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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第6回

第2峰『鎌倉河岸捕物控』其の弐

いぶし銀! 金座裏九代目・宗五郎親分の安定感とオヤジ力

絶妙な設定で大がかりな捕物が可能になった

 人呼んで「金座裏」の9代目宗五郎。江戸でもっとも古株の十手持ち(岡っ引き)で、将軍家御目見の古町町人(代々江戸で暮らしてきた人たち)でもある。
 
 金座は幕府が金貨の鋳造などを行う重要な機関で、現在も日本銀行の本店が同じ場所にある。そこで著者は、裏口の本両替町にあったことから金座裏の通り名で呼ばれていた岡っ引き一家を創造した。2代目が金座の危機を救った礼に金座を管理する後藤家から贈られ、将軍家光からも公認されている金流しの長十手を使って悪党どもを捕縛し江戸の安全を守る大親分――。
 
 岡っ引きは町奉行所の手伝いなどをする非公認組織にすぎず、大事件を手掛けることもなかったようなのだが、〝金座の用心棒”的な設定にしたおかげでぐっと重みが増している。公認の警察組織である北町奉行所からも一目置かれるような特殊な岡っ引きが実在したはずはなく、著者の創作だ。
 
 将軍家公認の岡っ引きという設定も、よく考えればヘンなのだけれど、そこが小説の愉快なところ。説得力のある説明に納得できれば、読者はその設定に乗って、フィクションの世界を楽しむことができる。それどころか、金流しの長十手は水戸黄門の印籠のように悪党たちを怖気づかせるし、町人たちは「金座裏のお出ましだ」と喜ぶのだ。
 
 となれば、宗五郎が金流しの長十手を持つにふさわしい人格や能力を持つのは当然の話だろう。悪を憎み人々を助ける善意の人なのだ、この親分は。後藤家から毎年、多額の〝用心棒代”までいただけるので資金も潤沢で、金の使い方もじつに綺麗。10名ほどいる子分を束ね、ときには犯罪者にも情けをかけて粋な計らいをする清潔感あふれる人柄にはケチのつけようがない。
 
 子分たちもそれぞれの役どころを忠実に守り、地道な捜査に余念がない。亮吉がその一人になるべく見習い中であること、子どものいない宗五郎が政次を10代目候補として育てるべく迎え入れたことで、むじな長屋の4人組と縁が深まる。しほとの関わりも、宗五郎の妻であるおみつが早くから〝養女に欲しいほどいい娘”だと気に入っているなど抜け目がない。
 
 登場人物が多くてややこしくなりそうなものだが、見方を変えれば、レギュラーメンバーの大半は親分の元に集結し、それ以外には豊島屋と政次がいた呉服屋の人たちくらいなので、混乱することはない。
 
 しかも、彼らは基本的に〝いい人”たち。内輪でわちゃわちゃやっている描写があってもストレスにならず、善人ばかりで物足りないとも思わない。なにしろここは金座裏である。〝悪い人”はエピソードごとにいくらでも生み出すことができるのだ。宗五郎を頭とするいい人たちが、悪事をたくらむ悪い人を懲らしめる明快な構図は、単純だからこそスパッと決まれば爽快なのである。
 
 そういうことを書かせたら佐伯泰英は本当にうまい。弱いものをだますケチな悪党、子どもを誘拐する許しがたい犯罪者、欲に目がくらんだはぐれ者、江戸を恐怖に陥れる悪の集団。ミステリー風味の強い複雑な事件から、しんみりとさせる人情沙汰まで、筆が躍る、躍る。宗五郎親分(後半は政次)が現場に乗り込んで解決に至るシーンまでをいかに組み立て、盛り上げるか。終わり方が毎回似通っているから職人魂に火がつきやすいのか、「佐伯さん、ノリノリだなあ」と笑ってしまうことが何度もあった。
 
入り組んだ水路は江戸の首都高速だ

 しほが川越に〝里帰り”する。川越藩の騒動に金座裏まで巻き込まれる。あるいは引退を表明した宗五郎が妻のおみつや豊島屋の主人である清蔵と旅に出る。『鎌倉河岸捕物控』にはときどき地元を離れる巻もあるが、多くの事件やエピソードは鎌倉河岸が中心で、足を延ばしても品川、板橋まで。それなのにマンネリに陥らず、適度な緊張感を維持することに成功している。私など、読めば読むほど江戸の魅力にはまってしまった。
 
 なぜなのか。本作が川や運河がこれでもかというほど使われる〝水路小説”の1面を持っているからだと思う。水先案内人は江戸じゅうの水路を知り尽くし、櫓をこがせたら天下一品のナイスガイ・彦四郎だ。
 
 陸路だけだと移動手段は歩きか走り、せいぜい駕籠。町人だから馬を使う習慣はない。しかし、船頭の彦四郎は、現代に例えるとプロのタクシードライバーみたいなもの。この男がいてくれるおかげで捜査にスピード感と迫力が加わった。動きが早くなれば伝達力がアップして情報戦にも強くなる。
 
 水路はさまざまな差を生み出す。陸上と水上では〝道”が違い船頭の腕次第で高速道路のようにも利用できるため、ショートカットして先回りすることで時間差をつけられる。深夜の移動も彦四郎ならお手の物だ。また、川があれば橋があり、下を潜り抜ける船と橋を歩く人との高低差が探索に生かされたり、橋から彦四郎の船を発見して合流することもできる。
 
 土と水の差も便利で、陸では強い剣術使いと竿しか武器のない彦四郎が船上で対等に戦えるのは、足場の不安定さに慣れているからである。陸で追い詰められたときでも船に飛び乗ってこぎ出せば、陸にいる者は見送るしか術がない。さらに、1度に数名を乗せることができ輸送手段としてもすぐれているので、宅配便みたいに荷を運ぶ利用法まである。
 
 極めつけは、船なら居場所にもなることだ。政次や亮吉が辛抱強く見張りをしなければならないときも、彦四郎の応援によって仮眠したり、船底に身を隠して暗闇に溶け込んだりできる。食料や酒を運んでキッチンの代わりにもなり、寒い季節には酒で体を温めることもある。事件解決への貢献度なら、彦四郎は親分や政次にも引けを取らないのではないだろうか。読者にとっても、水路を駆使するアイデアは好ましく、巻を追うごとに江戸の水辺に詳しくなっていく実感を抱くはずだ。
 
 構想段階で考えたのだと思う。時代小説家として捕物帳はぜひ書きたい。先人たちがさんざん書いてきたこのジャンルをいま書くなら、新機軸がなけりゃダメだ、と。インタビューで佐伯泰英は、時代小説の捉え方について以下のように答えている。
 
〈僕の場合は、時代小説を書こうとするとき、現代から物語を考えます。僕らの先輩たちはちゃんと漢文の素養があり、1次資料をお読みになられた人たちが江戸の空気を肌で承知なさっていた。(中略)1次資料が読めない作家が時代小説を書こうとしたときに、僕の立つ位置はどこだと考えました。江戸というところから物事を発想しない。現代から発想をする。それを江戸時代という近過去に仮託して、物語を展開していけばいいじゃないかと思った〉(『「鎌倉河岸捕物控」読本』より。インタビュアー=細谷正充)
 
 佐伯時代小説が読みやすく親しみやすい秘密の一端はここにあると私は思う。そして、この発想法がずばりとはまったシリーズが本作なのではないだろうか。中高年になった我々は、むじな長屋男女4人のまぶしいほど真っすぐな青春群像劇を若く青臭かった自分と対比させ、「こんなにうまくいかないよ」との思いも含めて読むことができる。ぐらぐら揺れ動く船上のアクションシーンも、高速道路のカーチェイスに変換しながら読んでしまう。
 
 こうなったらもう、シリーズの最後まで追いかけずにはいられなくなる。術中にはまっていると知りながら、佐伯中毒になってしまうのだ。
 
宗五郎は理想の上司・オヤジである

 前半、金座裏の親分として大活躍する宗五郎は、早めの引退を決め、親分の座を政次に引き継ごうとすることで、出番がどんどん減っていく。捕物帳なのに親分が交代するなんて、めったにないパターンだ。それもこれも、政次を成長させるための親心である。妻のおみつも代替わりしてしほが女将さん役にチェンジ。老夫婦(といっても40代なのだが)は猫をかわいがり、孫が生まれるとジジババの顔にもなり、お役御免を読者に伝える。
 
 ただ、力が衰えたわけではないのだ。節目には「ここはオレがいないと」とばかりに登場。おみつも張り切っておにぎりを作ったりする。宗五郎は下っぴきにアドバイスを送ったり、北町奉行と連動して動くなど、政次ではこなしきれない仕事を引き受け、後見人的な動き方を徹底。引退してもなお、名親分の威光は衰えず、宗五郎がひとたび動くと事態がいい方向に向かうのだ。そして、ここぞという場面では、新たに授かった銀なえしの十手を使う政次と一緒に敵と戦い、金銀揃い踏みの見せ場を作ることも……、まさに理想の上司でありオヤジである。格好良すぎやしないか宗五郎。
 
 少々出来すぎの感はあっても宗五郎夫婦が〝老害”にならないのは、自分たちはあくまで援軍であり、主力部隊をまとめていくのは政次としほでなければならないと考えているからだ。後進に道を譲り、彼らが困ったときに知恵を授け、自分しかできないことをする。まさに、大人はこうありたいと思えるような人物像で、宗五郎が動き始め、みつが握り飯を作り出すと、私のようなオヤジ読者は「待ってました」とうれしくなる。いくら青春群像劇を書きたくても、それだけでは中高年のメイン読者たちが置いてけぼりにされかねないが、宗五郎という重しが効いていることによって若者たちがのびのびと力を発揮できるようにし、読者も温かい目で彼らの成長を見守ることができるのだ。

大事なものは欲望の外にある。大きな家族の幸福論

宗五郎親分を家長とする疑似家族ドラマ
 
 10代の若者だったしほ、政次、亮吉、彦四郎も20代の大人になり、いよいよ物語の最前線に躍り出していく。しほと政次が所帯を持つことはすでに述べたが、亮吉と彦四郎も脇に甘んじることはない。彦四郎は惚れた女と江戸を出奔して騒動を起こし、亮吉に好意を抱くかわいらしい町娘が現れたりもして、しっかりと読者の心に残る出番を獲得。そのせいもあって、読者は4人の誰かに肩入れしたくなる。亮吉ファンになった私など、しばらく登場場面がないと「早く亮吉が出てこないか」とジリジリしてしまったし、依頼されたわけでもない彦四郎が気を利かせて船を出してくれると「さすがだ彦四郎」と感心。大変忙しいのである。
 
 多彩な事件と登場人物に心を奪われ、すいすいと読み進んでいた私だが、途中で気づいたことがあった。本作は、金座裏という岡っ引き一家をモデルとする疑似家族ドラマでもあるのではないだろうか。
 
 ここに集まっている面々には血のつながりがない。むじな長屋の4人は幼なじみで、宗五郎とおみつは夫婦、子分たちにも親戚縁者はいない。飼われているのも元ノラ猫。わずかに、政次がかつて働いていた呉服屋の親子と、しほとの間に授かった子どもが出てくる程度である。
 
 親分・子分だったり、先輩・後輩、幼なじみの仲間である彼らは、血縁がなくても信頼や友情で強く結ばれている。仲間のために身体を張ることができ、何か起きれば必死で力を合わせる。人はそれぞれが独立した存在だが、いい関係性が作れたなら、豊かで落ち着きのある集団を形成できると、作者は語りかけているようだ。
 
 宗五郎夫妻に子どもがいない設定も、最初は亮吉ひとりだった宗五郎とのつながりが政次、しほ、彦四郎と膨らんでいく流れも、金座裏に大きな疑似家族を作るための作戦だったのか……。だとすれば、これも江戸ではなく、おひとり様が普通になりつつある現代から「家族って何だろう」と発想していった成果かもしれない。考えすぎか。でも、私は考えてしまったなあ。
 
〝知足者富〟な生き方が幸福度を高くする

 著者によって金座裏に集められた登場人物たちに共通するのは、欲望に振り回されないことである。振り回される人間は悪役として出てくる。そして、最後には捕縛されたり命を落とす。
 
 勧善懲悪には違いないが、法を犯したから裁かれるというより、金や憎しみや出世欲で人生を狂わせてしまう人間の弱さに「でも、それは違うんじゃないか」とモノ申すような展開が多いように感じた。そんな説教臭い場面はないのだが、だんだんそういう気分になってくるのだ。
 
 政次としほこそ収まるところに収まっているが、亮吉あたりはいつも金がなくてピーピーし、最後まで長屋暮らしである。ほのかに思いを寄せていたしほは親友の政次と結婚してしまい、その政次は自分が手下を務める金座裏の次期親分になることも決まって出世の道もない。それでも亮吉がめげずに明るくいられるのは、金や出世以上に大事な幼なじみたちとの結束が固いままだからだ。
 
 働き者の彦四郎はもっとハッピーだ。船頭を天職と思って余計なことに首を突っ込まず、捕物で知り合った女性と所帯を持つ。船と愛する人がいたら幸せで、欲しいものなどなく、いつだって仲間のために一肌脱げる。
 
 他の人たちも、それぞれの持ち場で懸命に生き、愚痴を言わない。調査をしたら、本書の登場人物たちの幸福度はかなり高いと予想できる。老子の言葉ではないが、満足を知るものは豊かであるという意味の〝知足者富”がピッタリの、ありそうでなかなかないファンタジー作品なのだ。
 
 こんなふうに書くと、貧しくてもたくましく生きる江戸の庶民小説だと思われそうだが、全体的にカラッとしているのは、そう書こうと意識しているからに違いない。佐伯時代小説では読者の気持ちを重くさせるような展開や描写は慎重に排除され、読んでいる時間を楽しんでもらうことに重きが置かれている。
 
 現代は過当な競争社会だけど、勝ち負けだけが人生じゃない。そんなのわかっているよと思いながら、日々の荒波に飲み込まれがちな我々だから、寄り合い所帯なのに幸福そうな金座裏がうらやましくもなるのだと思う。
 
笑っているうちに、豊島屋の田楽が無性に食べたくなる

 最後に、しほが働いていた豊島屋にも触れておきたい。とにかくこの店、エピソードごとといってもいいくらい頻繁に登場するのである。始めのうちは、看板娘のしほを訪ねて幼なじみが友情を温め合う場。しほが辞めてからは、金座裏の面々がよく顔を出し、常連客の駕籠かきに仕事を頼むなど情報交換の場として機能するばかりか、事件解決後に亮吉が豊島屋で1杯やりながら事の次第を解説するのが定番になるのだ。
 
 金座裏は大家族の居場所だが、事件の解決を第1とするために欠けがちなものがある。豊島屋はそれを補うために設けられた〝金座裏別室”で、提供されるのは笑いと本音話だ。
 
 そのため、舞台が豊島屋になると、亮吉と店主の清蔵がクローズアップされがちだ。亮吉がふざけると清蔵がツッコみ、息の合う漫才コンビのように会話を弾ませるのである。著者が求めたのは、がんばっているけど弱点が多く、ときには落ちこぼれかけたりする亮吉の人間臭さだっただろう。優等生だけでははみ出した意見や行動が出づらく、場に活気が生まれにくいのである。
 
 捕物ではさほどの働きができない亮吉だが、お笑い担当としては適任。お調子者の純情男・亮吉がいなければ、本書の魅力はガタ落ちになること請け合いだと思うほど、やり取りがおもしろい。『密命』シリーズにはほとんど笑いの要素がなかった分、思い切り笑わせてもらった。
 
 宗五郎よりさらに上の世代である清蔵は、老舗のやり手商人といった世間体も何のその、妻子も店もほったらかして女に入れ込んだりもする愛嬌のある人物として描かれる。想像だが、著者は豊島屋という交流の場をよりおもしろくするため、店主の清蔵を、途中から分別ある行動も突拍子のない行動も両方できる準レギュラーメンバーに引き上げた気がする。
 
 亮吉たちはしょっちゅう豊島屋に行ってはちびちび酒を飲み、名物の田楽を頬張っている。それがいかにも旨そうなのだ。読みながら、どんな味なのか考えてしまうようになったら、江戸の町民に心を寄せ、つぎの事件を心待ちにしている証拠だろう。
 
 余談だが、『江戸名所図会』で存在を知った佐伯泰英が、すでにないものと早とちりして作品の舞台にしたところ、豊島屋から手紙が来たそうだ。老舗、健在だったのである。笑って許してくれたそうだが、そのことについて著者はこう振り返っている。
 
〈あの手紙が早くても遅くても、物語の展開にはよくなかったと思う。(中略)豊島屋さんが現存すると知っていたら、ああ勝手には描写できなかった〉(『「鎌倉河岸捕物控」読本』より。インタビュアー=細谷正充)
 
 豊島屋で検索してサイトを見ると、創業は慶長元年(1596年)。東京で最古の酒場というからすごい(昭和から豊島屋本店になった)。しかも、現在も神田錦町に「豊島屋酒店」という店舗があり、そこでは味噌田楽を食べることができるという。
 
『鎌倉河岸捕物控』全32巻を読破し、聖地探訪で豊島屋に足を運んで田楽に舌鼓を打つのは愛読者にしかできない体験である。そのとき、脳裏に浮かぶのはかいがいしく働くしほなのか、たまにぶらりとやってくる宗五郎親分なのか、政次と亮吉、彦四郎のトリオなのか。私自身は、ツケがたまって食べたくても食べられないときの亮吉の顔が浮かぶような予感がしているのだが……。

※ 次回は、6/22(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)