ。

――パパって、私が思う以上に顔が広くて優秀みたい。今回のことで、ちょっと見直しちゃったなあ。

 見直す前は父親の何を見くびっていたのかに興味はあったが、それは次回に回してこのときは聞かなかった。

 なんといっても背後の遠くでは、まだ狂走連合の連中が喚いていた。

 板橋区弥生町にあるN大学附属弥生病院へは、まず本郷3丁目から東京メトロ丸の内線に乗って池袋に出る。

 そこから東武東上線で中板橋に行けば、徒歩で約10分だ。

 観月が病院に到着したのは、午後2時過ぎだった。

 正面から西陽が当たり、外来棟が燃えるように見えた。

 ちょうど、面会が許可される時間だった。病棟で面会受付を済ませ、8階の病室に向かう。

 ノックに対する答えはすぐにあった。

「はい」

 間違いなく愛子の声だった。

「小田垣です。あの」

 玲ちゃんの家庭教師の、と言おうとすると、

「どうぞ」

 と、室内から愛子の穏やかな声が掛かった。

「失礼します」

 スライドドアを開ける。

 愛子は背を起こしたベッドにもたれ、編み物をしていた。

 約1ヵ月振りに目にする愛子は、松の内の頃よりも少し痩せていた。

 そうして少しずつ少しずつ、痩せて小さくなってゆくのだろうか。

 心が動くという感覚は持てなかったが、挨拶に続く言葉がすぐには出なかった。

 それも、何かの情だろうか。

 そんなことを思っていると、

「そんなところに立ってないで、入ったら」

 愛子は笑顔で手招きした。

 ほっそりとした、白い腕だった。

 笑顔もうっすらとして、まるで陽炎のようだった。

 青白い陽炎だ。

「あ。――どうも」

 観月は頭を下げた。

 促され、室内に足を踏み入れる。

 観月の背後で、音もなくスライドドアが閉まった。

 愛子の病室は観月が想像するより広い部屋だった。

 目見当だが12畳、いや、15畳はあるように見えた。入って真正面の窓際に、簡易ソファとテーブルのセットもあった。

 個室でも上等な部類だろう。

 支払いはいくらになるのか知らないが、保険ですべて対応出来るとは思えない。

 小市民としては気になるところだが、一連の物事には沖田剛毅が絡んでいる。

 余計なお世話と言ったところか。

 ベッド脇に丸椅子があった。ソファは愛子まで遠かった。

 だからそこに座った。

 愛子越しの窓の外に、色付き始めた空があった。

 冬の午後の空だった。

 春の訪れは、まだまだ遠い。

 さて、何をどう聞くか。

 と――。

「ごめんなさいね」

 観月を見る愛子の笑顔が崩れ、透けるように見えた。

(ああ。この人は、わかっているのか)

 感情とは別に、一連の物事の流れと愛子の存在、愛子の思いが、大いに腑に落ちた。

「今日ですね」

 口を開く切っ掛けは、玲のことだった。

 共通項。

 愛子の生きる希望、生きる力、そして、生きる意味。

「そうね。受かるといいんだけれど」

「大丈夫ですよ」

「そう?」

「彼女は出来る子です。そして多分、強い子です」

「そうであってくれればいいのだけれど。そうでないとこの先、――いえ。今は今日の話。明日の話は早いわね」

 そうですね、とも、そんなことありません、とも、観月の口は動かなかった。

 どちらを言ったら悲しい。

 どちらを言ったら嬉しい。

 感情のさじ加減はどうにもならない。

 ただ、玲の前に立って盾となるには、腹に飲む重しのようなものが欲しかった。

 飲んで深く沈めて、観月を動かさない錨のような重しだ。

 だから――。

「玲ちゃんはお父さんのこと、わかってるんですか」

 それだけを口にした。

 それだけは聞いておきたかった。

 中学生が高校生になり、大学生に、社会人に、そして母になる日があれば、本人が必ず自分の人生の中に答えを探そうとする問題だ。

「えっ」

 愛子は編み棒を持つ手を置き、観月に目を据えた。

 観月も受けて、真っ直ぐに見返した。

 愛子の目に、揺らめきが見えた。

 光の揺らめきだった。光はやがて、炎に見えた。

 いや、最初から青白い炎だったのかもしれない。

「いいえ。あの子には教えてないし。だから、知るはずはない。知るすべもない」

 青白い炎は、覚悟だろうか。それとも――。

「沖田の一族なんてこと、あの子には必要ない。そういう強い子に、私は育てたつもり。だから私は言わない。言わないで私は、お墓の中まで持って行くの。それがあの子の幸せ、いえ、あの子の人生のためだと思うから」

 いい答えだった。

「そうですか」

 解を聞けば観月の腹も決まった。

「じゃあ、私も言いません」

「……あなた」

 青白い炎が、一瞬赤く燃え上がった気がした。

「よろしくね。先生」

「はい」

 絡んだ縁は、結ばれるものだ。

 観月は窓の外に目を遣った。

 朱い雲が流れていた。

 春は案外、近いかもしれない。

「大丈夫ですよ。玲ちゃんは。何があっても。何もなくても」

「そう? そうだといいのだけれど。あなたのように」

「いいえ」

 観月は頭を横に振った。

「私は弱いです。だから、周りの人に助けられてばかりで」

 ふふっ、と愛子は声にして笑った。

「人は、そういう人を支えるの。支えられた人は強いわ。折れないから。そういう強さを見せてやって」

「見せられるでしょうか」

「見せられるわよ」

「どうすれば」

「普通にしているだけでいいんじゃない? だってあなた」

 面白いもの、と言って愛子は笑みを深くした。

 顔に差す朱は、傾きゆく冬の陽を映したものではないだろう。

 病人に少しは、観月も希望と力を渡せただろうか。

「玲ちゃんの試験、誰にも邪魔させませんから」

 遠くでカラスが鳴いた。

 愛子は小さく、有難うございます、と言った。


※ 次回は、3/3(月)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)