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いつかの山下公園 伊兼源太郎                              

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 あれは……。三枝さえぐさたかあきは瞬きを止めた。
 普段はしない黒縁眼鏡をかけ、生えていないはずのあごひげを蓄えているが、同じ職場で一つ下の後輩――谷澤たにざわ雅史まさしを見間違えはしない。人間は不特定多数の集団から見知った顔を瞬時に見つけ出す習性があり、刑事はその能力を日々磨いている。
 変装――。
 三枝はそれとなく周りを見回した。午後二時半、山下公園に近い高級ホテル『横浜グランドメゾンホテル』の喫茶ラウンジは、多くの利用客で席がほぼ埋まっている。サマーバカンス中の客や、土曜の大安とあって、これから結婚式に参加すると思しき老若男女の姿も多い。両家の顔合わせといった雰囲気の席もある。ぎこちなく両親同士が頭を下げ、若い男女が気恥ずかしげに微笑ほほえんでいる。
 三枝の一人娘は十四歳で絶賛反抗期中だが、あと十年もすれば自分もああして顔合わせに出席していてもおかしくない。娘と腕を組み、バージンロードを歩く時、どんな気分になるのだろう。絶対に泣かないと決めているものの、自信はない。
 三枝の席から六つのテーブルを挟んだ席に、谷澤は一人でいる。出入り口に近い席だ。十五分ほど前にやってきた。夏物のスーツ姿だが、結婚式に参加するような気配も、頼んだ食事を待つ雰囲気もない。アイスコーヒーを飲み、時折視線を上げ、喫茶ラウンジの出入り口を見ている。こちらに気づいた様子はない。
 谷澤はここで何をしているのだろう。四十四歳の男が土曜日に一人、コーヒーを飲みに来る場所ではない。そもそもそんな性格ではなく、暇もないはず。目下、同じ横領事件を捜査しているのだから。
 三枝と谷澤は関内署刑事課の一員として、横領事件の容疑者を追っている。関内署は県警本部のお膝元に位置し、元町、伊勢佐木町、みなとみらい、野毛といった横浜を代表する繁華街を管内に抱える大規模署だ。
 事件の構図そのものは単純だった。社員四十名の横浜市内にある小規模な貿易会社『フジクラ通商』の経理担当、水谷みずたにのりが十年間にわたり、架空の経費を毎月三万円ずつ、計三百六十万円を自身の口座に移していた。社長から相談を受け、関内署は捜査に着手し、提出された書類や関係口座などを精査した。用途までは解明できなかったが、金の動きは確かにあったため、一週間前、任意同行のために川崎市内の水谷のマンションに向かった。
 水谷は二階のベランダから飛び降り、逃げた。三枝は玄関をノックする担当で、ベランダ側にも人員を配置していたが、かいくぐられた。四十八歳とは思えぬフットワークだったという。大学時代の友人によると、水谷は高校時代にラガーマンだったそうだ。
 以来、水谷は姿を消し、足取りがまったくつかめない。逃亡した以上、犯行を全面自供したも同然だ。秋田の実家や、親類、大学時代の友人をあたっても空振りが続いている。銀行口座やクレジットカードの記録も途絶え、県内及び関東近郊のホテルにも手配したが、一報はない。通信会社にも協力を仰いでいるが、携帯電話に電源が入っていない。一応、秋田の実家には捜査員が張りついている。
 水谷は十年前に離婚しており、三枝は泉区内の元妻の田中たなか容子ようこにもあたった。
 ――うちには来ないですよ。もう十年近く会ってませんし、声も聞いてないくらいです。
 ――離婚される際、養育費や慰謝料はどうなったのでしょうか。
 ――要求しませんでしたし、向こうも話題に出しませんでした。円満離婚だったので。離婚後、生活は苦しくなりました。再婚後も、現在の夫の仕事があまり順調ではなかったんです。息子には辛い思いをさせました。小学生の頃、『入りたい』と言ったのに、サッカーのクラブチームに入団させてあげられなくて……。
 金に困った時期ですら没交渉だったのだから、今更接触はないと言いたいのだろう。
 居場所の心当たりや頼る人物などについても『何も知りません』という返答ばかりで、田中容子は迷惑顔だった。離婚して十年も経てば、元夫について何も知らないのも当然だ。現在、田中容子には元町で小さなインテリアショップを営む新たな伴侶はんりよがいる。話を聞きに行った際、リビングに通され、隅のソファーで現在の夫が本を読んでいた。一ページも進んでいなかった。何かあれば割って入ってくるべく、聞き耳を立てていたのだろう。
 ここ数年分の水谷の通信通話履歴を取り寄せたが、元妻との連絡は皆無だ。水谷元夫妻の口座記録を洗ったが、田中容子の言う通り、二人を結びつける金の動きはなかった。
 彼女は明日、和歌山県に出かける。息子が神奈川県代表として出場する、ハンドボールのインターハイの応援のために。息子は二年生ながらレギュラーだそうだ。
 ――すごいですね。おめでとうございます。
 ――親は何もしていません。本人の努力の賜物です。小学校の時にサッカーをできなかった分、いま、ハンドボールにぶつけているのでしょう。中学から始めて、すぐ夢中になっていました。
 言葉とは裏腹に、弾んだ声だった。水谷の息子は他の子との経験の差を考え、サッカー部には入らなかったのだろう。
 ――親御さんも学生時代にスポーツを?
 ――私は美術部でした。
 ――水谷紀雄さんはスポーツをされていたのですよね。
 ――学生時代のことは存じません。思い出したくないと、何も話してくれませんでした。
 息子の話題の時とは打って変わり、素っ気ない口調だった。容疑者の息子とはいえ、大会で活躍してほしいとは思う。袖振り合うも多生の縁というやつだ。

 「どうかされましたか」
 三枝は声をかけられ、思考を目の前の現実に戻した。
 「いや、なんでもない。続きを頼む」
 「了解です」ツチヤは広い肩をすくめた。「といっても、何もありません。野郎が国外に逃げた形跡はないってだけで」
 ツチヤは情報屋だ。かつて三枝が神奈川県警捜査二課の下っ端だった時に出会った。映画やテレビドラマでは県警本部から所轄への転勤を左遷と捉える向きもあるが、実態はそうではない。双方を行き来する異動はいたって普通だ。
 男はツチヤと名乗っているが、本名ではないだろう。深く詮索はしない。捜査の役に立てばいい。ツチヤは非合法な逃がし屋の事情にかなり詳しい。逃がし屋とは、夜逃げや国外逃亡を助けるグループだ。日本に数十あると言われている。
 「そうか。引き続き網を張ってくれ。報酬はいつも通り出来高ってことで。ここは払っておく」
 「ごちそうさまです」
 ツチヤが席を立った。
 情報屋との接触は一対一が基本で、上司にも同僚にも誰にも紹介しないものだ。三枝は大抵午後に会い、相勤あいきんの若手にはいま山下公園をふらつかせている。
 だが、情報屋との接触場所について、三枝には例外的に教えた二人がいる。その一人が谷澤だった。情報屋と接触する場所を把握しあい、いつ何時もかち合わないよう、互いの領域には公的にも私的でも赴かない取り決めをしている。谷澤はそのルールを破り、いまこのホテルの喫茶ラウンジにいるわけだ。
 三枝は自ずと視線を谷澤に向けていた。手持ち無沙汰そうにアイスコーヒーを手に取り、グラスを唇に当てている。あの変装は、俺に悟られないための小細工ではあるまい。谷澤が眼鏡と顎の付け髭の変装が得意だと知っているのだから。かといって、こちらの縄張りで情報屋と会うとも思えない。情報屋と会うのなら、いつも通り、馬車道の老舗喫茶店ですればいい。谷澤が視線を手元か喫茶ラウンジの出入り口に向けるだけなのは、こちらの縄張りを荒らすまいという最低限の配慮だろうか。
 三枝は冷めたホットコーヒーを口に運ぶ。正直、行き場も打つ手もなく、情報屋のツチヤに一縷いちるの望みをかけた。収穫はなかった。
 谷澤も切羽詰まった状況であるはずなのに、どうしてここで油を売れるのか。
 関内署は所轄ながら刑事課に三係があり、水谷の横領事件の捜査には一係と二係が組み込まれた。課長である佐藤さとうしんぺいの意向だ。
 一係の係長である三枝と、二係の係長である谷澤。どちらを県警本部捜査二課の係長に推薦するのか、力量を競わせる意図だったに違いない。三枝と谷澤が係長になって以来、両係はこれまで同じ数の容疑者を逮捕してきているし、こう考えないと、あまり大きな事件ヤマとは言えない横領事件に二つの係を投入した説明がつけられない。
 フジクラ通商関係者への聞き取り、資料分析、張り込みなどでも、両係は互角の結果を残した。秋田の実家に水谷が現れても、痛み分けになる。張り込む捜査員は一係と二係の計二名だ。
 つまり、逃げた水谷の身柄を単独で確保した係が勝ちになる。
 まさか、谷澤は糸口を摑んでいる? 競い合う状況下なら、捜査会議で一切報告しない気持ちも理解できる。自分だってしない。
 くそ。
 三枝は我知らずちしていた。警部補としてもう十五年近く過ごした。日々の業務が山積みで、警部への昇任試験の勉強をする時間なんてない。こちらの都合や気持ちに関係なく事件は毎日発生し、休みなんてなきに等しい。つまり、警部に昇任し、所轄の課長や本部で管理官となる道は拓けそうにない。だとすると、本部捜査二課の係長が自分の上がりポジションとなる。
 気心知れた上司の下にいるうちに、さっさと本部の係長の座を摑んでしまいたいのが本音だ。一度逃すと、今度いつチャンスが巡ってくるかわからない。自分と同じように警部に昇任する機会を逸したまま、警部補として長年過ごす同世代は多い。下の世代もいる。運とタイミングが重要なのだ。もう四十五歳。事実上、今回が本部の係長の座に就くラストチャンスだろう。これを逃せば、定年まで一人の兵隊として県内を転々とすることになる。
 兵隊としてではなく、本部で係を仕切る役回りとなり、係員を指揮し、手柄をあげてみたい。刑事畑に身を置く者なら誰だって胸に抱く望みだ。谷澤もここで本部捜査二課の係長の席を摑んでしまいたいだろう。
 つと谷澤が席を立った。なおも周囲に目をやることもなく、驚くほど真っ直ぐ前に視線を据えている。その視線の先には――。
 若い女が喫茶ラウンジの入り口近くにいた。
 女は露出が控えめながらも華やかなワンピースを着ており、谷澤を見るともなしに見ている。
 谷澤は心持ち頰を緩め、若い女に向かっていく。聞き込みの相手、県警本部や他署での同僚といった雰囲気はない。それなら相勤もいる。ホステス、キャバクラ嬢、デリヘル嬢の気配もない。仕事柄、事件に巻き込まれた彼女たちの姿を多く見てきた。そうなると。
 特別な相手……若い女との密会。あの若い女は谷澤にとって、単なる性欲の発散相手ではない。
 谷澤は会計を済ますと、女とともに喫茶ラウンジを出ていった。このままホテルの一室に入るのだろうか。捜査中に、デートでどこかに出かけることはあるまい。相勤に情報屋と会うと断りを入れれば、一、二時間は自由になれる。三枝の縄張りであるこのホテルにいたのは、あの若い女にねだられたからか、つまらない男の見栄からなのか。
 嫌な場面を見てしまった。谷澤には妻と子どもがいる。五年前に再婚し、息子は三歳になったばかりだ。
 ガラス張りの清廉潔白さが求められる現代において、警官もその例に洩れない。勤務中に、それも暗礁に乗り上げつつある捜査中に不倫相手との密会は大問題だろう。そもそも警察組織は素行不良者に対して、シビアな判断を下す。不倫した上司が依願退職に至ったり、女遊びが派手なのが仇で同期の昇進が消えたりした人事を見てきた。セカンドチャンスはない。年齢的に魔が差す時期の谷澤も……。
 微笑んでいる自分に気づいた。三枝は親指と人差し指で眉根を強く揉み込んだ。何かが潰れる音がする。
 今回の捜査で先を越されても、このネタを使えば引きずり下ろせる――。
 無意識のうちに、そう思った自分がいる。もう一度、眉根を揉み込んだ。今度は何の音もしなかった。
 俺は何を考えている? しっかりしろ。仕事で結果を出せばいいだけだ。そう己を叱咤しつたしても、三枝は胸のもやが晴れなかった。

「何度いらしても、もう話すことはありませんよ」
 フジクラ通商の経理、大野木おおのぎやすしは困惑顔だった。社長とともに、警察に被害届を出した人物だ。三十代半ばなのに顔は疲れ切っている。こういう顔は県警でもよく見る。疲れていない社会人なんて、日本には存在しないのだろう。
 三枝はホテルで谷澤を見た後、山下公園で相勤と合流し、再び大野木のもとに赴いたのだった。会うのはもう三度目になる。
「何度も話すうち、不意に思い出す場合もありますので」
 三枝は言った。実際、そういうケースもままある。他に足を向ける場所がないという大きな理由を、ここで明かす必要はない。
 水谷と親しい友人宅、主な親類宅には人員を配置している。所轄単独の捜査なので網の目は粗い。昨晩の捜査会議で佐藤の命を受け、三枝と谷澤は自由に動き回り、何か手がかりを摑むよう求められた。佐藤は網に期待していないのだ。
 大野木が憤然と鼻から息を吐いた。
「水谷さんのおかげでいい迷惑ですよ。こうして休日出勤しなきゃいけなくなったんですから」
 こちらが大野木の自宅に行くか、警察署に来てもらうか、会社の会議室を使用するかの選択をしてもらった。フジクラ通商には大野木以外、誰も出社していない。
「では、もう一度、横領に気づいた理由から話してください」
「最初に気づいたのは五年前です。帳簿ソフトの数字に辻褄が合わない箇所があったんです。帳尻合わせの跡というか、なんと言うか」
「改ざんされた跡だと認識されたのですね」
「数字は嘘をきませんが、そもそも入力する数字が虚偽なら、どうしようもありません。数字に違和感があったんです」
「改ざん可能な経理ソフトだったのでしょうか」
 ええ、と大野木はうなずいた。
「月末の最終的な売上額から引いた数字の分を、経費精算額に上乗せして差を埋めればいいんです。私は社員の経費精算を一手に引き受けていたので、数字の違和感に気づけました。最終確認は水谷さんが担当です。だから完成した帳簿を見る機会がなかったのですが、水谷さんが病欠の日、急にそれが必要になって私がプリントアウトしたんです。上司に提出した後、いい機会なので帳簿を見ていると、毎月必ず私の計算より三万円だけ支出――経費が増えていました。それは水谷さんの経費として計上され、売上から三万円が減っていたんです」
「後日、水谷さんに確かめたのですね」
「はい、大丈夫だとおっしゃるだけでした。納得がいかず、部長に相談したところ、数日後に先代の社長に呼ばれたんです」
「先代の社長はなんとおっしゃったんですか」
 先代社長も当時の部長も鬼籍に入っている。
「問題ない、と。これはこのままでいいとおっしゃいました。うちは社員四十人ほどの小さな所帯ですので、私も口を閉じました。褒められた行為ではありませんが、一人の会社員としてそうするのが最善だと思って」
 大野木を責めるのは酷だろう。多かれ少なかれ、どんな組織でも起こりうる事態だ。警察だって不祥事が絶えない。
「大野木さんの判断にとやかく言う気はありません。続きをお願いします」
「そんな時に二代目社長となる、当時の専務に呼ばれたんです。先代の息子さんです。水谷さんの行為についてただされたので、説明しました。二代目は先代から水谷さんの行為を不問に付す旨を聞き、納得がいかなかったと。二人でもう一度先代社長のもとに行きました。二代目は『これは着服、横領だ。許してはならない』と先代に詰め寄ったんです」
「先代はどんな返答を?」
「横領だとしても別に構わない、と。やはり黙認のご意向でした」
「先代は黙認の理由についてなんと?」
「税金で国に取られるよりマシだから、とおっしゃいました」
 経営者の態度として解せない。だったら、年三十六万円を社員全体に還元した方がいい。頭割りし、ボーナスに上乗せすればいいだけだ。
「先代が水谷さんに命じ、何らかの裏金を作っていたとは考えられませんか」
 政治献金に使っていれば、事件はより大きくなる。
「ありえませんよ。だとすれば、額が少なすぎます」
 それももっともだ。やるなら最低でも百万円単位だろう。
「先代は水谷さんに目をかけていたり、血縁関係があったりとか、特別視する理由があったのでしょうか」
「血縁関係はありません。特に目をかけていたとも思えません」
「先代は大雑把な性格だったのでしょうか」
「細かい方ではありませんでした。義理人情に厚く、時にはどんぶり勘定……大雑把になることはありましたが」
「先代の判断について、二代目はなんとおっしゃいましたか」
「到底納得できない、と。ですが、専務も最終的には押し切られました。『オマエが納得しようがしまいが、社長の俺は納得してる。ぐだぐだ言うな』って。以来、私も口を閉じてきました」
 典型的なワンマン体制だったらしい。
「大野木さんも横領しようと思いませんでしたか。馬鹿らしくなって」
「私にも生活があります。自制心もあります」
 隣の相勤は頷くだけで、口を開かない。すべて前回も聞いた内容なので、頭の中で情報を照会しているのだ。
「先代が半年前に亡くなり、二代目は水谷さんに一度釘を刺しました。でも、相変わらず私の時の計算と最終的な数字に三万円の差があり、二代目が警察に言おうとおっしゃった次第です」
「水谷さんはお金を何に使ったと思いますか」
「見当もつきませんよ。酒、ギャンブル、女性関係には無縁な人でしたから。そんなの、表向きの顔かもしれません。実際、こうやって警察の方も捜査していますし」
 これまでの捜査では、水谷の借金トラブルや私生活の乱れは浮き上がっていない。
「水谷さんが立ち寄りそうな場所に心当たりはありませんか。仲の良い友人、親類、好きな土地など」
 すでに聞いているが、もう一度尋ねた。
「ありませ……」
 大野木の言葉が不意に途切れた。前回はなかった反応だ。三枝は黙し、相勤を一瞥いちべつし、目で動きを制した。無言で続きを待つべき場面だ。こういう時は下手に相槌を打ったり、続きを促したりしない方がいい。
 「そういえば」と大野木が言葉を継ぐ。「特に仲が良かった友人がいると聞いたことがあります。本当に話しているうちに思い出すことがあるんですね」
「ええ、そのご友人はどなたでしょうか」
 今までそんな情報は出てこなかった。
「高校時代の同級生だそうです。ラグビー部の仲間だとか。強豪校だったので花園を目指したらしいですよ。意外だったんですよね、水谷さんって、どちらかというとスマートな体型なんで。ほら、ラガーマンってみんな冷蔵庫みたいな体つきじゃないですか」
 水谷は走って、トライを決める役割だったのだろう。捜査員を振り切れたのも、かつて鍛えた脚力があったからか。三枝は水谷が少しうらやましかった。今の自分には全力疾走なんてできない。中年太りとは縁遠いが、足がもつれ、転倒するのがオチだ。
「よく思い出せましたね」
「自制心って言葉からスポーツマンシップって言葉を連想し、記憶がよみがえってきたんです。横領なんてスポーツマンシップもクソもないじゃないですか。先代の社長がセールスマンシップとか経理マンシップとか、よくそうおっしゃっていたんです」
 あの、と黙っていた相勤が口を開いた。
「水谷さんは会社で、高校時代の話をよくされたのですか」
「いえ。偶然でした。随分前……もう十年は経つでしょうか、誰かが得意先からラグビーの社会人リーグのチケットをもらってきたんです。サッカーとか野球ならともかく、誰が行くんだよと思っていると、水谷さんが手を挙げて。その社会人チームに仲が良かった同級生がまだ現役でいるって話になって」
「水谷さんの同級生だった方の名前はわかりますか」と三枝は聞いた。
「すみません、どの社会人チームだったのかまでなら」
 当時のチーム名を教えてもらい、それから別の質問も重ねたが、他に新情報はなかった。フジクラ通商を出ると、相勤が「不思議ですよね」と言った。
「何がだ?」
「水谷は高校時代のことを大学の友人と会社の同僚には話していた。なのに、元妻の田中容子には話していない。昨日から疑問だったんです」
「近すぎるがゆえ、話せないこともあるんじゃないのか」
 三枝はそう解釈していた。
「なるほど。その線もありますね。俺、無駄な質問をしちゃいましたか」
「いや。無駄な質問なんてないさ。助かったよ。これからも俺がしない質問をどんどん相手にぶつけてくれ」
 「はい」相勤の顔が引き締まった。「俺にできることを全力でします。絶対、係長に勝ってほしいんで」
 谷澤との競争を気にしてくれているのか。
「そうか、ありがとう」
「いえ。水谷の息子、青春を謳歌してるんでしょうね」
「羨ましそうだな」
「羨ましいというか、こう毎日忙しいと、自分に青春があったのかさえ忘れてしまいます。学生時代があったのは間違いないんですけどね」
「学生時代だけが青春じゃないさ」
「青春って何なんですかね」
「光と影が一緒くたになった時間の塊じゃないかな。人生において最も楽しい時間と言い換えてもいい」
 少なくとも、自分にとっての青春は学生時代ではない。つまらないわけではなかったが、授業中も、部活中も、下校中のくだらない無駄話も、同じクラスの女子にときめいた一時も、どこか他人事ひとごとだった。明日が来るのが待ち遠しかったり、夢中になったりしたことはない。
 自分にとっての青春は――。
 警官となって三年目の時分だ。佐藤と谷澤と三人で、下っ端として関内署管内を駆けずり回っていた頃。
 ようやく仕事を覚え、少ないながらも自分で稼いだ金もあり、プライベートも充実していた。三人で休みを合わせたり、事件のない時はさっさと仕事を早く切り上げたり、宿直明けでも帰宅せずに顔を洗って眠気を吹き飛ばしたりして、馬車道の居酒屋やバーで酒を飲み、中華街で手頃な値段の飯を食い、あるいは伊勢佐木町の洋食屋で舌鼓を打った。朝まで飲み明かし、桜木町駅の立ち食い蕎麦屋でシメる日も多かった。男三人でおんぼろの車に乗り込み、本牧ほんもくから横浜ベイブリッジを渡り、大黒ふ頭に出て、もう一度逆方向に進むだけのドライブもした。
――せっかく関内署にいるんだから、ハマを満喫しよう。
 そんな言葉を言い合って。
 出世や昇進なんて「しゃらくさい」とさえ、うそぶいていた。
    *
 三枝と谷澤は二〇〇二年の同じ日、関内署に配属された。ともに刑事課への配置で、そこに五つ上の佐藤がいた。三人は課の若手で、会議資料の準備や先輩の湯飲みを洗うといった雑用を手分けしていくうち、自ずと仲が良くなった。指示がころころ変わる上司や横柄な先輩の悪口を言い合ったのも懐かしい。
 配属された年の夏、谷澤は学生時代から付き合っていた女性と最初の結婚をし、娘が生まれた。三枝も佐藤も結婚式には当然参加した。二次会では裸踊りという、昔気質かたぎの警官特有の下品な出し物まで披露した。もちろん、下は隠して。
――お先に幸せになりますんで。
 谷澤は満面の笑みを浮かべ、頭をいた。
――そんなに生き急ぐんじゃねえよ。
 三枝と佐藤はからかった。
 谷澤の娘は病弱でよく熱を出したり、おなかを下したりした。奥さんだけでは手が回らず、三枝と佐藤が何度も谷澤と当直勤務を代わった。所轄では一週間に一度くらいの割合で当直勤務が回ってくる。ワークバランスなど見向きもされない時代だったし、軍隊並みに規律を重んじる組織では褒められた行為ではなかったが、上の連中の小言を無視した。特に佐藤は自分の子どもが生まれたばかりの頃、まったく面倒をみられなかったことを激しく後悔しており、『当直勤務の代わりなんていくらでもいるが、父親の代わりはいない』と、恐縮する谷澤に声をかけていた。
 三枝も二人に助けてもらったことがある。目の前で空き巣犯を取り逃がしてしまった際、休み返上で聞き込みや張り込みを手伝ってくれた。真夏だった。炎天下に、二人は文句も言わず、汗を流し、蚊に食われ、日に焼け、黙々と動いてくれた。谷澤はこの時、眼鏡と顎の付け髭という変装を自分のものにした。
 ――口髭を生やす人はほぼいないですけど、顎髭は結構いますからね。なんか洒落た感じも醸し出せますし。これで逮捕できたら、怪我の功名ですよ。
 ――オマエなあ。
 三枝は苦笑した。軽口をたたかれ、心が少し軽くなっていた。谷澤はそんな効果を狙ったのかもしれない。
 三枝のミスから一週間後、空き巣犯を逮捕した。発見したのは佐藤で、主に追いかけ、取り押さえたのは谷澤だった。それなのに。
 ――手錠をかけてください。
 ――そうだ、オマエがやれ。
 二人の厚意により、三枝が空き巣犯に手錠をかけ、ミスを帳消しにできた。
 空き巣事件を解決した夜、打ち上げと称して野毛のハーモニカ横丁で朝まで飲み明かした後、山下公園に向かった。三枝が全額支払ったので懐は寂しくなったが、胸の内は温かかった。こんな先輩と後輩を持てて、自分はなんて幸せなのだろうかと。
 園内には誰もおらず、波の音だけがして、水平線から上る太陽が山下公園を包みこみ、三人を照らし、氷川丸と横浜ベイブリッジを輝かせていた。まぶしく、目の奥に染みる朝陽が心地よかった。
 遠くで汽笛が鳴った。
 「この音は出航だな。帰港の時とは音が違うだろ」
 佐藤がしたり顔で言い、三枝は眉を寄せた。
 「本当ですか?」
 「出航と帰港で汽笛の音を変える規則なんてないですよね」と谷澤も首をかしげる。「絶対、気のせいですよ」
 「ほんと、お前らはバカ野郎どもだな。情緒もくそもねえ。心で聞けよ、心で」
 また汽笛が鳴った。潮風が肌をでていく。
 「やっぱ一緒ですよ」と谷澤が混ぜ返す。
 「いつか俺も出航してみたいな」と三枝はつぶやいた。
 「どこまでですか」
 「海のはるか向こうまで……なんてな。現実的には、本部で係長になって部下を指揮して事件を解決する――そんな海原に出航してみたい」
 「なんか、カッコイイこと言ってる風ですよ」
 「出世なんてしゃらくさいけど、これくらいはさ。耳を澄ましてみろ、遠くから俺のための汽笛が早くもほのかに聞こえてくるだろ」
 「完全に空耳です」
 おいおい、と佐藤が肩をすくめる。
 「それなら、刑事部長になる――くらい言えよ。係長になるなんて、その辺の海をクルージングする程度のスケールだろ」
 「海を舐めると、痛い目に遭いますよ」
 「言うじゃねえか」
 佐藤が煙草に火をけ、海に向けて煙を吐き出した。谷澤が風で流れてくる煙を手で振り払う。
 「三枝さんは直球勝負タイプだから、親分子分の係ができそうですね」
 「なんだよ、直球勝負って」と三枝は尋ねた。
 「例えば、迷い猫を探す時、三枝さんなら足を棒にして歩き回りますよね」
 「だろうな、猫と暮らしたことないけど。他に手があんのか」
 「俺ならビラを撒いたり電柱に貼ったりして網を張って、誰かが見かけるのを待つでしょうね」
 「なるほどな。捜査の時だとどうなる?」
 「そうですねえ……」と谷澤が考え込む。
 「所詮、組織の駒だ。係長だって、課長からの指示がある。やり方の差は出にくいさ」
 佐藤が言った。
 朝凪あさなぎの横浜港を三羽の白い海鳥が飛んでいる。海鳥は羽に朝陽をまとい、それぞれ金色に輝いている。
 「三枝さんが出航する時は、港で大きく手を振って見送りますよ」
 谷澤が冗談めかした。
 
 二年後、佐藤と三枝が別々の所轄に異動した。以来、年賀状のやりとりやたまに顔を合わせる機会はあったが、県警本部や所轄で三人が揃うことも、二人が被ることも、一年前に関内署で一緒になるまでなかった。
    *
 あの頃は本当に楽しかった。いつ、自分の人生は変わってしまったのだろう。いや、あの時すでに、光の裏に影が生まれていたのだ。昨年四月に関内署で再会した際、三枝と谷澤は別係の係長として争う相手として、佐藤は二人を競い合わせる立場になっていた。
 三人で飲みにいくこともなく、誘われもしない。むろん、サシでも行っていない。佐藤にしてみればサシで飲みにいくと、片方への肩入れを疑われる。刑事課をまとめる上で、不要な対立を深め、指導力の是非を問われてしまう。かといって三人で行くにも各自懸案があって時間がとれないし、責任ある立場で当直が回ってくるので、日程の融通も利かせられない。
 それどころか関内署で再会して以来、谷澤とも佐藤ともプライベートな話を一切していない。会話は挨拶あいさつ程度で、会議でもほとんど目を合わせない。業務で手一杯という面もあるが、谷澤と競い合う立場なのが原因だ。佐藤にも気を遣わせたくない。
 三人でゆっくり話す機会を持てていたら、谷澤とのレースに臨む心境もいささか違っていたのかもしれない。

 「以上です」
 報告を終え、三枝は席に座った。パイプ椅子がきしむ。
 捜査会議は午後九時から、関内署三階にある通称デカ桶部屋――刑事課の大会議室で始まり、一、二係の八組計十六人が今日の結果を持ち寄っていた。佐藤は窓を背にしてこちら向きに座っている。いつも通り佐藤から見て、向かって右側に一係が、左側に二係が陣取っていた。水谷の居場所に結びつくような情報は今のところない。
 「じゃあ、最後に谷澤」と佐藤が命じる。
 谷澤が立ち上がった。心なしか、すっきりした顔つきになっている。
 水谷の大学時代の同級生を再度あたったものの、収穫はなかったという報告だった。谷澤は当然、ホテルにいたことには触れない。夫婦仲がうまくいっていないのだろうか。四十を過ぎて、円満な夫婦関係を送る警官など皆無か。
 「引き続き明日も各々の線を進めてくれ」
 佐藤が締め括り、捜査会議は終わった。三枝は首根を揉み、腰を浮かせかけた時、谷澤が佐藤に近寄っていった。二人はこちらに背を向けて窓際に立ち、小声で言葉を交わし始めた。何を話している……。
 「三枝さん、あれ」
 隣で相勤がささやきかけてきた。三枝はそれとなく頷いた。
 「先に出てろ」
 揃って残るのは、気になることを露骨に表しすぎる。
 三枝はメッセージが入ってきたていで、携帯電話を取りだした。視界に谷澤と佐藤の姿を入れつつ、携帯を見るともなしに眺め、二人の会話に聞き耳を立てた。二人は口を動かしているのに、何も聞こえてこない。優秀な刑事であればあるほど、自分たちだけが聞き取れる音量での会話ができる。
 谷澤は女と密会しつつ、何か情報を手に入れたのだろうか。手柄を得るべく捜査会議では報告せず、佐藤には個別で告げている? 
 深く息を吸い、思考を再開する。なおも佐藤と谷澤は小声で何か話している。
 二人に限ってこそこそした真似をするとは思えないが、歳月は人を変える。次第に焦りがこみ上げた。二人が三枝を省いて親密な付き合いを復活させているのなら、佐藤は谷澤に肩入れしていると判断していい。今回、絶対に負けられない。失点は致命的だ。
 喫茶ラウンジを若い女と出ていく、昼間の谷澤の後ろ姿がまぶたの裏にちらついている。
 谷澤が佐藤から離れた。軽く会釈をしてきて、大会議室を出ていった。三枝はメッセージを返信したていで携帯をポケットにしまった。顔を上げると、部屋には自分と佐藤しか残っていない。
 佐藤が歩み寄ってきた。
 「明日はどう動く?」
 「水谷の同級生に会いにいきます。仲が良かったっていう」
 「そうか。さっきの報告にあった奴か」佐藤が頷く。「頼むぞ」
 谷澤と何を話していたんですか? 喉元まで質問がこみ上げてきたが、三枝はかろうじてみ込んだ。尋ねたところで教えてくれない。佐藤が大会議室を出ていった。谷澤とは数分話し込んでいたのに、自分とは一言二言だけか……。
 三枝は最後に電気を消して大会議室を後にすると、相勤が待っていた。
 「どうでした?」
 「さあな」と三枝は肩をすくめた。「飯にしよう」
 「いつもの店にみんなを集めてます」
 「了解、ありがとう」
 水谷逃亡後、毎晩、一係独自の捜査会議を開いている。二係がいる前ではあげない報告もそこで聞ける。ただ、水谷の行方に結びつくような情報はまだない。谷澤も二係独自の捜査会議をどこかで連日開いているはずだ。あっちは何か手がかりを摑んでいるのだろうか。先ほどの佐藤との会話が引っかかる。
 階段で一階に下りると、署は当直体制となっていた。エントランスにハの字型に長椅子が置かれ、そこに谷澤が向こうむきに一人で腰掛けていた。昼間は感じなかったのに、あいつも老けたな、と三枝は思った。若い頃に比べ、背中がひとまわり小さくなっている。筋肉量が減っただけでなく、長年の疲労が背中の肉を切り取っていったのか。自分の背中も、あんな風なのだろう。老いを意識し、いまのうちにと若い女に溺れたのか。
 谷澤がおもむろに振り返った。
 「お疲れさまです」
 何の気負いも、てらいも、強張こわばりも、わだかまりもない声音だった。
 「お疲れさん」と三枝は短く返した。
 「なかなか難儀な事件ヤマですね」
 「そうだな。ここでなにやってんだ?」
 「三枝さんを待ってたんですよ。足音で三枝さんだとわかりました。顔は老けても、足運びの癖は変わりませんね」
 「老けたのはオマエもだろ」
 「確かに」と谷澤は微笑み、谷澤の相勤に視線をやり、戻した。「五分程度、お時間をもらえませんか」
 「ああ」三枝は顎を振り、相勤を促した。「先に出ててくれ。メシはいつものラーメン屋でいいだろ?」
 一係だけの会議の存在を気取られないよう、適当にごまかした。
 「ではお先に」
 相勤が署を出ていき、三枝は谷澤の隣に座った。当直の無線も鳴っておらず、今のところ管内は平穏のようだ。
 「普通に話すの、久しぶりですね」
 「そうだな、どうかしたのか」
 「今日の三枝さんの報告で昔を思い出したんですよ。佐藤さんと三人で遊び回ってた頃のこと。ほら、水谷の息子、青春してるじゃないですか。俺の青春は三枝さんと佐藤さんといた頃だなって」
 谷澤も自分と同じ感懐を抱いたのか。
 「一応、仕事もしてたぞ」
 「ですね。三枝さんが失敗したりして」
 皮肉か? アンタは本部の係長にはふさわしくないと言いたい? 三枝は肩を上下させた。
 「あの時は助かったよ」
 「色々助けてもらったのは、こちらも一緒です。あんなに世話になったのに離婚しちゃってすみません」
 「いいさ。人それぞれ事情があるんだから」
 「耐えられなかったみたいです。事件があれば二十連勤なんか普通じゃないですか。家族団らんが恋しかったと元妻に言われ、ぐうの音も出ませんでした。こんな生活はもう続けられないって」
 谷澤は呟くように言った。離婚理由を聞くのは初めてだった。
 「離婚して、もう十五年です。早いですよね」
 「そうだな。俺たちが前に関内署にいたのも、二十年以上前になるんだもんな」
 「こりゃ、あっという間に死にますね。毎日が光の速さで時間が過ぎていって」
 「間違いない」
 他愛ない会話が懐かしく、胸の奥が痛い。
 「前の奥さんと娘さん、元気なのか」
 「らしいですね、おかげさまで」
 「何よりだ。オマエと別れてからも律儀に年賀状をくれたけど、返しそびれてそれっきりだったからさ」
 どんなメッセージを添えるべきか悩み、結局付き合いをやめた。後輩の元妻なら差し支えもない。娘の成長を知らせる写真の年賀状をもらっても、何の感慨もない。もはや名前も憶えていない。
 「会ってないのか」
 「向こうも再婚して、川崎で新しい家庭を築いてますからね。最初の頃は娘と会う機会を設けてたんですが、向こうの旦那さんがあまりいい顔をしないというのでやめました。娘が十歳くらいの頃ですね」
 「色々と気を遣ってんだな」
 「反抗期をパスできたのは良かったのかもしれません。頭の中には可愛いままの娘がいるだけなんで。俺は運がいいんですよ」
 強がりにも聞こえる。
 「ものは考えようだな」
 「人生って面倒くさいですよね。だから楽しいんでしょう。コスパだのタイパだのクソ食らえですよ」
 谷澤は微笑んだ。
 「同感だ。コスパもタイパも、俺たちの仕事には無縁な言葉だよな」
 「三枝さんとこ、反抗期は?」
 「絶賛、真っ只中だよ。しばらく一言も口をきいてない。生意気盛りだ。とはいえ、妻に任せっきりさ。家を出るのは早いし、帰るのも遅いし、休みもないだろ。申し訳ないが、ちょっと気は楽だな」
 「またまた、話せなくて寂しいんでしょ? あんなに病弱だったウチの娘は、もう二十歳ですよ。中学の時はバスケ部で、関東大会に出たんです」
 「そいつは凄いじゃないか。ん? 元奥さんから連絡があったのか? いまの旦那さんの目を盗んで」
 「いえ。娘がバスケをやってたのは知ってたんです。同期の娘もたまたま同じ中学校にいて、そいつに教えてもらってて。いまの妻が応援に行こうと言い出して、困りましたよ」
 「大変だな」
 「離婚も再婚もするもんじゃないですよ」
 谷澤がじっとこちらを見ている。
 「どうかしたのか」
 「いえ。こうして会話できて嬉しい一方、少しかなしいなって」
 谷澤が遠くを眺めるような目つきになった。
 「そうか」
 短く応じる以外、言葉が浮かんでこなかった。競争相手となった事態について、谷澤も思うところがあるのだろう。
 「今の奥さんとは仲良くやってんのか」
 「おかげさまで」
 浮気相手とは? 質問が脳裡のうりをかすめる。二十年前の間柄だったら口から出ていただろう。
 「いま、どこに住んでいるんだっけ」
 「大船でローン地獄ですよ。三枝さんは?」
 「小机でローン地獄だ」
 さりげなく探りを入れた自分がいる。刑事課に戻り、パソコンのキーボードを叩けば谷澤の住所も出てくる。だが、当直の者や他係の誰かが残業中だろう。画面をのぞき見られたくない。年賀状の季節でもないのに、課員の住所を調べるのは不自然だ。
 「また三人で朝の山下公園に行きたいですよ。で、今度も汽笛についてああだこうだ言うんです。誰かが異動する時、やりましょう。せっかく関内署にいるんだから、またハマを満喫しないと」
 どちらかが本部の係長に栄転する時か。負けられない。
 「ああ、そうしよう」
 「俺、そろそろ行きます。すみません、つまらない話をしちゃって」
 「いや。たまにはいいさ」
 「じゃあ、失礼します」谷澤が腰を上げた。「やっぱ俺は運がいいですよ。三枝さんみたいな先輩を持てて」
 「揶揄からかうな」
 「本心ですよ。それでは」
 谷澤が署を先に出ていった。背中はやはり小さく見える。
 三枝はその場で相勤に電話を入れた。
 「先に行っててくれ。俺は一カ所立ち寄ってから合流する」
 詰めるべき点は詰めておこう。
 
 横浜グランドメゾンホテルのフロントにひと気はなかった。この時間にチェックインする者は稀なのだろう。誰だって一流ホテルでの時間を長く味わいたい。三枝は身分を明かし、別室で今晩の宿泊記録を見せてもらった。
 谷澤雅史。まえはた
 偽名も使わず、谷澤は二名用の部屋を使用していた。三枝は携帯を取り出し、電話帳を開いた。記された緊急連絡先は谷澤の携帯番号だ。大船の住所を記し、女の方は東京の品川区在住だった。本名と電話番号の記載を鑑みると、住所も実際のものの確率が高い。谷澤本人が部屋を使用しているとみていい。
 午後二時にチェックインしている。今夜、妻と子どもがいる部屋に戻らないつもりだろう。捜査なら家に帰らないことなど日常茶飯事だ。捜査だと言っておけば、妻は疑いもしないはずだ。
 「今晩、この部屋の宿泊料はいくらですか」
 「一泊四万円です」
 警官は高給取りとは言えないが、決して払えない額ではない。あの若い女に本気で入れ込んでいるようだ。欲望に忠実なのは人間らしいが、警察組織の指揮官としてはふさわしくない。
 「こちらの宿泊記録をコピーさせてください。正式な令状などを持ってきては、皆様も鬱陶うつとうしいでしょうから、いまこの場で」
 「承知しました、少々お待ちください」と従業員が名簿を持って、部屋を出ていく。
 ホテルに来てよかった。佐藤と谷澤が関係を深めているかどうか定かでないが、切札は持っておいた方がいい。
 三枝は首根を揉んだ。切札を手にしたというのに、安心感も高揚感もない。本当に使うかどうか見定められない自分がいる。
 使いたくないと言った方がいいのか。
   
 「水谷とはもう何年も会っていませんし、連絡を取り合ってもいません」
 水谷の高校時代の同級生はきっぱりと言い切った。
 午後三時過ぎ、三枝と相勤はJR大崎駅近くの喫茶店にいた。同級生はラグビーの社会人選手を引退後、チームの親会社にそのまま勤め、現在人事部にいるという。元ラガーマンとあって固太りで、耳も潰れている。日曜日らしく派手なポロシャツ姿だ。
 「高校時代とか大学時代に、こいつらは一生の友だちだと思っていても、結局、この歳になると縁遠くなっちゃって。みんな、どこで何をしてるんだか。年賀状のやりとりもいつの間にかしなくなりました」
 「私も学生時代の友人とは十年以上顔を合わせていませんよ。そんなものなのでしょう」
 三枝は言った。特に昼も夜もない刑事という職種を選んだ自分は、学生時代の友人と会うことも連絡を取ることも早々になくなった。それだけに谷澤と佐藤の存在は大きかった。こんな形で再集合したくなかった。いっそ再集合しないままの方が三人のためにも良かったのだろう。
 「水谷さんが頼ったり、身を寄せたりする方をご存じないでしょうか」
 「いえ、特に」
 それからいくつか質問を投げたが、糸口となる返答はなかった。
 「こちらからもいいですか? あいつが……、水谷が何か警察のお世話になるようなことをしたんですか」
 「水谷さんにお話を伺いたいだけです」
 すべてを明かす必要はない。
 「どんな話についてですか」
 「申し訳ありません。捜査に関しては口外できないんです」
 三枝は丁寧な口調で、きっぱりと言った。
 「そうですよね」同級生はすっと息を吸った。「どんな事件の捜査なのかは知りませんけど、水谷は欲得で動く奴じゃないですよ」
 「というと?」
 「水谷はチームプレーに徹する奴でした。あいつはトライをとる役割なので、エゴむき出しで相手に突っ込んでいっても誰も責めないんですが、よりトライができそうな味方にパスする奴でした。ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン。言うは易し、なかなかできることじゃありません。選手にもエゴがあります。特に私たちは花園で上位を狙うチームだったので」
 なるほど、とだけ応じた。クラブ活動と社会人の生活は違う。どんなに熱を入れたクラブ活動であっても、所詮は時間潰しの手段に過ぎない。そこで品行方正に誰かのために行動できても、社会に出れば誰しも生活のために汚れる。
 「高校生だから金なんてみんな持ってないじゃないですか。しかも部活でアルバイトをする時間なんてなかった。初めて彼女ができた時、ひどい金欠でした。そんな時、水谷は『デート代に使えよ』って一万円を貸してくれました。高校生の一万円ですからね、大人になってからの一万円とは重みが全然違います。私は金を貸してくれとは一言も言ってないんです。あいつは誰かのために行動できる奴なんですよ」
 そんな人間が容疑者になるとは皮肉な話だ。
 「あいつが何かしたのなら、それは自分のためじゃないはずです」
 水谷の同級生は真顔で言った。
 人間は変わる。いい方にも悪い方にも。
 自分だって変わった。かつては打算なく、全力で目の前の捜査に挑めた。出世や昇進なんてしゃらくさいとさえ嘯いていた。谷澤を蹴落としたいなんて一度も、微塵みじんも思ったことはなかった。
 水谷の同級生に話を聞いた後、三枝はトイレにいくと言って相勤から離れ、横浜グランドメゾンホテルに連絡を入れた。谷澤は午前十時にチェックアウトしていた。
 
 午後八時、この日の捜査会議が大会議室で始まった。が――。
 谷澤の姿はなかった。谷澤と相勤以外の二係はいる。単に遅れているだけではないだろうが、決定的な捜査ではなさそうだ。水谷を取り押さえるチャンスなら、一係に情報を伝えないまま他の二係も動員する。再び取り逃がしては元も子もない。有力情報を握ったから、もしくは摑める見込みがあるから、あの密会をするほどの余裕ができた?
 佐藤が立ち上がる。
 「谷澤は張り込みを切り上げるタイミングが摑めんそうだ。報告は個人的に聞いておく。共有すべき情報があれば、俺から連絡する。じゃあ、一係から今日の報告を頼む」
 進展は今日もなかった。二係も成果はない。谷澤はどこで何をしているのか……。
 会議は早々に終わった。一係も二係も、重たい足取りで大会議室を出ていく。佐藤が顎を振り、正面の席に三枝を呼んだ。
 「明日はどう動く?」
 「もう一度、人間関係を洗い直します」
 他に動きようがない。水谷の行方に繋がる手がかりがないのだから。
 「そうか」
 「失礼します」
 きびすを返そうとした時、佐藤が目元を緩めた。
 「聞かなくていいのか、谷澤のこと」
 「聞きたいのは山々でも、反則でしょう。端的に言えば、やせ我慢ですよ」
 「ま、三枝ならそうなるわな」
 「同じ立場なら、きっと佐藤さんも」
 谷澤に肩入れしてるんですか? 聞くだけ無駄だ。違うと返答があっても、信じ切れない自分がいるだけだ。
 「まあな。相変わらずだな」
 「そうですか? 結構、変わりましたよ。佐藤さんだって煙草をめましたよね。変わってるじゃないですか」
 「立場やら肩書き、習慣やなんかの話じゃないさ。性根はそんな簡単に変わらん。三枝も谷澤も俺もな」
 佐藤が懐かしそうに微笑んだ。
 いまの発言が真実ならば、自分は最初から嫌な奴だったことになる。否定はしない。嫌な奴の素養がなければ、谷澤が若い女とホテル宿泊した件を確かめもしなかった。
 「また野毛で朝まで飲み明かしたいですね」
 「その時は三人とも奥さんに怒られるんだろうな」
 「捜査の打ち上げってことで、大目に見てもらいましょう」
 二人揃って苦笑いを浮かべた。

 「水谷? 相変わらず何の連絡もありませんね」
 午前中に続き、午後も空振りが続くのか……。三枝は内心で苦虫をみ締めた。水谷の学生時代の友人を再度訪れていた。
 千駄ヶ谷の小さな公園には蝉の声が響いている。
 皆、会社員なので勤め先への訪問を敬遠され、営業での外出先の駅前や公園で待ち合わせていた。水谷の携帯は依然として電源が入っていないが、公衆電話から連絡が入ることはありうる。携帯の電源を入れずとも、手帳に連絡先を記していたかもしれない。
 礼を言い、公園を出ていく水谷の友人を見送った。
 「次、行こうか」
 「はい。お次は築地です」
 木陰を出ると、真夏の陽射しが照りつけていた。たちどころに汗が全身からにじみ出してくる。肌が焦げる音が聞こえてくるようだ。
 ポケットで携帯が震えた。取り出すと、関内署刑事課と液晶に表示されている。耳に当てる。佐藤からだった。
 「水谷の身柄を確保した。いま、任意同行でこっちに向かっている」
 たちまち血の気が引いた。物音が遠ざかり、夏の盛りの暑さも感じなくなっていく。寒気すらする。一係のメンツから連絡はない。つまり、二係が身柄を確保したのだ。
 「了解です」声を喉の奥から絞り出した。「誰が?」
 「谷澤だよ」
 ぐらりと視界が揺れる。
 「どこで?」
 「和歌山」
 和歌山? 水谷とは縁もゆかりもない土地だ。谷澤はどうやって目星をつけた? やはり情報を握っていたのか。
 「水谷の息子がインターハイに出場したろ。会場に現れたんだ」
 「え……」
 「水谷も一人の親だったわけだ」
 「元妻と連絡を取り合っていたんですか」
 だとすれば、自分の失態だ。身柄を確保できなかっただけでなく、ミスが上塗りされる。元妻の田中容子に話を聞いたのは、この自分なのだ。
 「いや、そんな気配はない」
 「じゃあ、どうして息子がインターハイに出るとわかったんです?」
 「さあな。ネットで何でも調べられる世の中だ。携帯を使わなくても、ネットカフェに行けばいい。いずれにせよ、谷澤が水谷の行動を読んだんだ」
 「どうやって」
 思わず呟いた。佐藤の返事はない。
 足元のアスファルトが熱せられ、大気が揺らめいている。あるいは己の脳が揺れているための幻影なのか。先ほどから質問しか口に出ないのが歯痒はがゆい。
 「ひとまずお疲れさん」
 佐藤のねぎらいの言葉が虚しく鼓膜に響き、通話が切れた。無音が耳に痛かった。視界はまだ揺れている。敗北の二文字が胸の奥でうずいている。
 一昨日の晩横浜グランドメゾンホテルでコピーした宿泊記録が、鞄の中で重みを増していく。
 
 午後八時、大会議室に谷澤が戻ってきた。二係が盛大な拍手で出迎える。みな、笑顔だ。かたや一係の顔は死んでいた。おざなりに拍手をするものの、生気がない。三枝も唇を引き締め、拍手で出迎えた。
 三十分前、水谷を横領の疑いで逮捕した。任意の取り調べも谷澤が行い、水谷が犯行を認めた。横領した金は息子の部活動費として毎月元妻、田中容子が設けた息子の口座に匿名で振り込んだ、と供述した。息子が中学からハンドボールを始めたと知り、妻に連絡し、振り込み先を聞いたのだという。捜査では元妻の口座記録は入手したものの、息子の口座までは確かめられていなかった。水谷が行方をくらませ、捜査班総出での捜索が最優先となったためだ。水谷は一度現金を下ろし、息子の口座に振り込んでいた。フジクラ通商の先代は薄々事情を察していたと思う、と水谷は話したという。
 身柄の確保を含め、谷澤の大手柄だ。これからヨンパチ――四十八時間以内に水谷を送検しないとならない。明日以降も谷澤が取り調べを担当する。田中容子にも事情を確かめる流れになる。
 谷澤が左側の最前列に座り、正面の佐藤が立ち上がった。拍手がやむ。
 「みんな、ご苦労さん。ひとまず水谷の身柄を確保でき、逮捕もした。手錠をかけたのは谷澤だが、ここにいる全員が追いかけてくれた結果だ。俺からも改めてみんなに拍手を送りたい」
 佐藤が拍手をし、その手を止めた。
 「谷澤からも一言、頼む」
 「俺もですか?」
 「いいから、早くしやべれ」
 「参ったな」
 谷澤は不承不承立ち上がり、皆の方を向いた。三枝はその横顔を見た。晴れ晴れとした表情だ。途端に敗北感、悔しさ、情けなさが一緒くたになった感情が腹の底からこみ上げてくる。
 「では、一言だけ。課長もおっしゃったように、手錠をかけたのがたまたま私というだけで、水谷逮捕は捜査班全員の手柄だと思う。一係も二係もお疲れさまでした」
 優等生めいた綺麗事をぬかしやがって。いっそ、『二係の勝ち、俺の勝ちだ』と宣言してくれた方がせいせいする。ただ、自分が谷澤の立場なら同じ発言をするだろう……。
 二係が力一杯拍手をし、一係がぱらぱらと手を叩く。
 「みんな、明後日の夜は明けておけよ。ヨンパチが終わった後、軽く打ち上げをしよう。今日をもって捜査班は解散だ」
 佐藤が笑顔で言った。
 会議は早々に終わった。二係の面々が谷澤を取り囲む。笑顔で、親分の勝利を心から祝福している。
 三枝はパイプ椅子の背もたれに体を預けた。軋む音と床がこすれる音が同時に鳴る。このままでは、佐藤は今度の人事異動で谷澤を本部の係長に推薦するだろう。
 だが――。
 三枝は瞼をきつく閉じた。こちらには切札がある。谷澤を追い落とす切札が。いつカードを切るのがもっとも効果的なのか。次の人事異動まではまだ時間がある。次の捜査でも後れをとる可能性はある。ぎりぎりまでとっておくべきか。
 しかし、本当にカードを切っていいのだろうか。
 自分の一言で、谷澤の人生は隘路あいろにはまる。素行不良で人事査定も一気に落ち、再起不能になりかねない。捜査ミスでの失点を取り返すチャンスはあっても、素行不良は一発アウトになる。家庭も瓦解してしまうかもしれない。黙し、素直に敗北を認め、栄転を諦めるべきではないだろうか。谷澤とは濃い時間をともに過ごした仲ではないか。そっちの方が――。
 「三枝さん」
 谷澤の声がした。目を開けると、谷澤が真ん前に立っていた。周りには二係の面々と一係がまだ残っている。
 「どうした」
 「水谷の逮捕、三枝さんのおかげです」
 さすがにこんな状況で皮肉を飛ばしてはこないだろう。まったく心当たりがない。
 「どういうことだ」
 「水谷の元妻から息子がインターハイに出場し、その応援に行くと聞き込んでくれたおかげなんですよ。水谷は元スポーツマンです。いえ、元スポーツマンじゃなくても、子どもの晴れ舞台を見たくない親なんて存在しませんから」
 こいつ……。
 こけにしやがった。同じ情報で自分は水谷の行動を読み切ったのに、アンタはできなかったのだと。一係も二係も佐藤もいる前で。頭の芯が冷えていくにつれ、腹の奥底が熱く煮えたぎってくる。
 決めた――。三枝は熱い息を呑み込んだ。
 「そうか。今日はいい酒を飲んでくれ」
 「いや、やめておきますよ。明日も取り調べがあるんで」
 「なら、早く帰って寝ろ。睡眠不足は頭の回転を鈍らせるからな」
 「お気遣いありがとうございます。お礼だけ言いたかったんです。失礼します」
 谷澤が一礼し、二係の面々を引き連れ、大会議室を出ていく。谷澤、おまえは余計なことをしたな。三枝はドアの向こうに語りかけた。
 三枝は一係の面々を見回した。
 「しけたツラするな。お通夜じゃないんだぞ」
 湿った笑いがかすかに聞こえるだけだった。
 「大人な対応だな」と佐藤が声をかけてきた。
 「大人ですからね。俺の報告を聞いた夜、谷澤は和歌山行きを直訴してきたんですか」
 「ああ。ある条件付きでな」
 「条件とは?」
 「何でもかんでもペラペラ喋る奴が上司で嬉しいか」
 「いえ。失礼しました」
 佐藤が肩をすくめる。
 「いいさ。久しぶりに飲みにいくか」
 「慰めは結構ですよ。それに疲れました」
 早く一人になりたい。今晩佐藤と飲めば、二十年前の自分たちに向けて叫んでしまいそうだ。
 どうにかしてお前らはこうなるなよ、と。
 
 その夜、三枝はなかなか寝つけなかった。大きく寝返りを打つ。妻は隣のベッドで寝息を立てている。子ども部屋では娘も寝ているだろう。
 目が冴えてしまい、脳も動きを止めない。身も心も休めた方がいいとわかっていても、どちらも言うことをきかない。こんな夜は初めてだ。日々蓄積される疲労で毎晩、お休み三秒なのに。
 思考がまた巡り出す。
 今日、どこかのタイミングで佐藤と二人になり、切札を使うのだ。ヨンパチはまだきていないが、任意同行にあっさり応じたのだから水谷は観念している。誰が取調官でも落とせる。ならば、さっさと谷澤の首を飛ばした方がいい。これを考えるのは今晩、何度目だろう。
 もう眠るのは諦めよう。三枝はベッドを出て、妻を起こさぬよう足音や物音を立てずに居間に移った。
 壁掛け時計を見る。午前四時前。頭の中ではホテルで入手した宿泊記録が浮かんでいた。谷澤や佐藤と過ごした二十年前の記憶も疼く。皆の面前で辱められ、宿泊記録を使って追い落とすと決めたのに、まだどこかで躊躇ためらっている自分がいる。
 甘ちゃんだ。そんな自分が嫌いではない。台所にいって水を一杯飲み、窓のカーテンを開け、ソファーに腰を下ろした。
 夜が白みだし、世の中があっという間にオレンジ色に染まり出す。三人揃って山下公園で見た、あの朝焼けは一生忘れられないだろう。
 思い出とは厄介なものだ。

 六時過ぎ、早めに家を出た。妻も息子もまだ眠っている。この時間の出勤は日常だ。事件が起きれば朝も夜もない。小机駅から電車を乗り継ぎ、関内駅で降り、署には向かわず、山下公園まで歩いた。
 いつかと同じように、晴れ渡った真夏の空から力強い陽射しが公園に降り注ぎ、氷川丸と横浜ベイブリッジを照らし、海を銀色に輝かせている。海鳥が鳴き、打ち寄せる波音がする。汗ばんだ体に朝の潮風が心地よい。
 三枝は一人、深く息を吸い込んだ。さあ、行こう。羽根が灰色の海鳥が空を飛んでいた。
 七時半、署に出勤すると刑事課のフロアにはすでに佐藤がいて、他にもちらほら一、二係以外の捜査員がいる。三枝は佐藤のもとに歩み寄った。
 「少々、お時間をもらえますか」
 「ああ。構わないよ」
 屋上に出た。空き缶があちこちに置かれ、煙草の吸い殻が刺さっている。
 「暑いな」佐藤が目をすがめた。「どうかしたのか」
 谷澤のことで……。そう言いたいのに声が出なかった。喉の奥で言葉が詰まっている。しっかりしろ。お前はさっき山下公園で踏ん切りをつけただろ。
 三枝は山下公園の方に顔をやって勢いよく息を吐き、佐藤に向き直った。
 「谷澤のことです」
 「何かあったのか」
 「この前の土曜、勤務中に若い女と密会し、ホテルを利用しています」
 口に出した瞬間、自分の体が数センチ浮いた気がした。
 佐藤の表情は変わらない。
 「見かけたのか」
 「はい。横浜グランドメゾンホテルで。宿泊記録もあります」
 三枝はポケットから折りたたんだ紙を取り出し、広げ、佐藤に渡した。佐藤は記録を一瞥し、顔をあげた。
 「前畑早紀、か。三枝は聞き覚えないのか」
 「はい」
 あるわけはない。谷澤の浮気相手など知るはずもない。そんなことを話し合う仲ではなくなった。
 「そうか」
 佐藤は宿泊記録を三枝の手に戻した。少し、その手が震えている。佐藤は一度口をきつく閉じ、ゆっくりと開けた。
 「前畑早紀は、谷澤の娘さんだよ」
 三枝は足元がぐらついた。そんな……。なんとか踏ん張る。
 「あの病弱だった?」
 「ああ。あの子だ。よく当直を代わったろ。名前、憶えてないのか」
 まったく憶えていない。元妻の旧姓が前畑? 結婚式に参加したとはいえ、同僚の奥さんの旧姓なんて記憶にない。いや、再婚で変わったのか。余計、わかるはずがない。
 「今度結婚するんだとさ。まだ二十歳で結婚なんてな。そんなとこは谷澤に似てるよ。谷澤も早い結婚だっただろ。土曜は両家の挨拶が横浜グランドメゾンホテルであったんだよ」
 そういえば、大安の土曜とあって両家顔合わせらしき姿も多かった。
 「俺は谷澤が別れてからも亜美あみさん、元奥さんと年賀状のやり取りをしててな。その繋がりで教えてもらった」
 そうだ、谷澤の元妻は亜美という名前だった。
 「亜美さんから相談を受けててな。今の旦那さんと話して、両家顔合わせの日に谷澤にも早紀ちゃんから報告させたいが、当の本人が頷かないって。上司として、谷澤に早紀ちゃんと会うよう命令した。あの夜、捜査会議の後に報告も受けたよ。これから娘との最後の夜を過ごします、と」
 谷澤が佐藤とこそこそ話していたのは礼を言うためだったのか。谷澤は、娘と会うのを向こうの旦那が嫌ったと言っていた。実際は自ら線引きし、十歳で会うのを止めたのかもしれない。
 「残念だよ。三枝がこんな真似をするなんてな。俺は谷澤に頼まれてたんだ。お前が水谷の行き先に見当がつくよう、それとなく示唆してほしいと」
 谷澤が捜査会議に出なかった夜、あいつが何をしているのか聞かないのかと佐藤に問われた。あれか。
 「まさか、あいつが和歌山行きにつけた条件って……」
 「ああ。三枝が気づけば、三枝を現地に向かわせてほしい、現場で役割を交代すると。水谷の息子と母親がインターハイで和歌山に行くと聞き込んできたのはお前だからな」
 しまった、谷澤もほのめかしていたのだ。関内署のエントランスで久しぶりに口を交わした際、会話の流れで娘が関東大会に行き、今の奥さんが応援に行こうと言い出して困った、と。水谷も息子の応援に行きたいと思うはずだ、と。栄転を競い合う相手に対しては、あれがぎりぎりの示唆だろう。本当に和歌山に行かなくていいんですか、と言葉に出したかったに違いない。会話の最中、谷澤はじっとこちらを見ていた。察するかどうか、見極めていたのか。
 「田中容子は息子の晴れ姿を水谷に見せたかったんだろう。谷澤はその気持ちをおもんぱかり、試合前に水谷を現認した後、試合終了まで逮捕しなかった」
 思えば、水谷の学生時代について何も知らない、と田中容子が言ったことも妙だ。水谷なら一度くらい話すはず。会社の同僚が知っていた。また、現在の夫には水谷からの振り込み――三万円の援助を明かしていなかったのだ。だから聞き込みの際、それを幸いとし、一切触れなかった。田中容子は息子の晴れ舞台を見せてやりたいという気持ちから、警察に事実を話さなかった。水谷が必ず和歌山に試合を見に来ると見越して。
 谷澤は己の境遇もあり、人情の機微に通じていた。だから、と三枝は唇を嚙んだ。俺の報告を聞き、水谷の行動を読めた……。
 翻って、己はどうだ。捜査で競り負けただけでなく、同僚の行動を上司にチクることまでした。谷澤の別れた妻との縁を大事にしていれば、こんな結果にはならなかった。繋がりをおろそかにした、ツケが回った。
 「俺が間違ってたよ。確かに三枝は変わった。見損なったぞ、もう一度人間力を磨け。谷澤を刺してまで本部の係長になりたかったのか」
 「申し訳ありません」
 何のことはない、魔が差したのは自分だった……。
 「中間管理職なんて面倒なだけだぞ。お前には向いてない。だが、俺とお前の仲だ。この一件は俺の胸にしまっておく。悪いうわさが立つようなことはしない」
 「恐れ入ります」
 「こんな三枝を知りたくなかったよ。あの頃はよかったな」
 佐藤がゆるゆると首を振り、屋上を出ていった。鉄の扉がゆっくりと閉まる。
 三枝はその場に座り込んだ。夏の陽射しを浴びたコンクリートが尻に熱い。先ほどまで聞こえていなかったのに、蝉の声がする。ほのかに潮の匂いもする。自分は何をやっているのだろう。
 あの時、横浜グランドメゾンホテルで谷澤の姿さえ見なければ――。
 三枝は目を見開いた。両頰を力任せに引っ叩かれた気がした。
 違う……。
 刑事は大勢の中から見知った顔、容疑者の顔を見つける能力を磨いている。なにも自分だけではない。
 谷澤だってそうだ。こちらの顔を認識し、娘と会った場面を見られたことを利用したのではないのか。三枝ならホテルで宿泊名簿を調べる、名前を見ても娘だと悟られない、若い女との密会だという切札として使ってくる、と見越したのだ。
 だが、谷澤は三枝という男が直球勝負な性格だとよく知っている。切札を得ても、後輩の将来のために使わない可能性もある。だから今回の勝負の行方がどうであれ確実に切札を使わせるため、一係も二係もいる前でこけにしてきたのではないのか。心への衝撃をより大きくするべく、ホテルではこちらの縄張りを荒らす意思がないしおらしさを示そうと、周囲に視線を飛ばさなかったに違いない。
 あの日、横浜グランドメゾンホテルを使用したのも、巧妙な罠だったのだ。
 捜査は硬直していた。打つ手も行き場所もない。情報屋を使いたい場面だ。俺が情報屋と接触するなら大抵午後に、横浜グランドメゾンホテルの喫茶ラウンジを使うことを谷澤は知っている。午前中に顔合わせの終わった娘を部屋で待機させておき、頃合いをみて呼び出せばいい。谷澤は俺がホテルにいるのをどこかで確認し、しかるべき時に喫茶ラウンジに現れ、娘を呼んだ。あいつだって行き場所も打つ手もなかった。谷澤はあの時点では水谷の行方に見当をつけられていなかった。だから、計略に走った。三枝という奴は、栄転のためにはかつての仲間もチクる男だと佐藤に認識させるために。
 ――やっぱ俺は運がいいですよ。三枝さんみたいな先輩を持てて。
 関内署のエントランスでかけられた言葉の真意は、人情の機微に疎い上、思惑通りに動く単細胞な先輩を持てて幸運だと言いたかったのだろう。
 エントランスで話した時、谷澤は娘の話題を口に出したが、結婚するとは言わなかった。あえて明かさず、こちらの反応を窺ったに違いない。
 三枝は長い瞬きをした。
 いまさらどうしようもない。騙されたのも、水谷の行方を察せられなかったのも自分ではないか。
 ――少し哀しいなって。
 関内署のエントランスで、谷澤は遠くを眺める目つきになった。あれは、かつてと変わってしまった自分自身にかけた言葉だったのかもしれない。
 もの寂しい音色の汽笛が聞こえた気がした。
 港の方を見やると、横浜グランドメゾンホテルが夏の陽射しを受けて輝いていた。谷澤は娘と宿泊した時、部屋の窓から朝焼けの山下公園を眺めたのだろうか。
 先ほどとは違う音色の汽笛が鳴った気がした。
 今晩、娘に声をかけてみるか。朝の山下公園に行ってみないか、朝陽が綺麗だぞ、と。将来、一緒に見たあの景色はいい思い出になっていると言ってくれるかもしれない。
 なにより、鬱陶しがられても久しぶりに話してみたい。

                               (了) 

■警察小説競作

月村了衛「ありふれた災厄」

深町秋生「破断屋」

鳴神響一「鬼火」

吉川英梨「罪は光に手を伸ばす」

葉真中顕「不適切な行い」

見出し画像デザイン/高原真吾


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