
鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第7回
13
眠りの中に錐を差し込むような、けたたましいベルの音がした。
間違いなく目覚ましの音だった。
しかも、聞き覚えは十二分にあった。
音からするに、去年の梅雨時期に最終兵器として購入した3つ目だろう。
正月でも寮にいる限り、目覚ましは掛ける。目覚ましは鳴る。
ということは――。
「うわっ」
観月はベッドから跳ね起きた。3つ目が鳴ると言うことは、デッドエンドは近いということだ。
起き上がったままのジャージ姿で、観月はスリッパを突っ掛けて廊下に出た。
案の定、階段方向から鍋の底を叩く、通称〈鍋底アラート〉が聞こえていた。
これは竹子が、朝食時間の終了が近いことを教える、怠惰な寮生へのアラートだ。
デッドエンドに向け、音のリズムは次第に速くなる。
ショートボブの髪の後頭部分に、寝癖の重力を感じるが、取り敢えず無視だ。
スリッパの音を盛大に響かせ、階段で3階から1階の食堂に走る。
今年も変わらない、朝のルーティンがいきなり始まる。
そうして日常が、観月の中で一気に目覚める。
小田垣義春・明子夫婦の1人娘として、和歌山で甘く緩んだ生活を送った年末年始は昨日までのこと。
ここは東京の笹塚で、自分は東大の学生で、銀座のクラブのキャスト兼バーテンダーで、高木明良の娘、玲の家庭教師だ。
「セーフ」
頭蓋に響く竹子の鍋底アラートが止んだのと、観月が食堂に飛び込んだのはほぼ同時だった。
いつもなら4人掛け8台のテーブルに何人かが、観月の駈け込みを囃すものだが、この日は誰もいなかった。
ということは、他大学は別にして、東大の学生もいないということだ。
同じ2年生で、理Ⅲ医学部志望の立野梨花もいなかった。
新潟の開業医の娘で、男手1つで育てられたという。たしか年末も早めに帰省してドミトリーの大掃除の日にもいなかったが、長めの帰省は親孝行の一環か。
準備良く、年初の出席確認の授業には、〈代返〉をたしか用意していたような。
その辺もさすがに、開業医の箱入り娘だ。
「みんな、まだ帰ってないのかな」
呟きながら、厨房の境にある暖簾の下のカウンターに、銀色のトレイを置いた。
「あんたさ。みんながもう、余裕を持って朝ご飯を済ませたって考えは出来ないかね」
厨房内で碗にご飯を盛り、トレイに載せつつ割烹着姿の竹子がつまらなそうに言った。
「おお」
「ふん。初詣で何を祈ってきたんだか。もうすぐ3年生さね。しっかりおしよ。――ほれ」
時間が経った焼き鮭にカップの納豆、味付け海苔、生卵、竹子自慢の沢庵漬けのワンプレート。
「有り難う」
箸立てから塗り箸を取ってトレイに置く。
「でもさ、いいよね」
「何が」
「帰ってきたって気がする」
「ふん。いつも同じで悪かったね。いいから早くお食べ。授業に遅れるよ」
「了解」
トレイを持ち上げ、カウンターを離れて席に着く。
誰もいない食堂は少し静か過ぎる気もしたが、左手前のカウンターから、奥側の壁際に積まれた和歌山土産の段ボール箱が壮観だ。見ていて心強いというか、目に楽しい。
総本家駿河屋の栗果や極上本煉羊羹、福菱のかげろうや茶かげろうにはまゆう、鈴屋の梅まんじゅうに紀州てまり、山崎梅栄堂の熊野古道物語。どれも賞味期限を踏まえた上での布陣だ。
そして、今日・明日でまた各店の〈数〉が揃わなかった分や、港屋の柚もなかや寺田商店の和歌浦せんべい、大阪に立ち寄って買い求めた青木松風庵の和菓山やゆらゆらり、鶴屋八幡の干し琥珀 山清水や一口羊羹などが続々と到着する。
誰にどれとどれと、どれとどれを――。
そんなことを考えると楽しい。顔には出ないが、本当に楽しい。
「うん」
段ボールを見ながら朝食を済ませる。
それから身支度を整え、寮を出てキャンパスに向かったのは9時半を回った頃になった。
この日は2限と4限に授業があった。10時25分からの講義だから余裕だ。
帰省を間に挟むと、わずかの留守でもどこかキャンパスは懐かしかった。
明日から、あるいは明後日からの学生も、数にすれば半数以上いるだろう。
全体的な人の少なさもまた、ノスタルジーを煽るスパイスか。
履修の関係で、この日キャンパスに来ない観月の友達も少なからずいた。梨花もそうだ。
そんなわけで、大学が完全に2005年をスタートさせたわけではない。駒場という場所が周囲も含め、完全に日常を取り戻すのは、やはり週が明けた11日からになるか。
そんな、少し静かなキャンパスで授業に出て、久し振りの面々に会って――。
それからこの日は、〈蝶天〉への初出勤だった。
理由があって、この日はキャストの誰よりも早く店に入ることに決めていた。
まずは真っ直ぐ、脇目も振らずキャスト部屋に入ろうとすると、運営スタッフの部屋、通称〈本社部屋〉からちょうど口髭の副店長、田沢が出てくるところだった。
仕方がない――。
「あ、副店長。明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
と、挨拶だけはきちんとする。義春の教えだ。
「あ、ミズキちゃん。これはご丁寧に。こちらこそ、どうぞよろしく」
田沢はさすがに宝生エステートから裕樹に引き抜かれただけある。年下のアルバイトにも、丁寧に腰を折って挨拶を返してくれた。
で、本来の目的であるキャスト部屋に入ろうとすると、
「ああ。ミズキちゃん。あのさ」
本社部屋の奥の方から、今度は店長の児玉の声がした。
「はい。明けましておめでとうございます。何か」
声だけを部屋の中に投げる。
「おめでとう。いや、何かって言うかさ。この荷物ってさ」
それだけで児玉の言おうとすることはわかった。
観月の目的は、瞬時に本社部屋にシフトした。
「あ、そっちで保管してくれたんですか」
本社部屋に観月は足を踏み入れた。
「いや。保管っていうかさ」
これは何、と児玉は続けた。
「何って。見てわからないですか」
「業者発注? あ、カウンターバーで店でも開くのかな? 新手のコスプレ? トナカイの恨みとか」
「どれも違います。帰省のお土産です。トナカイの恨みってなんですか」
「なんでもない。トナカイのことは忘れて。またよろしく」
頭を下げる児玉の後ろには、ドミトリーの食堂以上の高さと厚みで積み上げられた和歌山土産が鎮座していた。
これが、観月がこの日、キャストの誰よりも早く店に入ろうとした理由だった。
ミーティングが始まる前に、種類を選びつつ、渡せる状態の個別の土産袋を作らなければならない。
この日は観月が児玉らに拝み倒されて出勤するほどだから、キャストの数はそう多くないはずだが、それでも児玉に田沢、4人のフロアマネージャーと裏からの男性従業員も含めれば、総勢で20人から30人の出勤にはなるはずだった。
色々見繕いながらそれだけの従業員に土産袋を用意するのは、観月1人の作業だけに思ったより時間が掛かる。
だからどのキャストより早く出勤したのだ。
そんな話を児玉にすると、
「配るつもりなら、みんなが揃ってからでいいんじゃない」
「でも、邪魔じゃないですか」
などと、ドミトリーと同じような会話になって、同じような帰結を迎える。
かくて観月は児玉の手も借り、35セットの土産袋を用意した。
出勤のキャストに配り、男性従業員らに配り、そうして、〈蝶天〉の今年はスタートした。
この日の閉店は、年内の最後と同じような感じだった。そもそも早くなるだろうということはミーティングのときから話に出た。
ただ年末のときと違って、予定された以上には早くならなかった。
思った以上に御用始めの夜、ということだったろうか。九時過ぎからは一時、待機のキャストが2人だけになったほど盛況になった。
主に総務省と外務省と中小企業庁の〈方々〉らしい。
なるほど裕樹が、銀座はキャリアの生活圏だと言った言葉の意味が、初めてわかる気がした。
早仕舞いになることはわかっていたから、閉店後に〈ラグジュアリー・ローズ〉へ行くことも観月は最初から決めていた。
段ボール箱を3つ、と思ったが当然持ち切れず、〈蝶天〉の台車を借りることにした。
人の少ない並木通りのインターロッキングに、台車の音がガラガラと響く。
まるでどこかの宅配便のようだ。
「おう。誰かと思ったらやっぱりコーチかい」
大友がそんなことを言って笑った。
「意味が通りませんけど。明けましておめでとうございます」
「なんでもいいじゃねえか。おめでとうさん」
――なんだい。喧しいと思ったらコーチかい。おめでとさん。
おめでとさん、おめでとさんと花椿通りに声が続いた。
張りのあるテキ屋風の声を聞けば、それだけで通りが華やぐ気がした。祭りの雰囲気だ。
ただ、
「今年もよろしくお願いします」
と言った後、声のトーンは下がった。
「馬鹿言っちゃいけねえよ」
「そうだそうだ。よろしくは出来ねえなあ」
「俺らぁ、住む世界が本当は違うからよ」
これが任侠の潔さというものだろうか。
いずれにせよ、台車ごと〈ラグジュアリー・ローズ〉へ上がる。
いいですか、と許可を求めると大友は、客なんかもういねえよ、と即答した。
たしかに、ホールに客やキャストの気配はなかった。
店長室に美加絵はいた。いつもの姿で、いつもの美加絵だった。
「明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
美加絵の目が台車に注がれる。
「それ、何?」
「帰省のお土産です」
「お土産? お土産って、台車で運ぶ物?」
「運ぶんじゃないですか。詰め合わせにするとかさばりますから」
美加絵はコロコロと笑った。
「あなた、年を越してもやっぱり面白いわ」
「よくわかりませんが、これ、ふた箱は少ないですけどみなさんで。残りのひと箱はちょっとしたお願いもあって、美加絵さんに」
「ひと箱全部も要らないけど、お願いって何?」
テニスのこと。今度、駒場のコートで練習風景を一緒に撮って欲しい。
「練習風景?」
「はい。サークルじゃなくて、個人レッスン風の動画を」
そんなことを頼んでみた。
是が非でも。
「駒場のコートが、1番融通が利くんで」
「ふうん」
美加絵は、観月と段ボール箱を交互に見た。
「それなら、これくらいは必要かもね」
「すいません」
美加絵は緩く首を横に振った。
「冗談よ」
いい香りがした。
「でも、半分は本気」
「え」
「外に出るのは眩しいわ。特に学生さんの、東大のキャンパスなんて苦しいかも。でも、興味もある。思い出だってあるわ。ふふっ。これでもアメリカの大学に行ってたしね。これが半分」
いいわよ、と美加絵は続けた。
観月は頭を下げた。
「でも覚えておいて。私はね。銀座と五反田と、沖田の中で生きる女だから。今回は特別。あの台車一杯のお土産のお礼。だけど次はない、1度限りのお礼。私はやっぱり、銀座と五反田と、沖田の中で生きる女だから」
凜とした声だった。
感情云々ではなく、覚悟が聞こえた。
それも生き方か。
任侠は商売じゃねえ、生き方だと剛毅も言った。
沖田の中で生きる女。
なるほど、言い得て妙だ。
暫時、観月は美加絵の言葉を噛み締めた。
「台車は明日にでも、こっちの若いのに返させておくわ」
有難うございます、と言いながら、観月は初めて、自分が頭を下げたままでいることに気づいた。
十四
久し振りに深夜の帰宅になって、翌朝のドミトリーだった。
この日、観月の授業はなかったが、決まった時間にいつも通りの目覚ましは鳴った。
まず、健康なら腹が減るということが1番の理由だが、そうでなくとも朝食は食べなければならない。特別な事情がない限り、きちんと食堂に顔を出すことが、ドミトリー・スズキに住む寮生と竹子との暗黙の了解だ。
――心と身体の健康は、朝決まるさね。1日のリズムを間違えるんじゃないよ。
竹子はよく、厨房で朝食の飯を盛りながらそんなことを寮生に言った。
「うわうわ」
いつも通り鉄鍋アラートの響きを掻い潜るようにして1階に駆け降りる。
この日の食堂にはまだ梨花の姿は見られなかったが、その代わりに大里珠美がいた。
食事はすでに終えたようで、今は緑茶を飲んでいたが、はて――。
竹子に聞いて昨日までに〈和歌山土産詰め合わせ〉を配ったリストには、珠美は入っていなかったはずだが。
「観月、お早う。私はどうも気分じゃないから、おめでとうは無しね」
視線が合うと、珠美は片手をひらひらさせながら、そんなふうに声を掛けてきた。
「あっそ。じゃあ、お早う」
アラートを終え、いそいそと厨房に入った竹子からワンプレートを貰い、珠美の前に座る。というか、珠美以外には誰もいない。
「いつ帰ってきたの」
「今朝。夜行バスでさ」
朝食を食べ進めながら聞く、その後の珠美の話は、観月の頭の上を寂しく流れた。
けれど、それでよかったかもしれない。
あまりに食事とは、相容れない話だった。
向こうにいても暗い話ばっかだから。
先のない話だらけでさ。
なぜなら、
「2回目の不渡りだって。心労、かな。大晦日にさ」
父親が1人で寂しく、亡くなったらしい。
「そうなんだ」
口中に噛む竹子自慢の沢庵漬けが、ほろ苦かった。
「あ、ごめん。湿っぽいよね」
珠美は手を叩き、自分の席の脇から紙袋を取り上げた。
「これ、竹婆に貰ったけどさ」
〈和歌山土産詰め合わせ〉だった。観月がいないときでも、貰ってない顔を見掛けたら押し付けてと竹子には頼んでおいた。その分、食堂にスペースが戻るのだ。竹子は嫌だとは言わなかった。むしろ全面協力だ。
テーブルの上に置かれる〈和歌山土産詰め合わせ〉は、詰めた自分で言うのもなんだが、重い音がした。
「覚悟はしてたけどさ。なんか、去年よりパワーアップしてない?」
「そうね。少しだけ気合は入れたけど」
「ふうん。気合ね。ずいぶん重い気合だこと。ま、あんたらしいけど」
珠美はこの日、初めての笑みを見せた。
それからテーブルに肘を突き、詰め合わせの陰に隠れるようにして身を乗り出し、
「ねえ。観月。本当は11日からだってわかってるけどさ」
と、厨房の竹子を目で気にしつつ、珠美は声を潜めた。
「今日からお店、出ちゃダメかな」
「え」
「新参者でさ。なんか自分からガツガツ聞けないじゃない。聞いてくれない」
なるほど、そのために朝食の終わった食堂で、観月を待っていたのか。
「いいけど」
「じゃあお願い。いつ聞ける?」
「今」
「え。こんな早く」
「いつも、子供のお弁当作って奥さん起こして、子供を幼稚園バスまで送って、洗濯して干して掃除機掛けてから寝るって言ってたから大丈夫」
箸を咥え、観月は携帯を取り出し、児玉に掛けた。すぐに繋がった。店にいる以上に忙しそうだった。
なので、端的に要望を伝えた。背後で洗濯機の音がした。
――あっそ。いいよ。
「簡単ですね」
――昨日がだいぶ入ったからね。人はもう動きだしてるみたいだから、手はもう少し多めでもいいかなってさ。さっきそんなことを考えたばっかりだから。
なるほど。流石に店長ともなると、朝からそんな思索にも耽るようだ。
洗濯機の止まる音がしたので、電話を切る。
「どうだった」
部屋に上がるようで、土産袋を手にして珠美が立っていた。
「いいって」
珠美がまた笑った。先程より、咲くような笑顔だった。
「ありがと。じゃあ、一緒に行こうよ」
「ごめん。その前に行くとこがあるから」
「あ、そうなの? まさか彼氏?」
「か、だけ合ってる。家庭教師」
「あなたも稼ぐわね」
珠美はそう言って、食堂を出て行った。
その後、部屋で昨年来の〈掃除〉に手を付け、終わらないまでも目途は付けるともう昼に近くなった。
昼食は近所のコンビニで買って済ませ、午後になってから新たな箱も開けて組んだ和歌山土産を手に、ドミトリーの外に出る。
2階の窓から茫とした顔で、憂げに空を見ていた珠美と目が合った。
その目が観月に落ちて、丸くなる。
「ねえ」
「ん?」
「家庭教師に行くって言ってなかったっけ」
「そうだけど」
「ふうん」
「何か」
「やっぱあんた、相当変わってるね」
「そう?」
「雪かもだってよ」
「えっ」
「夜半からさ。降雪確率90パーセント」
観月も空を見上げた。
「ああ」
そういえばだいぶ暗く、ずいぶん寒い。
「有難う」
それから観月は真っ直ぐ、大井町の玲のマンションへ向かった。
到着は2時20分を回ったくらいになった。
オートロックのプッシュキーに部屋番号を入れて呼び出すが、応答はなかった。
玲はまだ留守のようだった。
「やっぱり、少し早かったか」
2時まで冬期講習だということはわかっていた。
乗り継ぎがスムーズで、観月の到着が少し早かった。
玲は携帯は持っていないと言った。中学生なら、まだそんなものかと思う。
エントランスで待っていると、20分ほどで玲が帰ってきた。
観月を見て、丸眼鏡の奥の目が見開かれた。
なんだろう。
珠美と同じような反応だが。
玲は観月に駆け寄ってきた。
「待たせちゃいました?」
「ううん。そんなことないよ。本当に今来たばかりだから」
「あ、明けましておめでとうございます」
「おめでとう。いい年にしようね」
「はい」
鍵を取り出し、開けようとして一瞬躊躇いがちに振り返る。
「あの」
「ん? 何」
「あ、私は全然いいんですけど。あれですか。観月先生、今日からここにお泊まりで受験合宿とか」
「え。いや、そんなことは考えてないけど」
「あ、そうですか」
いいと言いながら、ほっとしたような仕草はなんだろう。
「私はてっきり、泊まり込みの着替えとかと思っちゃって」
目が観月の両手の、やけに大きな紙袋に動いた。
「ああ。これ。違う違う。これは玲ちゃんへのお土産。少ないけど」
「え。少ない?」
「あ、足りない?」
「え? え?」
続かないキャッチボールでエレベータに乗り、7階でエレベータを降りる。
部屋に入って土産袋を玲に手渡す。
「有難うございます。――凄いですね。これが観月先生が言ってた、いい物ですか?」
「違う違う。それはね」
観月はふた袋一杯の和歌山土産とは別に、比べれば矮小なほどささやかな物をポケットから取り出した。
「はい、これ。若宮八幡のお守りよ。学業成就」
若宮八幡神社は観月の故郷の鎮守であり、紀州藩祖徳川頼宣が鬼門の守りとして社殿を建立した、由緒正しき神社だ。
「霊験あらたか、かどうかはわからないけど、私はこれで、いえ、これと1枚の写真で合格したの」
見知らぬ場所の、薄汚れた作業着姿の、顔中を煤で汚した鉄鋼マンたちの生き生きとした笑顔。
〈頑張れ、負けるな。ファイト お嬢!〉
その1枚は、若宮八幡の霊験に負けるとも劣らない力。
そうして観月は、東京大学に合格した。
「そうですか」
玲は頷き、お守りを胸に抱いた。
「大事にします」
「ゲン担ぎだけどね。でも、信じるなら、これはきっと玲ちゃんの力になる。受験に限らず、なんでも最後は気力がものを言うから。寄る辺や信じるものがある人は強いの」
「はい」
「まあ、実力以上の力が発揮出来るなんてことはないけどね。ただ逆に、実際、緊張に負けて何も出来なかったなんてのはよく聞く話だから」
「そうですね」
「じゃあ、これからまた、実力を高めましょうか」
観月は手を叩いて空気を変え、玲の着替えを待って私室に入った。
「玲ちゃん。どう? 押さえといてっていったところ、バッチリ?」
「バッチリです」
「それなら――」
観月は補助椅子に座って足を組んだ。
何も見ないで空で質問を始める。年内に玲に与えておいた200項目の設問の〈すべて〉は当然、観月の頭の中に鮮明だった。
玲が詰まると、どの参考書の何ページの何項を見ればわかるという説明まで付け、場合によっては自らの口で説明を諳んじてみせた。
諳んじる途中で新たな質問も設け、玲に投げたりした。満足いく回答でなければそちらの説明も加えた。
これをまた別の項目、別の問題で。
これを延々と、立て板に水で2時間。
観月ならではの授業と言えた。
「凄いですね」
この日の目くるめくような授業の終わりに、吐息混じりにそう言った。
「そお? でも本番はこれからよ」
観月はカバンからルーズリーフの束を出した。設問のナンバーで500まであった。
「え」
「追加。というか、こっちがメイン、かな」
机に置かれたそれを、玲はパラパラとめくり、慌てて自分の参考書を手にした。
順番に5冊ほど手にとっては、ルーズリーフと何項目かを照合する。
「うわ。合ってる。観月先生。もしかして買ったんですか。私と同じ物を全部」
「ううん。覚えたの。年末に来たときにここで」
玲はぽかんと口を開けるだけで、声はなかった。
「頑張ろうね」
そう言って立ち上がり、肩に手を置く。
玲が我に返って口を閉じた。
「はい」
返事は今まで以上に熱が籠っているように聞こえた、ような気がした。
熱量は実際にはわからないが、様子と声の大きさで観月はそう判断した。
「いけない。急がなきゃ」
バタバタと帰り支度をして外に出る。
6時14分。
少し遅れ気味だが順調だ。
玲は律儀に、また外まで送ってくれた。
「じゃあ、また明日」
「あ、観月先生」
玲がポケットをごそごそやって何かを取り出した。
「何?」
「はい。これ」
マンションの鍵だった。
「今日みたいなことって、またあると思うから」
「でも、勝手に上がるのは気が引けるけど」
「気にしないでください。学校が始まるけど、受験態勢だから私もずっと授業があるわけじゃないんで。空いたら図書館に行ったり、友達のとこ行ったりもするし。それで、うっかり時間が過ぎちゃうことがあるかも。鍵を持ってくれてるだけで、私も気が楽ですから」
「そっか、わかった」
鍵を預かり、ふとマンション前の植え込みの方に目を遣る。
表の区道をスクーターが通り、タクシーが通り、バイクが通る。
灰皿のあるベンチに、この夜は老若男女取り交ぜて5人が集っていた。前回いた若者も1人が交ざっていた。
スーパーの買い物袋を提げた母娘がエントランスに上がってきた。
「こんばんは。寒いですねえ」
こんばんはと、観月は玲と2人で返すと、喫煙場所から母娘の後を追うように、40絡みの男性が駆け上がってきた。
※ 次回は、2/6(木)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)