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警察小説という広大な沃野を見渡すことが出来る1冊である/『警官の標 警察小説アンソロジー』若林踏氏による解説を特別掲載!
『警官の標 警察小説アンソロジー』(朝日文庫)が2月に刊行されました。
月村了衛さん、深町秋生さん、鳴神響一さん、吉川英梨さん、葉真中顕さん、伊兼源太郎さん、松嶋智左さんによる、警察小説の魅力が端から端まで詰まった傑作揃いのアンソロジーです。書評家の若林踏さんがご執筆くださった文庫解説を特別に掲載します。
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警察小説という広大な沃野を見渡すことが出来る1冊である。
本書『警官の標』は文庫オリジナルの警察小説アンソロジーで、朝日新聞出版発行の文芸誌「小説トリッパー」のweb版「web TRIPPER」に2022年10月から「警察短篇小説競作」というシリーズで掲載された7人の作家による短篇をまとめたものだ。
日本において警察小説の書き手が膨大に増えたのは2000年代以降のことだ。警察小説はミステリーというジャンルの一部であるが、そのミステリーが1990年代にブームを迎え、ジャンルが包摂する領域がそれまでの時代と比べて格段に広がった。それとともに警察小説も従来のポリス・プロシーデュラル=警察捜査小説の概念では捉え切ることの出来ない、多種多様な形を持った作品が続々と誕生することになる。現代の国内警察小説はその全容を簡単には把握できないほど巨大なものになったが、本書に収められた各短篇を読むことで、ある程度の輪郭を確認することは出来るだろう。
例えば2000年代以降の警察小説を特徴づけるものとして、作中で書かれる謎の多様化ということが挙げられる。現代国内警察小説ブームの火付け役というべき横山秀夫は第53回日本推理作家協会賞受賞作「動機」で、警察署から30冊の警察手帳が紛失した謎を警務課の人間が追うという物語を描いた。警察小説と言えば刑事が犯罪を捜査するもの、という固定概念から離れ、日常に生じる小さな謎も扱うようになったのだ。
こうした警察小説における謎の多様化を示しているのが、本書7作目の松嶋智左の「同期の紅葉」(2024年10月4日掲載)である。特殊詐欺事件で押収した一千万円の被害金が、警察署の金庫から消えてなくなるという事態が発生し、署内の人間たちが大騒ぎするという話だ。消失の謎という、本格謎解きミステリーでは頻繁に描かれるタイプの趣向が物語の最後まで読者の興味を引く。松嶋智左は元白バイ隊員という経歴を持つ作家で、近年では特に新潮文庫より刊行されている〈女副署長〉シリーズなどで、警察組織における女性を主題にした書き手という印象が強い。だが、島田荘司が選者を務めるばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞作『虚の聖域 梓凪子の調査報告書』(2018年、講談社)が私立探偵小説の興趣を持った作品であったように、実際には様々なタイプのミステリーが書ける作家なのだ。本篇もそうした松嶋の多面性が窺える。
警察小説における謎や題材の多様化は2作目の深町秋生の「破談屋」(2023年3月15日日掲載)にも見てとれる。本篇の主人公である葛尾静佳巡査部長は、山形県警において“警察のなかの警察”と呼ばれる警務部監察課に所属している。刑事課以外の管理部門を主人公にする警察小説は、先述の横山秀夫の登場以降にジャンル内で広まっていったが、本作もその系統に入るものだ。管内の警察官の身辺を管理調査するのが静佳の役目だが、彼女が特に秀でているのは不祥事に繋がるような交際関係を持つ警察官を別れさせることだった。管理部門を題材にした警察小説は数あれど、いわゆる“別れさせ屋”のような仕事を行う警察官を描いたのは深町が初めてだろう。深町には〈警視庁人事一課監察係 黒滝誠治〉シリーズという、かつて非合法な捜査で名を轟かせた刑事が監察を務める作品がある。「破談屋」で監察ものに興味を持った方は、ぜひこちらも手に取っていただきたい。
「破談屋」のように刑事畑以外の警察官を描く作品が2000年代以降に増えるとともに、警察内部の様子をリアルに再現する小説も増えた。警察小説が扱う謎や題材が多様化することで、読者の関心が警察という組織そのもののあり方へと向くようになったのだ。同時に警察小説に登場する刑事たちの描写も、組織人として彼らがどのように考え、苦悩しながら生きているのかをリアルに捉えることが重視されるようになった。
警察内部での個人と個人のぶつかり合いと葛藤を描いた点では6作目の伊兼源太郎の「いつかの山下公園」(2024年3月15日掲載)は読み逃せないだろう。関内署刑事課一係の三枝係長は、一つ下の後輩であり二係の谷澤係長を県警本部栄転候補としてライバル視する。本作では若手時代に仲の良かった三枝と谷澤の姿と、組織内での栄光を掴むために躍起になる現在の三枝の姿がそれぞれ描かれていく。ここでは友情とエゴイズムの間で揺れる個人の生々しい感情が書かれているのだ。伊兼にはテレビドラマ化もされた〈警視庁監察ファイル〉シリーズという監察ものの小説があり、組織としての警察を描くことには定評のある作家だ。「いつかの山下公園」は出世という観点から組織内の一個人としての刑事に光を当てた小説である。
組織としての警察を感じさせる小説としては4作目の吉川英梨の「罪は光に手を伸ばす」(2023年12月22日掲載)も注目だ。本作は警察学校に入校し、実務修習のために八王子署の各課を回る宮武エミ巡査が物語の中心となる。組織人材の育成機関である警察学校を小説の題材としたもので有名なのは長岡弘樹の〈教場〉シリーズだろう。2000年代以降の警察小説の細分化、組織としての警察に焦点が当てられる作風が一つの頂点に至ったことを示す重要なシリーズでもある。吉川にも〈警視庁53教場〉シリーズという“教場もの”の作品があるが、「罪は光に手を伸ばす」は実務修習という形を取って捜査小説の書き方について面白い工夫が施されているのが特徴である。なるほど、こういう捜査の描き方も出来るのか、と感心した一篇だ。
謎や題材の多様化、組織としての警察に着目する物語という2000年代以降の警察小説に関する二つの特徴を述べてきた。あえて大雑把な見方をすれば、2000年代以降に細分化し、場合によってはジャンル小説の枠からはみ出すような作品も誕生するようになったといえる。髙村薫の〈合田雄一郎〉シリーズが作品を重ねるにつれて正統的な捜査小説から離れていったように、警察小説が必ずしもジャンルのあり方に縛られる必要がない時代が来ているともいえるだろう。そのことを最もよく表しているのが葉真中顕「不適切な行い」(2024年1月26日掲載)と月村了衛「ありふれた災厄」(2022年10月24日掲載)の2篇である。
5作目の葉真中顕の「不適切な行い」は一見、オーソドックスな刑事小説に読める作品である。わが子を失ったベテラン刑事が、地元で発見された変死体事件の捜査を行い、そのなかで不真面目な年上部下に頭を悩ませる。だが、正統的な警察捜査小説と思い読んでいた読者は、ラストに至って予想もしていない方向へと物語が流れていくことに驚きを覚えるはずだ。あまり予断をもたず読んでいただきたいので、これ以上の内容については説明を控える。葉真中は『政治的に正しい警察小説』(2017年、小学館文庫)など、ミステリーの趣向を備えつつジャンル小説の形式に囚われない領域まで物語を広げ、読者を囲む世界の見方を改めさせるような短篇を書くのが上手い。「不適切な行い」もその一つである。
「不適切な行い」と同様に、警察小説というジャンルの境界を飛び越えていくのが1作目の月村了衛の「ありふれた災厄」だ。本作もあらすじの詳述は避けるが、まず主人公が警察官ではない上に、些細な日常の場面から始まるために「これは警察小説なのか?」と戸惑う読者もいるはずだ。だが、読み進めていくと本作が紛れもなく“警察を描いた小説”であり、そこに留まらない奥行きを持った小説であることが分かるだろう。月村は〈機龍警察〉シリーズのような活劇要素を持った小説から第10回山田風太郎賞を受賞した『欺す衆生』(2019年、新潮社)のような犯罪小説に至るまで、現代日本を見渡そうとする視座を感じさせる大衆小説の書き手である。「ありふれた災厄」もそうした広がりを持つ短篇小説だ。
現代の国内警察小説はジャンル小説からもはみ出て一層の広がりを見せているが、いっぽうで伝統的な捜査小説の様式美を持った作品も絶えず書かれている。近年でいえば佐々木譲が〈道警〉シリーズや〈特命捜査対策室〉シリーズといった正道の捜査小説を絶えず書き続けていることや、黒川博行が『連鎖』(2022年、中央公論新社)などでキャリア初期の作風を思わせる捜査小説を手掛けているのが嬉しい。
本書の収録作でいえば3作目の鳴神響一の「鬼火」(2023年11月10日掲載)が最もストレートな捜査小説の魅力で読ませる作品になるだろう。本作の特筆すべき点は、冒頭の場面がスロバキアから始まることにある。この異国の情景が、その後に描かれる横浜の元町で起きた殺人事件とどのような繋がりを持つのか、という興味に引っ張られて読者は頁を捲るはずだ。物語の最初に遠く離れた土地の出来事を描き読者の興味を掻き立てる技法は、スウェーデンのミステリー作家である故ヘニング・マンケルが〈刑事クルト・ヴァランダー〉シリーズで好んで用いていたものだ。鳴神は〈脳科学捜査官 真田夏希〉シリーズや〈神奈川県警「ヲタク」担当 細川春菜〉シリーズといった個性的なシリーズキャラクターを描いている印象が強いが、「鬼火」は捜査小説の技法に着目しながら鑑賞することの楽しみを再認識させてくれる短篇になっている。
現代国内警察小説について最重要と思われるキーワードに触れつつ、本書の収録作を紹介してきた。まだまだ現代の警察小説について語りたい事項は多いが、それはまた別の機会に譲ろう。ひとまず本アンソロジーが広大なジャンルとなった警察小説を楽しむための一助になれば幸いである。