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吉川英梨『新人女警』第8回
新人女性警官が未解決の一家惨殺事件に挑む! 二転三転する容疑者、背後で暗躍する指定暴力団、巧妙に張り巡らされた伏線――。ラストに待ち受ける驚愕の真犯人とは!? 警察小説の新たな傑作誕生!!
第三章 八王子心霊
六月二十四日、エミは日勤で朝の八時前に八王子駅北口交番に到着した。夜勤だった源田は不機嫌そうな顔で立番している。エミはにたりと笑った。
「特異動向なし?」
源田は憮然と挙手の敬礼をした。エミは荷物をロッカーに押し込んで日報を捲る。
「なんにもなかったんですねー」
「東京都多摩地域一治安が悪いと言われる八王子も、平和になったもんだ」
エミはクスクス笑ってしまう。昨夜の休憩中に源田が一席ぶっていたのを思い出す。
〝六月二十三日は八王子城落城の日なんだ! 八王子にとっては忌日、悪いことが起こるので下手に出歩かない方がいい〟
八王子城は、市西部の元八王子町の、北高尾山稜にある。戦国時代、小田原城を中心に界隈をおさめていた北条氏が八王子地域の権力を握り、時の城主は北条氏照だった。だが豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城に前田利家と上杉景勝の大軍が攻め入った。
〝この一晩だけで三千人が惨殺され、市内の滝や河川が三日三晩、血で赤く染まった。地元の人は六月二十三日だけは山に入らないほど、危険な日なんだ!〟
現在、八王子城は石垣が残り、御主殿や石畳の一部が再現されている。八王子城跡として文化財のひとつになっているが、史跡というより関東屈指の心霊スポットとして有名になっている。
「昨夜の八王子は平和だったんですね。こんなに報告事項がないのも珍しいですよ」
喧嘩や窃盗、ぼったくりトラブルが日常茶飯事の八王子駅界隈で、路上で酔客が寝ているとか、遺失物の届け出すらないのは珍しい。
「八王子の人々はわかっている。六月二十三日は神聖な気持ちでいなきゃならないから、喧嘩を控えたんだろう。酒も飲まなかった。落とし物もしないように気を付けた」
エミは日報をキャビネットにしまいながら、ため息をついた。
「確かに六月二十三日は私にとってはよくない日でしたけど」
山田楓が依願退職してしまった。風俗店でアルバイトはまずいが、借金を作ったわけでもなく、楓には捜査という目的があった。停職一か月で済んだのだが、楓はいづらくなったようで、退職してしまった。
「説得したんですけど、ダメでした。あとはエミに託した、って――」
今日も駅前ロータリーの大型ビジョンで、アザレア事件の情報提供を求める警視庁の広報動画が流れた。
『二〇一二年五月二十三日、八王子市おおるり台で女性三人が殺害される事件が起こりました』
交番の電話が鳴っている。源田が取った。血相を変えてエミの肩を叩く。
「明神町の交差点でクルマが暴走して税務署に突っ込んだと通報があったらしい」
すぐに臨場だ。
JR八王子駅から東放射線アイロードへ向けて自転車を漕ぐ。京王八王子駅前のロータリーを通り過ぎた。明神町の交差点で甲州街道と接続する。五叉路になっているこの交差点は、北から南へ伸びた甲州街道が折れ曲がるようにして西に進むポイントだ。他にかえで通りや北野公園通りが接続するので常に渋滞している。クルマが暴走したという通報があったが、いま明神町の交差点はスムーズに流れている。税務署まで横断歩道がないので、源田は歩道橋のたもとに自転車を停めて、階段をかけあがった。エミも後を追う。歩道橋では八王子税務署をスマホで撮影する歩行者が何人かいた。
道路を見下ろす。ブレーキ痕のようなものは見当たらないが、ガードレールが倒れ、街路樹が斜めに傾いでいた。八王子税務署の出入り口前に並んだ掲示板が根こそぎ倒れ、その上にスバルのインプレッサが乗り上げていた。
「あのクルマですね」
八王子税務署から出てきた職員たちが、自動扉の前で立ちすくみ、茫然と車内の様子をうかがっている。倒れている人やけがをしている人はおらず、周囲の人は比較的落ち着いていた。
「まったく、遅くやってきた六月二十三日かッ」
乗り上げたスバルのインプレッサは、浮いた後輪が空転を続けている。
「どなたか巻き込まれた職員の方や、歩行者はいませんか」
源田が税務署の職員に投げかけたが、みな一斉に首を横に振った。エミは五叉路を見た。路肩に停まるクルマは一台もない。通行するクルマはみな徐行し、あーあという顔で事故車を見送り走り去っていった。
「巻き込まれたクルマもいないようですね」
運転席に若い男性が乗っている。シートベルトの下でもがき、奇声を発していた。
「税務署ですから、税金を払いたくない人が突っ込んだのかしらと思ったのですが」
「いや、ヤク中じゃないか。目がいっちゃってる」
扉はロックされている。エミは警棒で助手席側の窓を割って身を乗り出す。男性が暴れているのでエンジンスイッチに手が届かない。男性はアクセルを踏んだままだった。エミはサイドブレーキを引き上げて、ギアをパーキングに入れた。ようやくタイヤの空転が止まるが、エミは男性に腕をつかまれ、車内に引きずり込まれそうになった。
「うう、ううう、ううう……!」
若い男性は目が血走り、エミの腕をひねりあげようとする。瞳孔は開きっぱなしでエミをとらえていない。源田が男性の腕を警棒で叩き振り払った。ようやくエミは解放されたが、勢い余って源田と共に尻もちをついた。
運転していた青年は市内の病院に救急搬送された。薬物中毒者による暴走事故の可能性があるので、交通課だけでなく刑事組織犯罪対策課もやってきて、インプレッサを見分する。タイヤのフェンダー周りには泥が多数、飛んでいた。オフロードを走ってきたのだろうか。エミは泥をこすってみたが、乾いていない部分もあった。
「へー。これ新型のインプレッサじゃないか。ST-Hのピュアレッド」
刑事組織犯罪対策課の市川有貴が言った。
「高級車なんですか?」
「三百万くらいだろうけど、色のチョイスをみるに、クルマ好きの青年ががんばって買ったふうだ。宮武さんはクルマにはあまり興味がないタイプ?」
「はい。さっぱり」
「珍しい。八王子の女警はイケイケな子が多いのに」
八王子署の美園友理奈が不倫騒動、南大沢署の山田楓は風俗店アルバイトと、八王子管内の女性警察官の不祥事が続いている。エミまで色眼鏡で見られていた。
市川はダッシュボードや運転席周辺のポケットを確認したが、薬物は見当たらない。ダッシュボード内はサングラスと、車検証、取扱説明書が入っているだけだった。
ごみ箱にはグミやチョコレートの空袋、炭酸飲料の空き缶が二本入っていた。ドリンクホルダーには飲みかけの缶コーヒーが嵌まっている。リュックが後部座席に置いてあった。市川が中から財布を探し出し、免許証を発見、照会センターに確認を入れた。免許は更新期間に入っていたが失効はしておらず、違反点数もなかった。
「渕野大毅、平成十三年生まれだから今年で二十二歳かな。現住所は八王子市石川町の一軒家」
石川町は八王子の東端にある日野市との境界の町だ。中央道の石川パーキングエリアやJR八高線の北八王子駅がある。
源田は渕野の搬送に付き添っている。渕野本人の照会作業を行ったが、犯歴はない。クルマの所有者も本人だった。市川が市内の大学の学生証を見つけた。
「東日本大学、理工学部の四年生だ」
東日本大学は石川町よりずっと南の東中野にある。電車やバスではかなりの遠回りだから、インプレッサで通学していたのだろうか。市川は嬉々として言う。
「東日本大学といえば、野球部員の薬物汚染問題で揺れていたな」
野球部だけでなくキャンパス内にも薬物が蔓延していると考えたようだ。
病院に付き添う源田から、保険証があったら持ってくるようにと電話がかかってきた。渕野の私物を抱え、エミは病院へ向かった。受付のロビーで源田と落ち合う。活動服姿で、帯革にいろんなものをぶら下げているから、交番の警察官は目立っていた。源田でもかっこよく見えるから不思議だ。源田は保険証を確認し、まずは自宅に電話をかけた。
「実家暮らしのようだけど、誰も出ないね」
保険証を病院の看護師に渡し、二人で救急医療センターに入った。
「渕野大毅、容体はどうなんですか」
救急隊がかけつけて担架で運ばれたときはもう暴れていなかったが、放心状態で目の焦点が合わず、呼吸が荒く苦し気だった。
「搬送している最中に寝ちゃってね。ぐうぐういびきをかいていて、興ざめだよ」
「ただの酔っ払いでしょうか」
「酒の匂いはしなかったし、簡易的だけど血液検査をしてもらった。アルコールも薬物も一切、検出されなかったそうだ」
救急医療センターの待合室には、『刑事組織犯罪対策課』の腕章をつけたスキンヘッドの太った男がいた。背は低いがカリフラワー耳で首が太く、柔道家なのがわかる。色付き眼鏡をかけ、暴力団捜査担当のマル暴刑事の風格が漂う。東丸義男だ。
「源ちゃんよぉ、見てコレ」
コワモテなわりにちょっと高い声で、東丸が尿検査キットを見せた。
「陰性かぁ。血液検査の結果と矛盾しませんね」
「じゃ、なんで暴れたの。女の子の腕折ったって」
大げさに伝わっている。エミはミミズ腫れの傷を見せた。
「折れてませんが、すさまじかったです」
渕野の指や手のひらの跡がまだ赤く残っていた。
「とにかくドラレコの解析だな。あとは市内のNシステムとオービスを確認して、足取りを分析だ」
渕野の現在の体調をエミは尋ねた。
「診察が始まった途端に覚醒したよ。心拍も呼吸も異常なし。脳波も見てもらってたけど、やっぱり異常はないみたい」
医者の許可が出たので、東丸が聴取することになった。
「エミちゃんも見ていくかい」
東丸は父の部下だった人だ。エミがまだ小さいころに自宅官舎に遊びに来たことがあるようだが、エミは記憶がない。そのころは痩せて髪の毛もふさふさしていたそうだ。
「お父さん譲りの推理力、見せてよね」
三人で診療室に入った。渕野は困惑した顔で診療台に寝ていた。東丸が声をかける。
「どうですか、気分は」
「あー、はい。ちょっとまだ頭がぼーっとしてますけど……」
「記憶はどうなの」
「すみません、救急車の中からしか記憶がなくて……」
困ったように笑う渕野を見て、エミは拍子抜けした。車内で暴れていたときは目や歯をむいていたが、いまは全くの別人のように穏やかだ。東丸がエミを指さす。
「彼女の腕をひねり上げて車内に引きずり込もうとしたことは?」
渕野は真っ青になり、平身低頭、謝った。
「お酒は飲んでないんだよね」
「下戸です。炭酸すら飲みません……」
煙草も吸わないらしい。
「意識を消失するような持病はありますか」
「ありません。あの、今日は何月何日ですか」
「六月二十四日ですよ。今朝は大学に行く途中だったんですか?」
東丸が尋ねたが、渕野は思い出せないようだ。
「クルマの中の私物を拝見させていただきましたけど、教科書やノート、文具類は見当たりませんでした。通学途中ではなさそうに見えましたが」
エミはいくつも気になる点がある。東丸が場所を譲ってくれる。
「いつクルマを出したのかは覚えていますか」
渕野はこめかみを押さえて、うなるばかりだ。
「誰かを助手席に乗せていませんでしたか」
渕野のバッグが後部座席にあったことを指摘する。
「ひとりで運転するとき、運転手は荷物を助手席に置く方が簡単ですよね。後部座席やトランクに置く場合は、たいてい、助手席に誰か乗っている、もしくは乗る予定があるときです」
「誰かを迎えにいくところだったのかな」
東丸が質問を重ねた。
「というより、乗っていたが、降ろしたのではないですか。ごみ箱に炭酸飲料の空き缶がありました。チョコレートやグミのお菓子も。乗せていたのは子供か女の子か……」
少なくとも大人の男性ではない気がした。
「またフェンダーには泥をはね上げたあとがあり、一部は乾いていませんでした。事故を起こす数時間前までオフロードを走っていたのではないかと思います。高尾や陣馬、秋川丘陵のあたりを夜通し走ってきて、朝になって女性を送り届けたところで、突然、異変が起こったのかな、と考えられますが」
ドライブレコーダーを解析すればわかることだが、エミは推理をぶつけた。突如、渕野が顔を両手で覆った。ガタガタと震えだす。消え入りそうな声だ。
「思い出しました。実は、友人女性とオールナイトで肝試しに行っていたんです」
源田が大きく反応した。
「八王子城跡に行ったんだな!」
なぜそう限定するのかと東丸が苦笑いした。
「昨夜は八王子城が落城した忌日、市内の河川や滝が血で染まった日だったんですよ。六月二十三日だけは絶対に山に入っちゃいけないのに、君はなんてことを!」
渕野はあおられるがままに恐れている。
「つまり源田さんは、渕野さんの暴走の原因が、八王子城跡の呪いだというんですか?」
「他になにがある? 血液検査も尿検査も異常なし、持病もないしアルコール摂取もない。君もあの錯乱状態を見ただろう、まるで誰かと戦っているようだった」
「まあ、見えない敵と戦っているふうではありましたけど……」
源田が真剣なまなざしで渕野に言う。
「君、連れてきちゃったんだよ。結果、取り憑かれて暴走してしまったんだ!」
昼休みに署に戻った。刑事組織犯罪対策課のフロアでは、東丸と市川がドライブレコーダーを解析していた。エミは源田と共にそのダイジェストを見た。
「渕野のやつ、一晩でこんだけ心霊スポットを巡れば、そりゃ呪われて当然だよ」
「東丸さんまで、幽霊のせいだというんですか」
「意外に多いんだよね、幽霊を信じる警察官。目撃しちゃう人が多いからねー」
市川が八王子城跡を管轄する高尾署の人から聞いた話をする。
「八王子城跡に肝試しにいった直後の交通事故が本当に多いらしいよ。あとは人身事故の多い踏切ね。電車の運転手から『人を轢いた』と一報が入って現場に駆け付けたけど、どこにも人の姿がないとか。先頭車両の乗客も踏切に飛び込む人影を見ているのに」
エミは背筋がぞくりとする。
「西八王子の『なかよしこ線橋』だろ?」
東丸がドライブレコーダーを戻した。
「渕野もご丁寧に昨夜、立ち寄っているよ。最初に行っちゃってる」
なかよしこ線橋は八王子駅と西八王子駅の間にある。かつては踏切だったが、飛び込み自殺が多く、踏切は廃止され陸橋が作られた。
「次に立ち寄ったのは八王子霊園だ」
「ばかなやつだ。呪われに行っているようなもんじゃないか」
源田は本気で怒っている。霊園の入り口の脇にある電話ボックスに、赤いワンピース姿の幽霊が出ると言われている場所だ。ドラレコ映像には電話ボックスで記念撮影する渕野と、白いトップスにジーンズ姿の、おかっぱ頭の少女がいた。
「この少女は?」
「身元がよくわかっていないんだよ、マッチングアプリで知り合ったらしい。ニックネームはモコちゃん。渕野はこの日、初めて会ったそうだ」
「今どきの若者は怖いもの知らずだな。初対面の相手とのデートで、オールナイトで心霊スポット巡りなんて」
市川は驚きつつ、次の映像を見た。
「八王子霊園のあとは鑓水に行っているね」
「道了堂跡地だな」
八王子市鑓水は市の南東部に位置する。国道16号が貫き、シルクロードの通る地として栄えた街だ。かつて二つの大きな殺人事件があったことでも有名だった。
「源田さんの言う通り、何かに取り憑かれて事故になったとして、これだけ心霊スポットに行っていたら、どこの幽霊の仕業か判別できませんね」
調書に書くわけでもなし、判別する必要はないが。
「渕野によると、大トリの八王子城跡に行ってから、気分が悪くなったらしいよ」
東丸が映像を早送りした。八王子城跡の駐車場に入り、渕野と少女は懐中電灯を片手に探索に向かう。
「映像には何も映っていないんだけど、渕野本人が言うには、探索を終えて駐車場を出ようとしたとき、白装束に首のない女が呻き声を上げて追いかけてきたらしい。モコちゃんを安全な場所で降ろして逃げ惑ううち、明神町の交差点で事故ったと」
源田は震えあがっている。
「敵陣に追いやられて首を切られた氏照の家臣の妻か、女中の霊に違いないよ!」
「呻き声をあげるって、首がないのにどうやって?」
映像に幽霊は映っていない。渕野と少女は「怖かったねー」と平和に戻ってきている。深夜三時を過ぎ、渕野が少女を自宅へ送る話になった。圏央道に乗って北へ走り続ける間に、会話は一切なくなった。助手席の少女が寝てしまったのだろう。
「どこに白装束の幽霊がいるんでしょう」
源田も変な顔をする。
「証言と違って平和だな……」
明け方四時ごろ、渕野は少女を自宅に送り届け、再び圏央道を八王子方面へ戻る。あきる野インターチェンジ近くのコンビニに停車した。しばし仮眠を取っているふうだった。七時過ぎに再びクルマを出したが、深いため息を何度もついていた。甲州街道を東へ走るうち、呼吸が荒くなってくる。明神町の交差点を目前に、「アーッ」と叫び、交差点へ突っ込んでいく。ちょうど甲州街道側は黄色信号に変わったところだったので、左右の車両は停車中だった。対向車も右折信号が赤のままで、巻き込まれたクルマはいなかった。インプレッサはガードレールをなぎ倒し街路樹をこすって、掲示板へ突っ込んでいった。
エミはドラレコ映像のサムネイルを順番に見返す。見覚えのある建物が目についた。
「道了堂跡地と八王子城跡の間に、もう一軒、どこかに立ち寄ってませんか」
東丸はきまり悪そうだ。
「ごめん、飛ばしたんだ。エミちゃん、いやな気持ちになるだろうと思って」
渕野と少女はアザレアおおるり台の2号棟にも立ち寄っていた。
「事件からまだ十一年しか経っていないし、未解決なのに――赤の他人には心霊スポットになっちゃうんですね」
エミは、ホラーやオカルトはエンターテインメントのひとつだと思っている。あの場所を娯楽としてとらえている人がいることに困惑する。
「しかも昨日は月命日です。手を合わせにいったのならまだしも――」
渕野と少女は新滝山街道から路地に入り、アザレアおおるり台のアーチをくぐった。あれが2号棟だと話す音声が残っている。
〝もういまは人が住んでなくて、廃墟なんでしょ〟
〝他の棟は住んでいるらしいけど、さすがに2号棟は無理だよね〟
実際は、2号棟のうち、空き部屋になっているのは201号室と202号室だけだ。他の部屋は全て入居している。
〝俺でも引っ越すよ、殺人があった集合住宅なんてさ。しかもお母さんの殺され方がやばかったって。強姦され八発も銃弾浴びて体中が穴だらけだったとか〟
〝かわいそすぎて警察が発表してないだけで、少女二人の死に様もやばかったらしいよ〟
飛鳥は顔をナイフでぐちゃぐちゃに切り刻まれて、琉莉は耳をえぐり取られていた、と噂している。エミのことにも触れているが、真実とはかけ離れていた。
〝生き残った少女は精神に異常をきたして、三年後に自殺したって話だ〟
こわすぎるぅ、と女の子は嬉しそうに言った。突如、焦りだす。
〝ねえやばい渕野君! 201号室の前に誰かいる!〟
渕野がブレーキを踏んだようだ。流れていた景色が止まる。
〝やべ。マジで誰かいる。幽霊か?〟
〝男の人っぽいよ。え、こわい。こんな夜中に殺人現場でなにやってんの〟
201号室の前に佇む二人の男性に、ヘッドライトの明かりが届く。一人は和服姿の初老の男性だ。もう一人の若い男性はすらりとしたスーツ姿だった。二人とも手ぶらで、傍らにアルファードが停車していた。
〝やべ、めっちゃこっち睨んでない?〟
スーツの男が、悠然と渕野のインプレッサの方に近づいてくる。
〝逃げて、怖い。なんか変だよあの人たち!〟
やべ、と連呼しながら渕野がギアを入れ替える音がする。Uターンできる道幅がないので、ひたすらバックしている。スーツの男はやがてあきらめたのか、立ち止まる。どんどんその姿が小さくなっていくが、いつまでも睨んでいて迫力があった。インプレッサはアザレアおおるり台の敷地を抜け、新滝山街道を制限速度超えで走り出す。二人は安堵のため息をついた。
〝なんなのあの男たち〟
〝気持ち悪いね、心霊スポット巡りにきたふうでもなかったし〟
エミは東丸に頼み、和服とスーツの男二人が映った動画を一時停止してもらった。
「一応、この件はアザレア事件の特捜本部には伝えてあるよ」
東丸が言った。和服の男の顔を拡大する。
「反崎連一」
指定暴力団、岬八粋会の会長で、アザレアおおるり台事件の第一容疑者だ。
「エミちゃん、隣のスーツの男は知っている?」
「ええ。知っています。最近、別件でお世話になったばかりです」
神山作。多国籍パブ『バンデランテ』のオーナーで、カミサクグループ会長。八王子のアングラで暗躍するフィクサーだ。東丸は少し考え込んだあと、エミを見上げた。
「エミちゃん、勤務終了後にちょっとつきあってくれるかな」
エミに見せたいものがあるという。