麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第13回
5
改札を抜けると、尾崎たちは急ぎ足で目的地に向かった。
ここは昨日通ったばかりの道だ。あのときは何の勝算もないまま聞き込みに行っただけだった。しかし今は違う。ひとつの手がかりを得て、尾崎たちはその場所へと急いでいるのだ。
雑居ビルの一階に事務所がある。尾崎は広瀬と顔を見合わせたあと、入り口のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
椅子から立って、女性社員がこちらにやってきた。彼女は尾崎たちの顔を思い出したようだ。
「あ、警察の方……」
「どうも」と尾崎は言った。「大堀部長はいらっしゃいますか」
「……少々お待ちください」
緑色のジャンパーを着た女性は、カウンターを離れて上司のほうへ向かった。
ここは高田馬場にある新陽エージェンシーの事務所だ。同僚の佐藤によると、新陽エージェンシーは暴力団・野見川組の資金源であるフロント企業だということだった。第一の事件の被害者・手島恭介が、この会社から荷物配送などの仕事を請け負っていた疑いがあり、尾崎たちは昨日ここを訪れたのだ。だが、あのときは明確な回答を得ることができなかった。
そして今日、尾崎と広瀬はもう一度この事務所にやってきた。
第二の被害者・白根健太郎がホワイトボードに《agcy》と書いていた。あれは「エージェンシー」の略語として使われている言葉だろう。そこから尾崎たちが連想したのが、ここ新陽エージェンシーだったというわけだ。
「お待たせしました」
髪の薄くなった中年男性が近づいてきた。営業部長の大堀だ。
「どういったご用件でしょうか。手島さんのことでしたら、お話しすることはもう何もありませんが……」
その表情から、彼がかなり緊張していることがわかる。二日続けて刑事がやってきたことを警戒しているのだろう。
そういえば、と尾崎は思った。昨日自分たちがここを訪れたとき、オールバックの男に聞き込みを邪魔されている。おそらくあれは野見川組の人間だ。大堀はあの組員に、よけいなことを喋るなと釘を刺されたに違いない。
「心配しないでください。今日は手島さんのことではないんですよ」
「そうなんですか?」
「実は今日、白根健太郎さんという方の遺体が発見されました。殺害されたんです」
大堀はカウンターの向こうで大きく身じろぎをした。辺りをきょときょと見回してから、尾崎のほうに視線を戻す。
「……その方が、私どもと何か関係あるんでしょうか」
「それをお訊きしたいんですよ」尾崎は言った。「白根さんは新宿区高田馬場辺りの地図を持っていました。また、新陽エージェンシーを指すと思われるメモも残しています。こちらの事務所と取引していたとか、仕事を請け負っていたとか、何かそういう関係があるはずです。そうですよね?」
尾崎に気圧されたのか、大堀は黙り込んで思案する様子だ。戸惑っているのがよくわかる。しばらくして、大堀は再び口を開いた。
「白根健太郎さん、ですか。確認するといっても、なにしろ私の記憶にない方なので……」
「いいですか、大堀さん」尾崎はカウンターに両手をつき、声を低めて言った。「昨日、私が尋ねた手島恭介さんは、こちらの会社から仕事を請け負っていたことがわかっています。関係者から証言がありましたよ。あなたはそのことを隠していたのでは?」
「そう言われましても……」
「新陽エージェンシーさんは、裏で反社会的勢力と繋がっていますよね。手島さんは法に触れるような仕事をしていたんじゃありませんか?」
「いや、それは……」
「今日遺体が見つかった白根さんも同じだったんじゃないですか? あなた方はごく普通の仕事のように見せかけて、実は彼らに犯罪の片棒を担がせていたんでしょう?」
相手の表情に、動揺の気配が感じられた。大堀は目を逸らして、壁に掛かったカレンダーを見つめている。
尾崎たちは小声で話していたのだが、何か様子がおかしいと気づいたのだろう。ほかの社員たちが不安げな目をこちらに向けていた。
大堀は小さく咳払いをした。
「私は、いち社員です。会社の経営には携わっていませんので……」
「わかりました。では、いち社員である大堀さんにお願いします。白根健太郎さんという人がこの会社と関係あったかどうか、確認していただきたい」
不安そうだった大堀の表情に、苛立ちの色が混じっていた。彼はため息をついてから言った。
「少し時間がかかりますよ」
「かまいません。ここで待っていますので」
商談スペースに案内され、尾崎と広瀬は椅子に腰掛けた。大堀が去っていくと、広瀬が口元を手で隠しながら、ささやいてきた。
「尾崎係長でも、あんなことをおっしゃるんですね」
「何だ?」
「相手を脅すような感じだなと思って……」
「脅したわけじゃない。質問しただけだ」ふん、と尾崎は鼻を鳴らした。
「昨日、君がしたこととは違うぞ」
「目的は同じだと思いますが」
「一緒にしないでくれ」
尾崎がそう言うと、広瀬は目を伏せ、こくりとうなずいた。
たしかに先ほどは少し無茶をした、という反省があった。成果を引き出すために焦ってしまったのだ。いざ大堀を前にして、追及する材料が足りないのではないか、と感じてしまったせいもある。昨日、広瀬の強引なやり方を否定したばかりだったから、どうにも恰好がつかない。
十五分ほど経ったころ、大堀が戻ってきた。左手にプリントアウトした資料を持っている。
「確認しましたが、やはり白根さんという人は見つかりませんでした」
「よく調べていただけましたか?」
尾崎は責めるような調子で訊いてしまった。それに対して、大堀もまた不機嫌そうな声で答えた。
「心外ですね。顧客データ、仕入先データには載っていませんし、備品の納入業者にだってそんな人はいません。私どもとは無関係だと、はっきりお答えできます」
「では、その資料を見せていただきましょうか。嘘だとわかったら、あなたの立場はどうなりますかね」
その言葉を聞いて、大堀は眉をひそめた。
「私を脅すんですか?」
「とんでもない。我々は事実関係を確認したいだけです」
「そこまでおっしゃるのなら、令状なり何なり持ってきてくださいよ」大堀は強い調子で言った。「もう協力はできません。お帰りください」
低い声を出して、尾崎は唸った。
大堀が噓をついている可能性はもちろんある。だが任意で情報提供を求めているわけだから、これ以上粘ることは難しい。
攻め方を間違えたか、と尾崎は歯噛みした。白根宅のメモを見つけたのはいいが、そのあとは勇み足だったかもしれない。もっとほかにやりようがあったのではないか、とひとり後悔した。
結局、何の成果も得られないまま、尾崎たちは事務所を出ることになった。
駅まで戻り、広瀬を連れてカフェに入った。
店の奥へと進み、周りに客のいないテーブル席を選ぶ。注文を済ませると、すぐに尾崎はメモ帳を広げた。
「こういうときは、まず落ち着かないとな」
「それがいいと思います」と広瀬。
「正確な分析が必要だ。今までの情報を整理してみよう」
「私もそれに賛成です」
真面目な顔をして広瀬は言う。新陽エージェンシーでの出来事については、プラスともマイナスとも感じていないようだった。彼女がそういう性格なのはありがたい。あれをミスだとか失態だとか言われては、今後の捜査がやりにくくなる。
尾崎はメモ帳に人間関係を書き記した。
◇坂本高之……五年前、錦糸町事件で負傷
↑
錦糸町事件で暴行
↑
◇郷田裕治(野見川組の下働き)……五年前、交通事故死
◆手島恭介(野見川組の下働き)……郷田の弟分。三好事件で殺害される
◆白根健太郎……赤羽事件で殺害される。野見川組と関係あるか?
メモを指し示しながら尾崎は言った。
「坂本さんは郷田に左脚を刺されて、歩行に支障が出るようになった。当然、郷田を恨んでいるだろう。しかしその郷田は五年前、交通事故で死亡している」
「そうですね。いくら憎んでも、坂本さんが郷田に復讐することはできません」
「しかしだ、郷田には手島恭介という弟分がいた。そこで推測してみる。……五年前の錦糸町事件のとき、郷田がひとりではなかったとしたらどうか。その場に手島が一緒にいたとしたら……」
「そんな目撃証言はありませんが」
「直接トラブルに関わっていなかったとしても、たとえば……事件の前、手島は郷田とふたりで飲んでいたんじゃないだろうか。店を出るときも一緒だったかもしれない。ふたりで路地を歩いているうち、郷田が坂本さんとトラブルになった。刺したのは郷田だが、そこに至るまでに手島も関わっていたのでは?」
「もしそうだったとして、なぜ坂本さんは手島のことを警察に話さなかったんでしょうか」
「事件のときはわからなかったが、あとで思い出して手島のことを調べ始めたのかもしれない。五年かけてようやく手島のことがわかった。それで彼に復讐をした、と……」
話を聞いていた広瀬は黙り込んでしまった。尾崎の書いたメモを見つめたまま、じっと考えに沈んでいるようだ。
ウエイトレスがコーヒーを運んできてくれた。彼女がコーヒーカップをテーブルに並べ、厨房のほうへ去っていっても、広瀬は黙ったままだった。
「どう思う?」
尾崎が尋ねると、彼女は首をかしげながら顔を上げた。
「条件が足りていないように思います。坂本さんにとって、もっとも憎いのは郷田のはずです。その郷田がもう死亡しているのに、手島まで殺害しようと思うでしょうか」
「何か理由があったんだろう」
「そうかもしれませんが、坂本さんは歩行に支障が出ています。廃アパートの庭に穴を掘り、手島を襲って自由を奪い、穴の中に埋め、シュノーケルに水を流し込んで殺害する……。そこまでのことは、彼にはできないと思います」
「協力者がいれば可能だよな」
「……でもその場合、坂本さんはなぜ白根健太郎さんまで殺害したんでしょうか。手島と白根さんのふたりを殺害したのは、同じ人物だとみられていますよね」
「坂本さんは白根さんにも恨みがあったんだろう。何らかの恨みが」
「何らかの、と言われましても……」
コーヒーカップを手にして広瀬は考え込む。しきりに首をひねっているところを見ると、やはり賛同はできないようだった。
「まあ、もっとシンプルに考えればこうだよ」尾崎は言った。「かつて郷田と手島が組んで、何かの事件を起こした。その被害者が今、復讐を始めた。郷田は五年前に死亡しているから、弟分だった手島を殺害した」
「白根さんはなぜ狙われたんですか」
「彼もまた郷田の仲間だったんだろう。だからターゲットになった」
「……どうでしょうね。裏が取れれば、そういう推理も可能になるでしょうけど」
「まだ無理があるか……」
尾崎はテーブルに頬杖をついた。行き詰まった感がある。そのまましばらく考えるうち、ひとつ思い出したことがあった。
「たしか、ホワイトボードに《行方不明》と書かれていたよな。あれが過去の事件に関係しているんじゃないだろうか」
「誰かが行方不明になったわけですか」
「郷田や手島の仕業じゃないかな。白根さんもそれに関わっていたのかも」
ああ、そういえば、と広瀬が言った。彼女は眉をひそめながら、尾崎のほうを向く。
「ふたつの事件で、犯人はひどく残酷なことをしていますよね。手島のときはシュノーケルから水を流し込み、溺死させました。白根さんのときは両目を抉り、黒いポリ袋をかぶせています。なぜそんなことをしたんでしょうか」
「猟奇的な犯行ということだよな」
「ただ猟奇犯を気取るだけなら、もっとほかに方法があったと思うんです。……今回のふたつの事件は、あまりにも手が込みすぎています。わざわざ時間をかけてあんなことをする理由は何だったのか……」
「うん、たしかにな」尾崎は深くうなずいた。「あれには意味がある、ということか」
「犯人からのメッセージかもしれません」
その言葉を聞いて、尾崎は思わず首をかしげた。猟奇犯である上に、警察に挑戦してきているということだろうか。
「まさかそのメッセージの中に、犯人のヒントが隠されているとか? いや、それはないか……」
「わかりませんよ。おそらくこの事件の犯人は、常識では推し量れない人間ですから」
そう言うと、広瀬は冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。しばらくカップを見つめていたが、やがて「苦いですね」とつぶやいた。
尾崎はメモ帳に目を戻し、事件の全体像について考えを巡らした。
※ 次回は、4/19(金)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)