年森瑛「バッド入っても腹は減る」第8回
「今度ちいちゃんと焼肉行くんだけど年森は食べれたっけ?」
「食べれないけど雰囲気は味わいたい」
「おけ! いこうず!」
というわけで中学からの友人であるちいちゃん、ユウと焼肉に行った。好きなの食べなと言われたので、二人が焼いているそばから興味をひかれた肉だけもらった。帰りに公園でたむろしていたらゲリラ豪雨に見舞われ、あまりのずぶ濡れ具合に爆笑しながら別れた。横断歩道の向こうで「気をつけて帰んな~!」と叫んでいる二人の姿は雨滴にほとんどかき消されて、でも笑っている声だった。
ずっと楽しく生きていきたいなあと考えていた頃からあっという間に大人になった。20代後半になると友人の結婚出産ラッシュが始まって孤立しがちと聞いてそれなりに覚悟していたのに、けっきょく誰一人として結婚も出産もせず、思いつきで集まってはドラえもんのひみつ道具名を叫びながらフリスビーをしたり小学6年生用の漢字ドリルを真面目に解いたりしている。望んでいたとはいえ、こんなに子どもの頃と変わらない人生で大丈夫だろうか。自分が子どもだった頃の大人たちはもっと成熱していたような気がするし、どうにも大人をやれている自信がない。本物の子どもたちに迷惑をかけていなければいいのだが。
『パーティーが終わって、中年が始まる』は、そのキャッチーなタイトルがたびたびSNS上で論争を巻き起こしているエッセイだった。パーティーは絶対に終わってしまうから結婚したほうがいいとか、女性はむしろ中年になってからパーティーが始まるとか、パーティーが始まらないまま人生が終わろうとしているとか。そんな喧々諤々の様子を見かけて、私も読んでみることにしたのだった。
著者のphaさんは「日本一有名な京大卒ニート」としてインターネットで名を馳せた人らしい。結婚や就職をせず、シェアハウス生活の中で新しい生き方を提唱し、どこまでも自由に生きていくはずだった彼も、45歳になって転機を迎えていた。読書も音楽も若い頃のように楽しめない。誰かといるよりも一人でいる方が楽しかったはずが、今では寂しくて仕方がない。想像力も衰えて、仕事も減った。面白おかしく生きていければいいという生き方に限界を感じ始めていたのだった。
冒頭から背筋のひやっとするような現状が綴られているのだが、絶望感で未来に蓋をされているような重たさはなく、中年になって体力も気力も衰えてしまった等身大の姿を淡々と語っている。帯にもある「衰退のスケッチ」という表現は言い得て妙だ。
それにしてもこの頃は暑い。暑すぎる。ご近所の紫陽花は咲く前から枯れていたし、家に飾っていたキャンドルもあまりの暑さにでろりと曲がってしまった。こうも暑いとキッチンに立つ気がおきない。さらに、腰痛で机に向かえないので寝ながらスマホで原稿を書き続けていたら利き手が腱鞘炎になってしまい、無理に動かすともげそうなくらい痛くなってしまった。火を使いたくないし、利き手も使えない。となると、できるのはオーブン料理しかなかった。
使える方の手できゅうりを持ち、まな板に押し付けてボキン、ボキン、と折る。ヘタは齧ってゴミ箱に吐き出す。ビニール袋に片栗粉を入れて、そこにきゅうりを入れて全体に粉が付くように揉む。思っていたより片栗粉が余ったので、冷蔵庫から剝き身のとうもろこしを出してきて、同じように粉をつける。余分な粉は振り落とし、バター醬油にくぐらせたあと、アルミホイルを敷いたオーブンの天板に並べていく。240度で15分、オーブンをブン。もう汗をかいてきた。クーラーのある部屋に戻る。
本書で一番興味深かったのは、男性のコミュニティについての話だった。男性の集団にいるときは〈個人というものが溶けている〉、とphaさんは語る。男性だけの集団では、個人的なことを掘り下げて話し合ったりせずに趣味や仕事などの話ばかりしているそうだ。深く話し合わないからこそ、気が合わないところがある人でもなんとなく場を共有できる良さがあるという。逆に、女性が多い集団は互いの個人的な事情を開示して通じ合っている感じがするそうだ。
この男性的なコミュニティというのが、まさにちいちゃんやユウのような中学からの友人たちとの関係性そのものだったので驚いた。彼女たちとは中身のある会話をしたことがない。趣味の話をしたら、あとは子どもがするような遊びばかりしている。私たちは個人として相対しているというより、楽しさを生み出す波のようなものに身を任せて揺れているだけだった。
ユウは私の家に来るとき手土産を持ってくる。こないだは「オカンの最近できた友だちがマルチの人らしくて健康食品とかフライパンとかお付き合いで買ってんだけど家にアホくらいあるから貰って」と言いながら無添加無着色がウリだというお菓子を持ってきた。私は平然と受け取って、そのあともユウの発言を掘り下げることはなかった。私たちは互いの生活にどんな大事件が起きていたときもずっとそうだったし、それに違和感や不満をもったことはなかった。
大学に入ってからは個人的な事情を掘り下げた話のできる友人ができて、作家になってから知り合った人たちはさらにその傾向が強まった。他人と個人的な話をすることって可能なんだ、大人になるまで生きててよかったとうっすら感動していたが、おおよその女性たちにとってはこういうコミュニティこそが普通だったんだろうか。でも、どちらの関係性がより重要だとか、本物の関係性だとかは思わない。私にとってはどちらも大切だったので、phaさんのこの文章にはかなり共感した。
オーブンが通知音を鳴らしたので、様子を見に行った。そこそこ焼けていたので裏返して醬油を垂らし、もう10分だけ焼いた。完成。できたてアツアツをすぐ食べる。うまい。レモネードシロップを炭酸水で割ったやつで流し込むとさらにうまい。最高の夏だ。一生これがいい。この、ワァーッとなる瞬間を毎秒味わって死にたい。毎日三食も他人にごはんを作りたくない。朝はスープでいいし、昼は抜きでいいし、夜に好きなものを食べたら湯舟にのんびり浸かって、本を読みながら気持ちよく寝たい。それ以外の、他人に行動を合わせる生活を今さらできる気がしない、けど、いつか後悔するのか?
結婚しないことで生じる一番のデメリットは、結婚したほうがいいんだろうかと悩む時間が定期的に訪れることだと思う。どうせ結論が出ないのだから考えなければいいのに、なぜかやってしまう。
phaさんの場合、一人でいることは創作のモチベーションと密接に結びついていたそうだ。誰かといるより、一人で本を読んだりどこかに出かけたりするほうが色んなことを思いつくから楽しかった。全てはひらめきのためにあった。なのに、中年になってからはインスピレーションが降りてこなくなってしまった。書きたいものもなく、やりたいこともない。ただ孤独だけが残ってしまったという。
ここだけ抜き出すと恐ろしい話のようだが、最後まで読むとそうでもない。抗いようのない老化に狼狽えたり、若い頃の感性を取り戻そうとあがく段階は過ぎ去った。自分の老いた姿を見つめて、じゃあこれからどうやって生きていこうかと未来を見やる、やわらかな諦観が残された読後感だった。私にとってはまだ少し遠くにある、不透明で恐ろしげに見える未来の、思いのほか平凡な輪郭をほんの少しだけ摑めたような気がした。
phaさんのように創作に熱心な人間ではないけれど、昔は一人でいるのが心地よくて、自分は孤独に耐性があるほうだと思っていた。友人たちと同じ釜の飯を食ったり映画を見に行ったりするのも楽しいが、一人で気兼ねなく食べて、自分のペースで物語に向き合っているほうが気楽だった。それが2020年の緊急事態宣言で家から一歩も出られなくなったとき、本当の一人ぼっちはつらいことを知った。私は永遠に一人でいたいわけではなく、会いたいときはいつでも誰かに会える状態で、あえて一人を選択したいのだった。教室でみんなが騒いでいるのを聞きながら夢中で本を読んでいたあの頃のように。
焼肉のあと、風呂から出るとグループラインが動いていた。ちいちゃんがアルバムを更新したようだった。私もなにか写真あったかなとカメラロールを見返す。少し前に行った公園のブランコで、全力で立ち漕ぎしているユウの動画があった。小さい子が近付いてくるとユウは飛び降りて、まだ大きく揺れているブランコの動きを止め、それから明後日の方に走り始めた。
「セブンティーンアイスある!」
「は、懐かし」
パーティーは今のところ続いている。後片付けがいつになるかは分からない。
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見出し画像デザイン/撮影 高原真吾