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罪は光に手を伸ばす

吉川英梨

 八王子警察署は眺望が独特だ。南東側は西東京屈指の歓楽街であるJR八王子駅界隈かいわいと高層ビル、タワーマンション群が見える。北側は浅川の河川敷で、秋川丘陵の向こうに秩父ちちぶ山塊と、晴れた日には赤城山まで見える。その山々が西から南へと連なり、陣馬じんば山や高尾山とをつなぎ、富士山が顔をのぞかせる。
 妖しくきらびやかな繁華街の喧騒けんそうと豊かな自然をぎゅっと凝縮した町、それが東京都八王子市だ。
 地域課の三木みき恭人やすひとは、大卒で警察学校を出て八王子警察署に配属になった。二十四歳の巡査、つまりは下っ端だ。毎日先輩から怒られてばかりだが、今日は『指導係』だ。
 女子更衣室から活動服姿の女性警察官が出てきた。交番勤務の警察官が着るその制服をまだ着慣れていなくて、初々しい。
「警視庁警察学校、一三四〇期山田教場の宮武みやたけエミ巡査です。今日一日よろしくお願いします」
 彼女はこの春に警察学校に入校し、実務修習のため八王子署にやってきた。一週間ここで実務を学び、警察学校に戻る。
「指導係の三木恭人巡査です。よろしく」
 手本で敬礼をする。エミも敬礼で返したが、手首に角度がついてしまっている。直してやった。
「学校はどう」
「はい、なかなか大変です」
 警察学校の学生は髪型にも厳しいルールがある。男子は五分刈りか坊主、女子はベリーショートヘアで、薄化粧しか許されない。エミも子供っぽく見える。
 三木は階段を下りながら、エミの書類を確認する。
「地域課志望なんだ。珍しいね。女性はたいてい交通課でしょう」
 女性警察官はミニパト乗務が定番だ。地域課は四交代制で夜勤があるし、華がない。最近は刑事志望の女性警察官も増えたが、地域課の方はさっぱりだ。
 エミは曖昧あいまい微笑ほほえんだだけだった。
「それじゃ西八王子駅前交番に向かいますけど、都内の駅前交番の中でも平和なトコだよ」
「八王子駅北口交番がすさまじそうですからね」
 エミが苦笑いした。
「八王子に詳しいの?」
「あ、八王子市民です」
「なんだ、そうだったのか。どのあたり?」
 自転車に乗りながら尋ねたが、答えはなかった。無口な子だ。
「八王子駅前界隈は歓楽街だからね。キャッチや風俗店も多いし、駅から徒歩五分の場所に暴力団事務所もある」
 暴行傷害、窃盗事件の取り扱いがとにかく多い。昭和のころはヤクザの抗争もあった。
「西八王子駅前交番は落とし物か道案内がほとんどだから、安心して」
 交番に到着した。申し送りをして交代したあと、そろって交番の前に立つ。すでに朝のラッシュアワーを過ぎている。駅前ロータリーは人がまばらだ。老人や子連れの主婦、たまに学生風の人を見かける。
 午後になって大学生から自転車窃盗の申し出があった。所定の用紙に記入してもらい、盗難の場所を確認する。
「南口のコンビニの前です」
 三木は場所を聞いてがっくりする。
「自転車が発見されましたら、連絡します」
 青年を見送り、三木は書類を取る。
「さてこの事案はこっち行き」
『高尾警察署』と記された引き出しに、書類を入れた。
「西八王子駅の南口は高尾警察署の管轄でしたね」
「そう。うちで取り扱いはできない」
 八王子市は広大なので、三つの警察署に管轄が分かれている。JR八王子駅周辺と北東部を管轄しているのが、八王子警察署だ。西の山間部を管轄し山岳救助隊がいるのが高尾警察署。アウトレットモールや、みなみ野というプチセレブの住宅街を擁している南東部は、南大沢警察署が管轄している。
 再び三木はエミと交番の前に立ったが、十六時になっても人はまばらだった。
 エミの実務修習は十七時十五分までだ。あと一時間ちょっとしかないのに、事案がない。
「今日は暇だな。これじゃ研修にならないね」
 三木は署の地域課長に電話をかけた。
「自転車窃盗が一件あったのですが、南口だったんですよ」
「高尾署管内じゃ、しょうがない」
「僕は指導係として評価シートを書かねばならないんです。書類一枚書かせただけじゃ評価のしようがないんですが」
「事案を探すから、一旦署に戻ってこい」
 エミを連れて八王子警察署に戻った。課長が分厚いビラの束を持って待っていた。
「高尾警察署のヘルプだ。該当地域に配ってきて」
 ビラには殺人被害者の女性三人の顔写真が載っている。
「ソロキャン連続殺人のビラですか……」
 
 今年に入ってから関東・中部地方のキャンプ場で、女性ソロキャンパーをねらった殺人事件が連続している。一人でキャンプをしている女性を撲殺し、山中で遺体を焼いて遺棄するという手口だ。
 一件目は群馬県の榛名はるな山、二件目は埼玉県の長瀞ながとろ町のキャンプ場、三件目は長野県の赤岳で起こった。
 死体遺棄現場は、充電式のライトが近くの木の枝に取りつけられ、黒焦げの遺体にスポットライトを浴びせていた。被害者三名に面識がないことから、愉快犯の犯行だろう。
 群馬、埼玉、長野と犯行現場が南下している。次は東京ではないかと警視庁も警戒しているようだ。
 三木は高尾山の西側にある南浅川キャンプ場に向けてパトカーを走らせる。
「撲殺したあとに遺体を焼くのは変だよなァ」
 助手席でビラを見ていたエミが顔を上げた。
「被害者の遺留品がすべてテント内に残ったままだったらしいよ。身元はすぐわかるだろうに、わざわざ山中へ運び出して遺体を焼く。しかもスポットライトつき。遺体の身元を隠すための行動ではない」
「詳しいんですね」
「僕は刑事課志望なんだ。ちょいちょい情報を集めているよ」
 人を殺すことではなく、焼くことに快楽を覚える犯人だろうか――そんな推理を署の強行犯係の刑事に披露したら「卒配そつはいの新人が推理ごっこか」と笑われたが。

「それにしても、高尾署管内の自転車窃盗事件は調べられないのに、ビラ配りは手伝わされるなんて、なんだかな」
 三木は運転しながら肩をすくめた。
「高尾署管内でキャンプができる場所が無数にありますからね。毎日回ってビラを配り続けるのは大変だと思います」
 高尾山は年間で三百万人が訪れる。世界で最も登山客が多いことでギネス認定されているほどだ。小規模所轄署の高尾署では警視庁作成のビラを配り切れないのは仕方ない。
 都道を折れて砂利の林道を進む。駐車場の先にキャンプ場はあった。近くには南浅川の源流にあたる沢がある。トイレは設置されているが、管理人は十六時までしかいないようだ。今日は月曜とあって人はまばらだった。
 駐車場にパトカーを停める。夏休みのいま、水遊びをしている小学生くらいの男児が五人いた。ひとりは沢に立ちションをしている。親たちはバーベキューをして酔っぱらっていた。髪の色がみな派手だ。八王子のヤンキーかなと推測する。
 三木は男児たちに声をかけた。
「トイレがあるんだから、沢で立ちションはよくないよ」
「関係ねーし」
 男児たちは親たちのもとへ逃げて行った。酔っ払った親たちは、三木やエミを見て嫌な顔をした。警察官が来て台無しと思っているのだろう。三木は家族連れにビラを配った。
「これ、女性ソロキャンパー狙いでしょう? うちみたいな子連れは狙わないんじゃないの」
 派手なネイルをした母親が答えた。
「そうかもしれませんが、お子さんもいらっしゃいますので、警戒をお願いします。子供だけの川遊びも危険です。くれぐれも目を離しませんように」
「はいはい、わかりましたー」
 家族連れと沢の間にひとりテントを張っている女性を見つけた。夕食の仕込みを始めている。鶏肉とりにくを手際よく切り分けていた。
「こんにちは。八王子署の者です」
 女性はぎろりと三木とエミを見据えるも、手を止めない。
「実は、関東近郊の山々で女性ソロキャンパーを狙った事件が相次いでおります」
「ええ。ソロキャン連続殺人でしょう」
 背後のテーブルに別のまな板があり、根菜と包丁が転がっている。
「包丁を二本も持ってきているんですね」
 気になって尋ねた。
「肉と野菜は道具を分けないと、食中毒が怖いでしょう。キャンプ場ではあまり洗剤を使いたくありませんから」
 あごで家族連れを指す。女性たちがおしゃべりしながら、沢で食器を洗っていた。洗剤を泡立てて、沢のき水で洗い流していた。
 キャンプ家族を忌々いまいましげな目つきで見る彼女の傍らには、切り株にナタが突き刺さっていた。薪割まきわりに使ったのだろう。
「身分証などをお持ちでしたら、見せていただけませんか」
 刃物を持ちすぎている気がしたので、バンカケする。女性はウエストポーチのファスナーを開け、運転免許証を出した。背後にいたエミがメモを取る。成田なりたしおり、二十六歳。現住所は東京都世田谷区だった。
「お仕事はなにをなさっているんですか」
 栞は鎖骨が浮き出て目は落ちくぼんでいる。
「ヨガのインストラクターです」
 栞のスマホにプッシュ通知が届いた。内容を確認し、栞は天を見上げる。
「ひと雨降りそう」
 西から黒い雲が流れてきていた。栞はタープを組み立て始める。
 三木は沢にいちばん近い場所に陣取る男性二人組に声をかけた。レジャーシートの上にペンチやドライバー、電動工具などが散らばっていた。キャンプになぜこれほどの工具を持ってきているのだろう。男性二人組というのも珍しい。彼らは沢のそばにくっついてしゃがみこんでいた。
「こんにちは。八王子警察署です」
 二人組は驚いた様子で振り返った。ひとりは手にコントローラーのようなものを持っていた。
 あっ、とエミが沢を指さす。ラジコンボートが上流へ上ろうとしていたが、転覆した。二人は慌てて沢の中に入り、ラジコンボートを引き上げている。
「すみません。なにかの競技ですか?」
「いえ、大学でスクリューの研究をしています」
 二人は八王子市内にある武工学院大学の学生だった。実験の邪魔をしてしまったことをび、ビラを配って注意喚起した。彼らは日が暮れる前に帰るとかで、反応は薄かった。
 次に、テントの設営もままならない様子の女性にビラを配った。
「えー怖い。次は八王子なんですか?」
「念のため、注意をお願いします」
「やだー。雨まで降ってきた」
 三木の制帽にも雨粒が落ちる。家族連れも空を見上げた。武工学院大学の学生二人は機材がれないように慌てて片付けをしていた。栞はタープを組み立て終えたところだ。中年女性は雨の中で大きなナップザックを探り、雨合羽を探している。見かねた栞が声をかけている。
「どうぞ、うちのタープに入ってください」
「すみませーん、初心者で……」
 三木はパトカーから雨合羽を取ってこようかと思ったが、ビラは濡れてしまうだろう。
「先にパトカーに戻っていて。あと一枚配ったら、僕も戻るから」
 エミに残りのビラを持たせて、三木はキャンプ場の外れにいる男性に声をかけた。男性はテントの入口で登山用のロープを淡々と結んでいた。
「八王子警察署の者です。すみませんが、身分証明書をお持ちですか」
 男性は舌打ちし、スタンドに設置してあったスマホの録画ボタンを止める。
「失礼しました。撮影中でしたか」
「あとで編集しますんで、いいですけど」
 財布からマイナンバーカードを取り出す。
「運転免許証は?」
「免許を持っていません」
「ここまではどうやって来たんですか」
「電車とバスですよ」
「これだけの荷物を背負ってとなると、最寄りバス停からの移動が大変ですね」
 男性は福沢ふくざわ聡一そういち、四十五歳。現住所は渋谷区のマンションになっている。
「失礼ですが、ご職業は」
「御覧の通り、ユーチューバーです」
 マンションの部屋番号から察するに、タワーマンションの三十一階に住んでいる。福沢のバックパックにはトレッキングポールの他、ピッケルまで装備されていた。
 三木はビラを渡し、立ち去った。
 雨に打たれながら車に戻る。栞のタープの前を通った。もう一人のソロキャンパーと仲良くなったのか、互いに自己紹介をしていた。
荒川あらかわ優子ゆうこと言います。三十五にしてカジテツなんです。恥ずかしい」
「こんなご時世ですからね。女性が生きていくのは大変ですよ」
 大学生たちはきまり悪そうな顔で三木を見ていたが、目が合うと慌てて目をらす。家族連れはテーブルの下で三木に中指を立てていた。福沢はビラを丸めて、焚火たきびの火の中にほうり込んでいる。

 エミはパトカーの助手席で濡れたビラをタオルでいていた。
「もう十七時か。急いで帰ろう」
 警察学校は全寮制だ。外出するにも許可が必要で、門限破りにはペナルティがある。
「週末と違って平日のキャンプ客はバラエティに富んでいますね」
 エミが話しかけてきた。
「ガラの悪い家族にヨガインストラクター、実験大学生、初心者キャンパーにユーチューバー。確かにいろんなのが来てたな」
 署に戻り、日報に取り掛かった。エミが書いた日報を確認したが、ビラ配りの現場について『特異動向なし』と書いていた。
「本当に気になった人や不審者はいなかった?」
 エミは首をかしげる。
「僕だったらユーチューバーの福沢のことを日報に残すよ。不審な点が多かった」
 キャンプ用品を大量に持っているにもかかわらず、クルマを持っていないことがまず気にかかった。
「渋谷から公共交通機関を使ってあそこまで来るのは相当に骨が折れる。警察に運転免許証を見せたくなかったのか」
「しかし、マイナンバーカードは見せたんですよね」
 不審点はまだある。
「キャンプ用品が全て新品に見えた。その割にロープワークには慣れていたからベテランキャンパーと思われる。なぜ持ち物が全て新品なのか。なにかトラブルがあり使えなくなって、一から買い揃え直したのかも」
「トラブルというのは?」
 ソロキャン殺人――とはさすがに口に出せなかった。推理が飛躍しすぎだ。
「もしかして三木さんは、福沢がソロキャン殺人の犯人だと思ったんですか?」
 そこまで短絡的に結び付けてはいなかったが、学生に否定的に問われると、ついムキになってしまう。
「ビラを配ったのに、その場で丸めて焚火に放ほうり込んでいたし、この界隈の山は雪山でもないのにピッケルまで持っていたんだ」
「装備が新品だったことにしろ、キャンプや登山の初心者なのかもしれませんよ」
「ロープワークには慣れていた」
「船や馬術でも習いますから、ロープワークができるだけでキャンプ初心者ではないとは言い切れません」
 ――この学生、意外とズケズケ言う。
 三木は時計を見上げた。
「もう十八時だ。寮の門限に遅れるから、早く帰った方がいいよ」
 エミは警察学校に帰っていった。
 日報に戻る。福沢のことを記そうとしたが、とことん筋の通るダメ出しをされて、書く気が失せた。副署長がやってきて紙を渡される。
「指導係お疲れ様でした。宮武巡査の評価シートを頼むよ」
 言葉遣いや態度、服装など、三十項目のチェック表があった。
「最終的に警察学校の担当教官のところへ集められるからね」
 自分が学生のころはどう記されていたのだろう。実務修習後に教官から現場での態度について怒られた記憶がある。必死にやったつもりだったが、厳しい評価を下されていたに違いない。三木はチェックシートを記しコメントも添える。
『真面目に取り組んではいるが、認識に甘さがある。不審者や事案を見逃してしまう恐れあり』
 十段階評価で三をつけた。

     *

 佐々岡ささおかおさむは八王子警察署の交通課に勤務している。交通規制係の係長だ。八月上旬にある八王子まつりの交通規制計画書の最終確認と関係各所への連絡などで多忙な毎日だ。今日は警察学校から実務修習生を受け入れなくてはならない。
「警視庁警察学校一三四〇期山田教場の宮武巡査です。今日一日よろしくお願いします」
 ミニパトに乗っている交通課の女性警察官たちが「かわいいー」「ういういしいー」とメイクを直しながらエミを品定めしている。誰かに指導を頼むつもりだったが、十九歳の少女をあの手練てだれの女警軍団に放り込むのは気の毒に思えた。
「今日一日、僕が指導係を務めますので、一緒にがんばりましょう」
「はい、よろしくお願いします」
 佐々岡は早速、ミニパトのハンドルを握って交通規制現場に向かう。
「宮武さんはうちの娘と同い年なんですよ」
「そうでしたか」
「自分の娘と同い年の新人を指導する日が来るなんて、僕も年を取ったものです」
「全然、若そうですけど」
 ちょっとうれしい。信号待ちのときにサイドミラーで前髪を直したが、髪はすっかり薄くなり、白いものが増えた。もう五十路いそじを過ぎて何年かった。
 ミニパトは甲州街道に入った。
「来月はこの界隈を全て通行止めにしなくちゃならないんですよ」
「八王子まつりですね」
「お、よくご存じで」
「私、八王子市民なんです」
「そうだったんですか。どちら?」
 エミはどうしてか、苦笑いでやり過ごした。
「じゃあ、当日はぎっしり出店が出るとか町内の山車だしが回るとか、たまに山車が電線に引っ掛かって界隈が停電するとか、いろいろ知っていますね」
 エミは面白そうに笑った。
「山車や出店は知っていますが、停電は知りませんでした」
 ウィンカーを右に出し、歩行者天国になっている西放射線ユーロードの入口にミニパトを停めた。JR八王子駅につながるこの道は、路地裏にびっしりと飲食店や風俗店が軒を連ねる。暴力団事務所もあるし、ひったくりや喧嘩けんか、キャッチによるトラブルが多い。八王子で最も治安が悪い場所だ。
「昼間は平和な一帯だけど、放置自転車や駐車違反のクルマも多い。今日はその見回りと規制をしましょう」
 JR八王子駅に向かって歩く。平日の昼間なので、学生や老人、子連れの女性の姿が目立つ。早速、放置自転車を見つけた。普段は民間の委託会社に放置自転車の取締りは任せているが、今日は勉強のために処理する。
「さて。盗難自転車の可能性もありますので、届が出ていないか、無線で確認しましょう。まずは防犯登録番号をメモしてください」
 エミはノートにペンを走らせた。
「二人で行動している場合は、ひとり現場に残っていてください。持ち主が戻ってくる可能性がありますから」
「はい。わかりました」
「僕が残っていますから、まずは一人でがんばってみて」
 エミは緊張気味にうなずきパトカーに戻ったが、すぐに引き返してくる。
「署から大至急戻るようにと無線が入っています」
 大きな事案が隣の高尾署であったらしい。
 佐々岡はエミを連れてパトカーに戻る。無線を取り、状況を尋ねた。
「高尾署管内南浅川町にて、女性キャンパーが行方不明になっているとの一一〇番通報あり。現在、関東近郊で頻発している女性ソロキャンパー連続殺人事件発生の恐れ」
 佐々岡はスマホで交通課長に電話をかけた。
「女性キャンパーが不明ということですが」
「ああ。山をさらうことになる。八王子消防や消防団からも百名近く捜索の人が出ているから、八王子署からも三十人は出したい。お前の係は何人出せる」
「半分出しましょう」
 エミと目が合った。
「私も行きます。研修生も連れていきますよ」

 昼前、高尾山の西の山裾やますそにあるキャンプ場に到着した。現場の駐車場はパトカーの他に鑑識車両、人員移送車両、山岳救助隊のジープなどが並んでいる。消防車も多数駆けつけていた。エミが青くなる。
「ここは昨日ビラ配りした場所です」
 被害者と面識があるかもしれない。
 佐々岡は現場の捜索の指揮を執っているはずの、高尾警察署の山岳救助隊の隊長を探した。エミを伴い事情を話すと、隊長は血相を変えた。
「実は、行方不明の女性は二名おるのです」
 規制線を越えて、キャンプ場に案内される。テントが二つ残っていた。
「昨夕は、橋の近くに家族連れが、沢べりに大学生二人組、女性ソロキャンパーが二人いて、奥にユーチューバー男性がキャンプを張っていました」
 エミが説明し、残された二つのテントを見て黙り込んだ。ひとつは真新しいテントで、若干ゆがんでいる。素人が組み立てたものだろうか。もう一方はタープが傍らについて、広々と場所を取っている。やぐらに組んだ焚火の上に薬缶やかんが残っていた。
「行方不明になっているのは、この二つのテントの持ち主です。双方とも貴重品が残されたままです」
 初心者ふうのテントは荒川優子という三十五歳の女性のものだ。焚火の跡やタープが残されているのは、成田栞という二十六歳の女性のテントだという。
 佐々岡はエミに尋ねる。
「二人にビラを配った覚えは?」
 エミが震えながら、頷いた。
「確かに配って注意喚起しました」
「その時の様子を詳しく教えてください」
 隊長がエミに迫った。
「成田栞さんはベテランキャンパーふうです。刃物を三種類持参していて、注意喚起しても鼻で笑っていました。荒川優子さんはキャンプに慣れていない様子で、成田栞さんにフォローしてもらっていました」
「二人は顔見知りだったのか?」
「いえ、ここで知り合ったようでした」
 佐々岡は隊長に尋ねる。
「他に三組いたそうですが?」
「管理人によると、大学生二人組が昨夕のうちにキャンプ場を立ち去っています。家族連れは夜が明けて引き揚げていったようです」
「では、ユーチューバーだという男性は」
「彼は朝の九時過ぎに帰りましたが、管理人が八時にここへ来てすぐに、テントはあるのに女性二人の姿が見えないと知らせてきたそうです」
 双方のテントとも入口がファスナーで閉まっていたそうだ。男性だから、女性ソロキャンパーに下手へたに声をかけたり勝手にテントを開けたりはできないだろう。
「管理人が二人を探し歩いている間に、男性は帰宅してしまったそうです」
 話に割って入ってくる警察官がいた。
「そのユーチューバーは福沢聡一という男ですよ。現住所を控えていますから、すぐに事情を聴きに行くべきです!」
 西八王子駅前交番の三木巡査だった。昨日、エミを指導していたと隊長に説明する。
「大学生の方は武工学院の学生だそうだね。大学に確認をしよう」
 隊長が続けて三木とエミに尋ねる。
「家族連れ団体の方は?」
 エミがノートをめくり返した。
「黒と白の高級ミニバン二台で乗り付けていました」
 エミはナンバーも控えていた。
「何か不審点があったの?」
「白の方はバンパーにこすったあとがあったので、念のために」
 隊長は部下に伝え、佐々岡に頭を下げた。
「では、お二人は沢の反対側の捜索をお願いします」
 パトカーに積んであった長靴に履き替える。けいじょうを持ち、橋を渡って沢の反対側へ向かった。けもの道はところどころ途切れている。
「警杖の先で地面を突きながら異物がないか確認するわけだけど、特に埋め戻したところは突いたときの感触がやわらかい。そのあたり、感覚を研ぎ澄ませて捜索するように」
 エミは警杖を握り、大きく頷いた。

 捜索開始から二時間経った。普段は警杖を使わない佐々岡は、一キロあるその長い棒で腰まである雑草をさらい続ける作業に、三十分で音を上げた。エミも遅々として進んではいないが、丁寧にぬかりなく捜索をしている。
 太陽が南中にさしかかるころ、キャンプ場から北西へ二キロの地点を捜索していた消防団が、焼死体を発見した。
「焼死体となると、やっぱりソロキャン連続殺人だったのか……」
 佐々岡はつぶやいた。
「成田栞か荒川優子、どちらでしょうね」
 もうひとりが見つからない限り、捜索の手を止めることはできない。
 佐々岡とエミは昼食後、再び捜索に入った。続報が入る。佐々岡はエミに撤収を伝えた。
「もうひとりが発見されたそうだ」
「容体は?」
「亡くなってた。顔を殴打されているそうだ」
 一方は焼かれ、一方は撲殺か。個人の判別はすぐにできないらしい。
「遺体発見現場に行こう。これから遺留品捜索が周辺で行われるはずだから」
 遺体発見現場は、林道を外れ三百メートルほど西側に下りた緩やかな斜面の一帯だった。かつては小川が流れていた谷間だろう。木がまばらに生える、開けた場所だった。
 佐々岡は規制線越しに焼死体を見た。黒く焦げて衣類は焼け落ちている。鑑識捜査員が、ケヤキの木の枝にくくりつけられた充電式ライトを撮影していた。日がまだ高いのでわかりづらいが、点灯しているようだ。発見が夜だったら、ぞっとする現場だろう。
「焼死体にスポットライトを浴びせるなんて、犯人はどういう神経の持ち主だろうな」
「しかし、今回に限ってどうして被害者が二人なんでしょうか」
 群馬や埼玉、長野の現場では、被害者はひとりだった。
「模倣犯の可能性もあるのかもしれないね」
 佐々岡はスーツを着た男に声をかけられた。
「やっぱり佐々岡だな」
「ああ――重原しげはらか」
 警察学校時代の同期同教場の仲間だ。重原は誰よりも昇進が早く、いまや警視正で捜査一課長だ。
「こんな田舎まで捜査一課長が出張ってきているのか」
「ソロキャン殺人は全国が注目している事件だ。ガイシャの数が一人多いとなればマスコミも騒ぐ。君はその子の指導係だって?」
 重原捜査一課長が顎でエミを指した。
「前日にガイシャと接触したとか。借りるぞ」
 エミの腕を引き、規制線をくぐろうとした。佐々岡は慌てて止める。
「なぜその子を連れていくんだ」
「どっちが成田栞でどっちが荒川優子なのか。彼女なら見分けがつくかもしれないだろ」
「遺体を見せるんですか。まだ警察学校の学生ですよ。この間まで高校生だったんだ」
「だが警視庁に採用された警察官で給与も支払われている」
 エミが心配で、佐々岡もついていく。
 灯油で焼かれた死体は人の形がわかる程度だ。周辺の草木も焦げている。黒いベッドに沈む黒い塊のようだった。手足があるので人とわかる。
「推定身長は百六十センチ前後。いまわかっているのはそれだけだ」
 エミは黒焦げの死体を前に取り乱すことはなかった。
「成田栞はヨガのインストラクターをやっていると言っていました。やせ型で筋肉質です。荒川優子は中肉中背だったと思います。身長差がありませんでしたので、これでは判断はできません」
 重原は返事もせず、エミを次の遺体発見現場に促した。黒焦げの死体も衝撃的だったが、顔をつぶされた死体は血生臭い。顔面を鈍器で何度も殴られたのだろう。鼻が潰れて皮膚は割れている。
 重原も凝視しないようにしているが、エミはじっと見下ろしている。
「成田栞は上下黒っぽい服装でした。荒川優子は白いTシャツにエスニック柄のショートパンツ、黒のレギンスを穿いていました」
 重岡が顔面が潰れた遺体が穿いているエスニック柄のショートパンツを指さし、部下に叫ぶ。
「こっちの死体が荒川優子、焼かれた方が成田栞の可能性が高い。その筋で遺体の身元確認しろ」
 遺留品も見つかっているようだ。ブルーシートの上に、血のついたスコップが置いてある。鑑識が指紋の採取をしていた。
 重原が佐々岡に命令する。
「まだ遺留品があるかもしれない。研修生と一緒にもう少し近辺をさらってくれ」

 十六時、佐々岡とエミが遺留品捜索を続けている間も、無線機で情報が入ってくる。北側の林道で荒川優子所有の水戸ナンバーの軽自動車が乗り捨てられていたそうだ。成田栞のSUVはキャンプ場の駐車場に置きっぱなしだった。
「もしかしたら、荒川優子はソロキャン殺人に巻き込まれたのかもしれないね」
 佐々岡は呟いた。エミの警杖の先からカツンと音が鳴る。草をかきわけた。泥に半分埋まった空き缶だった。この界隈は林道や登山道から外れているから、ゴミは珍しく、動物のふん死骸しがいが多かった。佐々岡はさっきイタチの死体を見つけた。エミはタヌキの糞を長靴で踏んでいた。
「一連のソロキャン殺人犯のターゲットは成田栞だけだったということですか」
「そう。荒川優子は異変を察して、犯人の後をクルマでついていった。遺体を焼いているところを見てしまい、犯人に気づかれてスコップで撲殺された」
 エミが思い切った様子で言う。
「私は成田栞がターゲットにされたことにちょっと違和感があるんですよね」
 成田栞は包丁二本を持参していた上、ナタまで振るうベテランキャンパーだったらしい。
「見た目も目つきもちょっと怖かったです。雨雲の行方も逐一チェックして、抜かりない感じがしました。一方の荒川優子は初心者丸出しでテントもろくに張れていませんでした」
「なるほど。犯人が狙いやすいのは、成田栞より荒川優子か」
 エミの警杖が鈍い音を立てた。なにかある。佐々岡は腰丈の草木をかきわけた。
 男が倒れている。
「ええっ!」
 驚いてしりもちをついてしまう。
 Tシャツに短パン姿の男だ。血の気はなく、青白い。口の端から嘔吐おうとの痕跡が見えた。目が充血していて、カッと空をにらみつけている。

 夕方、佐々岡はエミを八王子警察署に送り届ける。八王子市内はどこの街道も混雑する時間だ。ショッピングモールのイーアス高尾の近くまでくると渋滞にはまった。
「とんでもない研修日になっちゃったね。ごめんね」
 エミはパッと顔を上げた。
「どうして佐々岡さんが謝るんですか」
「いや、高尾署から応援要請があったとはいえ、連れていくべきじゃなかったよ。研修生が遺体を発見なんて、前代未聞じゃないか」
 エミは再び視線を落とした。右手の平をじっと見ている。
「黒焦げの死体とか顔が潰れた死体は、あまり現実感がなかったので、まだ平気だったんです」
 男性の遺体の方に、エミは衝撃を受けたようだった。
「警杖が男性の死体にぶつかったときの感触が、手に残っちゃってて……」
 それは目で入る情報よりもよりリアルに、人の死を実感させるのかもしれない。
 佐々岡はサイドブレーキを上げ、エミの小さな頭をポンポンとでた。
「大丈夫。被害者は感謝しているよ」
「え……」
「警察官が自分の死を重く受け止めてくれることは、嬉しいんじゃないかな」
「重原捜査一課長は、あの身元不明男性が一連のソロキャン殺人犯ではないかと疑っていましたが」
 検視がすぐに行われ、口元からアーモンド臭がしたと聞いている。青酸カリを飲んだ人に見られる所見だ。服毒死した可能性が高い。
 八王子警察署に到着した。佐々岡はすぐに現場に戻らなくてはならない。玄関口で別れた。
「今日一日、お世話になりました」
 現場に戻りながら、エミの評価シートをどう書くか、考える。欠点が見当たらなかった。
『明るくて社交的だが冷静沈着。実務に問題もなく非常に優秀』
 十点満点をあげるつもりだ。

     *

 市川いちかわゆうは今日早めに八王子警察署の刑事課(刑事組織犯罪対策課)、強行犯係に出勤した。隣接する高尾警察署管内で三人の変死体が発見されたのだ。高尾署は小規模所轄署なので人手が足りるはずがなく、八王子署から応援要員として指名される可能性が高い。張り切って出勤する。係長が朝食のおにぎりをかじりながら顔を上げた。
「お前、早いな」
「高尾署の件の応援要員ですが……」
「行きたいか?」
「そりゃあもう!」
 管轄をまたぐ連続殺人な上に三体の関連不明の変死体が上がっている。これは大変な事件だ。解決できたら、捜査本部のメンバーに警視総監賞が授与されるはずだ。市川は警部補試験に落ち続けている。早く手柄が欲しかった。
「お前、今日は警察学校の学生の指導係だろ」
 市川はがっくりする。
「タイミング悪すぎ。なんでこんなときにガキの面倒なんか……」
 係長は書類を見て、考える顔になった。
「例の研修生、昨日は捜索に駆り出されて遺体を発見しちゃってるね」
「まじすか。まだ十代でしょう」
「しかも女性だ」
「あちゃー。トラウマもんっすよ。警察学校辞めちゃうんじゃないですか」
 リクルートスーツ姿の地味な女性が、おずおずと声をかけてきた。
「本日、刑事課で研修をさせていただく、警視庁警察学校一三四〇期山田教場の宮武巡査です」
 辞めずにちゃんと来た。
「よろしく。指導係の市川です。昨日は死体発見しちゃったんだって?」
 エミは苦笑いするにとどめた。
「ご飯がのどを通らなかったとか、夢に死体が出てきたとか。大丈夫だった?」
「疲れていたので、よく食べてすぐ寝ました」
 係長が書類を捲り、まゆを上げた。
「君、一昨日は生前の被害女性二人にビラまで配っていたそうだね」
 市川は手をたたく。
「そこまで事件に食い込んじゃってるなら、もう捜査本部に連れてっちゃいましょ!」
「お前、自分が捜査本部のメンバーになりたいだけだろ」
 係長は止めはしなかった。市川はエミを連れて早速、高尾署に向かう。

 第一回の捜査会議は報告が多く、終わったのは十一時半だった。市川は関係者の家宅捜索の手伝いに割り振られた。出発前にエミと署の食堂で早めの昼食をることにした。
 エミが発見した男性の遺体の身元はわかっていないが、司法解剖の結果、青酸カリによる服毒死と判明した。現場の周辺に青酸カリが入っていた容器はなく、自分で飲んだのか故意に飲まされたのか、まだ判断できない。
「血痕が付着したスコップの報告が興味深いな」
 カツカレーを食べながら、市川はエミに振ってみた。ついこの間まで女子高生だったコにはピンと来ないだろうが、いま話し相手は彼女しかいない。
「血痕は荒川優子のものでしたね。持ち手に残っていた指紋は、身元不明男性のものと一致したとか」
 エミがノートを見返しながらこたえた。彼女はもりそばをすすっている。
「重原捜査一課長は、身元不明男性が一連のソロキャン殺人の犯人で、現場で服毒自殺したと見ているようだけど」
 四人目の犯行を荒川優子に目撃されてしまい、スコップで撲殺してしまった。贖罪しょくざいの念に駆られて、その場で服毒自殺したというわけだ。エミは首を傾げる。
「ちょっと違う気がします」
「おっ。気が合うねー」
 思わず握手の手を差し伸べる。エミは戸惑ったふうだが、握手は返した。
「これまで四人も殺してきた犯人が、ターゲット以外の女性を殺しちゃったくらいで自殺するかっつうの」
「私もそう思います。しかもスコップを持ってきた意味がわかりません。過去三件の殺人では遺体は焼かれているだけで、埋められていません。スコップは必要なかったはずです」
 なかなか鋭い指摘だ。
 活動服姿の警察官がエミに声をかけてきた。
「あ、三木さん」
 エミが立ち上がり、一礼する。三木は西八王子交番の巡査で、エミの研修の指導係だったらしい。
「君さ、捜査本部にいるのなら、福沢聡一を推してほしいな」
「推すというのは……」
「だから犯人としてだよ! あの日、現場にいた不審者は福沢だけだ。ユーチューバーのふりして裏の顔は快楽殺人犯の可能性がある」
 市川は三木に物申す。
「君さ、証拠もなしになに言ってんの。そもそも地域課だろ。交番で地域の平和を守ってろよ」
 現場の三体の遺体や凶器などの物証から、福沢の痕跡は一切出ていないのだ。三木はきまり悪そうに、立ち去った。
「さて、そろそろ行くか」
 市川は爪楊枝つまようじを捨てた。エミが慌ててそばをすする。
「ひとつ教えてあげる。帳場が立ったらそばは食っちゃだめだよ」
 帳場というのは、捜査本部の隠語だ。
「そばは細く長い。捜査本部が細く長く続いたらそれはもうお宮入りのこと。短期決戦でホシをあげて勝たなきゃいけないから、みんなカツカレーを食うの。刑事になるなら、覚えておきな」
 エミは驚いたように首を横に振った。
「私は地域課志望です」
 市川の方こそ驚いた。三木が立ち去った方向を指さす。
「あんな素っ頓狂とんきょうな推理をするようなやつが先輩からしかられずに存在できる部署なんか、君にはもったいないよ。洞察力もある。死体を発見したことにしろ、君は持ってる。刑事に向いているよ」
 エミはえない顔をする。
 
 午後は、事件当日キャンプ場にいた家族連れの素性を洗った。八王子市内に住む兄弟一家で、一週間前に兄が電柱を擦る物損事故を起こしていた。
「兄の片岡來斗かたおからいとは三崎町で飲食店を経営しているのか」
 三崎町は駅前の歓楽街にあたる。雑居ビルが林立し、飲食店や風俗店がひしめく。
「弟のれいはボクシングジムの経営をしています。どちらも同じビルに入居していますね」
 ビルの名前は片岡ビルディング。一九八〇年に建築された。
「パパからビル一棟を相続して悠々自適の生活、平日の昼間っから家族でキャンプってとこだな。うらやましいもんだ」
 念のためエミにマルB照会させる。
「暴力団員として登録されているかどうかの確認ですね」
 エミは照会センターに電話をかけた。ちゃんと警察学校で照会業務を習ってきている。たどたどしかったが、問題なく調べられた。
「片岡兄弟の登録はありませんでした」
 十七時十五分になり、終業のチャイムが鳴った。市川はねぎらう。
「今日一日、お疲れ様でした。ところで予備日はどうするの」
 実務修習は五日間行われるが、たいていの所轄署は研修できる課が四つしかない。一日かけてひとつずつ課を回るが、余った日は予備日として、希望する課でもう一度実習をする。
「地域課に行く予定です」
「ダメダメ、君は刑事課だよ。明日、もう一度ここに来ること。俺から上司に話しておくから」

 片岡兄弟の兄の來斗は、JR八王子駅直結のタワーマンションに住んでいた。弟の玲太は、ひよどり山という八王子市中部にある丘の上に大邸宅を所有している。この界隈は暁町あかつきちょうと呼ばれ金持ちが多い。有名時代劇俳優が住んでいることで地元では有名な町だ。來斗は弟の自宅へ顔を出した帰り、ひよどり山の細い坂道のすれ違いでバンパーを擦ってしまったらしい。
 自宅への聞き込みは明朝にエミを連れて行うが、片岡兄弟の夜の商売を確認しておきたいと市川は考えた。來斗の飲食店はガールズバーで二十一時から五時まで営業、玲太のボクシングジムは二十四時間営業だった。
 九時半ごろ三崎町に向かった。ボクシングジムでパンフレットをもらい、ガールズバーに入る。首のしわが目立つセーラー服姿の女性がテーブルについた。二杯ひっかけて引きあげる。いまのところ両店舗に不審な点はない。
 八王子警察署で仮眠を取り、午前五時ごろに再び片岡ビルディングを訪れた。
 ボクシングジムはがらんどうだったが、奥から男のうめき声が聞こえた。市川は足音を忍ばせて、リングの先の廊下を抜けた。突き当りにサウナ室がある。マッチョな男二人が絡み合っていた。
 男色の現場だったか。市川は引き返し、非常階段から会員制バーのフロアに向かった。扉が開け放たれ、従業員がゴミを出していた。來斗がくわえたばこで金の勘定をしている。ソファではダブルのスーツを着た男と純金のネックレスをした男が酔いつぶれていた。手首まで刺青いれずみが入っている。従業員は扱いに困っているようだ。
「店長、どうします」
「しーっ。刺激すんな」
 地元のヤクザに飲ませている店のようだが、見たところ違法行為はない。奥からバスローブ姿の女性が現れ、カウンターの内側で勝手に酒をあおる。売春を勘繰るが、現行犯でないと摘発は難しい。
 突然、首根っこをつかまれた。
「てめえナニモンだコラ!」
 廊下に叩きつけられる。玲太だ。ボクシングジムからついてきたのか。來斗も店から出てきた。
「どうした」
「こいつ、昨夜からビルの中をうろつきやがってる」
 刑事だと名乗るべきか。絞り上げればこの兄弟は悪さの一つや二つは出てきそうだが、ソロキャン殺人とは関係がなさそうだ。適当にごまかして退散するべきだった。
「てめえコソ泥だな。先週もやられたんだ。玲太、警察呼べ!」
 それはまずい。絶対にまずい。
 目の前の古いエレベーターがチンと鳴る。扉が開き、リクルートスーツ姿の女性が姿を現した。エミだ。研修生が一体何をしにきたのか。エミはぎょっとしたように市川と片岡兄弟を見た。全てを察したようだ。
「八王子警察署……」
 “で研修中の“という言葉をものすごく早口に言う。
「宮武巡査です。窃盗犯検挙にご協力、ありがとうございます」
 玲太はあっさり手を離した。
「なんだ、デカに張り込まれてんじゃん」
 ばかじゃねーの、と來斗が市川を鼻で笑う。
「ではまた後程、聴取に伺いますので」
 エミに引っ張られて、エレベーターに乗り込む。扉が閉まった。エミが上目遣いにこちらを見ていた。これでよかったかと先輩の反応をうかがっている。
「ありがとう。よくここにいるとわかったね」
「実は私も気になっていたんです。研修前に片岡ビルディングの前を通り過ぎてみたら、非常階段に市川さんの姿が見えて」
 市川は拝む。
「上司には言わないで」
「もちろんです」
「あと、『こころの』にも書かないで」
 警察学校で学生たちがつける日誌のことだ。教官や助教が毎日チェックする。エミはクスクス笑っていた。

 午前中は武工学院大学の学生二人に聴取をして、白判定を出した。午後にユーチューバーの福沢聡一を訪ねようとしたが、係長から館町たてまちにある東八医科大学病院に行くよう指示された。
「荒川優子の司法解剖が行われたんだが、遺族が押しかけている。対応してくれ」
 荒川優子の両親は八十歳近いらしい。
「遅くにできた子供だろう。優子は三十五歳独身で定職につかず、フラフラしていたようだが、大切なひとり娘だ。最期の姿を見ると言ってきかない」
 高尾山の東部にある館町へ向けて国道を走る。
「俺、苦手なんだよね。遺族対応」
 東八医科大学病院の広々とした駐車場に面パトを停め、市川はエミの肩を叩いた。
「手こずったら、今朝みたいなフォローよろしくね」
 エミは白い目で市川を見た。研修生とは思えない。もう立派な相棒だと市川は思う。
 ロビーで要件を伝え、法医学教室フロアの解剖室に向かう。優子の両親は廊下の待合椅子いすにぼんやりと座っていた。早速、娘の姿を見たいと拝まれる。
「顔面をスコップで何度も殴打されています。DNA鑑定ですでにご本人と結果が出ていますから、無理に見る必要は……」
 やんわりと市川は説明した。両親は迷い始めた。生前の元気な姿のままで記憶しておくべきか。最期の姿まで見届けるのも親の務めと考える人もいるだろうが、顔面が崩壊している我が子の姿がトラウマになってしまうかもしれない。母親が申し出る。
「では後ろ姿だけでも、見せてもらえませんか」
「ご遺体をうつぶせにするということですか」
「はい。後ろ姿なら、なんとか」
 医師が了承した。市川はエミに問う。
「どうする。ここにいてもいいし、手伝ってもいいし」
「手伝います」
 エミは毅然きぜんとしていた。二人で感染予防のエプロンを身に着け解剖室に入った。助手が遺体にかかっていた白布を捲る。市川は写真でしか見ていなかった。胃からせり上がるものを必死に抑える。助手が頭部と肩を持ち、市川は腰のあたりを、エミが足を持ち、そうっとうつぶせにさせた。顔面がぐらつかないように、専用の枕で固定する。エミが白布をかぶせようとして、手を止めた。
「腰にやけどの跡がありますね」
 右腰から臀部でんぶにかけて赤くなっていた。一部はケロイド状で皮膚がつっぱっている。助手が教えてくれた。
「それは古傷です。事件とは無関係でしょう」
 両親を中に入れた。父親は両手を合わせて涙を流す。母は古傷だというのに、やけどの跡を見て卒倒してしまった。てんやわんやの中、市川のスマホに係長から電話がかかってきた。エミに指示する。
「すぐに救急車呼んで!」
「でもここは病院ですよ」
「なら誰か呼んできて!」
 係長からの電話に出た。
「身元不明男性の素性がわかった」
 市川は騒がしい廊下を出て、階段の踊り場まで下りた。
信本のぶもと佳孝よしたか、四十歳。現住所は八王子市清川町。昨日の朝、妻が近隣の交番に行方不明届を出している」

 ソロキャン事件のホンボシの素性が判明した。市川は早く捜査本部に戻りたかったが、失神した母親の介抱でエミがなかなか面パトに戻ってこない。病院を出るころにはもう夕刻で、市内の主要幹線道路が渋滞していた。
「署に着くのは十七時だな」
今日の研修は終わりだ。
「遺族対応も面倒だし、余計な看護に手を焼いて、事件捜査の醍醐味だいごみを全く見せてやれなかった」
 市川はため息をついた。
「事件捜査の醍醐味って、なんですか」
 エミが唐突に尋ねてきた。
「容疑者にワッパを掛ける瞬間がクライマックスだよ。点と点が繋がって事件の筋読みができるとか、つじつまが合った瞬間とかも、テンションあがるね。刑事として血沸き肉躍るというか」
 エミは悲し気に市川から目を逸らした。
「だから私、刑事課がイヤなんです」
 思いがけない言葉だった。
「凶悪事件が起こると血湧き肉躍る。それぐらいの心意気じゃないと強行犯の刑事は務まらないんだと思いますが、私はそういう心意気になりたくないです」

 八王子警察署に戻った。エミはそそくさと警察学校に帰っていった。市川は早く捜査本部に戻り、現場で服毒死していた信本佳孝なる人物の素性を知りたい。
 急いでエミの評価シートに向かった。正直、あの態度にむかついてはいる。だがここで感情を出すのは大人げないし、ごちゃごちゃ考えるのも面倒くさい。
『いろいろと優秀ではある』
 十点満点の評価を出した。

    *

 関口せきぐち奈美なみは一人娘を保育園に預け、急いで八王子警察署の生活安全課に出勤した。育児休暇を取って復帰したばかりだ。朝から家事育児を大急ぎで終わらせて出勤する。更衣室で着替えながらパンをかじった。
 デスクの脇にリクルートスーツ姿の若い女性が立っていた。
「今日一日、実務修習でお世話になります。警視庁警察学校一三四〇期山田教場の宮武巡査です」
 心の中で「忘れてた!」と叫ぶ。
「よろしくね。えーっと宮武さん」
 昨夜は保育園の閉園時間を過ぎてしまいそうだったので、書類仕事を放置して帰宅していた。午前中はそれを片付けようと思っていたのに、学生の世話をしなくてはならない。
「とりあえず、説明しなくちゃね」
 麻奈美はエミをパーテーションで区切られたソファに案内した。途中、上司からエミの人事書類を受け取る。
「地域課と交通課は済んで、刑事課は二日間も体験してきたのね。刑事志望なの?」
「いえ。本当は地域課に予備日をあてる予定だったのですが、諸事情あって……」
 刑事課の指導係は市川有貴になっている。
「市川君に強引に連れ回されたのね。あいつ面倒臭いでしょう。無駄に熱い」
 エミは苦笑いした。
「市川さんと親しいんですか」
「ここは刑事課と事件がかぶるのよ」
 改めて麻奈美は名刺を渡した。少年係の巡査部長、主任だ。
「八王子市は管内で少年犯罪件数がワーストワンなの。もうずっとよ」
 昔からヤンキーや暴走族が多い。八〇年代ごろは地元の暴力団事務所が不良をバックアップしていてたちが悪かった。交通課と生活安全課少年係は道路で暴走少年たちと取っ組み合い、路地裏では刑事課と生活安全課少年係がヤンキーたちと体当たりしてきた歴史がある。
「今日で研修最終日なんでしょ。オオトリを飾るのにはうってつけの係だわ」
 ガハハと笑い飛ばして見せる。どの事案を手本にするか申し送りの書類を確認していると、係長が声をかけてきた。
「関口は研修生と高尾署の手伝いに行ってくれ。ソロキャン連続殺人の容疑者宅の家宅捜索を手伝ってほしいそうだ」
 容疑者宅には娘がいるのだそうだ。

 清川町は北浅川沿いの小さな住宅街だ。明け方まで降っていた雨で、河川敷の木々の葉が濡れている。朝日を反射していた。
「実務修習初日からあの事件に絡んじゃってるんだね」
 助手席のエミからソロキャン殺人の話を聞き、麻奈美は驚いてしまう。
「気持ちは大丈夫?」
 エミは少し驚いたように、麻奈美を見た。
「生前の被害者たちと接触してたんだよね。翌日には凄惨せいさんな死体になってる。それってかなり心の負担になるよ」
「そういう経験があったんですか」
 エミが遠慮がちに尋ねた。
「喫煙で補導した子が不登校の子だったの。いじめが原因。親御さんに引き渡した翌日、学校で自殺しちゃった」
 麻奈美はいまでも、少年を見送ったときの背中が忘れられない。
「連続殺人とか、マスコミが詰めかけて大騒ぎになる事件に比べたら、本当に小さな小さな事案だけどね」
「…………」
「忘れない、と思ってる。あの子の背中だけは」
 目頭が熱くなってきた。
「いけない。すぐ泣く」
 慌てて指で目頭をぬぐった。エミは熱いまなざしでこちらを見ていた。
「私、そういうの、好きです」
「えっ。なに急に。ほめてる?」
 笑い飛ばしておいた。
 捜査車両で住宅に到着した。新興住宅地の一角に規制線が張られている。警察車両が路上駐車しているが、見物人は殆どいなかった。平日の午前中だから、子供は学校へ、両親は仕事で留守宅が多いのだろう。
 パトカーを降りる。捜査一課の刑事たちの話し声が聞こえた。
「ホシは事件当日の朝、いつも通りに出勤したが、夜八時を過ぎても帰宅せず、電話も通じなかったそうだ」
「勤務先の方は?」
「九時に出勤し、十八時には退社しています。特に変わりはなかったということです。勤務態度はいたって真面目まじめ、誠実な人柄で堅調に仕事をしていたそうです」
 麻奈美はエミに呟く。
「この家の主が犯人で間違いないのかしら」
「捜査本部はその方向で捜査展開しているみたいですね」
 麻奈美は『生活安全課』の腕章をつけ、規制線の中に入る。空っぽの段ボール箱が次々と中に運びこまれていく。エミを連れて玄関の中に入った。強行犯係長に声をかける。
「生安の少年係です。娘さんのお世話に来たのですが」
「助かるよ。奥さんから聴取できなくてさ」
 十六畳くらいのリビングダイニングの横に、小さな和室があった。妻の信本あやがぺたんと座っている。娘をひざの上で抱いていたが、もう小学生くらいで、膝上に抱く年齢ではない。娘は棒のような手足を持て余している。麻奈美は膝をつき、丁重に挨拶あいさつした。
「家宅捜索の間、娘さんを預かりますので、立ち合いと聴取に協力してもらえませんか」
 妻の彩は控えめながらワンポイント入ったネイルをしていた。ノーメイクで後ろにまとめた髪は乱れ気味だ。娘は不安そうに麻奈美とエミを見比べている。
「いま、いくつ?」
 麻奈美の問いに母親が答える。
「七歳です」
「小学校一年生だね。ランドセル見たいな」
 娘は無言で母の膝から立ち上がり、二階の子供部屋へ向かう。水色のランドセルを見せてくれた。麻奈美はエミを紹介する。
「このお姉さんはね、まだ十九歳なんだよ。警察官になるお勉強中なの」
 エミも娘と目線を合わせた。
「宮武エミです。お名前を教えてくれる?」
 娘はランドセルから教科書を出し、氏名欄を示しただけだった。
「信本美玖みくちゃん?」
 美玖は頷いた。
「おしゃべりするのは嫌い?」
 美玖は目を逸らした。
「学校で好きな教科はなに?」
 強行犯係の刑事が部屋に入ってきて、麻奈美に耳打ちする。
「あの子、事件のショックで口がきけなくなっている。無理させないように」
 美玖はベッドの上に膝を抱えて座り、親指をしゃぶっている。エミがプリキュアやサンリオのキャラクターの話などを振っているが、反応は薄い。
 今度は市川が入ってきた。
「あれ、また現場に来てんの」
 エミを見咎みとがめた。
「今日は生活安全課です」
「そういうことね。ここも家宅捜索するんで、一旦子供を連れて外に出てくれるかな」
 市川は相変わらず一方的だ。麻奈美はエミに指示する。
「庭で遊ばせておいてくれる?」
「わかりました」
 麻奈美は世話をエミに任せて、母親の彩を探した。彩はリビングで刑事に囲まれ、震えていた。女性刑事はいないのだろうか。
「夫はとても大人しい人です。連続殺人なんてするはずがありません」
「登山の趣味はないということですが」
「はい。私も夫もインドア派です。休日は自宅でのんびり過ごしています」
 麻奈美が見ただけでも、家庭内に登山やキャンプ用具は一切見当たらなかった。カウンターに写真がたくさん飾られている。レジャーの写真は一枚もない。結婚写真、美玖が誕生したときの写真、七五三の写真が飾ってあった。信本は大柄で銀縁の眼鏡をかけている。まじめで優しそうな男性だ。入学式の写真の中で美玖の手を大事そうに握っていた。
「夜遊びもしないし、お酒もたばこもやらない物静かな人でした。あんなわけのわからない犯罪をするような人じゃないです。主人はなにかに巻き込まれてこんなことになったのではないでしょうか」
 タイミングを計り、麻奈美は彩に質問する。
「美玖ちゃんのことですが、指しゃぶりがあるようですね」
 彩は少し変な顔をした。
「指しゃぶりは二歳でやめさせたはずですが」
「さっき、子供部屋で親指を……」
 彩はリビングの掃き出し窓を開けて、庭を見た。エミに付き添われ、美玖は駐車スペースにチョークで絵を描いていた。右手でチョークを握り、左手の親指をしゃぶる。そのわきには雨に濡れた軽自動車が停まっている。
「こんなことになって、指しゃぶりが復活してしまったのかもしれませんね。言葉も出ないようですが」
「昨晩、パパが亡くなったと伝えたときからです。泣きもしないし、悲しみもしない。ずっと無表情です」
「事件の晩は?」
「パパの帰宅が遅いので寂しがりながらも、八時には寝てしまいました」
 麻奈美は掃き出し窓から美玖の様子を見守る。少々乱暴な絵の描き方をしていた。心が千々に乱れているのだろう。
 背後でしゃがんでいたエミが手招きしてきた。麻奈美は玄関から外に出る。エミが急ぎ足で近づき、耳打ちしてくる。
「ちょっと気になることが……」
 駐車スペースの地面を指さした。美玖がチョークで描いた殴り描きだ。小学校の黄色い帽子をかぶり水色のランドセルを背負った少女を描いている。股の間を赤いチョークで塗りつぶしていた。チョークがみるみる減っていく。
「美玖ちゃんの指しゃぶりも気になります」
「お父さんの件で不安になって、再開しちゃったようだけど」
 エミは大きく首を横に振る。
「左親指に吸いだこがあります。日常的に指しゃぶりをしているのではないでしょうか」
 父親の事件があるずっと前から、指しゃぶりが再開していたということか。
「さっき見せてくれた教科書も気になりました。折り目がありません。こっそり中を見たのですが、ノートは全て白紙でした」
「学校に行っていない、ということ?」
 
 美玖の状況を係長に相談したところ、高尾署の捜査本部で報告するように言われた。
「捜査会議は一三〇〇ヒトサンマルマルからだって。急いで食べちゃおう」
 八王子警察署の食堂で麻奈美はラーメンをすすった。エミは天ざるを食べている。
 お盆を持った市川が行き過ぎ、引き返してきた。
「宮武さん、そばはダメって言ったじゃない」
 勝手に麻奈美の隣に座った。
「今日は海老天をのせました。エビみたいにパッとはじけるように事件が解決しますように、って」
「なにそのこじつけ」
 市川は苦笑いで、カツカレーをがっついた。なんの話をしているのか麻奈美にはわからない。
「聞きましたよ、信本の娘が性的虐待を受けていた疑いがあると」
 市川が麻奈美に言った。麻奈美は美玖のチョークの絵の画像を見せた。
「これはあからさまだね」
 七歳になるのに吸いだこができるほど指しゃぶりしていることや、不登校のことも話した。
「学校によると、五月の連休明けから学校には来ていないみたい。理由もよくわからないそうよ。家庭訪問してもいつも不在」
「誰が性的虐待をしてたのかな」
「ちなみに担任教師も副担任も女性だった」
 エミが付け足す。
「同居家族で男性は父親の信本だけです。夫婦ともども男の兄弟はなく、母方の両親は東北です。父方は八王子市上川町に実家があり、頻繁に行き来があるようです」
「じゃ、祖父か父親だな」
 市川が筋読みする。
「もし信本が娘を性的虐待する倒錯者だとしたら、一連のソロキャン連続殺人を起こす根拠になりうるよな」
 エミがきっぱり否定した。
「それはないと思います」
 麻奈美は驚いた。警察学校の実務修習生にしては現場の刑事に強く物を言い過ぎだ。
 麻奈美が実務修習に出たときは、目の前の事案に対処するのが精一杯で、現役警察官に意見を述べる余裕はなかった。気が付いたことがあっても、恐れ多くて指摘も否定もできない。これまで何人か実務修習生を指導してきたが、みんな同じような様子だった。
 エミはお構いなしだ。
「娘を性的虐待する人間は基本的に小心者ではないでしょうか。小さな子供、なおかつ家庭内で支配している娘に手を出す時点で、相当に気弱な人物だと思うんです。ソロキャン殺人は大人の女性を狙っています。犯行の手口も大胆ですから、我が娘に手を出す犯人像と一致しません」
「ちょっと宮武さん。プロファイリングでもしているつもり?」
 麻奈美の咎めに、エミははたと我に返った顔をする。
「すみません。出しゃばりすぎました」
 市川は苦笑いだ。
「別にいいじゃん。宮武さんは刑事課の修習のときからこの調子だ。犯罪心理学でも専攻していた?」
「高卒なので……。普通科です」
「推理小説マニアかなにか? 本格ミステリ好きとか」
 麻奈美は小説を読むのが好きだが、本格ミステリと呼ばれるジャンルだけは苦手だ。素人探偵が主人公の場合、警察がバカっぽく描かれるからだ。警察は組織捜査が基本だ。ただひとりの名探偵を中心とした捜査活動はしない。名もなき者たちが地をうような緻密ちみつな捜査活動をして、ようやく真実を見つけ出す。だから市川のように独りよがりの捜査をする刑事も好きではない。
 麻奈美はエミに強烈な違和感を覚えた。

 昼食の後、高尾署に移動して捜査会議に参加した。信本家の家宅捜索ではソロキャン殺人に関する物証は出なかった。事件当日の夜も、信本の足取りがよくわからないという。
「最寄りのバス停から自宅まで、監視・防犯カメラはありません。八王子駅からバスに乗り、十九時半に最寄りバス停で降りた姿は確認できましたが、以降の足取りがわかりません」
 信本家所有の軽自動車の動きも徹底的に調べられていた。
「清川町の自宅周辺の防犯・監視カメラを確認しましたが、信本家の軽自動車は映っていませんでした」
 キャンプ場最寄りのバスに乗る姿はなく、タクシーを拾った形跡もないという。
「徒歩で現場に行ったというのか」
 捜査一課長の重原が苦々しく呟いた。「徒歩ですと歩いて二時間半かかります」と大まじめに答えた刑事を、重原は叱り飛ばした。
 とげとげしい雰囲気の中で、麻奈美は美玖の性的虐待疑惑を報告した。重原が市川と同じようなことを言い出す。
「もし信本が娘を性的虐待していたとしたら、女性ソロキャンパーも狙いそうだな」
 刑事捜査支援センターのプロファイリングチームが否定する。
「実の娘を性的虐待する男性というのは、外の女性や大人の女性には手を出さない、出せないことが多いです」
 エミの見立てと全く同じだった。
 
 麻奈美はエミを連れて、上川町に住む美玖の祖父母宅を訪ねた。祖父は車椅子に乗っていた。
「五年前に脳梗塞のうこうそくで倒れて、右半身不随なんです。会話も殆どできません」
 祖母が麻奈美やエミを和室へ案内しながら言った。祖父が美玖を性的虐待することはできない。麻奈美はすぐに帰りたかったが、お茶が出された。
 祖母はよくしゃべる人だった。
「息子は本当にいい子でしたよ。大人しくて従順で、親に逆らったこともありません。殺人事件の犯人だなんて、断じて違います。うちの子は人がいいから、誰かにだまされてあんなことになったに違いないんです」
 マシンガンのようにしゃべり続けながら、滂沱ぼうだの涙を流す。ティッシュではなをかみ、聴取の合間に車椅子の夫も気遣う。
 車椅子の夫は微動だにせず、縁側から外を見ている。上川町は殆どが秋川丘陵だ。谷間に道路や住宅街がある。夕方に差し掛かり、ひぐらしが鳴き始めていた。
 広々とした庭には砂利じきの駐車スペースがある。ウェルキャブがぽつんと停車していた。
「昔はあそこに三台もクルマが停まっていたんですよ。夫はクルマが好きでしたし、裏山へ山菜取りに出かけたりもするので、軽トラックも所有していました。ドライブ用のスポーツカータイプのクルマと、家族で出かけるためにミニバンもあったんですけどね」
 夫が脳梗塞に倒れ、全て売り払ったようだ。
「この人、口がきけなくなったけれど、いつも怖い顔で庭を睨んでいるんです。がらんどうの駐車場を見て、きっと俺のクルマはどこだって怒っているに違いないわ」
 クルマ好きの男にとって、ウェルキャブは物足りないかもしれない。
「私はクルマの運転ができないから、通院や買い物は息子頼みだったんです。これからは何をするにも彩さんに頼まなきゃならないと思うと、気が重いわ……」
 あまり嫁姑よめしゅうとめの仲が良くないのだろうか。麻奈美の視線で察したか、祖母は慌てた様子で微笑んだ。
「彩さんはいいお嫁さんよ。でもしょっちゅう福島の実家に帰っちゃう。なんでも実家のメッキ工場の経営が傾いているとかで、たまに手伝いに行っているみたいなのよね。工場なんて危ないから美玖ちゃんを連れていかないでほしいんだけど」
 彩は美玖を連れて頻繁に帰省しているのか。美玖はそこで性的虐待を受けていた可能性もある。
 ウェルキャブの横に高級SUVが停車した。ブランド物のバッグを持った中年女性が降りてくる。
「ああ、やっと娘が来てくれたわ」
 祖母が立ち上がる。信本の姉だろう。美玖にとっては伯母にあたる。彼女は離婚してバツイチだという。かなり羽振りがよさそうだ。
「うちの娘と来たら港区に住んでいるのに里帰りしないのよ。彩さんは福島でも毎月のように帰っているのに」
 信本の姉はエステ店を経営しているという。
「この度は弟がなにをやらかしたのか、本当に申し訳ありません」
 麻奈美やエミに頭を下げる。家族に対してはちょっと薄情に思えた。
「もし弟が事件を起こしていたのだとしたら、店の評判がどうなるか……」
 祖母は出かける支度を始めた。心労の種がたくさんあるに違いないが、生活をしていかねばならない。
「お父さんのオムツを買いに行かなきゃならないの。デイサービスも新たに申し込みをしたいのよ、前に使っていたところの職員さんが辞めちゃって……」
 玄関先にスロープを出し、車椅子を外に出す。信本の姉は慣れていない様子で、四苦八苦している。ウェルキャブの昇降装置を下ろし車椅子の父を乗せたが、途中でバキっと音がした。トランクに積んでいた台車を昇降装置が挟んでしまったようだ。
 麻奈美とエミも手伝い、なんとか車椅子の祖父を車内に収めた。ようやく麻奈美は美玖の性的虐待疑惑について切り出した。
「ええっ、美玖ちゃんが?」
 信本の姉が眉毛をり上げた。祖母ははなから、彩の実家の問題と決めつけた。
「あちらの工場は男性だらけでしょう。泊まり込みの人もいるって言っていたわ。刑事さん、すぐに逮捕して!」
 カチ、カチ、と背後から音が聞こえた。
 無言を貫く車椅子の祖父の脇で、エミが懐中電灯をいじくっていた。スイッチを入れて、光を確かめている。それは細くて弱々しい光を放っていた。
「なにしてるの?」
「あ、すみません」
 エミは慌てた様子で、懐中電灯をウェルキャブの中に戻した。信本家の物らしい。
「人の家の物を勝手に触っちゃだめよ」
 エミが手袋を脱ぎ、スーツのポケットにしまいながら重ねて謝る。
 ――わざわざ手袋をしていた。
 エミはあの懐中電灯を、事件に関する物証と見ているのか。麻奈美はエミに対する強い違和感の正体にようやく気が付いた。
 彼女は十九歳にして、殺人捜査の現場に慣れている。

「今日一日、ありがとうございました」
 十七時十五分、エミの研修が終わった。
「一週間お疲れ様でした」
 世話役の副署長がやってくる。最終日なので、エミは各部署へ挨拶回りをするらしい。麻奈美は評価シートを急いで出すように言われた。深く考える暇もなく、麻奈美は評価シートに記入した。
『光るところはあるが、上司や先輩の意見にわざわざ口出しする出しゃばりな面がある。組織捜査を乱さないか、不安が残る』
 彼女の背景になにがあるにせよ、組織捜査のコマになれないということはすなわち、警察官にむいていないということだ。十段階評価で二をつけた。

     *

 十七時半、八王子警察署長は署の一階にある署長室で書類仕事に追われていた。未決箱から書類を取り出し、現場から上がってくる様々な書類に目を通し、決済印を押していく。
 隣接する高尾警察署で大規模捜査本部が立ち上がっている。八王子警察署からも応援要員を送り込んでいるので挨拶には行ったが、捜査会議に出ることはない。今日は一日、第九方面本部で署長会議があり、午後は八王子市役所の防犯対策課で地元の商店街防犯組合長と会合があった。署長にもなると管内の事案との接点は書類だけだ。署の顔として、外交に追われる。
 副署長がリクルートスーツ姿の少女を連れて入ってきた。
「署長、失礼します」
 少女が前へ促される。
「警視庁警察学校一三四〇期山田教場の宮武エミ巡査です。一週間、お世話になりました」
 署長は未決箱に入っていた実務修習生の評価シートを取り出し、ソファを勧めた。署長を前に硬くなっている若者を見て、自分にもこんな時代があったなと微笑ましく思う。
「一週間よくがんばりましたね。なにか印象に残っていることはありますか」
 評価シートにざっと目を走らせる。評価が両極端だ。三や二と悪い方だが、満点をつけている指導係もいた。
「どの課もやりがいがありました」
 どんな実務をやったのか確認し、署長は目の玉が飛び出るほどに驚いた。
「君……ソロキャン連続殺人の捜査にだいぶ食い込んでいたみたいだね」
 偶然だろうが、事件前夜には被害者たちと接触があったようだ。しかも容疑者と目される信本の遺体まで発見している。
 こういう警察官を『事件を持っている』という。たまにいるのだ。異動の先々で大事件に遭遇し、手柄を上げていく。
 署長は宮武しゅうじという刑事を思い出していた。同期の仲間だった。苗字が同じだからエミと親子かと察する。訳あって警察を辞めた後は探偵事務所を開いたと聞いたが、いまは同じかまの飯を食った他の仲間とも音信不通だ。
 副署長が言う。
「高尾署の捜査本部で彼女は大活躍だったそうですよ。事件の筋読みが得意だそうで」
 署長はエミの顔を観察した。
 ――やはりあの宮武の娘か。
 宮武は現場に残る物証や状況など、方々に散らばる点を線にし、大胆に筋読みする男だった。捜査本部の方針には従わずに一匹おおかみで捜査する。上からは嫌われていたが手柄の数は同期一だった。
 署長は秘書にコーヒーを三つ頼む。
「どうです宮武さん。ソロキャン連続殺人の筋読みを聞かせてもらえませんか」
 エミよりも、副署長が驚いている。警察学校の学生相手に何を質問しているのかと思っているに違いない。エミは戸惑った様子ながら、さらりと言った。
「私は、犯人は二人いるのではないかと思っています。信本彩と荒川優子です」
 副署長が注意する。
「荒川優子は被害者ですよ。そういうことを簡単に口にするのはいただけません」
「まあまあ、聞いてみようじゃないか」
 署長は続きを促した。エミは小さな声で続ける。
「厳密に言えば、群馬と埼玉、長野そして八王子と四件起こった連続ソロキャン殺人事件の犯人は、荒川優子です」
 コーヒーが出されたが、エミは続ける。
「信本を殺害したのは、妻の彩です」
 根拠を示してもいないのに断言する。声も大きくなってきた。
「今回はキャンプ場での犯行であり、平日の夜間にしろ、十メートル圏内に別のキャンパーが二組、子供も含めると総勢十名もいました。しかし誰も悲鳴を聞いていないし、目撃者もいません。成田栞は警戒心なく犯人を自身のテント内に招いたに違いありません。栞は、初心者ぶっている優子にすきをつかれて撲殺されたのではないでしょうか」
 副署長が唸る。
「確かに、優子と栞が親しくしていた目撃談はあったが……」
 副署長は高尾署の捜査本部の応援に行っているので、事件の詳細を知っている。
「優子は同じ手法で女性ソロキャンパーを殺害してきたのだと思います」
「動機はなんですか。女性ばかりを狙った犯行だから、男性の快楽殺人という見立ての方がしっくりくるが」
「これまでの被害者に性的暴行を受けた形跡はありません。私は優子の臀部に残るやけどの跡が気になりました。ケロイド状でしたから、重症だったに違いありません。幼少期の重度のやけどのトラウマと、遺体をわざわざ焼いてスポットライトを浴びせるその行動に、関連があるような気がします」
 署長は思わず、副署長と目を合わせてしまった。
「一方の信本家です」
 エミはエンジン全開で推理を語る。かつての宮武を見ているようだった。
「信本が娘に性的虐待をしていたとしたら、妻の彩に殺害動機ができます。実家がメッキ工場ということでしたから、青酸カリ等の劇物を比較的手に入れやすかったはずです。非力な女性は計画的に人を殺そうとするとき、毒物に頼るパターンが多いです」
 一方で女性が男性を殺害するときに厄介なのが遺体の処理である、とエミは続ける。
「わざわざ外に遺棄せずに自宅で発見させればいいものを、それをよしとしなかったのは、家庭内を探られたくなかったから――すなわち娘の性的被害を表に出したくなかった、そんな母親の心情を感じます」
 もはや署長も副署長も反論する隙がない。
「そこで活躍するのが、彩の義実家で使用していたウェルキャブです」
 車椅子の昇降装置がついている。
「膝を抱えるような恰好かっこうにさせた遺体を毛布などに包んで台車に乗せてしまえば、簡単に自宅から運び出し、車に乗せられます。台車はウェルキャブのトランクにありました」
 すっかりエミの勢いに巻き込まれている。どうにもあらがえない圧倒的な流れがあった。
「彩は遺体を遺棄しに高尾の森へ行きました。どうしてあのキャンプ場を選んだのか――幹線道路を避けたかったからでしょう」
 監視カメラやNシステムで足がつくと予想したのだろう。
「清川町から幹線道路を避けてたどり着ける森は、南浅川のキャンプ場付近しかないんです」
 副署長はぜんとしながら言う。
「つまり君は、ソロキャン殺人を犯し遺体を焼却していた荒川優子と、夫の遺体を遺棄しに来た信本彩が鉢合わせしてしまったと考えているのか」
「はい」
 そんな偶然があるか。副署長と揃って失笑してしまう。
「それで――信本彩が荒川優子をスコップで殴打して殺害した?」
「はい。遺棄現場を見られてしまったわけですから、咄嗟とっさに殺害してしまったのでしょう」
 副署長は半笑いで反論した。
「君の推理にのっとると、荒川優子はこれまでに四人を殺害してきた凶悪犯だ。一方の信本彩は夫を殺害したとはいえ、毒物に頼るほど非力だ。二人が鉢合わせしたとして、殺害されるのは彩の方じゃないか」
「荒川優子はキャンパーしか狙いません」
 エミは断言した。
「ああいった連続殺人犯は、ターゲット以外の人間を安易に殺さない。自分の中で絶対的ルールがあり、それに反した犯罪はしないものです。一方、彩の方は娘と家族の秘密を守るための犯行ですから、なにがなんでもやり通そうとします。余計な殺人も簡単に犯してしまう」
 確かにエミの推理は納得できる。もはやプロファイリングの域に達しているようだった。
「自分の欲望のために連続殺人を犯す荒川優子に比べ、彩は必死さが違います。死体を焼き終えた荒川優子は凶器を持ち合わせていなかったことでしょう。彩は夫を埋めるためにスコップを持ってきていた。咄嗟に凶器になりえます。娘を守るため鬼になった母親の方が圧倒的に凶暴です」
 エミは遠い目になった。
「彩は気が動転したはずです。咄嗟に目撃者を殺害してしまったが、近くにはスポットライトを浴びた焼死体があった。優子がソロキャン殺人犯と気が付いたかどうかまではわかりませんが、夫の死体を埋める以前にパニックになったことでしょう。逃げるように撤収してしまった。血のついたスコップは失念したのか、持って帰りたくなかったのか。中途半端なまま現場を後にした」
「スコップには信本の指紋しか出ていないはずだ」
 副署長が厳しく言った。
「あれは信本が庭仕事でもしたときについたものでしょう。彩はネイルをしていましたから、遺棄のときは軍手などをしていたはずです」
 筋は通る。だが少々乱暴だ。物証はない。
「そもそも、なぜ彩が怪しいと思い始めたんだ?」
「美玖ちゃんが信本家の駐車スペースにチョークで描いた絵です」
 副署長がうなる。
「あれで娘の性的虐待疑惑が出たんだったな……」
「それよりもっと確信できる事実があります。当日は雨上がりでした。濡れたコンクリートにチョークで絵は描けません」
 隣の軽自動車は濡れていたというから、カーポートのない家なのだろう。
「しかし全く濡れていないスペースがありました。ちょうどクルマ一台分です。家宅捜索の直前まで、そこにクルマが停まっていたんだと思いました。しかし警察が来る前にどこかへ動かした。ちなみにもう一台の軽自動車は彩が日常使いしているものでしょう」
 八王子市は電車の駅が南部にしかないので、車社会だ。ファミリー層では地方のようにひとり一台と複数台所有していることが多い。
「信本家にはもう一台、恐らくは信本が日常使用していたクルマがあったはずですが、どうして家宅捜索の直前に移動させたのか、不思議に思いました」
 信本が使用していたのは実家のウェルキャブではないか。エミは信本家の実家に行ったときに直感したようだ。
「実家には運転できる人がいませんから、あのウェルキャブは所有者が実家の両親であっても、普段は信本が使用し、信本の自宅に駐車されていた可能性が高いです」
 なぜわざわざ家宅捜索の直前に移動させたのか。
「警察に捜索されたくないクルマだから。犯罪に使われたからです」
 署長はあくまで反論した。
「しかしあの広い高尾の森で、同じ時間の同じ場所で二つの殺人事件の犯人が鉢合わせするなんて、そんな偶然があるだろうか」
「当日は天候が不安定で、豪雨が降ったりんだりしていました。豪雨の中で死体を遺棄するのは大変です。雨が止むのを待つでしょう。事件の晩に豪雨の合間の晴れ間があったのは、深夜一時半から二時の間だけです」
 エミはスマホを出し、お天気アプリで見られる過去の降雨情報を見せた。
 優子はテントの中で、彩はウェルキャブの中で、雨が止むのを待っていたというのか。
「遺棄場所についても、クルマが入れる林道から徒歩圏内で、なおかつ樹木が密生しておらず傾斜のない場所となると、あそこしかありません」
「だとしても、高尾の森は広い。納得できないなぁ」
 エミはなおも推理を重ねようとしたが、突然、我に返った様子で口を閉ざした。
「すみません。警察学校の実務修習生が、生意気でした」
 署長は慌てた。
「いや、実に興味深いよ。推理の続きを聞かせてくれ」
「とんでもないです。出過ぎました。一週間、本当にありがとうございました」
 エミはそそくさと立ち上がり、警察学校に帰っていった。

 一週間後、高尾警察署の捜査本部から、容疑者逮捕の一報が入ってきた。
 信本の両親が所有するウェルキャブを押収し捜索したところ、現場の土がフロアマットから出た。運転席のシートベルトからは荒川優子の血痕が検出された。
 彩は自供している。小学校に入ってすぐに夫が美玖に性的虐待を始めたのだそうだ。
 ”誰にも言わないで。恥ずかしいし、上川のじいじとばあばを悲しませたくない“
 美玖に懇願され、彩は夫を殺害するまで追い詰められたようだ。
 荒川優子のスマホは事件から二週間後にようやくロックが解除されていた。過去四人の被害者の焼死体画像が残っていた。両親によると、小学校一年生のときに河原で転び、キャンパーが放置した炭の上に尻もちをついて大やけどを負ってしまった。やけどの跡を揶揄やゆされ学校に行けなくなり、以降、趣味でソロキャンプを始めるまで、引きこもりだったそうだ。
 全て、エミの筋読み通りだった。
 署長はかつて八王子で起こったとある未解決事件を思い出していた。あの捜査本部でも宮武秋二はエミのように圧倒的な筋読みを披露し、捜査幹部を差し置いて後輩たちを動かし、そして――。
 自滅した。
 副署長を呼び出す。
「例の未解決事件はどうなってる」
 八王子警察署管内で唯一、懸賞金がかかった未解決事件だった。
「今月も寄せられた情報はなく、進展はありません」
「もう何年経つのか……」
 あの事件で唯一の目撃者の少女が、警察官になるわけだ。
 
   *

 週末、エミは警察学校の外泊許可を取り、一カ月ぶりに八王子市の実家に帰ってきた。父の秋二は書斎として使っている四畳間の窓辺に揺り椅子を置き、うたた寝をしていた。デスクは事件資料が山積みだ。壁の至るところに遺体写真が張り出されている。それはエミが幼いころに見た景色でもあった。
 テレビがつけっぱなしになっている。ソロキャン連続殺人事件の報道がされていた。
「お父さん。ただいま」
 父は薄目を開けて、こちらを見た。
「エミか」
「うん。なにか作ろうか。お昼食べた?」
「いや。まだだよ」
 床に弁当の食べ残しやビールの空き缶が散乱していた。拾い集めていると、父にかれる。
「高尾山の事件、えらい複雑怪奇だなと思ったら、遺棄現場がかぶっただけだったんだな」
「そうみたいね」
「お前が実習に行っていたころだろ。捜査に関わったか?」
「まさか。学生だよ。そもそも管轄が違うし」
 エミは掃き出し窓の遮光カーテンを開けた。父が嫌がる。
「閉めてくれ。資料や写真が傷むから」
「……ごめん」
 父はずっと光を嫌っている。
 エミはゴミを片付け、ベランダに出た。九階で遮るものが周囲になく、眺めはよい。とある未解決事件の現場がよく見える。
 枯れかけた植物に水をやった。ぐんぐんと水を吸い込む乾いた土と、太陽へ茎を伸ばす植物を見て、信本家のウェルキャブに転がっていた細い懐中電灯を思い出した。
 信本彩は夫を殺害し、死体を遺棄しに高尾の森へやってきた。雨が止み、クルマのエンジンを切ったとき、ヘッドライトが消えた森の漆黒のやみに彩は絶句したはずだ。あんな小さな懐中電灯では暗すぎて歩くこともままならなかっただろう。
 それでも娘のため、彩は台車ごと夫の遺体を下ろして、暗闇に閉ざされたけもの道を進んだ。
 連続殺人犯の荒川優子は遺体を焼き終えて、充電ライトを設置していたころか。彩は遠くにその光を見て、外灯と勘違いしたのではないか。登山をしない彩は、そんな場所に外灯があることの不自然さにも気が付かない。夫を毒殺する青酸カリは用意できても、夜の森に死体を遺棄する際の光源については、あの小さな懐中電灯ひとつで事足りると考えていた甘さがある。彩は無意識に光へ吸い寄せられてしまった。だから二つの殺人事件は『遭遇』してしまったのだ。
 エミは太陽へ手を伸ばす植物にたっぷりと水をやった。
「わかるよ。わかる」
 エミは配属先の希望を警察学校に出したばかりだ。八王子警察署と書いた。エミもまた光が欲しいのだ。

(了)

■警察小説競作
 月村了衛「ありふれた災厄」

深町秋生「破断屋」

鳴神響一「鬼火」


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