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吉川英梨『新人女警』第3回

新人女性警官が未解決の一家惨殺事件に挑む! 二転三転する容疑者、背後で暗躍する指定暴力団、巧妙に張り巡らされた伏線――。ラストに待ち受ける驚愕の真犯人とは!? 警察小説の新たな傑作誕生!!

  
    *
 
 間中がプロジェクターの映像を指し示しながら、淡々と事件現場の概要を説明していく。エミはこれまでは公式的には第一発見者、もしくは被害者の知人という立場でしかなかったので、このような捜査本部の会議に出たことはなかった。八王子警察署に配属されてからも、四階にある特捜本部には数えるほどしか入っていない。間中は「いつでも来ていいよ」と言ってくれていたが、指導係の源田が「交番勤務に集中」と許してくれなかったのだ。
 正義感の強い熱血漢で、背が高く胸板も厚い間中は、体を張って市民を守る決意で警察官になったらしい。いまは日の当たらない未解決事件の捜査で、日々、段ボール箱約千個分の捜査資料を読み返し、現場に足を運ぶ。
 若い間中をこんなところで飼い殺しにしておくべきではないと、異動の季節がくるたびに本部へ栄転の誘いがあったようだが、間中は断り続けている。
「改めまして、被害者三名の説明からさせていただきます」
 スクリーンに立花正美の免許証写真が映し出される。長くつややかな黒髪をおろし、ほんの少し口角を上げている。鼻筋が通り、小鼻が引き締まっている。唇はぽってりと厚く、猫のように丸く吊り上がった目は魅惑的だ。
「一九七七年四月十五日生まれ、神奈川県出身。事件当時三十五歳で、八王子市の花街、黒塀通りにある『赤屏風』の芸妓でした。婚姻歴はないシングルマザーで、二〇〇二年にアザレアおおるり台へ娘と移り住みました」
 二階の洋室で最も凄惨な殺され方をしていた正美だが、死因は首を絞められたことによる窒息死だった。死の直前、「逃げて」と叫んだ人だ。
「この日、正美の出勤時刻は二十時の予定で、座敷の予約が二十時半から入っていました。殺害時は出勤の準備をしていたと思われます」
 夕方のうちに娘の夕食のカレーを作り、二階の寝室で化粧をしていたところ、犯人が押し入ったようだ。
「現場の状況から死の前後に強姦されている可能性が高いのですが、下腹部に八発の銃弾を浴びており、銃創で膣の擦過傷などを精査することはできませんでした。下腹部の血だまりから、本人の血液以外に、精液が検出されています」
 被害者の血液と混ざってしまってはいるが、精液との分離作業は可能だ。精液のDNA型に前歴者との一致はなく、赤屏風の常連客、関係者などとも無関係だった。
 犯行時に使われた拳銃について詳しい説明がされる。
「二〇〇七年製ルガーSR9です。米国で安価に発売されているモデルで、装填数は十七。正美の下腹部にほぼ半数が撃ち込まれた計算になります」
 間中は再び映像を現場写真に切り替える。
「室内のクローゼットに金庫がありましたが、手付かずです。開けようとした形跡もありませんでした」
 出窓に飾られていたウェッジウッドのイヤープレート二十枚のうち、八枚が割れて床に散乱していた。
「正美の人柄ですが、後輩の面倒見がよく、店では琴の指導を行っていたそうです。また、八王子の花街を途絶えさせまいと、市内の小学校に出向いてその歴史を話したり、お座敷をつける定番曲を教えたりする活動もしていました。人から恨まれるような人物ではなさそうですが、娘の父親が誰なのかは明らかにしていません」
 近隣住民からの印象を伝える。
「隣人の202号室は事件当時は越してきたばかりで、通報者である203号室の鎌田家とは付き合いがなかったそうです。以降、204号室から210号室までの住民も、立花家を認識している人はいませんでした。一方で彼女が十八のころから勤める赤屏風は暴力団ともめ事がありました」
 八王子を拠点とする『岬八粋会』という独立系の暴力団の紹介が始まる。明治時代に八王子が絹産業で潤っていたころ、繁華街や夜の街の規模が大きくなるにつれ、界隈でもめ事が増えていった。これを暴力で解決する愚連隊が自然発生し、寄り集まったのが岬八粋会だ。昭和初期に初代が名乗りをあげ、現在の組長は四代目だ。二代目はバブルのころに都心から進出しようとしてきた稲峰会系暴力団との抗争で射殺されている。三代目が稲峰会系暴力団をケツ持ちとする風俗店を次々と叩いて追い出し、進出しようとした関西系暴力団との抗争も制し、八王子での基盤を固めた。市内繁華街の飲食店、特に風俗店において大きな影響力があり、赤屏風もみかじめ料を払っていた。
 しかし、みかじめ料の要求を禁じる暴力団対策法や暴力団排除条例が定着するに伴い、赤屏風も支払いを拒否するようになると、組員による嫌がらせが始まった。常連客のクルマに糞尿をすりつけたり、日本庭園にカラスの死骸を投げ込んだりした。
「いずれもこれは事件発生の十年近く前の話で、脅した組員は逮捕されて服役、すでに出所しています。以降、岬八粋会は赤屏風への攻撃はしておりませんが……」
 間中は壁際に追いやっていたホワイトボードを引っ張ってきて、裏返した。これまで最重要参考人として挙げられた人物は三百人を超えるが、そのうち、特に容疑がかかる者が五名、ピックアップされていた。
「五名のうち、二名が岬八粋会の人間です」
 一人目は、組長の反崎連一、当時四十九歳だ。現在は還暦を迎えているが、いまでも八王子の裏社会を牛耳る。若頭時代に赤屏風へ通い詰めていた時期があり、正美となんらかの因縁があったと疑われている。
 二人目は、岬八粋会のヒットマンと呼ばれる、韓国籍の朴健宇、通名は和田健、当時五十七歳。
「朴は都内のいくつかの抗争で手を汚したという証言が複数あります。今回の現場で使用された拳銃ルガーはハワイで朴が購入したものです。本人の足取りは事件前から一切つかめておらず、住所不定、事情聴取もできておりません」
 両人とも、事件当日のアリバイはない。反崎は現場の精液とDNA型が一致しなかったが、朴については指紋やDNA型が不明で、照合できていない。
 一階の犠牲者の説明が始まった。
「一階居室のソファ下、玄関から最も近い場所で最初に発見された被害者は、隣人で202号室の住民、中山琉莉、当時九歳でした。背後から腰を撃たれて床に倒れたあと、至近距離から後頭部を撃たれ、即死。着衣に乱れはなく、強姦された形跡もありません」
 エミは途端に心臓が暴れるように激しい動悸に見舞われた。琉莉のことはバレエ教室で出会った七歳のころから知っている。二、三年生のとき同じクラスになったが、三年に進級してすぐ琉莉は八王子に引っ越し、事件に巻き込まれ亡くなった。
「中山琉莉は一週間前にアザレアおおるり台に越してきたばかりでした。母親の中山芳枝によりますと、立花母子とは引っ越しのあいさつをしたのみで、娘同士の交流を知ったのは当日の事件直前だったということです」
〝学校の課題を隣のお姉ちゃんに手伝ってもらう〟
 と言い、琉莉とは家の前で別れたそうだ。
「母親の中山芳枝は看護師であり、この日は急患が出て事件直前の十八時三十分ごろ自宅を出ています。琉莉を最後に見たのはバックミラー越しで、隣人の飛鳥と二人で小径を歩き、裏山の方――滝山丘陵ですね。そちらに向かったとのこと。ちなみに母親は出勤前、立花正美とインターホン越しに会話をしています」
 その記録がインターホンに残っていた。間中が一同に聞かせる。
〝お世話になります、202号室の前原ですが〟
〝ああ、琉莉ちゃんなら、うちの飛鳥と小径を散歩すると言っていましたよ。噴水広場や遊具がありますから〟
〝すみません、私はすぐに出勤しなくてはならなくて〟
〝うちで夕食を食べていってかまいませんよ。娘はもう中三ですから、安心なすって〟
 立花正美と中山芳枝はこれが二度目の会話だったようだ。お互いにシングルマザーということで、正美に気遣いが見える。芳枝も正美やその娘を警戒する様子はない。
「ちなみに芳枝が名乗った『前原』は旧姓です。芳枝はこの時は離婚調停中で、正式な書類には『中山』、名乗るときは『前原』としていたようです。八王子への引っ越しも、離婚がきっかけです。琉莉の父親の情報です」
 画像が切り替わり、迷彩服を着た男が大写しになる。ぎょろりとした大きな目で唇も分厚いが、まなざしは冷たい。
「中山智之、事件当時三十八歳。陸上自衛隊東都駐屯地に勤務しており、当時は会計隊隊長。現在は三等陸尉、幹部になっておりまして……」
 間中は意味ありげに言葉を濁した。中山は一時期容疑者として捜査本部が集中的に捜査展開していた。決定的な証拠が出ず、グレーのままで容疑者リストの中に残る。DV疑惑の他、駐屯地内でもパワハラで処分を受けた過去があった。事件当夜のアリバイ証言が二転三転したことも、容疑者リストから外れない原因だった。
「最後になりますが、二番目に発見された被害者は立花飛鳥、おおるり台中学校の三年一組に在学していた十五歳です。彼女は正面から腹部を撃たれてあおむけに倒れたところを、額に至近距離から銃弾を撃ち込まれ、即死です。中山琉莉と違うところは、下着を膝まで脱がされていたところです。強姦はされていませんでした」
 画像が切り替わる。エミの記憶にあるよりも、画像の中で死んでいる飛鳥は悲劇的だった。いまは彼女の背景を知っているからかもしれない。
「学校は中二のころから休みがちで、成績も芳しくありません。アイドル活動をしており、多忙にしていたようです」
 美少女戦士風のビキニアーマー姿の八人組がポーズをとっている画像に切り替わる。『八王子を守る美少女戦士』というコンセプトらしい。『プリンセスBEE』というグループ名がでかでかと表示されていた。BEEは八王子の『はち』を『蜂』ともじったものか。ビキニアーマーの柄も蜂を想起させ、昆虫の羽のようなものをつけていた。飛鳥は左端で紫色モチーフの衣装を着てポーズを決める。胸元を強調するような卑猥な映り方だった。立ち位置的に七番手、八番手あたりに見える。
「当時流行していたアイドルにならい、CDに握手券をつけたり、人気投票を総選挙と銘打ってやっていたようです。飛鳥はカラー的にも立ち位置的にもサブキャラながら、人気投票では常に一番でした。グループ内での人間関係はギスギスしていたとファンは噂していますが、本人たちや周辺スタッフはこれを否定しています」
 関係者のスマホや携帯電話を任意提出してもらい、メッセージのやり取りを確認したが、仲睦まじいものばかりで、悪口や愚痴もほとんどなかった。
 一方で、ファン同士は非常に仲が悪かった。
 飛鳥が芸妓の娘と知れ渡るや、体を売っているという誤った偏見に基づくイメージで娘までもが語られ、「飛鳥は投票権を体で買っている」とか「ファンと関係を持っている」とデマが飛んだ。一方で熱心な飛鳥ファンは、「大した人気もないのにセンターを張っているやつこそ、プロデューサーと寝ているんだ」とセンターの立ち位置にいた女性アイドルのファンに反撃していた。
「実際、この事件が公表されたとき、プリンセスBEE界隈では、真っ先に疑われたのがレッドでメインの秋山小巻でした」
 小巻は当時十七歳、目も鼻も口も大きく、自己主張が激しい顔だちだ。立花飛鳥の方が美貌もスタイルも際立っている。なぜ小巻がセンターなのか勘繰るような見方をする人も多く、飛鳥との不仲説が囁かれていた。
「小巻との仲を疑われていたプロデューサーの宮城象二郎、当時三十五歳が、握手会の売上金を長年にわたり横領していました」
 この宮城象二郎が、四人目の容疑者だ。彼は少年時代に傷害の前科もあった。
 現場の物証との関連が取りざたされた。
「トイレットペーパーの芯です。これは、飛鳥や琉莉の自宅にあったトイレットペーパーとは別のメーカーの芯でした」
 外部から持ち込まれたものである可能性が高い。
「秋山小巻と宮城象二郎によって、飛鳥の脚の間に意図的に置かれたものだとファンの間で噂されました」
 プリンセスBEEのデビュー前、ボイストレーニングやダンスレッスンを集中的に行う合宿があり、八人の少女たちは高尾山の近くの別荘地で共同生活を送った。当時のすったもんだを面白おかしく編集し、動画配信していた。
「その中で、飛鳥がトイレットペーパーを使い切っても絶対に取り替えないということで、小巻と口論したシーンがありました」
 くだらない内容だが、飛鳥のことを「芯を捨てない=頑固者」と揶揄する小巻ファンがいたそうだ。
「この事実から、ファンの多くが、小巻や宮城に疑惑の目を向けたということですが、二人にはアリバイがありました」
 野猿街道沿いのラブホテルにチェックインしていたのだ。
 正美のベッドに残っていた精液のDNAとも一致しなかった。
 宮城は横領容疑で逮捕、起訴されたが、不起訴処分となり、いまでもショーパブなどをプロデュースし堂々と八王子で暮らしている。
「飛鳥の界隈にはもうひとり、容疑者がいます」
 五人目の容疑者、阿部佳樹の免許証写真が表示される。
「事件当時二十一歳。飛鳥の追っかけをしていました」
 ファン投票のたびにCDを買い占めて、「飛鳥をセンターにする!」と雄たけびを上げていた。やがて自宅までつきとめてストーカー化しはじめた。
「気の強い飛鳥は本人に直接抗議したり、中指を立てたりして阿部をあおってしまい、つきまといや嫌がらせがエスカレートしました。母親が八王子警察署の生活安全課に相談、裁判所が接近禁止命令を出しました。それが、事件の一か月前のことです」
 飛鳥への強い執着と恨みがあるうえ、阿部は当日もアザレアおおるり台周辺をうろついていた。午前八時前後に滝山街道で、十五時から十六時以降も滝山街道を徒歩で往復している。飛鳥の登下校時刻での遭遇を狙っていたのだろう。
「阿部は市内の帝都大学の農学部応用植物学科に在籍していました。高尾山に生息する毒草を研究するサークルで活動しています」
 刑事たちがうなる。
「ここで注目していただきたいのが、飛鳥の遺体の周辺に散らばっていた紫色の花です。これはヤマトリカブトという、八王子市内のあちこちで群生している、毒草です」
 毒草の知識がある阿部佳樹が飛鳥を殺害するため、ヤマトリカブトを採取し、特に毒が多く含まれる根を取ろうとしていたところで、なんらかの手違いが発生し、彼は念のために準備していたルガーで現場に居合わせた琉莉も巻きぞえにした。もしくは、最初からルガーで飛鳥を殺害するつもりで、なんらかのメッセージのつもりで毒草を現場に残したのか。
「この他、現場から犯人の指紋は一切検出されておらず、残されていたのは正美の血液内から出た精液のみです。不可解な遺留品は、先ほどのトイレットペーパーの芯とヤマトリカブト、それから割れた皿です」
 二階洋室と半地下の納戸の床に散乱する割れた皿が、画面に表示された。
「寝室では八枚の皿が割れていましたが、地下の納戸でも、箱に収納されていた皿が八枚、割れていました。ちなみに納戸のクローゼットに、琉莉の友人、宮武エミが隠れていました」
 エミは視線を伏せたが、誰も振り返りはしなかった。その少女がいま警察官としてここにいることを、殆どの人が知らないのかもしれない。
「彼女の証言によると、犯人は恐らく二人組かそれ以上。見張り役と思しき一人と接触しています。見張り役の身長は百八十センチ超えのやせ型。居室で鉢合わせしたあと、エミを地下の納戸のクローゼットに閉じ込めています」
 エミはその表現に違和感がある。見張り役は、実行犯からエミを守るために地下室のクローゼットにかくまってくれたとエミは考えている。だが警察は当初からエミのその見方に否定的だ。その理由を、いま間中が発言している。
「この少女が現場で負った傷跡から、見張り役の微量の体液が検出されました。少女の血液と混合してしまった上に微量すぎて分離ができず、DNA型の判定にまでは至っていません」
 エミに関する話は駆け足で終わった。
「続いて、犯人たちが乗り付けてきたと思われる車両の情報です」
 アザレアおおるり台のアーチに取り付けられた防犯カメラに、不審な車両が映っていたが、偽造ナンバーだった。
「日が落ちて映像が不鮮明なため、車内の人員も不明、車種も絞り込めず、足取りの追跡もできませんでした」
 関係者が多すぎる上、物証も多くあったがために、捜査員は十一年間も振り回され続け、未解決のまま事件は風化してしまった。
「事件当夜の目撃者が少女ひとりだということ、物音を聞いている住民も皆無であることが事件を難しくしています。201号室と隣接しているのが当時住人不在だった202号室だけというのもありますし、八王子の土地柄も影響しています」
 八王子市は全域が横田基地による航空法制限区域になっている。常日頃から八王子市民は横田基地を発着する米軍機の騒音に悩まされている。連隊で通過することもあるし、航空ランプの識別ができるほど低空飛行をする場合もある。
「事件当夜の十九時から十九時半の間も、横田基地へ戻る輸送機が五機、八王子上空を通過しています。航空機の騒音が発砲音や悲鳴をかき消し、極端に目撃者が少ない結果を招いたものと思われます」
 ひと通りの説明が終わった。この春に刑事部長に就任したばかりのキャリア官僚が発音する。階級は警視監、エミは警察制服の階級章にあれほど線が入っている人を初めて見た。
「容疑者が五人いること、彼らを白とも黒ともつけがたいことはわかった。現在の特捜本部は第八期だったね」
 特別捜査本部は、主導する長が交代するたびに『期』が更新される。初動捜査から最初の三年までが第一期、以降はだいたい、ほぼ一年おきにトップが交代し、現在の矢橋警部率いる特捜本部は第八期、つまりは八人目のトップでの体制ということになる。
 以前、酔っぱらった父が矢橋のことを『八代目特捜本部長』と任侠団体のように話していた。父は、第二期の特捜本部に専従捜査員として配属された。当時の管理官を「二代目」と呼んで、家に招いたこともあった。エミは中学生になっていた。父がアザレアおおるり台事件の捜査本部に入ったことが本当に嫌だった。反抗期だったこともあるが、中学校の三年間は事件を忘れようと必死だった。
 刑事部長が質問を続ける。
「第八期特捜本部では、この五人のうち誰を有力視しているのかな」
 間中が即答した。
「阿部佳樹です」
 刑事部長は興味深そうに捜査資料を捲った。間中が根拠を説明する。
「この五人の容疑者の中で、もともと居場所がわからなかったヒットマンの朴をのぞき、三人は八王子在住のままです。容疑者としてネット上で拡散され、嫌がらせを受けようが、八王子に根付いています。八王子を出て行ったのは、阿部だけなのです」
 阿部は何度か任意の聴取を受けたあと、事件のちょうど一年後に都外へ引っ越した。現在は八王子から一千キロも離れた港町の缶詰工場でひっそりと働いている。
「しかも偽名を使っています。裁判所に氏名変更の申請を行っていますが、却下されています。缶詰工場では『立花ヨシキ』という名前で働いているんです」
 飛鳥への未練が残っているようだ。
「いつでも私文書偽造等の容疑で連行できる状況ですが、様子を見ているところです」
「こいつは引っ張っていいんじゃないか」
 刑事部長が言ったが、矢橋は慎重だ。
「新たに現場から阿部を犯人とする証拠が見つかったわけではありません。下手に刺激すると、また遠方に逃亡する可能性があります。現在、立花ヨシキとして生活していることを突き止めるのに三年を費やしているんです」
 エミは無意識に挙手していた。前方の扉付近から会議を見学していた源田が、目を丸くしている。新人女警が特捜本部で発言するなんて信じ難いのだろう。
 間中は期待のまなざしでエミを指名した。刑事捜査のエキスパートたちの視線が一斉にエミに降り注いだ。昭和生まれのぎらついた視線に、エミは気持ちが萎えそうになる。
「宮武エミ巡査。どうぞ」
 間中が促す。一同がどよめいた。先ほど事件関係者の中で『第一発見者』として名前があがった少女が、『巡査』という肩書でいま指名されたからだろう。
 エミは自ら、壇上に立つ。みなに自分の姿を見てほしい。同い年の琉莉は事件資料の中で九歳のまま時が止まっているが、エミは二十歳になり、警察官にもなった。その年月の重みを、捜査員にわかってほしかった。
 マイクを握り、プロジェクターの横に立つ。
「八王子警察署、地域課、八王子駅北口交番所属の宮武エミ巡査です。この二月に警察学校を卒業し、この地で警察官になりました」
 男たちは緊迫のまなざしでエミを見る。
「今日で事件から丸十一年ということですが……」
 前置きをうまく話せるほど、場慣れはしていない。嫌な汗が背筋を垂れていくのがわかった。緊張でマイクを持つ手が震えてくる。率直に伝えた。
「つまり、何が言いたいかというと、阿部佳樹と宮城象二郎は容疑者リストから外すべきということですッ」
 エアポケットに入ったかのような深い沈黙の後、場がざわついた。遠慮がちな、失笑も聞こえてきた。
「私のような新人女警がこの場で発言するのもどうかと思うので、手短に。まず、私は第一発見者だったわけで、あれ以来十年以上にわたって警察の聴取に応じ、現場の詳細をもれなく伝えたつもりでしたが、今日、さほど重要ではないと思われていたある事実を思い出し、それが阿部犯人説を否定すると気が付きました」
 蚕です、とエミは声を張り上げた。
「あの日、私は友人の琉莉を訪ねるつもりが、お隣の201号室にいると聞き、入るのに躊躇していました。それでも中に飛び込んだのは、玄関先に蚕がいたからです。三、四匹は蠢いていたと思います。おそらくあの蚕は、琉莉が転校先の小学校から飼育するように預けられたものではないでしょうか」
 八王子市内の小学校は三年時に蚕の飼育の授業があることを伝えた。源田をちらりと見る。自分が披露したうんちくだからか、嬉しそうに頷いている。
「琉莉は引っ越してまだ一週間です。彼女は引っ越しするまで養蚕に縁もゆかりもない地で育ち、いきなり蚕の飼育をすることになって戸惑ったと思います。しかも餌となる桑の葉を自分で用意しなくてはならないらしいのです」
 エミは咳払いをはさみ、続けた。
「そこで琉莉は、隣人の立花飛鳥さんを頼ったのではないでしょうか」
 飛鳥は八王子育ちだから、小学校時代に蚕を育てたはずだ。アザレアおおるり台付近で桑の木が生息している場所へ、琉莉を案内したのではないか。
「今日、私はその可能性に気が付いて、アザレアおおるり台付近で桑の葉を探しました。2号棟前の小径を北へ進み、裏山へと続く獣道に入った先に桑の木がありました。更に、その周辺にヤマトリカブトが群生しているのも見ました」
 エミはその場でスマホで撮影した画像を見せた。矢橋と間中は興味深そうに覗きこんだが、刑事部長は同情するようなまなざしでエミを見ていた。エミは自分を奮い立たせた。いつまでも、『かわいそうな第一発見者』という立場に甘んじていてはいけない。エミはもう、警察官なのだ。
「あの日、琉莉の母親が出勤するころ、琉莉は飛鳥とこの桑の木へ向かったと思うんです。ヤマトリカブトは美しい紫色の花をつけていたはずです。そして紫は、プリンセスBEE立花飛鳥のイメージカラーです」
 現場の飛鳥の死体の脇に散らばっていたヤマトリカブトは、飛鳥本人が摘んできたものではないのか。矢橋が尋ねる。
「阿部佳樹が毒殺するために採ったものではない、と推測しているのですか」
「はい。琉莉は桑の葉を摘み、飛鳥は偶然そこに咲いていた紫色の花に親近感を感じ、摘み取った。それから、トイレットペーパーの芯についても、蚕にまつわるものだったと思われます」
 源田から聞いたことをそのまま話した。
「あの芯は中山家の物とも、立花家の物とも一致しませんでした。飛鳥は琉莉と桑の木を探しながら、蚕の飼育のコツを教えていたに違いありません」
 繭を作る蚕のためにトイレットペーパーの芯をいくつか準備しておく必要がある、と話していた可能性はないだろうか。
「小学生ひとりあたり、五匹から十匹は蚕を飼うそうです。いっきに複数のトイレットペーパーの芯を集めるのは難しいと思います。私は今日現場を歩きましたが、2号棟と桑の木の間の小径に、ごみ集積所がありました」
 事件翌日は紙ごみの収集日だった。
「トイレットペーパーの芯があの日、紙ごみの中にあったとしたら?」
「つまり、二人は蚕のために、トイレットペーパーの芯をごみ捨て場から拾った……?」
 刑事部長の後を、エミは頷き、引き取った。
「自宅に戻ろうとした玄関先で、犯人に押し入られたのではないでしょうか」
 琉莉は驚愕し蚕の入った箱を落としてしまった。飛鳥はヤマトリカブトの花とトイレットペーパーの芯を握ったまま、部屋の中で相次いで射殺された。
 玄関先に落ちていた蚕は警察が到着する間に逃げてしまっただろうし、見かけたとしても、自然豊かな滝山丘陵の中にあるアザレアおおるり台に蛾の幼虫がいたところで、捜査員は気にも留めなかっただろう。
 間中がパソコンを開き、当時の遺留品一覧を猛烈な勢いでスクロールしている。
「2号棟の東側――玄関のすぐ真下にあたる生垣に、蓋つきの小さな段ボール箱が落ちていた旨、記録が残っています」
 さかさまになっていたようだ。桑の葉も蚕の糞も生垣の中に落ちただろう。事件に関係がある箱なのか、ただのごみか、精査された痕跡はない。刑事部長は憮然とした。
「当時の遺留品捜査が不完全だった結果だな。段ボール箱から指紋採取をすれば琉莉の指紋が出ただろう。すると彼女が蚕を飼育していたこと、現場に持って行ったことも判明し、おのずと二人の少女の行動が読めた。トイレットペーパーの芯やヤマトリカブトの遺留品に拘泥する時間の無駄も起こらなかっただろう」
 この二点は、阿部佳樹と宮城象二郎の犯行説を補強する状況証拠だったが、これが消えるとなれば……。
「犯人は三人にまで絞り込めます」
 残るは、指定暴力団、岬八粋会の会長、反崎連一。そのヒットマンの朴建宇。琉莉の父親、中山智之だけだ。
「素晴らしい推理力だね、宮武巡査」
 褒めているが、刑事部長の目は鋭い。
「だが君は見張り役の犯人と接しているんだよね」
 ドキリとして、心臓がはねた。
「目出し帽をかぶっていたとはいえ、目は見えていたはずだ。残り三人の中の誰か、判断はできないのか」
「この中にはいません」
 エミはきっぱり言った。刑事部長はすっと目を逸らした。
「なるほど。実行犯はこの三人のうちの誰かだろうが、見張り役については誰一人として絞り込めていない、ということか」