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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第11回

21


 大学入試センター試験が終わると、東大駒場キャンパスにはいよいよ、定期試験の風が吹き荒れる。

 サークルの部室が詰まったキャンパスプラザには二月三日の最終試験日が終わるまで、阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれる。

 大げさではなく、これは例年のことらしい。

 今年二年生の観月は大昔のことは知らないが、言われればたしかにそうだろうと思う。

 去年は試験後半になってA棟から、

――終わらねえよ。馬鹿野郎っ。

 という早川真紀の声が聞こえ、今年は試験が始まってまだ五日目の金曜にも拘わらず早くも、

――出来ねえよ。馬鹿野郎っ。

 という、またしても早川真紀の声が聞こえた。

「真紀。大丈夫?」

 同学年で、同じ〈Jファン倶楽部〉の仲間だ。一応、それらしい声は掛ける。

 すると真紀はA棟の一階から、血走った目を惜しげもなく晒した顔を覗かせた。

「大丈夫じゃねえよっ。でも頑張るよ。正気を失ってられねえよ」

「そうだね」

「J様まで、後六日だぁ」

「あ、そこまでね。テスト期間全部じゃないんだ」

 後六日とは、〈Jファン倶楽部〉ラストサロンの打ち合わせまでのカウントダウンだ。真紀は運よく、同席権のくじ引きに当選していた。

――やったぁぁっ。

 とそのときも、馬鹿野郎っ、と大して変わらないトーンで叫んでいたものだ。

 ともあれ、そんな真紀を筆頭とした巷の阿鼻叫喚を尻目に、観月はまず、この初週の五日間を順調にクリアした。

 玲の家庭教師も、当然のことながら何も問題なくこなした。

 四限以降にも試験がある月・水・木曜は無しにしたが、逆に午後にしか試験がない火曜と金曜は午前中に家庭教師の時間を入れた。

 金曜などは三限も試験が無かったので、九時から一時までだ。

 長丁場にもなったが、玲は不平不満を口にすることもなく、一生懸命によく応えた。

 結果として、玲の学力は十パーセント以上、年末に出会ったときよりも上がったように観月には思えた。

 玲は観月の言葉や指示を、他のどんな参考書よりも信じてくれたようだ。

 信頼関係は、なにものにも勝るということだろう。

 観月も観月で、自分の年度末試験よりも、内容としては玲の家庭教師の方に傾注したのは事実だった。

 学問は教わることより教えることの方が遥かに難しい。人の家庭教師をしてみて初めて、教えることで教わるものもあると知った。

 そうして一月十七日からは暫時、もう一つのアルバイト、〈蝶天〉の方は取り敢えず、年度末試験期間を理由にパスした。

 こちらは一応、自分の試験を甘く見るつもりはないということの意思表示ではあった。

 度を過ごした飲酒や寝不足は脳過労の大きな原因となる。

〈蝶天〉に出勤したとして、観月の超記憶をして試験結果に多大な影響が出るとは考えにくかったが、少なくとも試験には、脳がクリアな状態で臨みたいという真摯な思いはあった。

 ただし、〈蝶天〉の勤務には、観月にしか担当出来ない事々もあって、オーナーである宝生裕樹からは直々に時給の上乗せを約束してもらっている。

 そこは最低限、裏切れない。

 だから最低限、

――国家公安委員長がいらっしゃるとなったら仕方がない。呼んでください。

 そう店長の児玉には言い置いてあった。

 これは実際、本当に最低限だ。

 二〇〇五年の通常国会は詔書公布が一月十一日で、招集と開式が同二十一日だった。

 角田幸三が本年の初来店をするとすれば、二十一日以降になることはわかっていた。その前はない。

 それが福岡から戻ってくるなら、さすがにこの角田だけは他のキャストに任せるわけにはいかなかった。

 自分があしらわなければ。

 観月としては角田を担当しているうちに、自覚というか覚悟というか、そんなものが多少は生まれたようだった。

 職業意識の芽生え、だったかもしれない。

 だから児玉に言い置いたのだが、自覚やら覚悟やらに反して、角田はこの週は来なかった。

 どうやら本人は正月にはしゃぎ過ぎたものか体調を崩して、福岡の病院に入院中のようだった。

 いずれにせよ、東大の学期末定期試験は始まり、それから約一週間、観月の周辺には特に変わったことは何事もなく過ぎた。

 そんな日曜日、二十三日のことだった。

 この日はそもそも試験もない。〈蝶天〉の営業もない。日曜日だから当たり前ではあるけれど、そんな日だった。

 だから、観月の意識は玲の家庭教師に傾注した。

 玲の受験まで、もう三週間を切っていた。

 愛子の面会に向かった後の二時から、この日は八時までを試験勉強の時間に充てた。

 いつも通りの六時で終わる予定だったものが、玲に請われていったん休憩し、そのあと二時間を延長した。

 自分から望んだ分、玲の集中力は凄かった。それに観月も応えた格好になった。

 玲が、受験の本番モードに入ったことが肌でわかった。ゾーンと言ってもいいだろう。

 出来ればこのコンディションを持続させてやりたいと観月は思った。

 このまま、このまま。

 揺することなく、崩すことなく、平静にして自然に。

 そんなことを切に願いながらショルダーバッグを肩に掛け、身支度をして外に出る。

「次は水曜日ね。仏滅だけど、この調子で頑張ろう」

「はい」

 いつも通り、几帳面に玲が風除室の外まで出て送ってくれる。

 風が少しあって、冷える夜だった。

「じゃあ、もう戻って。風邪でも引いたら大変だから」

「お休みなさい」

 エントランスに戻る玲と別れ、外に出て区道に向かう。

 そこで一瞬足を止め、観月は夜空を見上げた。やや西に傾いた月が輝いて見えた。

 だいぶ冷えるが、月も明るく、いい夜なのに――。

 ゆっくり頭を下げ、観月は植え込み近くの、スタンド灰皿があるベンチに近づいた。

 周囲に、煙草を吸う若い男が三人いた。時間的にいつもより遅めだからか、その三人しかいなかった。

 いや――。

 無造作に近寄ると、男らは怪訝な顔を観月に向けた。

 その内の二人は、この場所で見知った顔だった。色違いのダウンジャケットを着ていた。

 残る一人、パーカーにGジャンを重ねたスウェットの男は、初めて見る顔だった。

 この場所に於いては。

「何? なんか用っすか」

 Gジャンを挟んで右の、青いダウンジャケットがそう言った。黄色いダウンが左側だ。

 今までなら、観月も普通の対応をしただろう。

 だが、知った後では対応は真逆になる。

 答えず観月は、この場で初めて見る顔の男に視線を向けた。

「ねえ」

 玲のコンディションを揺することなく、崩すことなく、平静にして自然に。

 それを乱すなにものも、観月は許さない。

「そっちこそ、私に何か用? 尾行された覚えはないけど、よっぽど上手いのかしら」

「えっ」

「惚けても駄目。わかってるから。銀座に来たでしょ。先頭でも高そうな車でも最後尾でもなく、あなた、中途半端な位置にいたわよね。何? 狂走連合とか言ったかしら」

 男らの目に凶暴な光が宿った。

「けっ」

 Gジャンが地面に唾を吐いた。色違いのダウンジャケットがゆっくり左右に広がった。

「だったら何だってんだ。手前ぇにゃ関係ねえよ」

 吐いた唾の上に吸った煙草を投げ捨てる。

「拾いなさいよ。灰皿があるでしょ」

「ああ?」

 Gジャンの声が明らかに尖った。

 合図だったのだろうか。

 色違いのダウンジャケットが、それとなく左右に広がった。

 望むところだった。

 このマンションには玲もいる。スーパーの袋を提げた、小さな女の子を連れたお母さんもいる。

 半グレも暴走族も必要ない。

 観月がいるせいなら、こういう連中が二度とこの場所に来ないように。

 ここで静かに暮らす人たちに、怖い思いをさせないように。

 出来るだけ、骨身に染みて貰うに限る。

「拾いなさいよ」

 挑発は暴発の呼び水だった。

「うっせえんだよ。コラッ」

 Gジャンが真っ直ぐ、右の拳を振り出した。

 観月は顔を左に傾けるだけで避けた。

 表情は動かないが、動いたとしても動かす必要のないほど、拳はぬるいものだった。

 それでもGジャンは顔色を変えた。

 自信があったのだろうか。

 児戯だ。

 笑えたらきっと、観月は笑ったことだろう。

 差し上げた右腕と肩の間にGジャンの腕を巻き込み、左側に重心を移しつつ右足でGジャンの両足を刈る。

 それだけでGジャンは宙を飛んだ。

 拍子が合えば柔に力は必要ないのだ。

 半転しながらスタンド灰皿を越え、Gジャンの身体がコンクリートの地面に落ちた。

「ぐえっ」

 そんな苦悶の声を観月は少し低い場所で聞いた。

 左側の黄色いダウンが、Gジャンと同じような鉄拳を観月に突き出していたからだ。

 初動から観月には見えていた。

 Gジャンを投げた姿勢から止まることなく身を沈めれば、無防備な男の左腕が頭上を通過する。

 伸び切ったところで立ち上がり、その勢いで男の肘を下から掌底で突き上げる。

「がぁ」

 悲鳴を上げて黄色いダウンは蹲った。

 手応えは十分だった。痺れた左腕は、しばらく使い物にならないだろう。腱が伸びたとすれば、それはアクシデントだ。

 右の青いダウンは、何が起こったかわからないようで棒立ちだった。
 それはそうだろう。

 観月の動きは、刹那の遅滞さえなき流れ水だった。

 二人の男が倒されるまで、ほんの瞬き三つ、四つの出来事だった。

「どうするの」

 仕掛けてみた。

「あ、え」

 男の顔が赤くなる。

 獰猛な気が凝るのがわかった。

「ヤロウッ」

 ダウンのポケットから取り出した物が月光を撥ねた。小さな飛び出し式のナイフだった。

 だが、そんなものに観月は動じない。躊躇も待つこともしない。

 ナイフを持った右手首を掴み上げ、一足飛びに身体を寄せる。

 投げる態勢は、それで十分だった。

 男の懐で逆巻く風を起こす。

 右肩越しに背負った男は、観月の頭上に浮力を得たように逆しまになった。

 そこで手を放せば柔術は完成するが、この場に必殺の技は必要ない。

 方向をコントロールし、蹲ったままの黄色いダウンに青を落とす。

「げっ」

 どちらの声でも関係なかった。

 それで終わりだ。

 若く凶暴なだけの男たちは、関口流古柔術を修めた観月の敵ではなかった。

 観月は下ろすことすらしなかったショルダーバッグを揺すり上げ、三歩下がって月を見上げた。

 三人の男らが、ノロノロと立ち上がる気配があった。

「ち、畜生っ」

「お、覚えとけよ」

 これも、誰の声でも関係なかった。

「言われなくても大丈夫」

 観月は月から顔を戻した。

「忘れるのは苦手だから。そのかわり」

 観月は一歩出た。

「数原って言ったかしらね。それとも総長さん? どっちでもいいけど、用があるなら自分で来なさいって伝えて。人の後ろに隠れるなって」

 三人が一斉に身を引いた。

 ここはすでに、観月が女王として君臨する場所だった。

「クソッ」

 まずGジャンが背を向けると、残りの二人も泳ぐように続いた。

「さてと」

 手を叩き、観月は大きく息をついた。

「これで懲りてくれればいいんだけど」

 呟きの直後に、背後でかすかな音が聞こえた。

 自動ドアの開閉音だった。

「えっ」

 我に返るようにして振り返る。

「ありゃ」

 風除室からエントランスへ小走りに向かう、細い後ろ姿が見えた。

「余計なもの、見せちゃったかな」

 別れて中に入ったと思ったが、いつまた出てきたものか。

 後姿は、玲のもので間違いなかった。

22


 この夜の観月の夕食は、本来の時間より少し遅いものになった。

 ドミトリーへの到着は午後九時半近くになり、竹子に追い立てられるように、先に風呂に浸かった。

「まず温まってくるさね。試験は待ったなしだからね。風邪でも引かれて寝込まれたら、寮母として親御さんに合わせる顔がないさね」

 ということだった。

 空腹だったが、反論はない。内容は少し前、狂走連合の連中と立ち回りを演じる直前、観月自身が玲を案じて言ったことと同意だ。

 ゆっくりと風呂に浸かり、温まってから食堂に向かう。

 普段なら七時から九時、それがドミトリー・スズキで決められた夕食の時間だ。昼食は別料金になるが、夕食は寮費に含まれている。

 とはいえ、各人の予定や都合で要らない日も出てくるだろう。

 そういう事情も考慮に入れ、食べる食べないと、食べる場合は大まかな夕食の時間も含め、夕方五時までに報告することが規則だった。

 その昔、土日や祝祭日になると友達や彼氏と外食する連中が続出して、大量の料理が〈翌日回し〉になるという事態が起きてから、この規則が徹底されたようだ。特にはバブル期のことだったという。

 バブルはとっくに弾け、不景気氷河期と言われて長いが、今でも休前日や休日になると、ドミトリーで夕食を摂る寮生は平日より格段に少なくなる。
 観月はと言えば、近頃は逆に、土日や祝祭日の方が、割合としてドミトリーで夕食の頻度が高くなった。

 平日は銀座でアルバイトに勤しむ日が多くなったからだ。

 休日にはサークルや、最近では玲の家庭教師が入ることはあるが、それらはすべて日中で済むことばかりだった。

 そんなわけで、休日の夕食は寮でしっかり摂るのが、観月のマイルールだった。

 家庭教師帰りになるこの日も、観月は規則に則って、竹子には夜八時の夕食を告げていた。

 それが、玲の希望でちょうど夕食時間まで家庭教師が延長になった。

 予定より遅くなるという報告は、六時の休憩時間にドミトリーに電話を掛けて伝えておいた。

――仕方ないさね。

 夕食に限らず何ごとも、きちんとした理由があれば竹子は急な変更にも寛容だ。

 中でもアルバイトや授業の関係、交通機関のトラブルの場合などは、嫌な顔一つせず必要なら助け船を出してくれる。

 もっとも竹子の場合、嫌な顔と普通の顔の区別は難しいが――。

 つまり、同じ顔の松子も難解だということになるが――。

 ともあれ、観月がドミトリーの食堂に入ったのは、午後十時を回った頃だった。

 基本的にドミトリー・スズキの夕食はなんでも有りのバイキング形式で、献立は前もって決まっている。

 三十人からの若い女の胃袋を竹子一人で面倒見るのだから、必然的に大皿盛りの料理になるだろう。文句は言えないし、誰も言わない。

 十時を回った食堂には、当然のように誰もいなかった。お茶を飲んだり、談笑したりしている者もいない。

 この日はもう夕食の後片付けも済んでいるようで、いつもならふんだんに並べられている大皿料理や、ボウルに入った生野菜などは何もなかった。

 ただ一席、厨房に一番近いテーブルの上に、〈小皿〉料理が載せられたトレイが置かれていた。

 自動的にそこが、観月の席ということだろう。

 席に座って料理を眺める。

 鯖の味噌煮、肉団子、イカの生姜焼き、切り干し大根、葉物野菜のサラダ、カップの納豆、竹子自慢の沢庵漬け。

 それが、今晩のラインナップだった。実際にはあと一品、二品、出されて売り切れた物はあるかもしれない。

 竹子は料理上手だ。

 木の盆にご飯と味噌汁を載せ、竹子が厨房から出てきた。

「さっさとお食べ」

 ぶっきらぼうにそう言いながら観月の前にご飯と味噌汁を置き、また厨房に戻ってゆく。

 ご飯からも味噌汁からも、白い湯気が立ち上っていた。

 炊飯ジャーからよそってくれたご飯はまだしも、味噌汁は温め直してくれたようだ。

 口調と言葉は素っ気ないが、竹子は本当に寮母らしい寮母だ。

「いただきます」

 色々なものに手を合わせ、ご飯茶碗を手に取る。

 少し時間が経ったご飯は、若干だが乾き加減だった。

 口中に頬張り、よく噛みながら料理に箸を伸ばす。

(それにしても)

 風呂で身体が温まって解れ、空腹も解消に向かえば心に余裕も生まれる。

 生まれた余裕を半ば埋めるのは、玲に変なものを見せてしまった後悔の念だ。

 手加減した、と言っても人にわかるものではなく、畳の上でなら稽古、と言い張ってもいいが、路上のアスファルトの上では、争い事と言われればそれまでで、喧嘩と言われてもぐうの音も出ない。

 リアルな争い事で、生の喧嘩だ。

 しかも関口流古柔術を駆使する観月の場合、その体技は一般人の領域をはるかに超える。

 多感な時期の子には、少しばかり刺激が強過ぎたかもしれない。

(それにしても、それにしてもさ)

 あの狂走連合の連中は、どうやって観月の居所を掴んだものか。

 どうやって観月が、大井町の〈和進レジデンス一番館〉に通っていることを知ったのだろう。

 しかも今日だけではない。今日のことではない。

 たしかに、銀座の男はこの日初めてだったが、他の二人は前からいた。

 マンション前でも言ったが、尾行されたとしても、あの程度の連中の気配ならすぐにわかるはずだ。

 戦ってみてそれは明らかだった。気配をコントロール出来るような練達者は一人もいなかった。

 それが――。

(どうしてだろう)

 ひと箸摘まみ、ひと口食べる。

(何かを不味ったのかなあ)

 またひと箸摘まみ、ひと口食べる。

 おや?

 自分は今、何を摘まんで何を食べたのだろう。

 食べながら上の空。

 気が付けば、竹子がテーブルの向かいの席にいて、湯呑みで茶を啜っていた。

 啜っている音で気付いた。

「これこれ。食事は目の前に出された物に集中して、感謝して食べるさね。
いただきますは口だけかね」

「あ。ごめん」

 それはそうとさ、といって竹子はまた茶を啜った。

「珠美は何をしてるさね」

 いきなり聞かれた。

 無防備なところに切り込まれた感じだ。

「えっ。おっ?」

 無表情であってもさすがに、動揺が声に出たのは自分でもわかった。

「年末から、あんたとコソコソやってたのは知ってるさね」

「ああ。うぅんとね。それはさ」

「それはさ、じゃないさね。それじゃないさね」

「えっと。よくわからないんだけど」

「寮長を何年やってると思うさね。もう四十年近くだよ。若い子の顔を見て身体を見て、食欲を見て生活態度を見てるんだ」

 そう言われると返す言葉はない。

 何を言ったところで、見抜かれているということだ。

 若造に勝ち目などない。

「このところ、珠美は朝も晩も食堂に来なかったからね。そろそろ聞かなきゃと思ってた矢先さ。食堂に来ないどころか、十七日の昼間に出てったきりさ。ここに帰っても来てないさね」

「えっ」

 竹子はまた、茶を口にした。

「帰ってきてからずっとおかしかったんだ。暗く沈んだと思ったら急に明るくなったり、また沈んだり」

 竹子にもあまり表情はない。けれどその憂慮はわかった。

 竹子は本当に、珠美を心配していた。

「浮き草さね。昔にもいた。何人も見てきた。あれは、悪い前兆だよ。あんたが試験中だったからね。終わったらと思ってたら、甘かったさね」

「そうなんだ」

「十六日の晩は、変に明るかったね」

 センター試験の日で、観月はといえば、玲の家庭教師に出掛けた日だ。夕食はドミトリーの食堂で八時に摂った。

 そう言えばこの日の朝食でも夕食でも、珠美を見掛けなかった。

 この夜、珠美が帰ってきたのは十一時を回った頃だったらしい。

 ちょうど風呂上がりの竹子は、珠美と出くわしたようだ。

――寮長。寮長ってさ。人生、楽しかった?

 竹子が咎める前に、そんなことを聞かれたという。

――過去形にするんじゃないよ。今も楽しいさね。あんたらがいるからね。

――そっか。

 珠美はうっすら笑って、二階の部屋に上がったらしい。

 後姿がやけに寂しそうだったと、竹子は言った。

「出来ることなら、何とかしておやり。これは、あたしからの頼みさね」

「そうだったんだ。――うん。そうだね。私はGLだし」

「なんだい? それはどこの車さね?」

「ううん。こっちの話。――ちょっと掛けてみる」

 箸を置き、携帯を取り出す。

 竹子は首を横に振った。

「あたしもやったさ。無駄だね。無駄以上さね」

 竹子は不思議な言い方をしたが、自分でも確認したかった。

「でも、一応さ」

 珠美の携帯に掛けてみた。

〈お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません〉

 希望のない音声が流れる。

 なるほど、竹子が言う無駄以上とは、そういうことか。

 珠美のことも、玲のことも。

(さて、あれもこれもか。前途多難)

 携帯をまた箸に持ち替える。

 ひと箸摘まんだ鯖の味噌煮の味が、口の中で少し濃く感じられた。


※ 次回は、2/15(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)