見出し画像

北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第8回

第3峰『夏目影二郎始末旅』其の弐

真のテーマは男の友情だった!?

荒唐無稽な活劇を支える写真家の描写力

『夏目影二郎始末旅』を、著者は約15年間かけて書き上げた。全15巻だから、佐伯泰英の作品群にあって、さほど長いほうではない。でも、読みごたえはたっぷり味わえる。中身が濃いのだ。中盤までは各巻400ページを越すボリューム。さらに、光文社文庫の〈決定版〉では、巻末ごとに『佐伯泰英外伝』と題し、重里徹也氏による評伝まで加えるサービスぶりだ。
 
 じっくり書いていったのは、影二郎が出かけていく地域の資料収集や読み込みに手間を惜しまなかったためでもあると思う。八州狩りのミッション、神出鬼没すぎる忠治や手下たち、南蛮外衣といった〝飛び道具”など、本作には荒唐無稽な要素がちりばめられている。単なる絵空事として調子よく描くだけでは読者も飽きてしまうところだが、そうならないのはリアリティを底支えする描写力あってこそだ。
 
 資料を揃え、史実を交えたり地理的に正確な描写をするだけでは、読者の脳裏にあるスクリーンに映像を浮かべさせることはできない。それなのに、『夏目影二郎始末旅』の読者には、影二郎が目にするもの、聴いている物音、匂いまで鮮やかにイメージできてしまう。他の作品でもそうなのだが、街道ばかりでなく山中を移動し、自然の中で闘う場面も多い本作はその傾向が強い。
 
 個人的意見だが、この特徴は作者が映像畑出身であることと関わりがありそうだ。
 
 第1峰でも紹介したように、時代小説家になる前、佐伯泰英は売れない小説家だった。さらにそれ以前、物書きとしてのスタートはノンフィクション作品だった。物書きになる前は何をしていたのか。もともとは日大芸術学部映画学科で映像の勉強をしていたのである。卒業後は広告写真を撮るようになり、4年間のスペイン生活を経て、カメラマンとして出版界にデビューした。
 
 その経験が、時代小説家となったときモノを言ったのではないか。説明が難しいのだが、佐伯泰英の文章は頭の中で視覚化しやすいと思うのだ。たとえば闘いの場面などで、どこからどのように敵がやってきて、影二郎はそれをどういう動きでかわして応戦し、相手を倒すのかが、具体的かつ過不足なく文章にされている。与えられた情報を頭の中で組み立てると、闘いの現場がくっきり浮かび上がるのだ。
 
 カメラマンは、目の前の光景をどんな構図で切り取るかを一瞬で判断してシャッターを押す。そこには撮る人の意思が込められる。闘いの場面にしろ、道なき道を進む場面にしろ、佐伯作品には「私がイメージする〝決定的瞬間”を文章にしてみました」と言わんばかりの臨場感があるため、読みやすいことこの上ないのである。

八州の腐敗を絶った先にメインテーマが現れる
 
 勘定奉行の父から命を受け、関八州にはびこる不良役人どもの始末に乗り出した影二郎。調子が出てきた著者は第5巻で思い切った役目を影二郎に与える。老中の水野忠邦から、肥前唐津でひと働きしてほしいと頼まれるのだ。いきなり九州である。さらに第6巻では東北まで赴き、南部藩と津軽藩の探索。どんどん話を広げているのだ。
 
 関東のみを舞台とすることで生じやすいマンネリ化と、シリーズが短命に終わる可能性を察知した可能性もあるだろう。だが、ノリノリで楽し気な文章を読んでいると、作者自身が影二郎を気に入り、もっと活躍させたくなったからだと思えてならない。
 
 この頃になると、不純物が沈殿するとともに濁って見えた水が澄むように、物語の最初にまとっていた暗い影が影二郎から消え、使命をきっちり果たそうとする生真面目さが目立つようになってくる。根が真面目で善人なのは佐伯時代小説の主人公たちに共通するところ。そこには佐伯泰英の性格や、エンタメ小説の主人公はこうあってほしいという考えが反映されていそうだ。ハードボイルド風であっても、影二郎が非情な人間ではないとわかっているので、安心して読み進められることになる。
 
 そして、読者はだんだん気づかされるのだ。この物語は巻ごとのミッションを影二郎がいかに成就するかが大きな読みどころとなっているが、民衆を苦しめた不良役人を期待通りにやっつけるだけの話ではない。といって、過酷なミッションを与えた父と、命がけでそれを果たそうとする息子の、あまりうまくいっていなかった親子が、ピンチを乗り越えるたびに強く結ばれていく話でもない。いったい何が、全体を貫くテーマとなっているのだろう……。
 
 ああ、これか! 1日1巻のハイペースで読んでいた私は、第10巻を過ぎたあたりでふと思った。敵味方がはっきり分かれ、影二郎が迷わず剣を振るって連戦連勝する中で、決着がつかないばかりか、ここまできても敵か味方さえはっきりしないままの人物がいるではないか。
 
 国定忠治その人である。
 
 不良役人を始末したい影二郎は、地域の事情に精通し、民衆にも人気の高い忠治をうまく利用して目的を達成してきた。忠治にとっても地域の平穏が戻るのなら影二郎は歓迎だから、協力をするメリットがある。つまり、前半は両者の利害関係が一致していた。もちろん、忠治は義賊であり、お上にたてつきかねない目の上のたんこぶだから、協力関係にあることは影二郎も表沙汰にはしない。
 
 しかし、そんな綱渡りの関係がいつまでも続けられるはずはないことが鈍い私にもわかってきた。この物語、不良役人を始末するだけでは終わらない。始末人と義賊という、裏街道をゆく両者はどのように決着をつけるのか。それこそが本書のキモなのである。
 
江戸編は、影二郎に訪れるつかのまの安息に浸りたい

 多くの時間を旅に費やす影二郎にとって、江戸はつぎの指令が下るまで、心と身体を休める場所である。やたらと血なまぐさい旅先のようなことは江戸では少なく、読者も一息つけるようになっている。若菜という恋人ができ、彼女が働く甘味屋でだんごを頬張る好青年の影二郎には多くの読者が好感を抱くだろう。
 
 影二郎は本来、人と笑顔で語らい、愛し愛され、ときには悩み迷うこともある普通の青年なのである。妾の子であるために父との距離がうまく取れず、やさぐれ、人を殺めて捕まってしまったが、そうならない人生も十分あり得た。遅ればせながら、影二郎が望む幸せの形が、江戸に滞在する時間に示されているのではないだろうか。
 
 始末旅シリーズは、人の心を持つ主人公が、それを押し殺し、任務遂行のため修羅となるから共感できるのである。いくら強くても、それだけでは殺人マシーン。読んでもちっともスカッとしない。人を愛する心を取り戻し、困っている人を助けようとする影二郎だからこそ、チャンバラにも一本筋が通るのだ。
 
 物語の性質上、江戸での普通の暮らしは長続きしない。すぐにまた、ややこしい指令が下り、旅支度を始めなければならなくなる。そこに緩急が生まれ、読者は新しい戦いの場に同行しやすくなるのである。
 
 当初は父のためだったものが、水野忠邦が影二郎の利用価値に気づいて以降は無理難題も増えてくる。お上は、影二郎を汚れ仕事を見事にこなすアウトローぐらいにしか考えていないだろう。そう思うと、裏稼業から引っ張り上げてもらおうとか、出世したいといった下世話な欲望とは無縁な影二郎の態度にはさわやかさすら漂う。ドロドロした情念が渦巻くことを期待する向きには物足りない面があるとも言えるが、全15巻を読破するにはドロドロ全面展開はしんどい。
 
 いよいよ終わりが近づくところで、影二郎は若菜と所帯を持つ。若菜は甘味屋の女将となり、取り巻く人々も温厚でやさしく、老犬となったあかも健在。ようやくここで影二郎の周囲にポゥッと灯がともったような温もりと安定感が訪れる。
 
 物語全体がラストに向かって緊張感を高めていく中、ささやかなハッピーエンドが挟み込まれる。ここで読者はまた目を細めることになるが、話がまだ終わっていないことにすぐ気づく。不良役人どもは始末した。遠方での仕事も無事に終わらせた。でも、最後にして最大の難関があるのだ。
 
 国定忠治との関係、どうやってケリをつけるんだ?
 
最終巻、怒涛の感動ラッシュ

ひそかな関係は第1巻から育っていた

 思い起こせば、忠治は第1巻から登場する主要人物のひとり。それなのに、物語の後半で影二郎を凌ぐほど強い印象を受けることになろうとは考えもしなかった。忘れていたんじゃない。ここが佐伯泰英の巧みなところで、徹底した出し惜しみをしてきたのだ。
 
 忠治の名は頻繁に出てくる。忠治は自由に山中を動き回っているし、腹心である蝮の幸助も要所で姿を現して影二郎が欲しがる情報を与えるので、読者が置いてけぼりにはならない。しかも、旅のスタート時点からなのだ。
 
 第1巻で、不良役人の始末をしようと江戸を旅立った影二郎は、まず最初に忠治を探そうとする。忠治が上州一の侠客で、天保七年には鉄砲を使って碓氷峠にある大戸の関所破りをしたこと、幕府にとってそれは許しがたき所業であることも手際よく読者に知らせる。
 
 そもそも八州廻りの役人を設置したのは忠治を捕えるためだったのに、できないばかりか不良化して手に負えなくなったため影二郎が派遣されることになったのである。だから、不良役人を一掃するだけでなく、忠治を捕えてこそ任務完了となるのは必然なのに、忠治=ラスボスの意識がどこかへ行ってしまっていた。
 
 なぜなのか。ここぞというときが訪れるまで、ぼやけた忠治像のまま読者を引っ張っていくからだ。
 
 忠治が影二郎から逃げ回っているふうでもないのは、第1巻の序盤で行き交った厩番の若い衆がじつは忠治だったと教えられたり、別の場面では忠治が剣を振るうところを影二郎が目撃することからも明らかだ。影二郎は忠治を認識している。ただ、読者への情報は最小限。あえて持ち前のカメラマン目線を封印するのである。
 
 それだけなら読者は欲求不満に陥りそうなものだが、蝮の幸助に忠治からのメッセージを代弁させることで、影二郎のそばに張り付いているようなイメージを切らさない。だから読者は忠治の気配を感じつつ、目の前の闘いを追いかけざるを得ない。
 
 でも、影二郎と忠治が直接対峙するのはかなり先の話。関八州の不良役人を始末することを優先しているときは忠治と利害が一致し、協力関係が成立するのだ。このあたりの悠々とした筆運びは長編シリーズならではと言いたくなる。
 
 その間に奇妙なことが起きる。利害関係でつながっていたはずの忠治と影二郎に友情らしきものが芽生えるのである。
 
 神出鬼没な忠治の行動には固い信念があり、自分の利益優先のやくざ者とは一味違う器の大きさを影二郎は感じ取るのだ。忠治も影二郎の人柄や純粋な生き方に心を許すようになり、ぼんやりしていた忠治の実像がわかってきた読者も、いつしか忠治に肩入れしてしまう。
 
追いつめられる忠治、賭けに出る影二郎

 が、蜜月期間は短かった。影二郎の父・秀信から忠治を捕えよと命が下り、仕事の成就を取るか友情を取るか、影二郎は葛藤しながら忠治を追跡。同時進行でトラブルも多発する息をもつかせぬ展開にページをめくるペースも早くなる。ここに至ってすべての登場人物は佐伯御大の意のままに動き、最大のドラマである影二郎 vs.忠治に集約されていく。
 
 ここで問題となるのが、忠治が実在の大親分であること。当然、人生の最後についても記録が残っている。講談になったり映画化もされてきた。
 
「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の国定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途だ」
 
 いよいよ捕まるというときに子分を集めて言ったとされる名セリフを知っている方も多いだろう。実際は脳溢血で倒れ、大八車に乗せて運び、かくまったものの、逃げきれずに捕まって江戸送りとなり、磔刑に処せられたという。
 
 いくらフィクションであっても、忠治ほどの大物を準主役級に据えたからには、この事実を無視するわけにいかない。言い方を変えると、いかにして事実にフィクションを絡ませ、最後まで読者を楽しませることができるかが作品の評価を決めると思われる。
 
 たび重なる追撃者との戦いで多くの子分を失い、影響力が減少する忠治。影二郎が本気で追い詰めれば、拿捕するのは時間の問題だと誰もが思う。でも、そんなわかりきったラストはおもしろいだろうか。否である。読者は(少なくとも私は)そんな結末を望まないのを佐伯泰英もわかっているはずだ。
 
 ではどうする。忠治が捕まり、磔にされることは確定として、そこまでをどう描くかだが、どうぞ大船に乗ったつもりでいてもらいたい。盛り上がる。文章のタッチはそれまでと変わらないのに、第13巻から先はひたひたと哀しみが押し寄せてくる読み心地だった。
 
 第1巻で引き込まれ、第5巻あたりでスケールが大きくなっていったん先が見えなくなり、第10巻を越す頃には忠治の存在感が主役を食うほど強くなる。1日1巻の速度で読み進めていた私が寝る間も惜しみ、2巻目に手を出すようになったのは第8巻を過ぎたあたり。しかし、第13巻にたどり着いたとき、これまでの物語はすべて前哨戦だったと納得した。忠治の最期というゴールに向かって、佐伯泰英はどんな力技を出してくるのか。年甲斐もなくドキドキし、あえて読破ペースを落としたくらいだ。
 
『夏目影二郎始末旅』の醍醐味は終盤にあり、なのだが、これ以上説明してしまうと読む楽しみを奪いかねないので、ストーリーを追うのはここまでにしよう。
 
まさか佐伯作品に泣かされるとは……

 白状すると、私は感動して泣いてしまったのである。エンタメ時代小説の最前線を突っ走る佐伯泰英の作品で涙腺決壊するなど予想しておらず、自分はおかしくなったのではないかと首をひねったほどだ。それほどに、最終巻は切なさにあふれ、読者の心にぐいぐい食い込んでくる。
 
 第13巻(忠治狩り)と第14巻(奨金狩り)の盛り上がりはすさまじく、影二郎の首には賞金がかけられる。賞金稼ぎがわらわら出てきて、名刀・法城寺佐常がうなりを上げ、おこまは連発式短筒をぶっ放して敵をぶっ飛ばす。おこまの父である菱沼喜十郎、犬のあかも元気いっぱいに活躍。一糸乱れぬチームプレーは完成の域に達している。忠治もなかなか尻尾を出さず、勢力は弱くなったが捕まらない。
 
 これはラストとなる第15巻(神君狩り)は大変なことになる……。意を決して読み始めると、前の巻から7年の歳月が経過している設定ではないか。文章の雰囲気もどことなく違う。
 
 なぜそうしたのか。あとがきに事情が述べられているので、軽く触れておきたい。なんと、第14巻が発表されてからしばらく、他シリーズの刊行を進めるために最終巻の執筆を中断していたのだという。そして、その期間につぎのような心境の変化が起きた……。
 
〈シリーズが14巻で中断した折り、このシリーズを見直す時間を得られたことは作者にとって実に有意義なことであった。作者自身が無意識裡に書き飛ばしてきた、隠れた主題を突き付けてきたからだ。
 
 となれば最終巻の主人公はだれか、明確であろう。上州と国定忠治が「狩り」シリーズの最後の主題となった。それは最初作者が意図したこととはいささか違った展開ではあった〉(第15巻あとがきより)
 
 最後のところが興味深い。あとがきには、めっきり流行らなくなった股旅ものの変形版にしようとしたとも書かれていて、主役はあくまで影二郎のつもりだったのだ。ところが話が進むうちに忠治の存在が大きく育ったのである。
 
 そのあおりを受けたのか、影二郎の父である秀信は、ところどころでいい味を出すものの、意地悪な見方をすれば企業の中間管理職のような弱々しさから脱却することができないまま。親子関係は大きく育つことなく終わったといえる。
 
 仕方がない。スケールの大きな忠治がいては、他の面々はどうしてもかすんでしまうのだ。
 
 そうそう、あとがきの最後にはこんなことも書かれている。
 
〈「月刊佐伯」と言われながら年間十数冊のペースで15年余書き続けて、結果がこの『神君狩り』でめでたくも「時代小説二百冊目」となった〉
 
「月刊佐伯」の異名は、多作ぶりを皮肉るニュアンスが含まれていると思うが、気にするどころか自分で明るく使ってしまう。職人に徹し、書いて書いて書きまくる流行作家の馬力、恐るべしである。

※ 次回は、7/6(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)