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ロイヤルホストで夜まで語りたい・第5回「夢も現実もある」(能町みね子)

多々あるファミリーレストランの中でも、ここでしか食べられない一線を画したお料理と心地のよいサービスで、多くのファンを獲得しているロイヤルホスト。そんな特別な場での一人一人の記憶を味わえるエッセイ連載。
毎週月曜日と金曜日に公開中!

夢も現実もある

能町みね子

 子供の頃の大半を、北関東は茨城県、牛久うしくという街で過ごした。
 今思い返すと、ちょうど、つまらない街だった。
 「ちょうど」というのは変な表現だけど、旧弊にしばられた窮屈な田舎というわけでもなく、もちろん都会というわけでもない。いま牛久と言えばよく語られる牛久大仏は、私が中学生のときにできたポッと出のものだし、誇れるほどの名産も名所もなかった。上野まで、鈍行の電車で1時間弱。東京も中途半端に近く、親に連れられて何度も行ったことがあるため、特に大都会に憧れるほどでもない。大好きになる理由も大嫌いになる理由もあまりない、のっぺりしたベッドタウンだった。
 両親は北海道から出てきて、東京に通勤するために、この街に家を建てた。大黒柱はマイホームを持ってなんぼという、まだバブル景気も来ていない昭和の時代。我が家にはそこまでお金があるわけでもないので、父は東京の会社まで2時間弱の電車通勤を選び、東京からだいぶ遠くに家を建てた。
 そんな経緯だから、血筋的に縁のある街でもない。今でこそ太い道がたくさん整備され、郊外にショッピングセンターがいくつも建っているけど、引っ越してきた当初はあまりに何もないので愕然がくぜんとした、と両親は言っていた。
 およそ外食というものをほとんどしない家だった。そもそも家族で食事ができるような飲食店が街にほとんどないし、経済的には中の下くらいだったと思われるので、小学生の頃は祖母も母も専業主婦としてずっと家にいて、当然のように朝昼晩と料理を作っていた。インスタントやレトルトのものが食卓に上がることすらほぼなく、私は「カップラーメンを食べてみたい」とせがんだことすらあった。
 つまり、ちょうどつまらない街の、裕福でも、とびぬけて貧乏でもない、ちゃんとした家だった。

 そんな街の、そんな家だからこそ……というべきなのか、小学生の頃、いちばん高級なレストランだと私が認識していたのはロイヤルホストだった。たぶん牛久では実際にいちばん高級だったんじゃないだろうか。
 ロイヤルホストに行けるのはせいぜい年に数回。どんなタイミングで行っていたのか今となっては思い出せないけど、何か特別なときに行っていたはず。
 ロイヤルホストは、ヨンマルハチとロッコクが交わる、世界一大きな交差点の角にあった。世界一大きいわけないんだけど、私の目には世界一大きく見えたのだ。なにしろ、街に2本だけ走っている国道(ヨンマルハチ=国道408号、ロッコク=6号国道=国道6号)が交わっている場所なんだから。街外れで、家から歩いて行くにはかなり遠く、巨大なトラックがバンバン走るちょっと怖いところ。
 そこに行くときは、車に乗ってフレンドパチンコの角を曲がり、常磐線を越える陸橋をぐわんとのぼって降りる。すると眼下左側に、Royal Hostと書かれた高くて細長い、ゆったりと回転する看板が見え、その完璧な景色に私はもうニヤニヤしている。車は私たち家族を乗せて、世界一大きな交差点の手前でスルリと駐車場に入る。
 ロイヤルホストで頼むものは、メロンのシャーベットである。料理のほうは何を頼んでいたのかよく覚えていない。コスモドリアあたりを頼んでいたんじゃないかな。食事はなんでもいいんだ、とにかくメロンのシャーベットさえあれば。小学生の私は食事なんかよりデザートなのだ。
 オレンジの中身をくりぬき、そこにシャーベットをつめたものと、半月状に切ったメロンの果肉の部分が全部シャーベットになったものと、メニューにはその二つが輝いて並んでいた。オレンジなんて誰が頼むんだろう、と思っていた。絶対メロンに決まってる。
 その近くには「カシスシャーベット」という、謎めいた名前のものも載っていた。オレンジやメロンやイチゴやブドウではなく、カシスという聞いたこともない果物……かどうかもよく分からない何か。写真を見ると、色はブドウみたいな、でも、もう少し濃いような感じ。カシス……気になる。でも、結局いつもメロンシャーベットの形状の魅力と量の満足度に負け、メロンシャーベットを頼んでしまう、カシスがなんなのかはずっと分からずじまい。

 こういった思い出全部が、ガラスケースというよりも寒天のようなシェルターで守られて、今でも私の頭のどこかに浮いている。鉛筆画風の、現実離れした光景になりつつある。
 ロイヤルホストは大好きではあったけど、何かと比較してあの店よりも好きということはなく、唯一無二の「大好き」だった。デニーズよりすかいらーくより好き、マクドナルドより好き、みたいなことはない。なぜなら、ないからである。知らないし、行ったこともないからである。ロイヤルホストはファミレスではなかった。外食チェーンでもなかった。ロイヤルホストはロイヤルホストでしかなかった。
 巨大でゆっくりとした、たいへんに昭和的な社会の流れの中にあって、狭い狭い、とろのような場所にいた。思い返すと噓のように幸せな空間だった。

 その後私は、いろいろなファミレスを知り、いろいろなおいしいものを知り、それなりに悩み、それなりに社会に翻弄され、ロイヤルホストのことは頭から消えかけていった。高校生の頃にスピッツが大ヒットし、CDを買った。「ナナへの気持ち」という曲の中に「街道沿いのロイホで」という歌詞が登場し、いつのまにかロイヤルホストが「ロイホ」と略されていることを知った、そのときには特にこれといって感慨もなかった。
 上京し、実家に帰り、再上京し、牛込のらいちょうに住んだ。
 一つ、本でも出して稼ぎたいと思い、そのとき流行っていたブログ本ブームに乗るつもりでブログを始めると、ブログ開設から3か月程度で早くも竹書房から書籍化オファーのメールが来た。当時、竹書房は飯田橋にあり、私の家も近かった。近場で顔を合わせて打ち合わせしましょう、ということになり、先方が場所を提案してきた。
 「神楽坂にあるロイヤルホストでどうでしょうか」
 ロイヤルホストは、急に私の元に戻ってきた。
 私が今のような書きものの仕事をスタートしたとき、ロイヤルホストが久しぶりに関わってきてくれたのだ。
 ロイヤルホストは長い年月の間に、子供の私がメロンシャーベットを食べるための夢のような空間から、大人の私が日々の仕事の打ち合わせをするためのきわめて現実的な空間へと変化していた。長年かけて、また近くに来てくれた。

 夢の空間だった牛久のロイヤルホストがずいぶん前に閉店したことは分かっていた。数年前にふと、あの場所がどうなったのか気になって地図でチェックしたところ、ヨンマルハチとロッコクの交差点には「焼肉きんぐ」があるらしい。
 もう跡形もないのか……と寂しくなりつつも、グーグルストリートビューで見てみると、建物の形にどことなく見覚えがある。これは、もしかして居抜きなんじゃないだろうか?
 実家に寄り、両親を誘って久しぶりにロイヤルホスト……の、跡地に行ってみた。
 大人になったはずの私はいまだに車を運転できず、父の運転であの場所へ。フレンドパチンコももうない。陸橋を越えても、回転する看板は見えない。世界一大きな交差点は、どこの街でも見るような郊外の殺風景な交差点になっていた。
 「焼肉きんぐ」は、あのときのロイヤルホストの建物そのままだった。トイレの位置、窓の感じ、これはまちがいない。ただ、ノスタルジーに浸ろうにも、ここは北関東のチェーンの焼き肉店。元気な子供が跳ね回るファミリー層と、不良っぽくて荒っぽい団体客とでぎゅうぎゅうに繁盛している。やかましくてせわしなくて、落ち着かない。
 私の夢の空間の名残なんか上からかき乱して塗りつぶす喧噪けんそうに笑えてきた。「ロイヤルホストの跡地を確かめに行きたい」という目的は教えているものの、珍しく私が誘ったもんだから両親もちょっと高揚していて妙に楽しそう。なにせ当時はロイヤルホストしかないような街だったので、家族で焼肉に来たことなんか一度もなかったのだ。焼肉だからどう頼んだってだいたいおいしい。問題ない。子供の私も大人の私も、問題がない。

 夢のロイヤルホストがなくなっても、現実のロイヤルホストは元気でやっている。
 神楽坂のロイヤルホストはまだあそこにあって、今も打ち合わせやおしゃべりに使っている。たまに深夜まで居座って、ちょっと古めかしい閉店の音楽とアナウンスが流れてくると、こんな時間まで店にいるなんて大人になったね、といまだに思う。

能町みね子(のうまち・みねこ)
1979年、北海道生まれ。文筆家、イラストレーター。