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吉川英梨 新人女警 第1回

新人女性警官が未解決の一家惨殺事件に挑む! 二転三転する容疑者、背後で暗躍する指定暴力団、巧妙に張り巡らされた伏線――。ラストに待ち受ける驚愕の真犯人とは!? 警察小説の新たな傑作誕生!!

プロローグ
 
 中央道下り線に入った途端、父がCDを替えろとうるさい。
「ユーミンのベストだよ。早く探して」
 宮武エミはCD収納ケースを探る。
「音楽くらいスマホで聴いたら。こないだの発表会のときパパだけガラケーで撮影していて恥ずかしかった」
「はいはい。ごめんね、早くユーミンかけて」
 エミは松任谷由実のベスト盤を見つけて、カーステレオの挿入口に入れた。『中央フリーウェイ』がかかる。
「『右に見える競馬場』ってのは府中競馬場のことで……」
 歌詞の解説をしていた父が、ふいに口を閉ざす。母のことを思い出しているのだろう。エミは目の前に迫ってきた案内板を指さした。
「もう八王子だよ」
『八王子市』のカントリーサインは赤い天狗がモチーフで奇抜だ。五月の良く晴れた日の夕刻、エミが住む都心では見られない山々が、進行方向に迫る。その向こうにはくっきりと富士山のシルエットが見えた。
「八王子市って本当に東京都なの? 山ばっかりみたいだけど」
「あそこは東京都じゃなくて、八王子独立王国って呼ばれているらしいよ」
 八王子ICで中央道を降りた。店が建ち並ぶ片側三車線の大通りには、びっしりとクルマが連なる。右左折を繰り返して裏道に入るうち、住宅地や空き地が増え、交通量は減る。日も完全に落ちて寂しい雰囲気になった。地方に瞬間移動したみたいだ。やがて木々に覆われ鬱蒼とした道路に入る。昼間は緑のトンネルのようでさわやかなのかもしれないが、日没間際のいまは薄暗くて不気味な道だった。ヘッドライトが『通学路 学童注意』の看板を照らす。
「こんな道が通学路か。ガードレールもないし、変質者が出そうだぞ」
 エミはイノシシが出そうで怖いと思ったが、父は刑事だから犯罪の方を気にする。
「琉莉ちゃんは都心からいきなり八王子の奥地に引っ越しすることになって、気が滅入っているんじゃないのか」
「八王子の奥地って高尾の方でしょ。おおるり台は田舎じゃないって言ってたよ」
 確かに、と父もうなずく。
「おおるり台は八王子駅からも八王子ICからも遠くはないんだけどな。滝山丘陵があるから田舎に……」
 父の声が飛行機の轟音でかき消される。
「うるせー飛行機だな」
 暗い森のトンネルを抜けたとき、オレンジ色の明るい屋根の建物が現れた。真っ白の外壁で中世の森の中に佇むお城みたいだ。道路の先にアーチがかかっている。その脇のピンクがかった岩に『AZALEA OHRURI HILL』と記されていた。
「うちの警察官舎よりずっと素敵」
 エミは生まれたときから古い警察官舎で暮らしている。五階建てなのにエレベーターはないし、お風呂は狭くて深くて寒い。友達が遊びに来たとき「昭和の団地みたい」と、エミの住居や父と二人きりの生活を気の毒がった。
 幼馴染の中山琉莉や山田楓は、ママのいないエミに同情することはあまりない。「うちのママだって全然家にいないよ」と琉莉は言う。三歳年上でしっかり者の楓は「いまどきの母親は忙しすぎて、子供と向き合う時間なんてないんだから」と話していた。
 楓と琉莉、エミの仲良し三人組は、小学校の裏手にあるバレエ教室で出会った。三歳の時に母は病気で亡くなったが、周囲のママがエミのことも気にかけてくれたので、さみしいと思ったことはあまりない。
 琉莉ママは看護師で忙しいのに家事育児に手を抜かないパーフェクトママだ。楓ママは専業主婦でぽっちゃりした体型だ。楓は、鏡餅と言ってバカにしているが、素朴であったかい。
「琉莉ちゃんちは何号棟だっけ」
 アーチをくぐってすぐに、アザレアおおるり台の案内看板があった。緑豊かな滝山丘陵のふもとに十棟が並んでいる。
「2号棟の202号室だよ」
 父は案内板の地図を確認し、石畳の小径を徐行で進む。2号棟が見えてきた。どの棟も三階建てくらいの高さしかなく、団地群のような威圧感はない。
「変わったマンションだな。メゾネットか」
「半地下室があるんだって。マンションなのに二階建てらしいよ」
「おしゃれな長屋ってところだな」
 エミはバッグから子供用ケータイを出した。琉莉から十五分前に連絡が来ていた。
『隣に超かわいいアイドルのお姉ちゃんがいるの。201号室に来て!』
 202号室の半地下のガレージに車はなかった。
「琉莉ちゃんのお母さんは不在か」
「急患でしょ。看護師さんだから。琉莉はお隣のお姉さんと遊んでいるみたいよ」
 父はなんだか不満そうだ。
「あちらの保護者がいないなんて、エミを置いていくのは心配だよ」
「大丈夫だよ。会議、遅れていいの?」
 父は今日、八王子市にある第九方面本部で会議があるのだ。前日に八王子に行くと聞いて、エミは琉莉に会いたいとおねだりした。琉莉に連絡を入れたら大歓迎だったので、急遽、父親にくっついて八王子までやってきたのだ。
「急患ならすぐに帰れないだろ。琉莉ちゃんのお父さんに来てもらえないのか」
「琉莉はパパには会いたくないらしいよ」
「なんで。自衛官のパパなんて警察官よりかっこいいじゃないか」
 父は時計を見て我に返る。
「やべ。あと五分で会議始まる」
「ここでいいよ」
 エミは2号棟前の石畳の小径に降りた。
「一時間くらいで戻るから。なにかあったらケータイ鳴らして」
 サファイアブルーメタリックのアルトが、暗闇に溶けて見えなくなる。
 エミは向き直り、202号室を通り過ぎた。まだ引っ越して一週間だからか、離婚で苗字が変わるからか、表札は出ていない。琉莉は母方の旧姓『前原』になるのを喜んでいた。好きなアニメの主人公と同じらしい。彼女はゲームやアニメが好きだ。小二から視力が落ち、銀縁の眼鏡をかけるようになって、余計にオタクっぽく見える。周りに流されずマイペースな琉莉とエミは気が合った。
 201号室、琉莉の新しい隣人の玄関には『立花』という表札が出ていた。四つ葉のクローバーのマークが入っている。半地下のガレージはシャッターが閉まっているのに門の扉は開けっぱなしになっていた。玄関扉まで階段が五段あり、ペチュニアやサルビアの鉢植えが飾られていた。玄関扉の隙間から明かりが漏れている。扉の隙間にサンダルが引っかかっていた。
「こんばんは……」
 エミは階段を上がり、扉の隙間から声をかけた。返事はないが、どすどすと床を踏み鳴らすような音がする。誰か階段を下りてきたと思ったが、一向に人は現れない。
「琉莉のお友達の、宮武エミですが……」
 琉莉がいるとはいえ、知らない人の家だ。父に挨拶をしてもらえばよかった。インターホンを押しに引き返そうとして、白い大きな芋虫のようなものを踏みそうになった。
「キャッ!」
 飛びのいた先にもう一匹いた。玄関先に四匹もいる。それぞれ勝手な方向に進んでいた。エミは中に逃げ込み、玄関マットの上に倒れ込んだ。毛足の長いそれは泥で汚れていた。右手の開けっ放しの扉のむこうに、白い靴下の足の裏が見えた。ちょっと汚れている。琉莉は学校の昇降口でもよく靴下のまま土間に下りる。琉莉の足だろう。リビングのソファの前でうつ伏せに倒れている。エミはリビングに飛び込んだ。
「琉莉、どうしたの?」
 琉莉の右手が体の下に入り込んでいて、左脚がピンと伸びていた。左向きの顔は血だまりに沈んでいた。銀縁の眼鏡が割れ、かろうじて顔にかかっている。琉莉はピクリとも動かない。とても静かに死んでいる。
 大型液晶テレビの前では、白いブラウスにリボン、プリーツのミニスカートの制服姿の女の子があおむけになって死んでいた。額の真ん中に赤い穴が開いていて、とろりと一筋の血が左目に注ぎ、うさぎのように真っ赤になっていた。周りに紫色の花が散らばっていた。開いた脚の間にはトイレットペーパーの芯が落ちている。
 女性の悲鳴がする。
「逃げてぇ!」
 背の高い、紺色の目出し帽をかぶった男が、階段を降りてきた。
 
第一章 飛べない蛾
 
 JR八王子駅北口に立っている。
 バスの排気ガスのにおいに混ざり、夏の匂いがエミの鼻をかすめる。干したての布団の匂いのようでもあるし、土の喜ぶ匂い、とでもいうのだろうか。夏の入り口の匂いだ。
 ――雨でも降ればいいのに。
 エミは晴れた五月の青空を見上げて、ため息をつく。九歳まではこの匂いが大好きだった。新しいクラスや先生に慣れて、洋服が軽くなっていく解放感があった。
 九歳の五月二十三日を境に、五月に血のにおいがまじるようになった。三人が殺害されたあの現場が、年を重ねるごとにエミの五感を刺激し、放してくれない。
「おまわりさん」
 中年の女性が話しかけてきた。
「ICカードを落としちゃったんです。クレカ機能つきなので、使われちゃってたらどうしよう。急いで探してほしいんですが」
 エミは八王子駅北口交番に向き直る。
「届け出がないか確認しますね」
 交番内の応対スペースに女性を座らせた。遺失物届の用紙を書いてもらいながら、パソコンを開く。落とした時間や場所の他、ICカードが入っているケースの特徴を聞きとる。検索窓に必要事項を入力してエンターキーを押した。
「警察には届け出がされていないようです」
 女性は途端に顔をしかめた。
「あなた、お若いようだけど、新人さん?」
 今年の二月に警察学校を出たての二十歳――とまで言ってしまったら、エミの落とし物検索能力をますます疑われそうだ。
「登録までに時間がかかりますので、まだ反映されていない可能性もあります」
 女性は慌てた様子でスマホを出しながら外に飛び出す。
「先にクレカを止める電話をかけてきますから、おまわりさんももう少し探して」
「探してと言われましても……」
 行ってしまった。奥にある事務作業スペースから、先輩の源田将司巡査長が出てきた。
「あわてんぼうな奥さんだね。あの調子だからICカードを落とすんだよ。JRの窓口には行ったのかな」
「バスロータリーで落としたそうですよ。JRの窓口に届けられるとは思えませんけど」
 JR八王子駅は中央線、横浜線、八高線が乗り入れるターミナル駅だ。十階建ての駅ビルと直結している。駅北口は地上がバスロータリーで二階がペデストリアンデッキだ。地元ではマルベリーブリッジと呼ばれているその通路は、JR八王子駅の改札口と直結している。交番は北口のマルベリーブリッジの下、バスロータリーの西寄りにある。JRのみどりの窓口や改札口はロータリーのずっと先だ。
「宮武さんは八王子駅の人の流れが全くわかってないね。まずバスの降車口から駅への動線を考えてみるとだね――」
 八王子生まれ八王子育ちの源田は、署の中でも右に出る者がいないくらい八王子に詳しい。八王子駅北口交番の班長で新人のエミの指導係でもある。年齢を聞いたら「十八歳」と答えた。交番の仕事は完璧にこなすが昇任に興味はなさそうで、階級は下から二番目の巡査長だ。
「バスロータリーで誰かがICカードを拾ったとして、交番に届けるにはマルベリーブリッジを上がってからまた下りなきゃならない。ロータリー内は横断禁止、突っ切って交番に行くことはできないからね」
 ロータリー内はバス停が十五個あり、マルベリーブリッジへ上がるか地下通路へ降りないと、移動ができない。
「一方でJRの改札やみどりの窓口はマルベリーブリッジと直結しているから、まっすぐに進むだけ。そもそもロータリーからマルベリーブリッジに上がる人は電車利用者がほとんどだ。すると階段を下りて地上にいく必要がない。通りすがりのJRの窓口に落とし物を届ける方が簡単だろ」
 わりとどうでもいい長話が、ようやく終わった。
「こんにちは」
 交番の入り口の壁に女性がもたれている。黒いパンツスーツのポケットに手を突っ込み、どこかのモデルみたいだ。エミは顔がほころんだ。
「楓ちゃ……」
 彼女の山形の眉毛が片方だけひん曲がった。口は笑っている。エミは咳払いした。
「お疲れ様です。山田巡査」
 楓はエミの幼馴染だ。同じ就職先を選んだいまも、エミのよき先輩として、そばにいてくれる。エミは小学校のときから小柄で華奢だった。楓は小学校当時少し太っていて、バレエ教室ではそのことを揶揄した別の女子をいじめ抜くほど気が強かった。中学時代に身長が伸びて、いまや百七十センチ五十五キロのモデル体型だ。八王子市の南東部を管轄する南大沢署の交番に所属している。背が高くベリーショートヘアのハスキーボイスだ。今日は特に声が嗄れていた。夜勤明けのようだ。
「ビラ配りは十八時からだよ、休んでいたら」
「寝ようと思ったんだけど寝れなかった」
 マルベリーブリッジの向こうにあるカラオケ店の入っているビルの大型ビジョンに、『目撃者はいませんか!』という大きな文字が映し出された。アザレアおおるり台2号棟の全景が映し出される。
『二〇一二年五月二十三日、八王子市おおるり台で女性三人が殺害される事件が起こりました』
 被害者三人の生前の写真が表示される。普段は音楽ランキングや公務員募集、地元八王子の企業の宣伝映像を流す駅前ビジョンだが、未解決事件の情報も日に三度流れる。目撃情報を募るため、八王子警察署が流しているのだ。
 源田が言う。
「今年で十一年なのか」
「源田さん、今日はエミに残業させないようにお願いしますよ」
 楓は目上の源田に上から目線の態度を取る。エミより三年早く警察官になった楓は、署長推薦を受けて、この夏から刑事研修に行く。
「残業をするかどうかは僕が決めることじゃないよ。取り扱い事案が起こるか否かにかかっている、つまり八王子市民にかかっているわけだ」
 楓は理屈っぽい源田を無視して腕時計を見た。エミに言う。
「十九時の特捜本部での黙祷もあるし、私たちだけはビラ配りだけでも早めに始めよう。十七時からでどう?」
 源田が咳払いしながら間に入ってくる。
「十七時十五分までは勤務時間では?」
「今日くらいいいでしょう」
「交番勤務を舐めない。交番だって重大事案の取り扱いが……」
「あれ以上の重大事案がありますか」
 楓は事件を伝える大型ビジョンを指した。
「わかってないね。誰かの悪意がむき出しの事案より、悪意がない事案の方が難しい」
「ちょっと何言っているかわかりません。じゃあね、エミ。九十分後に連絡する」
 楓は腕時計を見て時間を確認したあと、交番を立ち去り、駅の西側に広がる繁華街へ去っていった。あの界隈は風俗店も多く、日が暮れると客引きの女性や黒服が立つ。黒いパンツスーツ姿の楓は、浮いている。
 JR八王子駅改札へと続く階段から、ICカードを落とした女性が興奮した様子で駆け下りてきた。
「お巡りさん、大変! 駅ビルのカフェに爆弾が仕掛けられているって、みんな大騒ぎしているの!」
 
 地上からJR八王子駅改札口へ向かう階段を、源田と共に一気に駆け上がった。南口へとつながるコンコースは、左右にサレア八王子という駅ビルの出入口があり、ショーウィンドウが並ぶ。その先に改札やみどりの窓口があり、南口に抜けると大手家電量販店やタワーマンションの出入口に直結する。このコンコースの一日の通行人数は十万人弱だ。今日も絶えず人が行きかう中、コンコース沿いのカフェ、ステレオタップコーヒーから次々と客が出てきた。いつも混雑している店内はがらんどうだ。店員が戸惑ったようにスマホを耳にし、バックヤードと客席を行ったり来たりしている。
 エミは店員を捕まえて事情を聴いた。
「客が置いていった段ボール箱から、チクタクと音がするようです」
「それはどこにありますか?」
「奥から二番目の二人席です」
 店員はコンコース沿いのガラス張りの席を指さした。白いビニール袋がテーブルの上に残されている。
「あの中の箱から変な音がするというんです」
 エミはコンコースに出て、ガラスをはさんでそのテーブルの脇に立つ。ビニール袋はさほど大きくはないから、中に入っている段ボール箱も小さそうだ。
「ここにはどんな人物が座っていましたか」
「親子連れです。中年の女性と、小学生くらいの男の子が飲み物を飲んでいました」
 別の男性店員が口を出してきた。
「母親はずっと時間を気にしていて、そわそわしていたんです。男の子はビニール袋を膝に置いて、中を見てはニヤニヤしていました」
 母親はお手洗いか先に席を立ち、やがて戻ってくると店内には入らずに、ガラスの外から息子に店を出るように合図していたという。息子はビニール袋をテーブルに置き、リュックを背負い店を飛び出していったそうだ。
 エミは野次馬を整理している源田に報告する。
「小学生をだしにした、新手のテロリストでしょうか」
 源田はなにか気が付いた様子だ。突如、ひとりで店内に入っていった。
「源田さん、ちょっと!」
 件のテーブルに近づき、ビニール袋の中に手を入れた。応援でやってきた南口交番の警察官が咎めた。
「やめといたほうがいいですよ、消防ももうすぐ到着します」
「いや、これは確実に爆弾じゃないよ。今日は五月二十三日、ちょうどあの季節だしな」
 源田が意味ありげな言い方をする。エミにとって五月は、あの惨殺事件の季節だ。源田は両手に収まるサイズの段ボール箱をビニール袋から出し、あっけなく蓋を開けた。
「宮武巡査、見てごらん」
 中身を見た瞬間、エミは十一年前のあの日に心を持っていかれてしまう。玄関マットは土で汚れ、リビングの入り口から、琉莉の靴下の足の裏が見える。割れて外れかけた眼鏡、不自然に体の下にある右腕。その横で死んでいた女子中学生の、血で濁った眼球などが走馬灯のように脳裏を巡った。
 エミは卒倒してしまった。
 
 診察室のようなところで目が覚めた。エミの制帽と活動服ジャケット、防刃ベストが、脇の椅子の上に畳んで置かれていた。カーテンが開いて、スマホを耳に当てたスーツ姿の男が声をかけてきた。
「目が覚めた?」
 クスクス笑っている。市川有貴、八王子警察署の刑事組織犯罪対策課にいる中堅の刑事だ。上昇志向が強い熱血漢で周囲から煙たがられているが、悪い男ではない。
「八王子駅で爆発物騒ぎ、しかし搬送されたのは中身を見た新人女警ひとり――って。いくら虫が苦手だからって、情けない」
 中身は蚕だったのだ。虫は嫌いでも苦手でもないのに、蚕を思い出すと胃の中のものがせりあがり、気分が悪くなった。
「蚕が桑の葉を食べる音と時限爆弾の時計の音を聞き間違えるかね」
 市川は通報者にも呆れた様子だ。
 最初に箱を見つけて、箱に耳を当てたのは、隣の席にいた老人だという。店員に「忘れ物があるよ、チリチリ聞こえる」とだけ伝えて、立ち去った。箱の中にいた蚕たちが、桑の葉を食む音だ。老人が表現した「チリチリ」が人伝に「チクタク」に変わり、店内はパニックになった。「爆弾が置かれている」という誤情報となって交番に伝えられたらしかった。
「八王子なんて梅雨は巨大なかたつむりがうようよいるし、アリもバッタもでかい。秋になったらイノシシやクマまで出てくるのに」
「知ってますよ。私、七年前から八王子に住んでますから。虫は慣れています」
「じゃあなんで蚕はダメなの」
 エミは卒倒したときの記憶をたどった。源田に蚕を見せられた瞬間、フラッシュバックしたのは、十一年前の事件現場だった。エミは第一発見者だったが、PTSDなどは発症していない。手厚く小児科や精神科の医師のサポートを受けながら、警察の捜査に協力した。さすが刑事の娘だと褒められたが、冷静すぎるという人もいた。精神科医からは、「ずっと後になってPTSDを発症するかもしれない」と忠告されてきた。なにがきっかけで発症するかわからないそうだ。
 今日の『蚕』がそれだったのだろうか。