
鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第5回
9
――良いお年を。
1年を締め括る挨拶を美加絵と交わし、観月は〈ラグジュアリー・ローズ〉が入るビルの外に出た。
終電の時間はとっくに過ぎていた。ドアマンの大友たちももういない。
そうするともう、さすがに銀座も静かなものだ。魂が抜けたようになる。
やおら、取り出した携帯でタクシードライバーの村田に掛けた。
すぐに繋がりはしたが――。
――ああ。ミズキさん。私、今ですね。お客さんを川崎に送っていく途中なんですよ。1時間くらいだと思うんですけど、どこかで待っててもらえませんか? たぶん、今年は今日が最後になりますよね。だから、私が自分で送らせてもらいたいんですよ。近くなったら連絡入れますんで。
ということだった。そう言われると、別の人でもいい、とはなかなか言いづらい。そのくらいの分別は観月にもある。
それでふと、美加絵に聞いた話が気になって〈Bar グレイト・リヴァー〉があった場所へ行ってみることにした。
ビルの左手に回って喫煙スペースに入り、さらに奥に向かう。
隘路があって裏通りに抜け、大通りまで出て道を2度ほど曲がれば、また隘路になって、その中ほどに古い3階建ての建物があった。
外から直接地下に降りる階段が手前にあり、かつての〈Bar グレイト・リヴァー〉はその地下1階に存在した。
階段を飾るように、周囲にはオリーブやユーカリ、トネリコ、レンギョウ、後は薔薇に紫陽花。
そして、いくつもの鉢植えの庭木類に守られるかのように、小さなスタンド看板が置かれ――。
「あれ」
観月は思わず呟いた。
地下に降りる壁に、ビル共用の電気でランプが灯るのはわかる。
ただ、スタンド看板にも明かりが点いているのは解せなかった。約1か月前、完全閉店後に1度訪れたとき、その明かりは間違いなく消えていた。
通りから一瞥するだけのつもりでいたが、訝しさに惹かれて近付いた。
かすかに、漏れるような気配も地下にあった。
階段を降りれば、〈Bar グレイト・リヴァー〉に、たしかに明かりが灯っていた。
思わず、曇りガラスの嵌った木製の扉を引き開けた。
果たして、店内には2人の男がいた。
「おや。銀座の小鳥さんが、迷い込みましたかね」
カウンターの中に、今声を発したバーテンダーらしき男が1人。
そして、向かいのスツールに、やけに圧の強い老人が1人。
老人はただ座しているだけで、醸す雰囲気の強さは半グレ連中の比ではなく、ドアマンの大友とも比ぶべくもなかった。
それでふと、思い至った。
スツールの老人は、もしかしたら――。
そう思って見れば、目と耳の形が美加絵にそっくりだった。
なら老人は、沖田剛毅ということだろう。
美加絵の父で、ここのマスターだった高木明良の叔父。
そう思ってみればなるほど、切れ長の目や濃い眉毛が、高木明良に似ていなくもない。
「ここはまだ店じゃねえよ」
決して大きくはないが、店内の空気をゆっくり動かすような声だった。
「沖田さん、ですか」
聞いてみた。
触れるべきか触れざるべきか。
相手は間違い様もない闇の首魁の1人だ。
だが、どうしようもなく興味が勝った。
「なんでえ」
「小田垣、観月といいます。あの」
「ん? 小田垣? ほう。あんたがそうかい。その名前ぇなら、美加絵に聞いてらあ」
「どう聞いてます?」
「この店を閉店に追い込んだ女。いや、この店の最後を、看取った女」
剛毅の目に光が宿った。
押されるような気が観月にはした。
胸の奥から丹田に力を落とす。
それで観月を縛るような気は霧散した。
ほう、と剛毅は感嘆らしき吐息を漏らした。
光はすぐに消えた。
試しだったのかもしれない。
剛毅はつまらなそうにして前を向いた。
カウンターの上に空いたグラスがあった。
今の今まで、観月は気が付かなかった。
剛毅はグラスをバーテンダーの方に押した。
「シンガポール・スリング。もう1杯だ。あんたは?」
言いながら剛毅は、自分の隣のスツールを示した。
「えっと」
ひとつ空けて観月は座った。
「あの、ブロッサムって出来ますか」
「出来ますよ」
カウンターの中の男は微笑んだ。
「妹弟子のカクテルです。頼んでくれて、有難う」
「やっぱり」
男は美加絵が言っていた、高木明良の弟子の1人だった。
だが、聞く前から観月には納得だった。
白いカッターシャツに深みのある黒いベスト、同色のボウタイ。
男は着ている物といい立ち姿といい、初めから高木にそっくりだった。
「ああ。いえ」
礼を言われるようなことではない。
観月は京香から、職場を奪ったのだ。
首を横に振り、顔を伏せた。
「いえ。止めてくれたんですよ。あなたは。京香がそれ以上に落ちるのを。バーテンダーとして、壊れるのを」
それは救いです、という男の言葉が温かかった。
シェイカーの音が軽やかだった。
シンガポール・スリングが饗され、ブロッサムが饗された。
「これを呑むとよ。明良が懐かしくてよ」
誰に向けた言葉かはわからない。
その分、遠い言葉だった。
剛毅はグラスに口を付け、喉を動かした。
「去年だ。1人でここに久し振りに来た日があってよ。そこで、明良の鎖を解いてやったんだ。それがクスリと繋がっちまうことになるたぁ慮外だったが。なんにしろ、それっきりになっちまった」
「去年、ですか」
「ああ。もうすぐ1年になっかな。――もういいぜって言ったとき、あいつぁ、泣き笑いの混じったような変な顔してた。実際、どう思ったんだろうな。俺ぁ、姉ちゃん孝行出来たんかな」
観月も、ブロッサムを呑んだ。
撫子色のアロマが喉を滑り落ちてゆく。
「出来たと思います」
紡がれる言葉も、まるでアロマだ。
「ああ?」
眉間に皺を寄せる剛毅の前に、美加絵からもらったフォトグラフを滑らせた。
シニカルに笑うマスターを、剛毅は食い入るような目で見詰めた。
「――そうかい。明良」
剛毅はポートレートの表面を撫でた。
「なによりだ」
観月の方に戻しながら、剛毅はそう言って前のめりに笑ったようだ。頭を下げたつもりかもしれない。
「礼をしなきゃな。もう、大して力のねえ爺いになっちまったがよ。そう、ここで呑む分にはよ」
ただでいい。
そんなことを、剛毅は宣言するように言った。
「それでも、これくれぇは出来る。もっとも、オープンは年明けになるがな。看板も変えて、水回りをちょっといじって、ああ、トイレは全改装だったな。まあ、そこそこ時間も金も掛かる。正式な店開きは、あっちで美加絵にでも聞けばいいや」
「ヤクザの奢りは結構です。だから、今日も自腹のつもりで頼みました」
「けっ。言うねえ。俺んとこの丈一が聞いたら、今晩のうちにあんた、京浜運河に浮かぶかもな」
剛毅はまた、観月を見た。
観月は気にすることなく、ブロッサムを口にした。
「ふん。動じねえか。面白くはねえな」
「すいません。なかなか表情には出ない方で」
「ああ。そうだったな。それも美加絵から聞いてたわ。いやだね。歳を取るってのは」
観月は特に答えなかった。
「ヤクザからじゃねえ。ここの、日替わりのバーテンダーからのプレゼントってことにしよう。――あんた、今バーテンダーの真似事もしてんだってな」
「ええ」
「日替わりのバーテンダーの、それぞれのカクテル。同じ物を頼んでも同じじゃねえだろうしよ。それってのは、えらく勉強になるんじゃねえのか。なあ、坂井」
カウンターの中でシェイカーの用意をする男を、剛毅が気軽にそう呼んだ。
「そうですね。私だったら、またとない機会だと思うでしょうね。そもそも見て覚えるのは、いい職人の基本ですから」
如才ない物言いだった。穏やかな声の律動も、もしかしたら1流のバーテンダーの条件かもしれない。
「だよな。なら、坂井。この姉ちゃんが来たら、お前らで1杯ずつサービスしてやれや。お前ぇらの師匠に、少なからず関わった女だ」
はい、と言って坂井は頭を下げた。
「小田垣さんさえよければ」
観月にとっては願ってもないことだった。
こちらこそ、と観月も頭を下げた。
「今日の分もな。坂井の奢りだ。なあ」
下げた頭の上を、そんな剛毅の声が通った。
「そうですね」
観月が頭を上げると、ホワイトレディが出された。
「私の自慢のひと品です」
「有難うございます。じゃあ、今日の最後の1杯に頂きます」
坂井のホワイトレディは香りが高く、観月の作るものとは隔絶の差があった。
味わいは、いい勉強だった。
呑み切ると、いい時間になった。
立とうとすると、剛毅が先に額を叩いた。
「ああ。酔った。坂井。うちの車を呼んできてくれ」
坂井が一礼して外に出て行った。
「なあ、姉ちゃん。ああ、小田垣って言ったな。小田垣さんよ」
坂井を外にやったのは、人払いだったものか。そう思わせるタイミングで剛毅が口を開いた。
「それでよ。カクテル代のついでと言っちゃあなんだが――」
この後、剛毅は意外なことを口にした。
観月としては、断ることの躊躇われる頼みだった。
それにしても、年末年始休暇が1日減る計算にはなるが。
――休んだら休んだ分、休み癖が付くさね。働けば働いた分、働き癖が付くよ。さて、どっちが健康で裕福かね。いや、違うね。どっちが不健康で貧乏か、だね。
松子の言葉が、こんなところで染みてくる。
「いいですよ」
受諾すると、見計らったかのように坂井が帰ってきた。
「頼んだぜ」
立ち上がる剛毅を送るように、坂井と2人で後に従い、階段を上がった。
外の通りの方に、隘路を塞ぐようにして数人の男が立っていた。
〈Bar グレイト・リヴァー〉最後の夜、隘路で観月を挟んだ上海の男たちにも似た男たちだった。
背格好がというわけではない。触れたら切れるような、その危険な気配がだ。
剛毅のボディーガード、沖田組の精鋭ということだろうか。
観月の知らない世界、いや、知らなくていい、夜よりも深い闇に住む者たちだ。
その中に、剛毅は真っ直ぐに歩いて行った。
観月のいる世界から、剛毅が闇の中に帰ってゆく。
「じゃあな。小田垣さんよぉ。全体、色々とよろしくな」
振り返りもせず声を張り、右手を上げて剛毅はそう言った。
「そうだ。沖田さん」
ふと思いついたことがあり、観月は躊躇なく声を掛けた。
「ああ?」
「ここのお店、新しい名前は決まってるんですか」
足を止め、振り返り、長江だと剛毅は言った。
「〈Bar 長江〉。そうじゃなきゃお前ぇ、小田垣さんよぉ。高木明良ってえ男のここでの30年がよ、全部消えちまわぁ」
長江、アジアのグレイト・リヴァー。
「了解です。いえ、納得です」
剛毅は黙って向こうを向いて歩き、もう再びこちらに目を向けることはなかった。
10
翌日、12月晦日は木曜日だった。ついでに言うなら快晴の大安だ。〈四海舗〉の松子が大いに喜ぶ。
この日の午後3時過ぎ、観月の姿は品川区の大井町に見られた。
駅の東口を出て歩くとすぐに、地域の中核病院である大井町総合病院があった。9階建てで横に広く、前面駐車場とエントランスが開放的で大きい病院だった。
その病院を左手に見ながら、観月は角を曲がり、近隣の生活道路と思しき道を300メートルほど進んだ。
そこから片側1車線の区道に出てすぐのところが、今日の観月の目的地だった。
10階建て70戸程度の、だいぶ老朽化が進んだ中規模マンションだ。
〈Bar グレイト・リヴァー〉のマスター、高木明良が20数年前に購入したものらしい。
「ふうん。ここね」
観月は帆布のショルダーバッグを揺すり上げ、歩道から奥のマンションを見上げた。
屋上のペントハウスに、〈和進レジデンス1番館〉という名称とマークが見えた。
そこが、沖田剛毅に頼まれた人物の住むところだった。
――それでよ。カクテル代のついでと言っちゃあなんだが。
銀座裏のバーカウンターでそういった後、剛毅はこう続けた。
――ひとつだけ、俺の頼みを聞いちゃくんねえかな。
ヤクザのですか、と臆することなく観月は聞いた。
――けっへへ。こいつぁ、参った。
剛毅は歯を剝いて笑った。
――けど、そうだな。いや、そうだがよ。そうじゃねえんだ。頼みてえのはよ。まったくの堅気の話だ。短い間だが、勉強を見てやって欲しい子がいてよ。もうすぐ高校受験の中学生だ。
――はあ?
不思議な取り合わせに、思わず聞く気になってしまった、というのが本当のところだったろうか。
だが、扉の外に目を向け、おそらく気を配りながら、
――見てやって欲しい中学生ってのはよ、明良の娘だ。
そんな言葉で続けられた剛毅の話は、聞いたら無下には出来ない話でもあった。
――えっ。マスターの。
思わずそんな言葉が口を衝いて出た観月を、
――声がでけぇよ。どこの誰にも、聞かれるなぁ無しの話だ。
と、剛毅は強い目で窘めた。
――すいません。けど、マスターの、ですか? 中学生の娘さん。
――ああ。内縁のってやつだがな。20年くれえ前の一時期、今は美加絵がやってる店に勤めてた女でな。真っ正直で真っ直ぐな女でよ。仮の名前も嫌って、堂々と愛子ってぇ本名で店に出てたくれえだ。我慢がありゃあもう少し保ったのかもしれねえが、あんときぁ、どっちも若さが勝ったんじゃねえかな。
――別れたんは、その子が生まれる前のことだ。喧嘩ばっかでもよ、男と女が一緒にいりゃあ、することはすんだな。愛子が妊娠に気付いたのは、明良が手前ぇで買ったマンションを出てった後だった。
――じゃあ、そのことをマスターは。
剛毅は首を左右に振った。
――愛子は、言えなかったってな。マンションもよ。手切れ金みてえに、名義変更も綺麗に済んでたってえし。だからよ、明良は最後の最後まで、娘のこたぁ知らねえよ。知る機会もなかっただろうよ。明良は生まれた娘のことも、それからの愛子のことも、なんにも知らねえままよ、海を越えてっちまった。
――それを、あなたはご存じなんですね。今の今までのこと。
そりゃぁそうさ、と剛毅は言った。
――内縁でもよ、明良と縁付いてるってこたあ、俺とも縁があるってことだ。そんで、明良に出来た娘は姉ちゃんの孫でよ。姉ちゃんに代わってよ。まあ、俺にとっても、孫みてぇなもんだからな。
剛毅は壁の棚に整然と並ぶ酒瓶を眺めた。
ゆっくりと、その1つ1つをたしかめるように目を動かす。
――昔ぁ、堂々と顔を合わせたことだってある。今でも、なんだ。俺ぁ、囲ってる女の1人をそのマンションに住まわせてるからよ。そこに通うときゃあ、会えば愛子とは挨拶もする。立ち話もする。玲にも声を掛ける。今じゃ玲にはよ。ああ、玲ってのがその子の名前ってぇか、そう呼んでくれって言われててよ。俺もな、その代わりに玲には、最上階のお爺ちゃんなんてな。そんなふうに呼ばれてるよ。
そして、剛毅は笑った。
その笑顔に少し、観月は肉親に向ける柔らかさを見た、気がした。
本当にそうかどうかはわからないが。
観月には人情の機微と、〈喜〉と〈哀〉の奈辺はよくわからない。
剛毅はまた、店の外を気にしながら腕を組んだ。
――もっとも、明良と俺のことにしたって、知ってる奴は限られる。戸籍から何から、全部を完璧に仕上げたんだ。それが、その上に愛子と娘のことになるともう、知ってる人間なんかほとんどいやしねえ。そう、俺と源太郎と。
――源太郎、ですか。
――おっと。そりゃあどうでもいい。あんたにゃ関係ねえ野郎だ。
多分、剛毅ははぐらかした。口が滑ったということだろう。
店の外に、階段を降りてくる足音を聞いた。
――俺の孫の家庭教師だ。どうだい?
とにかくよ、と言ってカウンターを軽く叩いた。
――いいですよ。
――頼んだぜ。
この一連が昨日、いや、今朝方のことだった。
品川区大井町にある、築20数年のマンションの、7階の角。
そこが高木明良の元内縁の妻愛子と、愛子の1人娘・玲の住まいだった。
もっとも、剛毅に聞く限り現在、愛子はそこにいないという。
愛子の居場所は駅前に建つ大井町総合病院の、6階だった。入院病棟だ。
――そんなこともあってよ。
と、剛毅は言っていた。
癌で3年前に、胃の3分の2を摘出した愛子は、2か月前に大腸への転移が見つかり、今は入院して、抗がん剤治療中ということだった。
――だからってお前ぇ。俺ぁ表に出られねえ。金輪際、出るわけもねえ。俺ぁまあ、世間様から見たら、どっからどこまでも赤の他人だ。そういう戸籍を明良に作ったし、その戸籍をブレさせねえのが、あの親子の幸せだろうよ。
――賢明ですね。
――ふん。こんなのは昔っからの、世の中の常識だろうぜ。任侠なんざ、世間から後ろ指差されるくれぇでちょうどいい。そんくれえなもんだ。
――因果な商売ってやつですね。
――商売じゃねえ。
――じゃあ、なんですか。
――生き方だ。
ヤクザの言葉とはいえ、やけに腑に落ちるものだった。
「さて。じゃあ、行きますか」
観月は、〈和進レジデンス1番館〉の敷地に足を踏み入れた。
道路に面した敷地の際には、隣地境界線に沿って手入れの行き届いた植え込みが作られていた。この時期はカタバミやノースポールがチラホラと咲いている。どれも低い花木ばかりで、周囲とマンションとの隔絶感はない。
敷地内には植え込みに沿っていくつかのベンチもあって、マンションと近隣の住民の交流が配慮されているようだ。
このときもコートを着た老夫婦がベンチに座り、通りを歩くスーパーの袋を提げた女性に声を掛けていた。
そんなベンチと冬の花々を左右に見ながら進入路を進むと、正面にマンションの風除室があった。
エントランスへの自動ドアを開けると、1人のスーツの男が立っていた。
年齢は50そこそこか。グレーのスーツに紺無地のネクタイ、黒のトレンチコートをきちんと着こなした男だった。銀縁の眼鏡と全体的に細い顔、七三に分けて固めた髪が相まって、シャープな印象を与える。
男は穏やかに踵の音を響かせながら、真っ直ぐ観月に寄ってきた。
「小田垣さんですか」
そうですと答えると丁寧に腰を折り、男は井ノ原ですと名乗った。
愛子の入っているがん保険の、代理店の社員の名前だと剛毅には聞いていた。
――よくは知らねえが、そいつが案内すらぁ。
とは言うが、代理店自体には沖田組の3次団体の息が掛かっているらしい。要するに、表からは見えないが、扱いはフロント企業のようだ。
保険契約のそもそもは、一緒に暮らし始めたときに明良が店の客の勧めで入り、愛子が相乗りしたという。
ということは、この店の客というのは沖田組の関係者だろう。
明良は当然そのことを知っているだろうが、愛子に関しては、その辺のことは剛毅もわからないと言った。
井ノ原という社員にしても、フロント企業に勤めていても、沖田組とは関係がないようだ。他の保険会社からの転職組だという。
愛子の保険の担当は、初手から3次団体を通じ、出来るだけ〈堅気〉の真面目な係員が引き継ぐことに決めてあるらしい。担当はこの井ノ原で2人目になるようだ。
井ノ原は3年前の、初めての保険金申請となる胃癌の手術のときからの担当で、業務以外にもなにくれとなく母娘の世話を焼いているという。
そのことにより、愛子も玲も井ノ原には全幅の信頼を寄せているようだ。
とはいえ、玲は受験時期ということも多感な歳頃ということもあり、年上の男性である井ノ原とは、付かず離れずの適当な距離にあるらしい。
――そんなこともあってよ。病院の方、愛子の方は病状から何からよくわかってるが、玲の方がよくつかめねえ。心配なんだよ、これでもよ。ヤクザでもよ。それもあってよ。
家庭教師を頼みてえんだ、と今朝方の剛毅は言った。
※ 次回は、2/1(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)