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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第15回

第7峰『秘剣』

偽侍・一松の超攻撃型空中殺法が乱舞するピカレスクロマン


正義感を拠り所にしない剣術小説の気持ちよさ
薩摩示現流の達人に変身した偽侍が風雲を巻き起こす


 快作、いや怪作というべきか。2002年から06年にかけて発表された『秘剣』シリーズは、佐伯作品の中でも異彩を放ち、読者の間では評価の分かれる作品だと思う。全5巻はけっして短いわけではないが、10巻越えの大長編シリーズがひしめく佐伯作品群の中では地味な存在。すでに絶版になっていることもあり、未読の人も多いだろうと思われる。

 白状すると、私もまったく知らなかった。こんなシリーズがあるとわかって古書店で入手し、短命に終わった平凡な作品かも、と意地悪な気持ちで読み始めたのだ。

 申し訳なかった。いやこれ、いろんな意味でぶっ飛んだシリーズです。あえていうなら〝名作になり損ねたトンデモ作品”。主人公の造形から物語の展開まで、ほかのシリーズとは一線を画す剣豪小説になっている。巻が進むにつれて、魅力的だがつかみどころのない主人公をどう扱ったらいいのか、作者自身が困っている様子がうかがえるところがさらにおもしろい。

 本シリーズの特色はタイトルの『秘剣』が示すように剣術にある。時代小説家として、徹底的に剣術を中心に据えた活劇を書いてみようとしたのか、アクションシーンがやたらと派手なのだ。複数の敵を相手にすることも多いため、読みながら何が起きているかわからなくなることもしばしばなのだが、問答無用とばかりの筆勢に押し切られてしまう。

 人間離れしたアクションシーンを成立させるためには、剣の遣い手である主人公にも強烈なキャラクターが与えられなければならない。佐伯泰英は、身長6尺(約180センチ)の一松をその座に据えた。まだ17歳の若者だが、この一松は佐伯作品のヒーローに共通する爽やかさとはかけ離れた個性の持ち主として読者の前に現れる。

 冒頭から汗臭い場面。一松がいるのは江戸小伝馬町の牢屋敷大牢だ。直接の容疑は、賭場での諍いから義父の伍平が殺されたとき、賭場に乗り込んで諍いの相手などを六尺棒で叩き伏せたこと。これが原因で、中間(武家の奉公人)として勤めていた藩邸から追放され、御用聞きに目をつけられて3カ月も牢にぶち込まれてしまったのだ。

 牢を出ることになった一松が、代わりに与えられるのは江戸所払いの刑。所払いとは、もっとも軽い追放刑で、居住していた地域へ立ち入り禁止になることである。おまえのような暴れん坊は、二度と江戸に戻ってくるなというわけだ。

 いささか暗いオープニングだが、読者は大きな問題じゃないと考える。佐伯作品の主人公は、強さと誠実さを併せ持つ人物だらけだから、一松がそうなるのも時間の問題だろう。同じように囚われの身だった若者を主人公に据えた『夏目影二郎始末旅』シリーズでは、罪を犯した事情を早い段階で明かして読者を安心させた。江戸所払いは物語を盛り上げる布石で、幕府や藩の密偵となって大活躍したりするのではないか。そんなふうに思ってしまう。

 しかし、そうではないのだ。一松は〝悪松”のあだ名がつくほどの悪ガキで、運よく江戸所払いの刑で済んだというのに、まったく反省しないし、乱暴者だった過去を悔いることもない。

 藩の中間部屋や牢の中で〝世の中は力と才覚”という考えが身についてしまった一松は、さっそく金を得るべく行動に移る。その手段は暴力で、通りすがりの侍たちを折れた櫓を振りかざして襲い、金と刀、衣服を盗むのだ。

 このエピソードで、力とは暴力のことで、才覚とは楽して要領よく目的を遂げることだと考えていることがよくわかる。首尾よく目的を遂げ、心の中で「よし」と満足する一松は、本当にただの悪ガキに過ぎない。

 それだけではない。箱根越えをすべく歩きながら、暇さえあれば刀を抜く稽古をして独自の居合術を身につけようとする一松が、金持ちらしき3人連れを襲う山賊に遭遇したらどうなるか。そう、もっけの幸いとばかりに金を奪った山賊5人を斬り殺し、生き残った娘に金を返すでもなく、山賊が奪った27両をいただいてしまうのだ。

 このとき、一松は襲われた人を助けたいのではなく、金が目当てだった。やむにやまれぬ状況に巻き込まれるパターンではないのだ。しかも、人を殺めたことは初めて、ましてや山賊とはいえ5人を斬り殺したのに平然としている。

 え、どうなってるの、この主人公……。佐伯時代小説らしからぬ行動に戸惑う読者が多いのではないだろうか。

 さて、首尾よく大金を手に入れた一松は浜松まで行き、かつて自分が捨てられていたという山門に通りかかるが、急に感慨深くなったりはしない。ただ、縁のある場所ということで、大安寺という姓をもらう(中間には姓がない)ことを勝手に決めてしまう。この偽侍・大安寺一松の誕生エピソードで、この男が侍に憧れていた若者であることが明かされる。

 ここから徐々に話が動き始める。一松は泊った宿の番頭から、自らの出生の秘密を教えられるのだ。そして、おみねという飯盛り女と一夜を共にしたあと、宿で騒ぎを起こす浪人たちを、腕試しを楽しむような態度でまたもや殺してしまう。さらには母の墓の前でおみねと抱き合う始末。

 乱暴者で精力絶倫、社会の常識からはみ出した一匹狼が活躍するのはエンタメ小説には珍しくない。おそらく作者は、その路線を念頭に本シリーズを立ち上げたのではないだろうか。

「『秘剣』シリーズはいつもと雰囲気の違うものになります。そのつもりでお読みください」

 と作者に告げられている気持ちになってきた。

 先を急ごう。物語に大きな変化が訪れるのはその後すぐ。箱根越えの最中にまたまた路銀目当てに斬り合いを吹っ掛けて人を斬り殺した一松だったが、そこに現れた小柄な老人に、木剣で打ちのめされてしまう。

 眉をひそめつつ一松の行動を読んでいた私にとって、ケンカ殺法で連戦連勝中の悪ガキが、本物の強さを身につけた老剣士に軽くひねられるこのシーンは痛快だった。

 老人は薩摩示現流の達人で、さる事情で藩を出て30年以上、ひとりで修業を重ねてきた人。が、病に冒されて余命半年か1年だという。侍に憧れ、強さが力だと信じる一松は、残った時間で自分に剣術を教えてほしいと老人に弟子入り志願。師の最期を自分が看取るから剣術を教えてくれと強引に頼み込み、鼻っ柱の強い若者を好ましく思った老人はその願いを受け入れる。

 シリーズ共通のタイトルとなっている『秘剣』とは、老人が薩摩示現流に独自のアレンジを加えて完成させた攻めの剣術。一松はその技の継承者となるべく腕を磨くことになるのだ。意図的に単なる悪ガキとして描かれてきた偽侍の話に、こうして一本筋が通り、物語が動き出すことになった。

 特訓の場面は、師匠と弟子のやりとりが楽しい。稽古の厳しさと激しさも生き生きと描かれ、アクション映画の修業シーンを見ているようだ。

 注目したいのは、序盤に物語の根底を支える訳ありの設定を入れていない点。佐伯作品のみならず多くの長編シリーズは、(1)全体に深くかかわるストーリー、(2)巻ごとの事件や敵との闘い、(3)章ごとのエピソードの3つが絡み合いながら話が進むのが常。なかでも物語の通奏低音として読者をスムーズに最終巻まで導く役割を果たす(1)は重要なはずだ。

 ところが『秘剣』は、糸の切れた凧のように、藩との関わりがなく親もいない若者が主人公。やっと現れた師匠も早々にこの世を去ってしまう。

 なぜなのか。あくまで私見だが、作者は物語的な構造より剣術そのものを中心に据えたのではないかと想像する。剣術だけでどこまでやれるのか。作者はオーソドックスな構造が最強であり、自分にも適しているとわかりつつ、実験的な作品に挑んでみたかった。そんな野心を感じるのだ。

 そう考えると、スピードとパワーにあふれ、攻撃に特化した薩摩示現流は、己の力を試したくて仕方のない一松にピッタリの剣法だ。なにしろ、一松は守りについて何も学んでいないから融通はまったくきかず、技を防がれたときは、あえなく命を失う。それが嫌なら相手の剣が届く前に脳天をかち割れ、というのが老人の教えなのである。

 中途半端なところがないので、勝負が早く、いつでも生死をかけた戦い。腰に立派な刀を差しているのに、最大限に力を発揮できるのが、刀よりも軽くて扱いやすい木剣を使うときだというのも偽侍らしくていい。

 師匠が亡くなってからも単独で続けられる剣術修業の描写は、マンガを読んでいるような場面転換の連続と、人間離れした躍動感に満ちあふれた読ませどころ。町のケンカ番長が、技術を身につけて一流の格闘家になっていくような迫力がある。アクションシーンは、その場面を思い浮かべながら読むことになるのだけれど、ジャンプ力も破壊力も想像の域を超えていて、なんだかよくわからなかったりするのだ。

 それでも、死ぬ覚悟で稽古に集中する一松が、ものすごい勢いで強くなっているのは伝わってくる。師匠は精神論めいたことを何も語らず、闘う相手をぶちのめすための動きと技のみを教え込み、疑うことなくそれに応えようとする一松には、人生をかけて打ち込めるものを見つけた喜びがあふれている。

 読者も剣術という〝柱”ができてホッと一息。剣の腕はたちまち上がったものの、根性は腐ったままの一松の成長が楽しみになってきた。まだ第1巻の第1章が終わったばかり。落ちこぼれの偽侍が剣の達人となって風雲を巻き起こす準備は整った。

守備を捨てた連続攻撃。
真っ向振り下ろしの木剣が敵を砕く


 第1巻のタイトルは『秘剣雪割り』となっている。雪割りは以後もたびたび使われる一松の必殺技。活字にするとこういう技だ。長くなるが引用しておく。

〈息を整えた一松は、

「ちぇーすと!」

 と腹の底から絞り出し、走り出した。

 八双の赤樫を頭上に高々と振り上げ、虚空に飛んだ。

 降りしきる雪を割って六尺二寸の巨体が飛び上がり、両足が後方に跳ね上げられ、木剣が背中を叩き、その反動を利するように再び頭上から眼下に見える椎の頂きの中心に撃ち据えられた。

 一松の眼前に楔形の真空が生じた。

 三角の波動は吹雪まで割って進んだ。

 両手に伝わるべき衝撃がすぱっと抜けた。

 くーあん!

 乾いた音が響いて、十尺の椎は真っ二つに割れて、左右に倒れていった。

 どさり。

 一松は倒れた椎を飛び越えて弾正ケ原に下り立った。

 愛甲派示現流、

(雪割り)

 の剣が成った。〉(第1巻69~70ページより)

 どうやら、超高速の振り下ろしで発生する楔形の真空によって吹雪まで割る波動が生じて、相手がまともに剣を使うことができなくなるようだ。剣とは別に波動が武器になるってどういうことなのかと深く考えてはだめだ。先へ進めなくなる。対応不可能な速度とパワーで振り下ろされるから常識の範囲に収まる剣術では太刀打ちできないのだし、超常現象まで起こるからこその必殺技。雪割りさえ出せれば一松が負けることはないと覚えておこう。

 おもしろいのは、前述したように、剣士としては急成長したのに人間性が変わらないことだ。師匠は多くを語らず技術のみを分け与え、それをどう使うかは弟子に任せてあの世へ旅立ってしまった。これも、作者はあえてそうしたのだと思う。せっかくの悪ガキが、あっけなくいい人になったら調子が良すぎて読者としてもシラケる。

 修業を終えた一松は、当面の生活費を稼ぐ必要に迫られて地道に働く……はずはなく、腕試しを兼ねて道場荒らしをしようと考える。道場主がビビッて金を渡すこともあるし、勝負の前に「負けたらいくら払う」と話をまとめて相手に勝てば現金収入が得られる仕組みだ。

 この発想には笑った。これまで読んできた佐伯作品の主人公たちは、道場荒らしから道場を守る人たちだったからだ。その立場を逆転させ、稼ぎの場に。善のヒーローと悪のヒーローの対比が鮮やかで小気味がいい。

 さあ、強い一松の登場だ。雪割りができるほどのパワーとスピードを会得している男が、そこらの道場主に負けるはずがない。問題は勝ち方である。他の作品だったら剣の達人である主人公は、竹刀で戦うなり、木剣でも急所を外して手加減するのだが、一松は容赦がない。力を試したくてうずうずしているし、そもそも剣術のスタイルが助走をつけての真っ向撃ち下ろしだから、相手の脳天めがけて目一杯の振り下ろしとなってしまう。最初の一撃をかわされたら、疾風怒濤の連続攻撃に切り替える。これがまた速い。結果、一松の行くところ死体の山。

 剣術がメインの小説では、負けるはずのない主人公が、いかにして敵と対峙し、心理的な駆け引きを乗り越えて勝ちを得るかが読ませどころ。1対1の真剣勝負や、複数の刺客に取り囲まれるパターンなど、あの手この手で読者を楽しませようとする。この作品も例にもれずグイグイ読者に迫ってきます。まあ、一松のやることは決まっているので、あらゆる手法を駆使するのは相手なのだが……。

 残酷な場面があっても読み心地が悪くないのは、すごすぎて理解が追いつかない戦いが連続するからだ。粋を尽くすという言い方があるが、まさにそれ。時間にすれば数秒間の闘いとは思えないほどの紙幅が費やされ、なんともいえない迫力を生んでいる。それがギリギリのところでしつこく感じられないのは、一松がいつでも本気の男だからである。闘う以上は命のやり取りになるのが前提。品行方正とは程遠い男だが、剣術だけには純粋に向き合う。そのおかげで、本作の生命線であるチャンバラが、荒唐無稽なのにちゃんと成立するのだ。

 ただ、それが読者の共感を得るかというとそんなことはない。わかりやすいテーマが示されないまま進むので、この男が何をしたくて暴れているのかわからず、いつもの佐伯さんらしくないぞと首をひねる人もいるだろう。

 だからこそ、焦らずじっくり読んでくれと私は言いたい。この物語は、ひょんなことから剣術の才能を開花させた悪ガキが、使命感を持って行動したり、ささやかな幸福を求めて生きていく話ではない。剣術ひとつでどこまでやれるかとばかり、最強の相手との出会いをいまかいまかと待ちながら、目の前の敵をなぎ倒していく話なのだから。

※ 次回は、8/24(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)