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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第4回


 だが、観月の予感とは裏腹に、

――あ、来た来たぁ。

 と、迫り来る一団に嬌声にも近い声を上げたのは誰だったろう。

 見れば、イオリというGLの下のマリカというキャストだった。右手を上げ、高いヒールの踵の音をインターロッキングの歩道に響かせて飛び跳ねていた。

――ヤッホォー。

 その隣のユウミも同じように手を上げ、飛び跳ねる。

 2人の姿を認めたからか、先頭のバイク2台がさらに盛大なローリングと空吹かしを始めた。

 先頭の2人はノーヘルでリーゼントの、黒いツナギを着た男たちだった。

 街灯の明かりにようやくはっきりしてきた顔は、どちらもえらく若いものに見えた。目ばかりギラつかせて、危ない気を放散させていた。

 歳回りは観月と同じくらいだろうか。はっきりと見えるニキビの数を考えれば、もう少し若いか。どちらにしても10代に違いないだろう。

 風の流れに従って、並木通りにいきなり排気ガスの臭いが強くなった。

 タクシーや迎車の渋滞のときでも、観月はそこまでの臭いを感じたことはなかった。

――土曜だしさ。呼んじゃったんだぁ。ねえ、みんなも一緒に来ない? これから青山のバーを貸し切りでさ。オールでパーティーなんだよぉ。

 ユウミがそんなことを言って、回りの数人が歓声を上げた。

 なるほど。

〈お迎え〉というやつか。

 なるほど。

 理解は出来ても、深夜に撒き散らす騒音と公害は納得出来ないが。

 バイク2台が観月たちの真横で停車し、少し手前でベンツを先頭に車列が止まった。

 白いベンツの、左ハンドルの運転席から降りてきた男がマリカを呼んだ。

 BMWも同様だった。ユウミを呼ぶ。

 それぞれの車の右側の助手席に、2人が足早に回った。

 ドアを開け、振り向くような姿勢で2人はこちらに手を振った。

――ねえ。おいでよ。

――おいでおいでぇ。

 2人の手招きに誘われるように、数人が車列に向かった。

 先頭のバイクがまた、停車したまま空吹かしを始めた。

「きゃっ」

 観月の脇でキラリを始めとして3人ほどが両耳を手で塞ぎ、顔を顰めた。

 やおら、観月は2台のバイクの前に立った。

「あのさ。煩いんだけど。止めてくれない?」

 アルバイト仲間たちの精神衛生を守るのも、GLの務めだろう。

 そんな責任感から出た行動で、他意はない。

 たとえ仁王立ちに見えても、別に喧嘩を仕掛けたつもりはないが、

「ああ?」

 先頭の2人がバイクから降りた。

 空吹かしが止んだのは良かったが――。

「言うじゃねえか」

「いい度胸だな、おい」

 近い方の男が肩を揺らし、右腕を伸ばしてきた。

 胸ぐらを掴もうとしたらしいが、その手が掴んだものは冬の夜気だけだった。

 観月が動いたとも見せず、男が腕を伸ばした分だけ引いたからだ。

「ああ?」

 わかっていないようで、男は大股で前に出て、殴るようなスピードで左腕を伸ばした。

 その手も空を切った。

 観月にとっては馬鹿馬鹿しいほどの些事だが、男のこめかみに青筋が立った。

 観月が〈軽く〉あしらったことは理解出来ていないだろう。

 ただ苛立っているようだった。

 不安定なやじろべえが、怒気に振れたようだ。

 と――。

「おい。よせよ」

 ベンツの男が、こちらを見て声を掛けてきた。身長は170センチ台の前半か。堅太りな分、もっと大きく見えた。

 ベージュのジャケットはカシミアだろうか。青い開襟シャツの胸元からごつい金のネックレスを覗かせる、驚くほど陽に焼けた男だった。季節を考えれば外国帰りか、日焼けサロンに籠ったに違いない。

 四角い黒々とした顔に、作ったような白い歯がやけに目立っていた。

 目立っていたのは、笑っていたからだ。

「綺麗な花ってのは、愛でるもんだ。物騒なことすんじゃねえよ。ねえ」

 男は目を観月に向けた。

 作った笑顔の中で、笑わない目だった。

 観月はただ、視線を合わせた。

 揺れず、ぶれず、真っ直ぐに見た。

 へえ、と男は感嘆を漏らした。

「棘のある花も、いいもんだ。悪くねえ」

 男は言いながら、ジャケットの胸ポケットから名刺を取り出した。

「けどね。あんまり尖って、怪我するとつまらねえよ」

 受け取り、観月は目を落とした。

 エムズとあった。株式でも有限でもない。ただエムズと。個人組織か。

 戸島健雅。

 そう書いてあった。

「どうだい。あんたも一緒に――」

 と、戸島が言い掛けたとき、最後尾のバイクの群れから1台が、歩道に乗り上げるようにして前に出てきた。

「おいおい。いいとこなのによ」

 戸島が尖った声を上げる。

 近寄ってきたバイクは、やはりノーヘルの若い男だったが、髪は脱色して短く刈っていた。精悍、に見えなくもない。

 男は、キャストたちが端に避けた辺りでバイクを降りた。

 背丈も180はあるようだった。碧の綿ビロードにキルティング加工を施したスカジャンに黒い革のパンツを穿いていた。

 スカジャンを彩るのは、錦糸も鮮やかなイーグルだ。

 捲り上げたスカジャンの袖から覗く腕が、筋肉の捩れを見せて丸太のように太かった。

「いえ。俺も挨拶と思いまして。相談役。いいっすか」

 けっ、と戸島は吐き捨てた。

「なんだ。お前の唾付きかよ」

 戸島はその男と入れ替わるように歩き、キャストたちの中に名刺を配りながら割って入っていった。

――俺は、エムズって芸能事務所をやってる戸島ってもんだ。よろしく。

――ええ。エムズぅ。

――あ、私、聞いたことあるかも。

――お、嬉しいねえ。銀座の綺麗どころに知られるなんて、有名になったもんだ。

――でもさ。AVでしょ。前の店の子が言ってた。

――それも、手掛けてるってだけさ。でもね。そのAVでもね。お姉さんたちみたいに綺麗だと、いいお金になるんだよ。それにさ。上手くいけば、テレビにも出られるようになるかもってね。

――あ、飯島愛ちゃんとかそうだよねぇ。

――そうそう。よく知ってるね。物知りだねえ。だからよ。俺と繋がっといて損はないぜ。会社も順調に、来年には法人化するつもりだしよ。でかくなるぜえ。

 そんな雑な話を耳にしつつ、観月は寄ってきた男から目を離さなかった。

 相手の視線が強かった。

 目を離した瞬間に、噛み付いてくる気がした。

「うちの数原が、世話になったようだな」

 男は余裕のある笑みを見せながらそう言った。

 右の犬歯が大きかった。牙のようだ。

「うちの? ああ。あんたがリーダーってこと」

「まあな」

「挨拶なら、本人が直接来ればいいのに」

「なんだ?」

「あの節は多大なるご迷惑をお掛けし、申し訳ございませんでしたって」

 観月が何を言っているのかわからないようで、男は眉を顰めた。

 観月は右手を上げ、人差し指を最後部のバイクに向けた。

 そこに、般若のスカジャンを着た太った男がいた。

 観月が指を向けると、男はその他大勢の中に素知らぬ顔で隠れていったが、それが数原という名前の男なのだろう。

 名前こそ知らなかったが、観月はその男のことは覚えていた。

 2か月前、〈蝶天〉のキミカやジュンナとの揉め事に絡んで、観月が花椿通りに叩きつけた男だった。

 戸島との遣り取りのうちに、観月は俯瞰の視野でそちらの動きも捉えていた。

 数原がバタバタとした動きでバイクを降り、この男に何かを耳打ちしたのは見えていた。

 男のバイクが歩道に乗り上げ、前進を始めたのはその直後だった。

「さっき、その数原って男と何か話してたわよね」

「へえ。見えてたんかい」

「ええ。バタバタと、どんな告げ口だったのかしら」

「暴力女だってよ」

「笑っちゃうわね」

「だったら笑えよ」

「私の勝手でしょ」

 男の目に、剣呑な光が宿る。先程来よりさらに強い光だった。

 この男のやじろべえは、一瞬で狂気にも邪気にも平気で傾くと知る。

 観月は知らず、左足を小さく引いて千変万化に備えた。

 けれど、そこまでだった。

「じゃ、お前ら、行くぜぇ」

 キャストらの中から戸島が出てきた。

 気が付けば一団の車列の後方に、数台のタクシーの渋滞が出来ていた。

「これ以上、停まってたって、寒ぃだけだ。青山のバーに向かうぜぇ」

 片手を挙げ、戸島はベンツの運転席に回った。

 バイクの男はそれで、剣呑な気を収めた。

「あんた。名前は」

 それだけを、低い声で聞いてきた。

「ミズキ。それ以上は秘密。あんたこそ、名乗りなさいよ」

 俺はよ、と言いながら男はバイクにまたがった。

「狂走連合八代目総長、子安明弘ってんだ。これ以上は秘密だがな」

 先頭の2台がまた、派手な爆音を響かせた。

 まるで行進のファンファーレだった。

 全体がもぞりと動き出す。

 観月は目を細め、それを並木通りの闇に見送った。

 残ったキャストたちは、何事もなかったかのように、また思い思いに話を始めた。

(これも銀座、かな)

 そういう街で働く女性たちだと、観月は改めて思った。


 暮れも押し迫った29日は、少し風の強い1日だった。東大はすでに冬季休業に突入していた。

 観月は前日の午後、部員有志で部室の大掃除を済ませ、この日の午前はドミトリー・スズキで、基本的には参加必須の大掃除を済ませた。

〈帰省者・補講者以外、全員朝8時に集合〉

 そういう張り紙が、食堂の各テーブルに1週間前から貼られていたからだ。

 観月にとっては2回目になる寮の大掃除だった。要領は得ていた。

 食堂や廊下、風呂場、玄関などの共用部を、20人以上で午前中目一杯掛けて綺麗にする。

 この綺麗かどうか、の判断は寮長である竹子に委ねられるから、妥協は一切ない。今年1年目の寮生などは本当に、冬場に汗を掻く重労働になる。

 その代わり、一生懸命やれば午後に持ち越すことがないのも、寮長の判断ではあるが、毎年の大掃除の吉例ではあった。

 その後、普段は無い昼食を寮長に振る舞われて、それでドミトリー・スズキの年内は一応、解散になる。

 竹子も、寮生の食事の世話は1月3日まで休みだ。

――お疲れぇ。

――じゃあ、よいお年をぉ。

 午後になってからは、帰省する者あり、アルバイトに行く者、仲間や彼氏と旅行に出掛ける者、またはその計画を後日に控えている者、生真面目に自室の大掃除をする者、なんの予定もなくふて寝やけ酒の者、等々、女子大生の年末年始はバリエーションに富んで様々だ。

 観月はといえば、少なくとも夜には年内最後のバイトが控えていた。

 だから空いた昼間の時間は、この日が〈四海舗〉も年内最後の営業日ということで顔を出すつもりだった。

 自室の大掃除は気概こそあるが明日へ後回しというか、おそらく来年へ先送りになり、そうしてたぶん、気概ごとどこかへ消滅するだろう。

 観月は、実質的には翌日の30日から1月3日までが完全な年末年始休暇だった。5日間を短いとみる向きもあるが、〈四海舗〉はなんと、明日明後日の、12月晦日と大晦日だけが休みらしい。

 旧正月の忙しさは格別らしいが、年始回りや祝いの席用の菓子の予約が入って、日本の正月もそれなりに忙しいと松子は言った。

 しかも、なら旧正月が過ぎたら休むのかと問えば、

――休んだら休んだ分、休み癖が付くさね。働けば働いた分、働き癖が付くよ。さて、どっちが健康で裕福かね。いや、違うね。どっちが不健康で貧乏か、だね。

 と、答えはきっぱりとしたものだった。

 頼もしいというか恐ろしいというか、かくて〈四海舗〉はきちんと数えたことはないが、年に休日は両手の指で足りるほどになる。

 そう言えば病院の日だけではなく、いつ行ってもやっているなあと、これは観月の偽らざる感想だった。

〈四海舗〉に顔を出したのは、3時過ぎになった。部屋の大掃除は諦めているが、ゴミ出しだけは済ませたからだ。

 この日は、〈四海舗〉名物の条頭は休みだった。すでに予約された年始の菓子の仕込みがスタートしているようで、店内のショウケースや棚にもいつもより商品は少ない。

 杏仁豆腐が無いことは残念だったが、

「暮れも押し迫ったこんな日に、こんな店に来るのはあんたくらいだよ。根こそぎ、残らず、喰らっていけばいいさね」

 言い方にちょっと引っ掛かったので断ろうとも思ったが、全品七割引きということだった。

「賞味期限?」

「なに。日頃のご愛顧さね」

 ということだったので乗った。あらかたを平らげて〈四海舗〉を出たのは5時近くになった。店内に人もいなかったので、最後は店内でお茶を貰いながら食した。

 それから銀座に回り、GLの一人に教えてもらったイタリアン・レストランで軽い食事をした。店に出る日は大体このくらいの時間での食事がルーティンだ。その後、〈蝶天〉のミーティングで饗される〈ぎをん屋〉のひと品をデザートにして、1日の食事は終わる。

 並木通りも水曜日とはいえ御用納めを終えた後だからか、人通りがめっきり減っていた。営業していない店も多かった。

(まさか、仏滅だからじゃないわよね)

 そんなことを観月が思ったほどだった。

 通りの賑わいの有無が即、〈蝶天〉にも反映する。健全な水商売とはそういうもので、客もそういうところを見るという。

 裕樹以下の読みとして、だからこの日は最初から出勤のキャストを少なく設定したようだ。逆を言えば、最後のひと稼ぎとばかりに、オープンまでに同伴や指名が入ったキャストだけが出勤するようになるらしい。最終営業日は、そんな夜だった。

 だからか、閉店時間も当初から30分ほど前倒しだとは聞いていたが、最後の客が帰る時間に合わせて、結果として10時台の閉店になった。

 観月はこの日もバーテンダーだった。その役割を乞われて店に出た。同伴も指名もなかったが、いつもより静かなフロアになる分、アクセントとしてバーカウンターは開きたいという裕樹以下の希望だった。

 カウンターの中に入ってお客とキャストのリクエストに応えてシェイカーを振った。

 当然、この夜はもうトナカイではない。トナカイは着ない。

 あれがよかったなあというお客もいたが、軽い笑顔でいなす、ということは観月の場合出来ないので、完全に無視をした。

 それはそれで、

――さすが。アイス・ドール。

 と褒めそやす者もいるから、酔客は不思議だ。

 年内営業が終わり、三々五々キャストが帰っていく中、最後の後片付けを済ませてから外に出る。

「さぁて」

 まだ終電に余裕はある時間だったが、観月自身、そのまま帰る気はなかった。

〈蝶天〉のある並木通りから銀座8丁目方向手前の花椿通りに向かい、左に折れれば50メートルも行かないところに、観月の目的の場所はあった。

 ひょんなことから知り合った、沖田美加絵がオーナーママを務める、〈ラグジュアリー・ローズ〉だ。

 土曜も営業しているこの店なら、間違いなくこの日も営業しているに違いなかった。

 それどころか、〈ラグジュアリー・ローズ〉は下手をしたら12月晦日となる翌日も、木曜ということで営業している可能性さえある店だった。

 銀座でも稀有な店だろう。

 花椿通りに入って角の一画を過ぎれば、左手に白線で区切られた喫煙スペースがあり、JTの広告が入ったスモーキングスタンドが2台置かれている。

 仕事終わりか休憩中の何人かが、必ずそこにいて煙草を吸っていた。今夜も1人だけパイプ椅子に座る〈広告マン〉、プラカード持ちのがぁさんこと、鴨下玄太もいた。目が合うと向こうから頭を下げた。首を竦めただけかもしれない。

 その喫煙スペースをさらに銀座7丁目の交差点方向に向かうと、そこに建つのが、〈ラグジュアリー・ローズ〉が入るテナントビルだった。

 揃いの黒いコートを着た数人のドアマンや、呼び込みの男たちが歩道に出ていた。

 もう顔馴染みの面々で、特にドアマンたちは、観月が向かおうとしている〈ラグジュアリー・ローズ〉のスタッフだ。

 オーナーママの美加絵は、広域指定暴力団龍神会系沖田組組長・沖田剛毅の娘だった。

 つまり〈ラグジュアリー・ローズ〉は、沖田組の息が掛かった、どころか、ほぼ〈直営〉店ということになる。

 そこのドアマンたちも、詳しく聞いたことはないが、みな沖田組の組員のようだ。特に、よく観月に声を掛けてくれるドアマンたちのリーダーらしい大友という30代半ばの男は、近隣のビルの店の呼び込みやドアマンたちからも一目置かれる存在らしい。

 たしかになんというか、侠気を感じる男ではあった。

「よお。久し振りじゃねえか」

 今夜も、1番先に観月を見つけ、そんな声を掛けてくれたのは大友だった。

 観月がいつもタクシーと待ち合わせる場所はさらにその先だったが、閉店後にバーの後片付けを終えてから店を出る観月とドアマンたちは勤務終了の時間が少しずれるようだ。

 そう。

 だから終電までに余裕のある銀座自体、観月も歩くのが久し振りだった。最初から〈蝶天〉の早い閉店が決まっていたこともあり、それでこの日は美加絵のところに顔を出そうと最初から思っていた。

「いる?」

 それだけで話が通じるほど、観月はもうドアマンたちと気安くはある。

「おう。今日は暇してるぜ」

 大友は親指を立て、薄い唇の口元を歪ませた。なんというか、笑いにも力がある男だった。

 エレベータに乗り、観月は最上階、10階のボタンを押した。

 勝手に上がり、勝手に店内に入り、勝手に店長室のドアをノックする。

「どうぞ。下から聞いてるから」

 少し〈焼けた〉声がした。

 ドアを開けると、肩からショールを掛けたドレス姿の女性が、応接セットのソファに座っていた。

 少しウェーブが掛かった亜麻色の髪、高い鼻、厚めに整った唇、すっきりとした輪郭の小さな顔の、観月より〈少し〉お姉さん。

 それが沖田美加絵だった。

 コーヒーのいい香りがした。テーブルの上に、湯気の立つコーヒーカップが2客載っていた。

 ドアマンから観月の来訪の一報を受けた美加絵は、すぐにコーヒーの用意をしてくれたようだ。

 コーヒーを飲みながら、少し近況の話をした。

「バーテンダー、してるんだって?」

〈蝶天〉のことに関しては、いきなりそんなことを聞かれた。

 思わず吹き出しそうになった。

「うわ。知ってるんですか。情報通ですね」

「そんなことないわよ。銀座って、本当は狭いのよ。雑多に色んな店が多いけど、多さで広く見せてるのね。大きな夢の、小さなお城。その集まり」

「深いですね」

「浅いわよ。だから、あなたのバーテンダーのことも伝わってくるの」

「シュールですね」

「そう? そうね。どっちかっていうと」

 そんな話をした。

 積もらない、話した途端に溶けてゆく泡沫のような話だ。

 美加絵との話はそういったものが多く、それが観月には楽だった。

 最後に、

「そういえばさ。グレート・リヴァー、年明けから再開するって」

 そんな話になった。

「え、あのマスターが」

 高木明良、いや、高明良。

 美加絵は緩く頭を横に振った。

「違うわ。真のオーナーはうちのパパ。形ばかりは私だけど。ふふ。沖田組直営2号店ってとこかしら」

 寂しく笑ってから、マスターの弟子の人たちに日替わりでね、と美加絵は言った。

「それって」

 高明良に沖田組と来れば、京香のオリジナル・カクテル、〈オープンハート〉が思い出される。カンナビ系麻薬、ゲートウェイドラッグとか、成分分析を頼んだ河東は言っていた。そこから深く、暗くに人を誘う、いや、落とす。

「心配しないで。それは違うから」

 観月の考えを察したようで、美加絵はそれを否定した。

「狭い夜の街だから、マスターの弟子を私は何人も知ってる。あの場所は聖域だって。誰もが言ってた。守る気あるって聞いたら、首を横に振る人は1人もいなかった。だから、ね」

 なるほど、再オープンは美加絵の発案か。

「そいつぁいいって、パパもふたつ返事だった」

 あいつほど旨えシンガポール・スリング、誰か作れっかな。

 そんなことも言ったようだ。

 なるほど、美加絵の発案を汲んだのは、沖田剛毅の情か。

 コーヒーを飲み終え、それを潮時に腰を上げると、

「あ、そうそう。これ」

 美加絵が先にソファを立ち、自分のデスクの引き出しを開けた。

 取り出したのは1枚のポートレート、いや、フォトグラフだった。

 初めて行った〈Bar グレイト・リヴァー〉でマスターが撮ったものだ。

 月と星のブレスレットをしたマスターは、フォトグラフの中で真っ直ぐにレンズを見て、シニカルに笑っていた。沖田美加絵も笑顔だ。

 1人、観月だけが硬い無表情だった。

「記念に。ふふ。なんの記念かはわからないけど」

「有難うございます」

 壁の掛け時計が音を発した。

 午前1時を知らせる、乾いた音だった。


※ 次回は、1/30(木)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)