
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第10回
十
「ああ。お陽様が気持ちいい。多分」
観月はこの日、〈四海舗〉にいた。件の中庭の、半分ずつが陽と影に染まる円卓の奥の椅子だ。
午前に来て、温かい桂花茶を貰い、少し眠った。
いや、たいがい眠っていたか。
秋晴れの、いい天気だった。午前の陽光に包まれ、風に頬を撫でられ、それで落ちた。
胸を広げ、大きく腕を広げ、背凭れに寄せ掛けていた背中が痛い。
少し固まってもいるか。そのくらいの時間は寝たようだ。
円卓の陽と影が、見事に反転していた。
〈四海舗〉の松子はこの円卓を、太極と位置づけた。
――易経さね。太極、両儀、四象、八卦。当たるも八卦、当らぬも八卦の八卦さ。易経は大自然、森羅万象の営みだよ。
太極、両儀を生ず、という言葉は観月も知っていた。太極はすべての根源で、両儀は天地または陰陽、四象は四季あるいは五行、八卦は万物を指すというが、詳しくはわからない。
ただ、円卓を芯に主人と客人が来て、四脚の椅子が並べばこの中庭は宇宙だという。
少々歪だが、庭の周囲は八角形に作られているそうだ。
椅子に座ったまま、人より長めだと言われる手足を伸ばす。
足が長いのは羨ましがられもするから長所でいいだろう。が、そういえば腕が長いのはあまり褒められもしない。
などということを取り留めもなく思考していると、松子がトレイにクリスタルのカップを載せて現れた。
円卓にカップを置く。
「お代わりさね。これはサービスだよ」
「うん。有り難う」
椅子に座り直し、観月はカップを手に取った。仄かな温かさが、掌を通じて伝わってくる。
桂花茶の甘く芳しい香りが立った。口をつければ優しい味がした。
この花茶には、多種の鎮静成分が含まれるそうだ。
「よく寝てたから起こさなかったけどさ」
言いながら松子は、トレイを隣の椅子に置いて観月の正面に座った。
「で、どうだったんかね? アルバイトの方は」
「どうもこうもさ。松婆」
「店長とお呼び」
「店長。どうもこうもさ」
観月はカップをテーブルに置いた。
先週金曜日からの、裕樹と約束の五営業日、ワンクールはひとまず昨日の木曜日で終えた。
「ひと言で言えば、ただ疲れただけ、って感じかな」
「おや。宝生息子に見込まれた割りに、収穫無しかね」
「無しっていうか。初めてのことばかりだからさ。どれが有りでどれが無しやら。その感想のまとめすらこれからって感じ」
観月の場合には、特に接客に対するストレスが大きい。表情を〈装う〉ことは感情にバイアスが掛かって以来、常に気を付けてきたことだが、普段の生活と水商売とでは、慣れないせいもあって神経の使い方が桁違いだった。
その他にも、お客の酒を作る、煙草に火をつける、灰皿を替える、アイスペールを替える。
ヘルプとして最低限こなさなければならない役割は色々とある。
目的は別にあるとはいえ、基本的にはホールで働いて賃金を貰う立場に変わりはないのだ。不審に思われてはキャストとの距離も壁もなくなりはしない。近づくには、観月自身がキャスト然として振る舞うことが大事だった。
「それにしてもさ。松婆」
「店長」
「店長。今まで経験してきたアルバイトとはさ。まったく別物って言うか、異次元って言うか」
お客を盗った、盗られた。
初見の客も、どの筋からかを辿って私が貰うのなんの、あんたなんかにはあげないのなんの。
ヘルプの腕が悪いの、足引っ張んないでよ、とかなんとか。
邪魔しないでよ、勝手なことしないでよ。
観月は桂花茶を取り上げ、もうひと口飲んだ。
「夜の蝶の戦いって言うのかな。――なんかね」
「ふん。なにが夜の蝶の戦いだね。それこそ夜も昼も、仕事の区別も差別もありゃしないよ。生きていくってのは、何をしたって戦いだからね」
「そういうもの?」
「そういうものさね」
松子が訳知り顔で頷く。
「わっかりたくないなあ」
ささやかな抵抗、学生の特権、職業選択の本来なら自由、現在は不自由。
「もちろん、働くことから逃げようとするわけじゃないしさ。働くことが嫌いなわけでもないけど。――なんかね」
ふん、と鼻を鳴らして松子は立った。
「なんにしろ、その様子じゃあ、身体も頭もお疲れは間違いないようだね。――いくつ行っとく?」
このいくつとは、本郷裏界隈名物、〈四海舗〉の条頭のことだ。
松子はいつもそんな聞き方をしてくるし、観月にも違和感はない。それだけかどうかは別にして、条頭は必ず食べるからだ。
そう言えば、うたた寝の間に午前から午後に陽射しが変わっていた。空腹は間違いなかった。
「五皿? ううん。今日は奮発して、七皿かな」
「たしかこれも、もうあれさね。宝生息子の奢りにカウントされるけどね」
「じゃあ」
十五皿、と観月は躊躇なく言った。
「へえ。若さかね。お疲れモードの割りに、お腹は元気じゃないか。いいや、現金なのかね」
「どっちもよ。それに、特にお腹にはさ、エネルギーを溜めておかないと」
観月が言えば、松子はかすかに首を傾げた。
「――わからないね」
「来週もあるんだ」
「あれま。昨日で終わりじゃなかったのかい?」
「今週はさ、銀座の夜に当てられたっていうか浮かされたっていうか、無我夢中の五里霧中だったからね。このままじゃ、本当にただのアルバイト、給金泥棒の菓子泥棒になっちゃうし。寝覚めも悪いってやつでね。OJT、オン・ザ・ジョブ・トレーニング」
「なんだい」
「簡単に言っちゃえば、習うより慣れろ、かな」
「なるほど」
「で、もうワンクールって言うか、今日は行かないつもりだから、もう四日間」
「ふうん」
松子は空を見上げ、しばし考えた。
「なら、最後は大安だね」
松子は言って、一度店内に戻った。それから三度に分けて条頭を運ぶ。
「やっぱり、美味いね」
「美味しいってお言い。お里が知れるよ」
「了解です」
サービスの桂花茶と、十五皿の条頭を堪能する。
あともう五皿、いや、十皿を追加で頼もうかと迷っていたところで、観月の携帯が振動した。
円卓の上だ。重ねた十三枚の皿が騒がしく音を立てた。
携帯を見る。
液晶に浮かぶ発信者名は観月と同じ二年の、早川真紀だった。
手は条頭で忙しかった。それでスピーカにした。
「ふぁい」
いけない。条頭が喉に絡んだ。
――ちょっと。ふぁい、じゃないわよ。どこで何してんの? 来ないなら勝手に行っちゃうわよ。
出るとすぐ、そんな声が聞こえた。
真紀は理Ⅰ工学部志望で、進路こそ違うが、前期三学期までの駒場ではなにかと一緒だった。
真紀の父親はアップタウン警備保障の経営者で、この会社はキング・ガードと毎年、業績でしのぎを削るセキュリティ業界のツー・トップだ。二期連続で首位を取ったことがあるのはアップタウンだけ、というのが早川家及びアップタウン関係者の自慢らしい。
真紀も両親からの帝王学というか、〈何か〉を受け継いで、すでに女帝や女傑、その卵としてのオーラは隠れもない。
東大で工学部を志望したのも、企業のセキュリティ構築を、設計の段階から主導し、場合によっては統括するためらしい。
そんな真紀は馬が合うというか、アイス・クイーンたる観月を理解し、理解して且つ、歯に衣着せずものを言ってくれる、得難い仲間だった。〈Jファン俱楽部〉のメンバーでもある。
「えっと」
行っちゃうわよ、という真紀の言葉を、脳内記憶野でキーワード検索に掛ける。
――。
超記憶とは便利なようで、普段の生活にはあまり関係がない。かえって膨大な記憶の中に、ちょっとした約束や興味は埋没しかねない。
今がまさしくそうだった。
「ねえ、真紀。なんだっけ?」
実際には、こうして聞く方が手っ取り早いこともある。
超記憶とはなんぞや、と、偶に思わないこともない。
「なんだっけじゃないわよ。J様とサロンの打ち合わせじゃない。まさか忘れてたの? 余計なことは呆れるくらい、全部覚えてるくせに」
「うわうわうわ」
手に持った十四枚目の皿を重ね、十五枚目を流し込むようにして、
「行く。十分、いや、七分待って」
立ち上がりながら最後の皿を重ね、観月は〈四海舗〉の中庭を後にした。
※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。